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屋島(伊藤)
屋島(伊藤)
番 - 屋島(伊藤)の小説 - pixiv
番 - 屋島(伊藤)の小説 - pixiv
24,049文字
ななかぶ展示物。
オメガバースパロ本編の進捗です。
番外編(後日談)は漫画にて同じく展示しております。

主催様、七虎ウェブオンリー開催ありがとうございました。
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2021年7月2日 13:38

一 一日目は玄関

七海建人が虎杖悠仁の番になってしまったのは、一か月前のことだ。 己の体に宿儺が宿り、最初の身体検査でバース性変容の診断を受け、高専から番にする人材を宛てがわれるのだと、そう言われたことを皮切りに虎杖の環境は一変した。それについていけなくて、ベータだった体はオメガになり、その内に発情期がくるのだと家入から真剣に告げられても、いまいちピンとくるものはなかった。本当にくるのだろうかとさえ思っていたのである。 やがて医務室に五条が顔を出し、『ああ、一応上層部からは番をすぐに付けろって言われてるから七海とよろしく!』などと何でもないように宣うので、流れで五条が勝手に取ってきた七海の住んでいるマンションの鍵を受け取り、これまた五条が勝手に取ってきた虎杖の部屋の荷物も受け取って、終いには五条が勝手に連れてきた伊地知の車で新たな住処にあれよこれよと運ばれてしまった。なんでもあの寮にはアルファが多すぎるのだと。 そうして虎杖は文字通り七海の家に転がり込んだ。あまりにも簡単に転がされたのは、この事態を重く受け止めていなかった上に、自分の中に七海への下心があったからだ。最初から諦めていた恋慕は、特に頑張って叶える気もないが、少しでも多くの時間を七海と一緒にいられるのだという淡い期待はあった。虎杖にとって、これからの時間は、幸せな思い出作りのような認識だった。 だがしかし、七海は玄関にて、何故か家に存在している虎杖に珍しく目を見開き、顔を歪ませた。周りの人達は本人に何も伝えてなかったのかと事情を話しても、その渋い顔に変化はない。どうやらそういう事ではなかったらしい。ジッと考えて、そこでようやっと、自分が多大な迷惑そのものである事を悟ってしまったのだった。目まぐるしく変化する環境について行くことがやっとで、事の重大さに気づけなかったのは本当に後悔しかない。 七海の反応は至極当たり前だった。いくらこの人が優しい大人であったとしても、突然子どもを寄越され『はい貴方の番です面倒を見てください』なんて、呆れた妄言を飲み込めるわけが無い。 落ち着いて考えれば恐ろしい。 これは、もしも虎杖へ七海の情がうつり、または虎杖がそのフェロモンで誑かして何かを企図しても、七海ごと反乱因子として消すことができる人選だ。五条が抜擢されなかったのも頷ける。きっとその際には五条が対峙するのだろうから。 聡い七海は瞬時に理解した様子だった。 小さい舌打ちをしてから、五条さんに連絡しますとスリッパに履き替えて寝室へ入ると、そのまま戻って来なかった。 状況打破のために奮闘しているであろう七海に、先程のふわふわした気持ちはどこへやら、虎杖は立ち尽くして何も出来ずにいた。オメガへ変化し、更に上層部に警戒され、全く関係の無い七海に同じ管理首輪をつけさせてしまった現状に寒気がした。おまけに四六時中、番として自分を監視、管理しなければならない彼の嫌う残業付き。ここで自分が今何をしても、お荷物になる気しかしてこないのだ。 ああもう、最悪だ。絶対に嫌われている。嫌ってなくても嫌がられる。だってあんな表情、呪霊以外にしているのなんて初めて見た。 流したくもない涙が視界を歪ませて鼻水が出てくるものだから、スンスンと音を鳴らしつつそれをすすった。もう笑ってくれないかもしれない。叱られすらしないかもしれない。よくよく考えれば、番ということはつまりそういう事をしなければならないのに、その時七海との関係は、虎杖の心は、どうなってしまうのだろう。怖い。発情期なんて来なければいい。どうしよう。ぐるりぐるりと我執にとりつかれて思考がまとまらず、またジワリと目頭が熱くなった。 初日、結局虎杖は泣き疲れて七海を迎えることが出来ず、そのまま玄関のカーペットの上で丸まって眠ったのだった。

二 二日目からの生活

などという始まりを経て、今現在やはり虎杖は七海の家にいた。 二日目の早朝、玄関で寝ていた虎杖をいつの間にか自室のベッドで寝かせてくれた七海は、尽力したもののこの状況の解決に至らなかった旨を話してくれた。その様子は前日よりとっくに落ち着いていて、テーブルに向かい合って座る子ども相手に、申し訳ないと頭を下げたのだった。実際は虎杖の体の変異に七海が付き合わされているにも関わらず、彼はやはり優しく、どこまでも真摯だった。この理不尽さに対する苛立ちを虎杖にぶつけることも無ければ、寧ろ子どもとして、まだ大切に扱ってくれる。申し訳なさを抱えながら、それにちょっとだけ安心した。 そうして、その日ようやく二人揃って、よろしくお願いしますと言い合った。 そして今、自分はそれに甘えて生活をしていた。居ることを許された生活が始まった途端に発情期への不安や恋への虚しさはどこへやら。思っているより自分はゲンキンだったようで、基本的に多幸感に包まれていた。好きな食べ物の話、映画の話、時折読んでいるのを見かける外国語の本や新聞の話。任務の時にはなかなかしないそんな話に付き合って、ご飯を食べ、一緒に眠ってくれる。何より幸せなのは、普通に生活していたら絶対に見られないだろう一面を自分に見せてくれる点だった。寝相、寝起きの顔と声、お酒を飲む表情。虎杖が垣間見ているのではない。日常の中で、七海の目に映る景色の一部として自分が存在することを許されている。項を噛んだ時から、虎杖を同居人ではなく、そう扱ってくれたことにどうしようもなく幸せと安心を感じた。 そんな中、虎杖を再び現実へ引き戻したのは、約一ヶ月前。原因は、生活の延長上に表出したキスだった。七海からのキスは、心の柔いところを窒息させる死に水を、丁寧に唇へ塗るような口づけだった。夕飯の仕度中、何てことないようにされた初めてのソレに、一瞬息が止まったことを覚えている。薄くて柔い口とは裏腹に、七海は虎杖の震えた腕を逃さないように痛いほど掴んでいた。それはまるで七海が自分を好きなのではと思わせる恐ろしいもので、これまでおくってきた楽しい生活とは正反対の場所に突如虎杖は放り込まれてしまった。 七海との この行為の先を、絶対に知ってはいけない。 きっと本能だった。かろうじて「ごはんよそって」と言葉にできたので、「はい」と七海はしゃもじを取りに離れていったのだが、夕食がうまくできていたのかよく覚えていない。 よくわかった。この生活で最終的にこの恋は死ぬのだと。 この恋の死期は今なのだ。 それがこわくて、それはもうこわくて、虎杖はようやく冷静になったその日の夜にやんわりと苦言を呈した。 「あのさ、別に…恋人っぽい、とかそういう行動、しなくてもいいからね。家に置いてくれてるだけで感謝してるし、そこまで本腰入れんでも」 フェロモンのコントロールが、発情期の時にできたら俺はそれで。もにょもにょと伝えた。それは、ベッドで虎杖を後ろから抱きしめながら、七海はスモークピンクの髪に鼻をうずめていた時だった。 虎杖にとってこの生活は確かに幸せを感じるものだ。たくさんの時間を七海と費し、充足できる。 その中で、やはりキスやその先が再びひどく恐ろしいもののように思えた。 発情期がきて抱かれてしまったら、そして七海に本物の恋人が出来たら、この関係が終わってしまったら、自分は思い出に殺されてしまうのではないだろうか。今の幸せを思い出しては哀しさしか感じなくなってしまうのではないだろうか。 それならば、最初から必要最低限のほうが、よいのではないだろうか。せめて、キスより前だけのものたちだけで。 腹に回る腕に両手をそえ、さりさりと指先で触れて少しだけ身じろぐ。 「…ナナミン?」 あまりにもレスポンスのない七海の表情を盗み見たが、それは何故だという顔で。本当に、わからないのだろう。キスをした時に虎杖の動揺に気づいたであろう彼がする反応としては意外だった。虎杖の中で七海という人間は、大人で、人の痛みを感じ取っては熟考し、加減の良いサポートする人間だったのだ。そんな彼が、子どもである虎杖にとって嫌なことを遠ざけてくれないなんて、恐らく初めてだった。 今まで穏やかに過ごしていた反動か、少しの緊張が走った。 「虎杖くん、我々は番なのですよ」 「いや確かに番だけど…でも、恋人じゃな、いっ…!?」 「どうやら認識が違うようですが、番とはこういう事をするものなのだと受け入れてください」 途端に、肉体として仕上がっている七海の脚が、虎杖のやわい未発達の足に絡んだ。両腕もいっそう強く虎杖を拘束する。皮膚を優しく撫でられ、擦られ、されるがままになる虎杖に、七海は何を思ったのだろうか。極小の触れ合いでとろりとした顔をする虎杖の股に、次の瞬間には容易くその太腿がギッチリと差し込まれていて、グッ、グッ、と一定のリズムで動き始めた。二人ともきちんと服は着ているし、この行為に意味などない。ただ勝手に虎杖が彼の片脚に少し息を荒げているだけ。だめだ、だめだと思っていても、七海が大好きな虎杖にとっては到底我慢できるものでは無い。行為を彷彿とさせる律動により、硬い脚に密着させられている虎杖の性器がこすれ、震える。今スウェットを脱ぎ、ブランケットをめくられたら、きっとボクサーパンツ越しに七海の太腿で好き勝手もみくちゃにされているソレらがくっきりと見られてしまう。後ろだって、とっくに窮屈な布に吸い付いて七海を待ってしまっているのだ。これは番としての一環。キスの延長。こういう事を、俺とナナミンはしなければいけない。俺は体の機能上、ナナミンは仕事で。 大人だからか。大人だから割り切れて、なんてことないような反応で、キスを拒む自分の気持ちが理解できないのか。 この行動は、確実に虎杖の何かを破裂させた。 心とは反対にままならない体がガクガクと震えはじめる。 「っ、っや、だ」 恥ずかしい、恥ずかしい、一人で嬉しくなって、虚しくなって、一人だけで気持ちよくなって。七海はキスに何の感慨もないくせに、自分だけがこんなに振り回されて。そのついでとばかりに、こちらの恋など微塵も知らず、セックスまでしてしまうのだろうか。 虎杖は七海を諌めるため、震える声で呼んだ。 「ナナミ、ン、もっ…!」 「ッ…は」 獣の様な七海の息が、虎杖の髪を揺らしていた。喉がなるような音が聞こえた気もするが、七海は回している腕をひくりと震わせ、一瞬止まって詰まらせた息を吐くと、何事も無かったかのような素直さでその身を引く。 「…っあ、…」 本当に自分勝手だ。 寂しいなんて、本当に。好きになって欲しいなんて、もう、本当に。 ああ、やっぱり自分が恥ずかしいだけの行為だったのだ。何を期待している。やはり、そうだ。ちゃんと確認出来て良かった。バクバクとうるさい心臓を他人事のように感じながら、情けなさで頭はハッキリしていく。 どんなに優しくても、ここに気持ちなどない。 今は七海の顔が見れそうになかったのだが、何を思ったか七海は呆然とする虎杖をゆっくり向かい合わせにして、舌を入れるキスをした。 「それでも、発情期が来たら、…私が」 熱い舌が絡みついては上顎を弄られる。ピクピクと反応して逃げを打とうとすると、許さないと言わんばかりに片手で顎を掴まれた。互いの息が肌に重なって、はじいて、少しだけ湿った二人の髪を浮かせた。シーツに唾液が数滴沁みる。 「私が、君を抱くのですよ。その為の番だ」 そう、そのための番。 どこまでいっても、虎杖は所詮充てがわれた番だった。 キスもセックスも恋人だからじゃなくて、番だからする。虎杖にはそう聞こえた。 やはり、やはり怖い。 初日に感じた発情期への恐怖がまた明確に蘇る。いっとう幸せで、苦しい。甘やかな時間の中で自分の恋だけがゆるやかにしんでゆく。枯れたはずの涙が性懲りも無く視界をぼかした。もしかしたら七海に見られたかもしれない。 「ん、ふ」 「虎杖くん、手を」 既に興奮は過ぎ去った。虎杖は腑抜けていく自分の心と七海の催促を無視して、とうとう目の前の体に腕を回すことなく脱力した。虎杖くん、とまた強く呼ばれたが次は目を閉じて眉をつり上げることで機嫌を表す。 こっちの気も知らずに。もう勝手にキスしやがれってんだ。 その日確かに何かがひしゃげてしまったというのに、それでも本気で抵抗できない己に虎杖はほとほと呆れかえった。

三 三人の会合

「で、実際どうなのよ。番って」 「どうって言われてもな…」 釘崎がズゴゴとストローで轟音を立てた。伏黒は興味なさげにスマホをいじっているし、毎度毎度本当に答えないといけない質問なのだろうか。特に口に入れるわけでもないコーラの上のアイスをスプーンで崩しながら、虎杖は逡巡した。それを釘崎のジト目が促す。 「……前と一緒。まだ一緒に生活してるだけって感じだし。特に何もなし」 「けっ。何もないならいいや」 「話振ってくるわりに扱いがぞんざいすぎるだろ…」 怖いよ伏黒くん~と右腕に絡み付けばスマホで頭を小突かれた。いたい。 最近三人で屯している時に、番の話が出るようになった。発信は釘崎で、こまめに俺とナナミンとの様子を伺ってくる。しつこく問われる時もあれば一言で終わる時もあり、まるでふと思い出した定期健診のようにそれは行われる。最初は違和を感じたものの、今では特にどうということもない。 呪術師は大体がアルファだ。それは釘崎や伏黒も例に漏れず、高専内にいるオメガの虎杖は異質だった。通常ほとんどの人間がベータであり、都市部またその近辺はともかく、釘崎の遠い故郷は特にベータが多かったと聞いた。単純にオメガが物珍しいのかもしれない、と思う。俺もそうだった。 アイスを崩していくのに浮いている氷が邪魔で、ガツガツとスプーンに当たった。 「…俺は七海さんなら安心できると思うけどな」 「んえ、あ、俺、もそう思う…」 思わず言葉に詰まってしまった。毎度行われる番の話で、伏黒から言葉が出たのは、初めてだったからだ。 「何よその曖昧な感じ。あんた自身の事じゃない」 「いや、それはそうなんだけどさ…」 きっと伏黒にとってはただの会話のつなぎのような言葉に違いなかったのに、今のはかなり変じゃなかっただろうか。釘崎の突っ込みが刺さる。誤魔化すようにたまたまスプーンにのっていたアイスを頬張った。ついでにコーラを一口。 結論から言ってしまえば、家の中では安心も何もあったもんじゃない。 挨拶をしたり、雑談をしたりは当たり前に続けられている。なんなら、キスの日の翌朝、あんな事はなかったのではないかと思ってしまうほど七海の態度は普通だった。ぽやんとした目で『おはようございます。今日も美味しそうな匂いがしますね』と言って着替えを片手に洗面所へ入っていったのだ。寝不足で半分やけくそになって起床し朝ごはんを用意していた自分が馬鹿みたいで、しばしフライパン片手に固まった。本当に、本当に、本当に、散々に振り回された身としては納得できはしなかったのだが、でも確かにホッとしたし、朝特有の彼の抜けている姿に、やはり好きだなと思った。卵焼きは焦げた。 ただし、夜は違った。 夜だけは、今まで通りの生活を望む虎杖と、あくまで番として世話をしようとしてくる七海の攻防戦の毎日だった。虎杖の心うちを知ってか知らずか、七海は近頃執拗に番としての立場に固執しているように思う。 番と恋人は違う。 恋人でない七海からの行為は、只々虎杖を困惑させるだけだ。虎杖がそれに自ら応えたことはない。七海の考える『番』と認識が違う、ということではないのだが、どういうべきか、言いあぐねてしまう。 七海との関係は、所詮第三者が勝手に決めたものだ。現在では漫画などでよくある親同士が決めた許嫁のような。宿儺のフェロモンの影響を外部に極力出さないための、決められた関係。 それにキスのような目合いが入り込むのか、否か。そこが虎杖と七海の間で決定的に違った。その時が来れば、きっと七海は虎杖の『性処理』をするのではなく、気持ちはなくとも虎杖を『抱く』のだろうなと想像に難くないのだ。 楽しい日次で忘れていた発情期が来てしまうのは、もういい。いや良くはないが、とても恐ろしいが、幾分か諦めがついた。どうにもならなければ、七海の手を借りて処理するしかない。ただ、『抱く』のだけは、それだけはどうしても虎杖に許容できそうになかった。 きっと悲しくて、苦しくて、この恋はついに止めを刺されて、俺は死ぬ。だから、愛情と勘違いしてしまいそうなものは、只管にいらなかった。 覆水は盆には返らない。 知ってしまったが最後。きっとこの恋が死ぬ。 入眠前、『俺は恋人じゃないよナナミン』とベッドで口づけをしようと近づく顔から逃げれば、『これは番として必要なことです』とセックスすることを見越して返される。『段階が必要だ』とか、『いきなりだと君を驚かせてしまう』とか嫌がる虎杖に御託を並べ立てて、それに『上が決めたことです。我々は従う義務がある』と凄まれて加えられたら、虎杖はその正論に何も反論できなかった。それ以上は逃げることもできず、かといって手を伸ばして求めることも決してない。 この頃は眠りにつく前に服の上から全身を撫でられている。そろそろ来るはずの初めての発情期に備えているのだろうなとは ぼんやり思った。優しく体をなぞる手に反応しないわけがなく、虎杖は努めて冷静に、両手でシーツを懸命に握りながら何も考えないようにしている。ついでのようにキスをされれば、日常でやっと頭をもたげた行き場のない恋がいとも簡単にまた踏まれた。それを繰り返す。極まれに、七海が任務で疲れきって先に寝息をたて、何もされない日がある。そんな日はきまって 朝早く起きる虎杖が崩れた髪の彼の頭を撫でた。これは七海本人には内緒だ。七海が自分にする仕打ちに比べたらかわいいもので、惚れた弱みでやられっぱなしなのだから、これくらい好き勝手しても許されると思っている。本当は顔に落書きとかをしたいのだ。 ズココ。 虎杖もついに飲み終わってしまって、ストローから音が出た。 また伏黒が虎杖を小突く。ちょっとうるさかったらしい。 「やっと飲み終わったわね。次行くわよ」 「え!まだ行く!?」 「当たり前でしょ!逆に何でここで終われると思った!その飲み物代くらいはまた仕事しなさいよ!」 「まじか…」 飲んじゃったよ…と思わず声が出てしまった。 今日は七海が早く帰る日で、特に約束などはしていないが、恐らく一緒に夕飯を食べるだろうなと思っていた。なので、出かけるまでにご飯の準備をし、温めるだけにしてきたのだ。さすがに何も連絡しないまま遅く帰るわけにはいかない。伝票片手に先導を切る釘崎に続きながら、虎杖はメッセージアプリを立ち上げた。 『今日遅くなりそう!ご飯は温めて食べてて』 『何時になりそうですか。迎えに行きます』 車に乗せられて移動中だったのだろうか。メッセージはすぐ既読になった。そんなに早く返事が来るとは思わず、わたわたとしまいかけたスマホを持ち替えた。 『何時になるかわからんから、自力で帰る』 まだ高校生なのだから、どうせ外で長時間の夜遊びなどできはしない。ただ、仕事を終えた七海がご飯を食べて、お風呂に入って、お酒を飲んで、ああ今日も疲れたなとうっかりソファで眠ってくれてたら、と期待しないわけでもない。そんな確率の低い場面に縋るくらいには、最近の夜毎のやり取りが堪えていた。そんな迎えになんて来てないで、普通でいて。 気にしないでいいよと追加で文字を打っていると、またもや七海からのメッセージが返っていた。 『いけません。それに』 『もうすぐ発情期でしょう』 『君は宿儺の影響でオメガになっている身です』 『もう少し考えて行動なさい』 『できるだけ私の傍にいてください』 どんなえいきょうがあるかわからないのでむかえにいきます。 文字として上手く視認はできた。虎杖の心のなかの何かを犠牲にして。 地に足をつけている感覚が、途端に無くなった。 ハッキリと明言されたわけではなかったが、七海ももうすぐ来るであろう発情期を意識して、警戒している。字面でしか判断できないが、七海に自分への気持ちがないことがわかりきって見てみると、どこまでも事務的なメッセージにしか思えなかった。それか子どもの面倒を見る年長者。 確かに今回が初めての発情期だ。いくら番がいるとは言っても、宿儺の器の発情期なんてどの文献にもないし、何が起こってしまうのかわからない。七海の正論がまたもや正しい。 これ以上画面を見ていると詰まった息が出てきそうで、虎杖は打ちかけた文字をそのままにアプリを閉じてしまった。 「虎杖」 伏黒の声にハッと我に帰った。 返事に悩む姿を見て、伏黒は何を思っただろうか。悪い、と笑って返しても、その顔は此方を見ていた。心配をかけさせてはいけない。七海は優しく頼れる大人で、虎杖の番という役目をしっかりこなせるよくできた人なのだ。ただ自分が割り切れないだけで、あの大人には何の問題もない。 「行くぞ。釘崎は便所」 「…便所つったら怒られるぞ」 「いねーからいいだろ」 「聞こえてんだよ野郎共」 戻ってきていた釘崎に二人して驚いて、ファミレスだというのに叫び声が出てしまったのは本当に申し訳ない。主に釘崎のものである買い物袋を伏黒と分けて持って、ごちそうさまでしたと自動ドアをくぐった。そこで、トンと軽く伏黒の肩が虎杖に当てられた。右肩があたたかい。 「七海さんに連絡したか?」 「え、あ、おう…?した、けど」 「…ならいい」 『したけど、途中で終わっちゃった』とは言えなかった。七海からのメッセージの通知は切ってあるが、恐らくこの間にも返事の催促やらが送ってあるに違いなかった。しかし残念ながらアプリを開く勇気は今のところ少ししかない。いっそあの文面のようにずっと事務的に接してくれたら良かったのに、ポッと恋人紛いの雰囲気を出してくるから、いつまでも宙ぶらりんなのだ。 事務的にされては悲しくなって、優しくされては逃げたくなる。 「虎杖!」 ボーッとしていると、また名前を呼ばれた。今度は釘崎だった。 「カラオケ行くわよ。あんたが一番歌いなさい」 「マジか」 ストレス発散には丁度いいかもしれない。お言葉に甘えよう。そう思って三人で歩いていると、アプリの通知が鳴った。元々連絡を取る人なんて限られている身だ。七海ではないことはわかっているので、直様スマホを手にとった。犬のアイコン、伏黒だった。 『釘崎なりに心配してる』 メッセージを送り終えた伏黒がスマホをしまったのが見える。虎杖の視線を感じたのか、所在なげに荷物を抱え直して、先に行こうとする釘崎に早足で追いついていた。 ジクジクと腐っていた所が、あたたかいもので埋められた気がする。口元が緩むことを我慢できそうになかった。前をどんどん歩いていく二人に駆け寄って、両手で勢いよく肩を抱くくらいには。両手の荷物がどれだけ揺れて体に当たっても気にしない。そのくらい、嬉しくて、ほっとした。 「ちょっと私の荷物持ってんの忘れんな!」 「おいこの紙袋の角っこ潰れてるぞ」 「え…すまん釘崎…」 「許すか」

履歴こそ読めなかったが、虎杖は閉じていたメッセージアプリを開いて、『七時には帰るよ』となんとか送ることができた。 時刻は夕方五時になろうとしていた。

四 四十分

おかえりなさい。 開口一番の言葉だ。 釘崎と伏黒とカラオケを出たのが六時半。結局家に到着したのは七時ごろだった。 嘘。ギリギリ七時半。まさか電車が遅延しているなんて露知らず、二人と別れてから七海の家までダッシュして普段使わないマンションの階段だって駆け抜けた甲斐も虚しく、玄関に男は待ち構えていた。三十分ここで黙って待っていたなんて怖すぎる。七海の身長も相まって虎杖は完全に気圧されていた。家に入ってそこに立っていることを認知してから、虎杖は一歩も動けずにいる。同居を始めてから、七海がここまで怒っている姿を見たことがない。これはどうしたものか。今日は自分のものをほぼ買っていなかったので両手には買い物袋がなく、それが妙に心細かった。ぎゅっと汗ばむ手を握るしかない。 「今は何時何分ですか」 「え…っと」 「何時何分ですかと聞いています」 「あ、ちょっ、と待って…」 明らかに声が固い。肩を跳ねさせた虎杖が時間を確認しようとスマホを取り出し、パッと液晶を付けた。どうしよう。どうしよう。今ここで夕方前の自分を悔いてもどうにもならないのだが、何とかこの場を切り抜ける方法を必死で思案する。だってこんなに怒っているなんて誰も思わないだろう。任務中でもないのにこんな、こんな門限に少し遅れたくらいで。少しメッセージを無視したくらいで。 汗で指紋認証に二回失敗したところで、ようやく時刻が表示された。 十九時四十分。 ―――ガンッ! 見たままの時刻を声に出そうと顔を上げ、気道を開けた瞬間、虎杖の横をとてつもない速さで何かが通った。続いて後ろの玄関扉に何かが激突する音と、遅れて自分の髪が揺れた。 しばらく何が起こったのか理解できなかった。 ただ、いつの間にか自分がその男の体躯と扉に挟まれ、両腕をそこに囲うかの如くつかれていた事は間を置いて認識できた。ジリ、と視線を七海の右腕、虎杖の左側に寄せれば、彼の腕が扉を思いっきり殴ったことがハッキリとわかって、なんとも情けない声が出てしまった。接近した七海の眼鏡越しに冷たい目が此方を見ている。こんな目は、やはり見たことがない。今までの焦りなど生ぬるい、やっと冷水を浴びた気分になった。 「な、なみん、手が」 「君は何もわかっていない」 うるさい、と言うように遮られてまた萎縮する。今度こそ虎杖は何も言えなくなってしまった。およそ生物と思えないくらい何も映さない瞳から逃げたくて、軋んだようにぎこちなく下を向いた。深いため息が聞こえて、頭に岩が積まれる。 「どんな影響があるかわからない、とメッセージを送ったはずですが。それと、もう少し考えて行動なさい、とも」 「…」 「同級生たちと遊びに行くなとは言いませんが、今の君は私と一緒にいて、ほかの誰でもない、番である私に守られるべきです」 「…」 「私には君を優先する義務があるといつか言いましたね」 「…ぎむ、」 例えば数時間前に発情期になっていたとして。宿儺の器の発情期なんて前代未聞で、影響はどこまでも未知数だ。 フェロモンは本当に番だけに有効なのか。 人間以外に呪霊にもフェロモンによる変化はあるか。 理性を失ったときの宿儺による虎杖の体の支配権奪取の危険性。 発情期中の虎杖に対する呪霊からの強襲の可能性。 最初の発情期が来た時は五条や七海に連絡するように言われている。二人が最近すぐ自分の変化に対応できるように、日程をできる限り調整してくれている事も知っていた。密閉された空間で、外からの五条の監視と周辺状況の変化の確認をされつつ、二人で過ごす算段だ。元々五条が虎杖に関して無理を通したこともあって、二人には自分に対する責任が確かにあった。 あったけれども、何もそんな、仕方なしにみたいに言わなくても。 恐怖や悲しさを過ぎて、今度は沸々とくだらない不満がせり上がってくる。今自分の中にわき上がって喉から出さないようにしている言葉はおしなべて意味がない。わかっている。発してはいけない。それは自分の軽率さを棚に上げることを意味する。 それに、自分が今喚き散らせば、目の前の人物はきっと今度こそ虎杖に呆れてしまうのだろうと思った。 『体の変化が怖い』『自分を制御できるのか自信がない』『七海とこれ以上親密になりたくない』『七海のお荷物になりたくない』 とてもじゃないが今後の展望に活かせそうもない、いわゆる愚痴だ。それも自業自得で、ひどく自分勝手な。 七海は元来責任感が強い。出会った時も、虎杖が子どもだからと庇護しようとしてくれた。それに今は番だからが加えられている。そして同じ様にそれを嫌がっている自分がいた。 義務感から来る七海の全てが要らない。 勘違いしたくない。恋人じゃないなら、それらしいことは何もいらない。発情期なんて知らない。恋人じゃない七海とするセックスなんて嫌だ。 変わっていく体に関することや、七海への恋慕に関してのどす黒いものが腹の中でとぐろを巻いていく。それは今後のことを考えれば考えるほど樹形図的に広がって、このままではいつか不了見を起こしかねなかった。 「…ごめん、なさい」 かろうじて謝罪だけを口にする。 自分の靴の爪先だけを一点に見つめて、涙と 腹に存在するくだらない不満たちを閉じ込めた。 絶対に言いたくない。 もうこれ以上面倒はかけたくない。落胆されたくない。 「今度から、気、つけます。ちゃんと連絡つくようにするし、迎えも、来てもらって、」 今七海から求められているのは虎杖の気持ちの吐露ではない。仕事で失敗した時と同じ、今後の思索のことだ。 途切れ途切れで口から出た言葉が小さな塊になって、玄関のタイルに落下していると思えるような音だった。 「……反省しているのであれば、これ以上は言いません」 七海もまた、小さく冷静なレスポンスだった。 扉についていた手を離し、靴を脱いで中に入っていく。 「ナ、ナミン」 対して虎杖は、今日はもうこれ以上家の中に留まる事ができそうになかった。 きっと余計なことを言ってしまう。弱音や恋心や、随従した呪いのような言葉を。これは確信だ。 虎杖は前を行く広い背中に、今度は伸びるように発声した。 「はい」 徐ろに振り向いた彼とはやはりまだ目を合わせられそうになかったが、いくらかマシな表情にはなっている。と思う。 「今日…五条先生ん家、泊まるね」 「…は?」 先ほどとは逆に、一瞬間を置いて出た七海の言葉が床に落ちたように見えた。それは虎杖のものとは違って、喉の奥底から這い出たような何かだった。ぼとり、ぼとりと、床にぶつけられる肉のような、生々しい音が聞こえてきそうな。冷たいとはまた違うそれに、虎杖は強ばって跳ねた。 すぐに七海がその大股で、開いていた距離をまた埋めてみせる。 「君が子どもの癇癪でそう言っているのであれば、行かせるわけにはいきません」 大きな手が虎杖の腕を軋むほど強く掴んでいて、その衝撃で金縛りが解けたように体が動いた。 違う。と、言うことができた。 「俺、ナナミンに言いたくないことが、あって」 ずるり、それが連綿と出てこないように、ぶつ切りにして伝える。少しずつ、少しずつ、顔を上げてやっと真っ直ぐに目を合わせたら、七海の手の拘束が少しだけ緩んだ。驚いたというより、どちらかと言うと何て言ったんだコイツは、というような顔をしている。呆然としている、が適切かもしれない。珍しく少しだけ目を見開いていた。 「…いいたくないこと」 「うん」 七海と自分の建設的な今後の関係のために、ここで譲るわけにはいかない。ただいくらか小声で反芻する姿を見て、わずかに体に熱が戻ってきた。掴んでいる七海の熱を服越しに感じることができる。それはジリジリと腕を移動して、やがて虎杖の服の袖口を握った。 「番の私に言えないことですか」 また、『番』だ。 「言えないっていうか…言いたくないな、って」 「…」 「…」 沈黙が重なって、次に目をそらしたのは七海の方だった。何か考えあぐねて言おうとしては閉口するを繰り返す。次第に寄っていく己の眉間のしわに気づいたのか、片手でグリグリと伸ばして、深呼吸のようなため息をついた。 言っても言わなくても、もう呆れられたんかな。 また虎杖の視線は降下した。袖口を引っ張っていた手も、いつの間にかもう離れていた。それに気づいた寸陰で、七海は虎杖を視界に入れないように踵を返し、背中を向けた。 こうやって勝手に傷付くのにも、もう慣れそうになっている。 「……ナナミン」 「…それは、五条さんになら、言えるのですか」 ほんの数分前に詰められた距離は、気づけばまた同じ分だけ開いていた。七海が肩ごしに少しだけ振り返っているが、眼鏡の反射で表情が見えない。 虎杖にはこの問いの意図がわからなかった。実際には七海やその周りの人達に喧伝しない事を確認しないと相談できるかはわからないが、しかしそこで虎杖は咄嗟に首を縦に振った。ただの比較の問題だった。 「…そうですか」 落ち込んだような、怒っているような声音だと、都合の良い耳のせいで、また心臓を掴まれたように苦しくなる。七海のこのやるせない様な態度は恐らく、番として、大人としてこう在らねばならないという責任感によるものだ。もうそんな仕事、ナナミンが前に言ってた『そこそこ』でいいのに。 ねえナナミン、俺は、ナナミンにだから言えないんだよ。 ナナミンが好きだから、絶対に言いたくないんだよ。 その頼れる背中に全てぶつけてしまいたい言葉を、食いしばってまた雑に仕舞った。 七海はまた廊下を歩き始めた。 「…では、支度を」 静かな声がその廊下に響いたきり二人は無言で、ましてや引き止められることなど欠片も無かった。

そのまま虎杖を玄関に置き去りにして、七海はリビングで一人セットされた髪をグシャグシャに崩した。

五 五条悟の提案

「じゃあ門限守れなくて気まずくなったから、一旦僕の所に来たってわけ?」 「うっ…ゴメン…」 とりあえず一宿一飯の恩義として、虎杖は使われた形跡のないキッチンで肉じゃがを作って家主へ献上していた。料理中はそれだけに集中できて、気を紛らわせるのに都合が良かった。味噌汁を作りながら、米を研ぎながら、具材を切りながら、虎杖は少しずつ気持ちを落ち着かせた。 かつての地下室のように、テーブルに向かい合わせで料理を胃に収めていく。 提出した食事は五条のお気に召したようで、安堵した。 元々自分の危機感の無さが七海の反感をかって、一日距離を置く結果になってしまった。そこに担任の先生を巻き込んでしまったことに、虎杖とて何も思わないわけではない。さらに、泊まりの荷物をまとめる間に五条に伺いを立て、あまつさえ迎えに来てもらったのだ。あのよくわからない瞬間移動で。五条にとってはまさに寝耳に水だ。すまんとはきちんと思っている。 その時の玄関での七海と五条の間には『あとで連絡します』『りょーかい』というやり取りしかなかった。自分よりよっぽど親密な関係が垣間見えてしまって、うん、いや実際そうなんだけど、ああ、思い出してしまった。 肉じゃがを煮込んでいた合間に作ったナスの揚げびたしに、五条の箸が伸びる。その先のナスを先につついてやった。これが野薔薇相手の焼肉だったらタイキックだよと拗ねられたけど、別にいい。そのまま口に運んだ。 「それより先生、今からでも俺の番って変えられないの」 「え、普通に無理だよ」 「普通に無理なんだ…」 結構思い切って聞いてみたにも関わらず、あっけらかんと返されてしまった。 どんな状況も動かせる最強がそう言うなら、本当に無理なんだなと思う。 「僕はね、一人一人それ相応のことを任せるんだ。それは硝子にも、悠仁たちにも、七海にもね」 「ん?うん」 柔い声音に、思わずそちらを向いてしまった。五条は目隠しをサングラスにかえていて、表情がわかりやすくなっている。普段は見えていないが、きっと自分たち生徒を見ている時にこんな目をしている。白い雲に縁どられた空が笑っているみたいだ。いつかそうしたように、五条は意外にも驚く程綺麗な所作で箸を置くと、虎杖の頭を撫でた。 「だから悠仁にそう思わせてしまっているってことは、僕の采配ミスってことになる」 「ってことは、番にナナミンを選んだのって」 「うん、僕だね」 僕以外の誰かで、悠仁の番に適してると思ったのが、七海だったんだ。撫でていた手は、次第にぽんぽんと赤子を眠りへ誘うようなものになっていった。 「悠仁をアイツの家に送った日、七海は僕の信頼通り、僕と悠仁とその番の関係の仕組みに気づいた」 それに気づいた素振りは、虎杖も見ていた。 虎杖を管理し、虎杖と共に五条に管理されるための番。 それがとても申し訳なくて、それに七海との今後のことが重なって、玄関で泣いたのだった。 頭から離れていく手を目で追えば、真っ黒であるはずのサングラスから空色が覗いた気がして、目を離せない。 「七海が番になるのは嫌だった?」 「……」 そうだとも、そんなことないとも、答えることができなかった。 おかずを入れてもない口をはくはくと動かすしかできない。それをどう思ったのか、五条はまたご飯に視線を戻すと、食事を再開した。 「悠仁、七海のこと好きでしょ」 「んえ!?」 「はは、わかりやすいね。悠仁は番というより、七海と恋人になりたいんじゃない?」 五条先生、そういうところだよ。マジで。 悟られた動揺とは裏腹に、内に居るもう一人の自分が冷静に突っ込む。ニヤついた顔やめて。 「ナナミン大好き~!って顔してる」 「してんの!?」 「あはは、ウケる、めちゃめちゃしてるよ」 お上品な食事の仕草とは正反対に、軽薄な笑声が響いた。ただただ恥ずかしい。そんなにわかりやすかっただろうか、それともこの教師が鋭いのだろうか。箸を握りしめた手で五条から顔を隠す。顔が熱すぎて湯気が出ていると錯覚できるほどだ。ほんとうにやだ。というかそれをわかってて番に選ぶなんて本当に何を考えているのかわからんし、何よりこの大惨事をどうしてくれる。え、ていうか本当にそんな顔めちゃめちゃしてたの。じゃあ伏黒には?釘崎には?皆にバレてた?ナナミンにも? 羞恥と疑念で唸っていたら、元凶が食べないのなどと言ってきたので、虎杖はおずおずと食事を再開した。相変わらず目の前の男の口元は緩んでいる。 「ねえねえ恋バナする?別の話する?」 「ホントヤメテクダサイ」 つい口に含んだご飯ごと箸を噛んでしまった。行儀が悪すぎる。 対して目の前では、キャピキャピという効果音が付きそうなくらい嬉々としている様子の男が(恐らく女子高生の真似をしている)、テーブルに肘を付いた。どうやら食べ終わったらしい。 「ごちそうさま。悠仁はやっぱり料理うまいね」 「ん~、人並みくらいだと思うけど、あんがと」 「いやほんとに」 お粗末さま。虎杖も箸を置いた。恋バナの方が見逃されてよかった。お茶を淹れる準備をしながら、皿を洗っていく。料理していた時と同じ様に、五条はそれを後ろから座ってみていた。 「…なるほどね」 ガシャガシャと水音に遮られてよく聞こえないが、五条が何やら言葉にしていることはわかった。一人納得するような口調で声も張らないので、どうやら虎杖に聞かせるつもりもないようだ。 「あ、先生お風呂。俺勝手がわかんねえからヨロシク」 「はーい」 「あともうお湯沸いたからお茶淹れて。そこ、準備してる」 「これ?」 「そー」 やはり五条は皿や調理器具など、自炊に関する一切のものを使わないらしかった。多分、飾りみたいなものだ。お湯をドバドバと入れた五条は急須をそのままに、お風呂場へ向かって、すぐに戻ってきた。 「任務帰りでお土産あるんだよね。自分用だけど。せっかくだから悠仁にもちょっとだけおすそ分けしたげる」 「マジで!」 「マジマジ~。和菓子だからお茶が合うよ」 皿を洗い終えて、綺麗になったテーブルに和菓子とお茶。 この和菓子、絶対に高い。そんな見た目をしている。パッケージやら包装やら何から何までお上品という言葉が似合いすぎる。拙い語彙では表現が限られるが、これはきっと美味しい。 「えい」 しかしまあこの教師、既に趣を感じる心はほぼ死んでいる。 派手に包装を剥がすし、箱は潰すし、本当に中身の味にしか興味がない。月旦ではないのだが、家に置いてきてしまった番とは大違いだ。本当に同じ大人で、且つこの人の方が年上なのだろうかと見紛うほどに。 そういえば、冷蔵庫の中のご飯、ちゃんと食べたかな。態度悪いように思われちゃったかな。明日はいつも通りできるかな。 食べ方だけは丁寧な五条に七海を見ながら、ずずっとお茶を啜った。 「そんな七海のことばっかり考えてないで悠仁も食べたら」 「ぶっ!」 「汚っ」 「うえっ、ちょ、先生のせいじゃん!」 「だってわかり易すぎるんだもん」 「だもん、じゃなくて…!」 喉に引っかかってるお茶に、空咳が出る。 「やっぱ離れてても気になるもんだね。うんうん」 五条が、自分で自分を抱きしめるようにクネクネしだした。こういうノリのいいところは好ましいが、今は率直に少しだけウザい。呼吸を整えた虎杖はジト目で湯呑を持ち直した。 「……そりゃ、番なんだし」 「いや番なんだしっていうより、好きだしってことでしょ。今更隠さなくていいよ」 「うっ……虚しくなるから改めて言わんで…」 ここに来てから幾ばくか落ち着いていた心がかき乱されていく。ズバズバと物を言う五条の指摘が痛い。 「ここに来た本当の理由は、恋をこじらせて、発情期が来る直前になってモヤモヤしだしたから。当たり?」 「…大体そんな感じだけど…なんでわかんの」 「わかるさ。可愛い生徒のことなんだから」 第一、悠仁は叱られたってきちんと謝ることができるでしょ。そんなことで七海と気まずくなるなんて考えらんないし。最近は野薔薇たちが心配するほど元気なかったみたいだしね。フォローできなくてごめん。 ごはんの時と同じ、また頭を撫でられて安堵する。ふと少しだけ下を向くと、口に生菓子が迫っていた。ほら取り敢えず美味しいものでも食べてと唇を菓子で押され、え、と口を開く瞬間に、黒文字が勝手に入る。おいしい。もちもちとするそれを、すぐに飲み込んでしまった。虎杖はしょぼくれたままではあるが、まるで雛鳥が催促するように五条の持つ菓子楊枝をジッと見つめた。 「ん~、こりゃあ七海も大変だ」 「…?」 自分で食べな、と五条が差し出した黒文字を受け取った。 山吹色の花を模した菓子の、もう半分を咀嚼する。もう少し赤みが薄ければナナミンだなと思うあたり本当に重症だ。もごもごと、行儀は悪いがお茶も一緒に口に入れた。 「…先生はさ、好きでもない人とキスとかできる?」 「え」 「多分ナナミンはできる。しないといけなくなったら、絶対できる。こう…気持ちがこもってる風に」 決して人を粗雑に扱わない人だから、きっと恋人のようにキスもセックスもできる人だ。虎杖にはそう思える。 「俺は、それが苦しいんだけど、大人になったら割り切れるもんなの?どうせ俺の体に付き合わせてさせるくらいなら、いっそ事務的な方がまだマシっていうか、」 その一瞬でも、幸せって勘違いしたくない。 残り少ない湯呑の中のお茶に、歪んだ自分の顔が映る。 「かなしくない」 幸せと哀しみは紙一重だと思う。 あまり覚えていない両親との離別が寂しさしか生まなかったように、優しい思い出が詰まった祖父との生活が、祖父の喪失を一層大きいものにしたように。虎杖の恋は成長するほど、派手な音を立てて破裂する。 ふ、と虎杖に影がさした。 「もが、」 「はい二個目~」 「ひゅうひひえんえ」 今度は金糸雀色の生菓子。やはりおいしかった。ぱちくりとする前に、黙って口の中の食べ物を飲み込もうとしてしまうのは、しょうがない気がする。なんとなく赤子のおしゃぶり感は否めないが。 「そうだな…発情期が近いのは一旦置いておき、今は番として云々より、先に恋人になるための努力をしてみたら?」 五条は全然湿ったらない、したり顔で笑ってみせた。恋してる時間って本来楽しいもんだろ、そう言って。 その相貌を見ていると、ふと七海の家に初めて上がった時のことを思い出した。あの時自分は、下心から少しだけ浮き足立っていた。 「恋人になる、ための」 「要は順序の問題でしょ。悠仁の今の悩みって、七海と恋人になったら全部解決することじゃん。キスだって、恋人としてする分には悠仁は思い悩むことがないわけだし。そういう方向転換は悪くないと思うけど」 「恋人」 「そう、恋人。どう?」 どうって。 いやそれは恋人になれる自信がある人がする発想じゃん。 ご飯の時にも現れていたもう一人の自分がまた心内で発言する。しかし同時に、ただその場で七転八倒を繰り返していた虎杖の恋の前に、薄ら道筋が見えてくる。初めて七海を意識した日の、淡くて柔い形を、取り戻そうとしていた。 「悠仁の性格的に、目標に向かって時間を費やしてたほうがきっと向いてる。男だからとか、オメガだからとか、死刑が決まってるからとか、そんなの、若人が青春を諦める理由にならないんだよ」 五条が、まるで自分にも恋する資格があるかの如く説諭する。ムズムズと照れくさい顔をお茶を飲むことで隠そうとすれば、そこでタイミングを計ったように、お風呂の音楽が流れ始めた。 「僕はたとえ悠仁がどんな存在でも学生生活を楽しんでもらいたいし、子どもを大事にする七海は、それ自体を拒んだりしない。わかるだろ?」 大丈夫。五条が最後の菓子を口に含んで、立ち上がった。 「死刑の問題だって僕と七海がどうにかしてみせるさ。絶対。だから安心してアタックしちゃいな!」 五条がまたよくわからない女子高生モードに入りつつ脱衣所に消えていった。風呂の様子を確認しに行ったのだろう。虎杖はいそいそと入浴の準備を整え始めた。 しだいにジワジワと頬が赤みを帯びてくる。持参したバスタオルを頭から被って、床に丸まった。 やっぱり、最強は最強だ。 話をしただけで、七海の前で持て余した不満が薄れていく。自分でもひたすらに虚しいものだと思っていたこの恋を肯定されるなんて、初めてだった。 昼間、同級生二人と過ごしたときのように、またあたたかいもので心が埋められていく。違うのは五条に恋心がバレバレだったことへの照れがある所くらいか。 「丸まってないで入りなー」 うー、とか、あー、とか言いながら床をゴロゴロしていると、五条がリビングに戻ってきていた。ダンゴムシの真似うまいじゃんなどと聞こえた気もしたが、ヤケになる力が出なくて亡聴する。タオルの隙間から見上げれば、五条が口笛を吹きながら何やらスマホを操作していた。 そういえばと、七海の家を出る前の二人の会話が思い出された。連絡でもするのだろうか。うずうず。オメガの帰巣本能か、もっと単純な感情のせいか、自分はもう七海の元へ帰りたいと願っている。今日はさすがにお互い距離を置いたほうが最善だと理解しているのだが、虎杖は勢いそのままに動き出してしまいそうだった。伏黒や釘崎に支えられた時と同じく、今なら勇気をだして番としての七海の行動をうるさいと突っぱね、少女漫画よろしくアタック出来そうな気がするのだ。無理にこの番という関係に縛らせてしまった七海に、ほんの少しでも自分を好きになってもらうために。 むくりと起き上がった虎杖が口を開く。 「…先生さ、」 五条が目を合わせようと動いた気配があったが、あえて抱きしめている着替えに視線を逸らす。 「ん?」 「ナナミンに電話するなら、その……冷蔵庫の中のごはん、ちゃんと食べてって伝えててよ」 やはりバスタオルに顔を隠しつつ、虎杖は脱衣所に向かう。気づくな、気づくなと念じたものの、五条が少しの間だけ目を白黒させた後、すぐにニンマリと笑うのが見えた。 ああ、バレてる。 これは、絶対にバレてる。 「いいねえ、胃袋から来たか」 先生、マジでそういうとこ。

六 一の裏は六、六の裏は一

「てか結局恋バナしてんじゃん…」 変に汗をかいた体が気持ち悪い。張り付いているような気がする衣類を剥ぎ丁寧にたたみ終わると、湯気の上がっている浴室へ踏み入れた。 今まで、同性に恋愛感情を持ったことなど全くない。 見た目はジェニファーがどストライクで、それを男性に投影する事など以ての外だ。男性はおろか女性ともまともに付き合ったことがない健全な男子高校生、虎杖悠仁十五歳。虎杖はそれ故に、最初は自身の胸にある感情の正体に気づくことができなかった。憧れに酷似したそれが恋心と判明したのはいつだっただろうか。気がつけば目で追うようになり、同じ任務に配属になった時には食事に誘った。高専に来る予定だと嗅ぎつければ用もなく廊下を、主に応接室付近を重点的にふらふらと歩き回ったりもした。しかし、所詮その程度だ。自分が満足する範囲に留まった行動。付き合うっていいなと思うことはあれど、恋人になろうなんて高望みして息巻いたことなどただの一度もない。 俺は男だ。 俺は執行猶予付き死刑囚だ。 俺は呪いの王を宿している。 いつもこの言葉たちが頭を席巻する。 結局のところ、七海にとって何の利益もない自分のような人間が、それを希求すること自体 烏滸がましいと思っていた。先程までは。 「…どうにかしてみせる、か」 本当になんとかなる気がしてくるから、とても不思議だ。暗に、自分に頼って、思い切りしたいようにして見せろと言ってもらった。 望むくらいは。 努力するくらいは。 少しでも、好ましく思ってもらえるように。 ソープのボトルを確認して、ポンプを押した。今暮らしている家の風呂場と同じ様に、なるべく泡が飛び散らないように全身を洗う。すぐに行水よろしく洗い流した。 『つまらんな』 突然、戦闘以外であまり口を挟んでこない声が浴室に反響した。 見れば、声の出所はやはり自分の掌にある。虎杖は相手にする気などなく、聞き入れずに浴槽にゆったりと浸かった。七海の家と同じく、高身長の人が足を伸ばせるような大きさだ。うっかり滑って頭を沈めないように、しっかりと後頭部を浴槽の淵に預けた。良い具合の湯加減に、うっそり詠嘆する。 七海の家に帰ったら、まずは再度今日のことを謝って、七海の自分への意見を全て聞いて、自分も伝えたいことは全て伝える。発情期のことは、それから話し合いたい。番としての務めを前面に出す七海から逃げていたこともあって、この関係についてきちんと話し合ったことなど、よくよく考えれば皆無だった。 『対話など、所詮折衷案しか生み出せん。無意味だ』 無視を決め込んでいた相手が、再度声を発する。 「うるせえ」 喋る掌を迷わず湯船に浸けた。揺れる水面越しで見づらいが、先程まで開いていた下卑た口はその様相を隠している。 『心を欲するならば、俺のように己が身を使い支配すれば良かろうに』 「…何言ってんだお前」 入れ替わるようにまた声が聞こえる。今度は目の下。 相手にするのもバカバカしくて、もう放っておいた。湯の中、体を手でなぞるのを止め、目をつむってまた長く息を吐いた。湯気を皮膚に感じる。聞こえてくるのは、一定間隔の水滴が床で弾ける音だけだ。 『小僧、この体について何も知らされておらんようだな』 「オメガについて必要なことは聞いてる」

『ハッ、馬鹿め。《おめが》である俺についてだ』

「は…?お前が、オメガ?」 『左様』 冗談だろ。呪いの王がアルファではなく、オメガだった? また何か企図しているのかと勘ぐってみても、ここで虎杖を騙す利点が見当たらない。また湯船が揺らぐ。開けてしまった視界に、自分の腕を入れ込んだ。 「…じゃあ、俺がオメガになったのは」 『《おめが》である俺に引きづられて貴様が変容したに過ぎん。悦べ小僧。現代の何も出来ぬ《おめが》共とはまた違うのだからな』 「違う…?」 『今のお前では《あるふぁ》を如何様にもできるぞ?』 女も、男も、子供も意のままに蹂躙できるのだからな。 ケヒ、とまた下品な声が反響した。 バクバクと早鐘を打つ心臓が、気持ち悪い。お湯で温められたはずの体が、寒気に当てられたように震えた。粟立つ肌を庇うように腕を摩る。 五条にも言えなかった、七海に言いたくなかったことのもう一つ。 体の変化に伴う不安。 まだ自分の知らない変異の存在が突如顔を出したことに、虎杖の息が浅くなる。ベッタリと背中に何かが張り付いているような不快感。何だ、何なんだ、まだ何かあるのか、この体は。周りの皆を貶めるものが、まだ体に渦巻いていると言うのか。 『貴様のせいでまた人が不幸になるなあ』 『どれ、己が体について知っておきたくはないのか』 『それとも、知るのが怖いか』 『良かったなあ、今の今まで周りの人間どもが平穏無事で』 責め立てるような宿儺の声が劈く。何も聞きたくない。虎杖が濡らした両手で顔を覆った。そのままバシャバシャと何回も顔面にお湯をかける。 うるさい、うるさい。 これ以上、何なんだってんだ。 先生の言葉でようやく自分の引け目を受け入れられると思ったのに。 これから頑張るって決めたんだ。なのに。 どのくらいそうしていたのだろうか。いつの間にか、宿儺はなりを潜め、浴室は再び水音だけになっていた。髪から溢れる余滴が邪魔で、頭を振る。 「…何か、あっても…やっぱり、」 派手な音を立てて虎杖が湯船から上がった。乾きかけていたタイルをまた濡らし、バスタオルで体を拭った。 とりあえず、話を聞こう。洗い流す時と同じ、適当に全身を拭く。五条ならば、何か知っているのかもしれないと思った。逸る気持ちを抑えつつジャージに袖を通し、ハンドタオルをまだ濡れている頭に被せた。マンションにしては長い廊下に、虎杖の足音と、小さめの人の声が混じってくる。 「…そ…のところは、……はあ?…わ…ないじゃ…」 言葉と認識できないくらいの音声も、リビングの扉の取手を握る頃には、クリアに聞こえた。どうやら独り言ではなく、わりと大きい声で電話をしているらしかった。相手は、心当たりがある。 『本当でしょうね』 「疑り深いなあ…」 『日頃の自分の行いを思い返して頂きたいものです』 七海だ。 コードレスで携帯と繋いでいるスピーカーから、七海の落ち着いた声が聞こえてくる。五条はスマホを床に置いて何やら大きいテレビの前でディスクを漁っていた。故の電話にしては大きな声だったらしい。映画でもまた観るのだろうか。ディスクケースを開いては閉めてを繰り返す五条が、五本に一本くらいそれをスマホの近くに投げるものだから、七海が舌打ちしていた。 「でも悠仁は、『ナナミンはぁ、誰とでもキスできるんだもん…俺とも簡単にしちゃうし、性欲オバケだろうから発散にこの体使われちゃう!もういやぁ…!』って言ってたよフケツ~」 おいおいおいすっごい改悪されてっけど。 五条がまたもや体をクネクネとさせる。いやもしかしてその動きは俺の真似?それしてたの先生じゃん。仕草まではわからないはずの七海が、動きを止めてください気持ち悪いと言い放つ。流石だ。 通話はまだ終わる兆しがなく、多分だが必要のないやり取りだけが続いていた。なんとなく入りづらくて、虎杖はその間ずっと同じ態勢で廊下に立ちっぱなしだ。 『虎杖君がそのような事を言うとは到底思えませんが』 「真偽はどうせお前にわかんないだろ。七海には言いたくないってフラれたくせに」 『不快です。通話切りますよ本気で』 一段と大きい舌打ちと、低い声が聞こえた。向けられていない虎杖が震え上がるほどであったが、五条本人はまだ冗談めかして、そのままケースを散逸させている。 「お前さ、」 すると、急にトーンの落ちた五条の声に、煩いとばかりに七海の少しだけ張った声が被さった。

『例え言っていたとしても、相手は虎杖君ですよ』 『キスくらい、いいでしょう』

ダメ押しに、心底大きなため息が一つ。きっとここに七海が居たら、目元を覆っていたに違いない。それがもう見えるような、見えないような。段々と虎杖の視界が歪んでいく。 今、七海は何と言っていたか。しかと聞いたはずだが、受け止めたくないと虎杖の頭が拒否する。 ついには髪からの雫に紛れて、頬を水分が伝った。パタパタと床に広がる水の音が扉の向こうに聞こえるのではと思うほど、止められない。そのうち鼻水まで出てきて、しかし鼻をすすれない虎杖は、踵を返し廊下の端、即ち玄関で丸まった。そのままぐしゅぐしゅと鼻を鳴らす。泣き喚くことのできない喉が、言葉を押さえ付けすぎて痛い。気が緩めば、大きな嗚咽が出そうだった。 「はは、キスくらい、だって…」 やはり、七海は、相手が番であろうが、恋人であろうが、性処理の相手だろうが、いつものように優しくキスもセックスもできてしまう人間だったのだ。食卓で五条に問うたときの意見はやはり間違っていなかった。恋人でもない人間と、関係を持てる。気持ちがこもっている風に。わかっていたじゃないか。自分の予想通りだったのだ。その想定が、この瞬間やけに現実的に迫ってきただけだ。ただ違っていたのが、この口ぶりからして恐らく、自分がその恋人でもない人間の中の最下層に位置する『性処理としての相手』であったことだけで。それを今の今まで、虎杖におくびにも出さなかったのが、大分憎らしい。 俺の番なんて、そのくらいの発散がないとやってられない?相手が俺だから、俺が嫌だって言ってもどうでもいいの? もしそうなら、好きになってもらう努力すら虚しいじゃないか。 元々引け目の多い恋だったために、数十分前の五条の提案が、目の前で瓦解していく。一度は拓けた今後の道筋がまたもや閉じられ、何処を目指すべきかまた右往左往する。 「……これから、どうしよっかな」 鼻声が広い玄関に木霊する。呟いてはみたものの、漫ろさが増すだけで心の空洞に何も埋まらない。 どうしたらいい、疎まれるしかないこの恋を、どうしたらいい。 その独り言に返答したのは、数十分前に口を開いていた己の内の、呪いの王であった。 生ぬるく湿ったその囁きは、虎杖の傷の上を蚯蚓のように這いずり続ける。びち、びち、粘液がそこを覆っては、傷口から体内に侵襲していく不快感。だがそれ以上に、虎杖はこの事態に漠たる不安を抱えていた。 付け込まれる。そう思ってはいても、耳を傾けずにいられない。 『おお、可哀想になあ』 『なれば小僧、この体を存分に利用するが良い』 『心のまま、存分に』

―――…を…て、……すれば良い。それで…―――

下品な笑い声に上手く唆されていることを自覚しながら、ついに虎杖はその声に耳を傾けた。



―――――――――――――

進捗公開はここまでとなります。ななかぶ終了後撤去、完結版の扱いは未だ決めかねています。ここでの再展示か、後日談と合わせて紙媒体に発行になるかと思われます。そちらに関して何かご意見ございましたら、コメント欄又はイベント会場のボードに書き込みお願いいたします。 先に漫画で後日談がまさかの完成してしまったので、18歳以上の方は是非そちらもどうぞ。

最後に、七虎ウェブオンリーななかぶを企画及び開催してくださった運営様、誠にありがとうございました。



ななかぶ展示物。
オメガバースパロ本編の進捗です。
番外編(後日談)は漫画にて同じく展示しております。

主催様、七虎ウェブオンリー開催ありがとうございました。
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991641550
2021年7月2日 13:38
屋島(伊藤)

屋島(伊藤)

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