基本的人権や自由主義を全否定する真正の保守主義者や尊王論者ならば、小室氏と眞子さまの交際や結婚について批判する筋合いもあるだろう。
だが、平時においては個々人の自由や人権を擁護するリベラリズムを支持しておきながら、小室氏と眞子さまの私的選択の自由を尊王論者よろしくバッシングしていた者たちは、自分の言行不一致を反省してもらいたい。ネットの有象無象にかぎらず、テレビの知識人やコメンテーターでも文化人やオピニオンリーダーでも、そうした者は大勢いた。恥を知るべきだろう。
ある人間のパートナーシップが親の意志によって支配されることを否定する「自由恋愛社会」を支持しているのであれば、小室圭氏と眞子さまの結婚もその社会で生じる当然の帰結のひとつである。これを批判するのは「女性をパートナーに迎える男は、女性以上にすぐれた男でなければならない」という規範意識の表れである。
「彼は例外」と言えるのか、言っていいのか
この3年近くに及ぶ一連の騒動は、普段は自由で個人主義的な風潮を支持しているはずの社会や人びと(一般市民だけでなく知識人や有識者含む)が、とたんに旧弊な「ムラ」の理屈を突きつけて小室氏にバッシングを展開した挙句、眞子さまと小室氏を実質的に日本で暮らせなくするという結末に終わったのだ。
小室氏に向けられていた「ダブスタ」「矛盾」「言行不一致」の嵐は、たまたまそのターゲットが彼だったから向けられていたわけではないと、私は予感していた。むしろ、これらこそが日本の市民社会に広く浸透している本音であり、今後なにか別のトリガーがあれば、他のさまざまな人物や事物に、彼が向けられたのと同じ言動やまなざしが向けられることになるだろう――と、当時から考えていた。
――その予感は現在、完全に的中していたと言わざるを得ないだろう。