マジでお久しぶりです。動画を作り始めたことと仕事がヤバいほど忙しいことが重なって全然ブログを更新できていませんでした。まぁ、仕事が忙しいのは研究が盛んに進んでいることの証左なので悪いことじゃないんですがね。
今回は書評です。著者は共同通信で「ヘイト問題取材班」として活動するジャーナリストです。この手の「ヘイト問題総括本」とでも言うべきものはすでに『レイシズムとは何か』などを紹介していますが、この手の問題は刻一刻と状況が変化するものですから、定期的に読んでおくことのは意義があるでしょう。
その中でも代表的なものは種々の補助金から朝鮮学校を排除したものです。著者によれば当時の安倍晋三首相は首相就任3日目にはすでに排除の方針を決めていたようで、並々ならぬ憎悪を感じ取れます。もっとも、この排除は菅(かん)政権の時から始まっており、この点は民主党政権における数少ない「汚点」であると私は考えています。まぁ、この汚点があってもなお自民党のほうが酷いんですけど。
政府によるコリアン差別はあまりにもみみっちい水準まで徹底しており、その粘ついた憎悪に寒気を覚えるほどです。2018年には修学旅行先の北朝鮮から帰った神戸朝鮮高級学校の生徒のお土産を没収、2019年には幼児教育無償化から朝鮮学校を排除しています。
特に重要な点として、本書は官製ヘイトが拉致問題と繋がって増幅されていることを指摘しています。本書では2018年に家族会と救う会によって開かれた「国民大集会」の様子が紹介されていますが、一言で言って下手なヘイト団体の集会よりも酷い有様です。当時すでに『新潮45』に寄稿した記事が問題視されていた杉田水脈衆議院議員を歓迎し、スピーチした家族会のメンバーは朝鮮の2国をひっくるめて「息を吹くように平気で嘘をつく」と罵っています。それでいて、戦後最長の在任期間を誇りながら拉致問題を前進させられないどころか、北朝鮮からもたらされた情報を隠匿していた安倍晋三を批判することはないのですから。
著者が紹介するように、拉致被害者として著名な横田めぐみ氏の写真がヘイトデモに使用される事例は珍しくありません。政権が拉致問題を政治利用し、あたかも解決しないほうが都合がいいかのような態度をとっているという評価は極めて妥当なものでしょう。
拉致被害者家族の名誉のために付言すれば、もちろんこのような態度をとる人ばかりではありません。著者はそのうちの1人である横田滋氏を紹介し、氏がヘイトスピーチに否定的な態度をとっていたことや朝鮮学校の無償化除外を批判していたことを指摘しています。
これはある種やむを得ない事情があるのではないかとも思えます。つまり、「対抗報道」とは言いつつ、実際のところマスメディアは碌に「対抗」できていないのではないか、そのためにメディアの動きとして書くことがあまりないのではないかということです。実際、神奈川新聞や共同通信のヘイト問題取材班のような例外を除けば、多くのメディアはよくて両論併記、悪ければ政府の差別的な見識を垂れ流しという有様です。それはいまもあまり変わっていません。
本書は映画『否定と肯定』を紹介し、両論併記が歴史の真実を蝕むことを指摘しています。それは、歴史問題に限らず同じことです。本邦では桜井誠のような「極端な排外団体」がレイシストであることは周知されつつあるかもしれませんが、自民党のような政府与党も在特会と大差ないレベルであることがメディアにすら理解されておらず、そのためメディアも自民党の差別的な言説を何の保留もなくあたかもまともな政治的態度の1つであるかのように報じてしまうのではないでしょうか。
義によって「目覚め」ますが、重要なのは、仕事としてヘイト問題を扱っているような人ですらのほほんと生きているときには差別主義者になってしまうということです。これはもはや、日本という国の構造の問題でしょう。
まぁ、目にするメディアはこぞって隣国を差別し、政府もコリアンを差別する政策を次々に打ち出すという状況下であれば、むしろネトウヨにならないのが難しいかもしれません。オタクが頑張って否定しようとしてもなお、メディアの影響力というのは重大ですから。
我々がこのような社会を変え、一億総「薄っすらネトウヨ」時代を終わらせるには、やはり社会構造の大きな変化が必要です。差別する政治家を追い落とし、企業を潰し、SNSには責任を取らせなければいけません。ヘイトすると当選し、儲かり、無責任でも責められないという社会構造こそが問題であり、これを変えない以上個人の意思や自覚では構造には抗いがたいからです。逆に、構造さえまともであれば、余命ブログを読んで懲戒請求してしまうような人でもそこまではいかずに済むかもしれません。
人間はどうしても安きに流れるものです。であれば、安いほうをまともにするしかないでしょう。
角南圭祐 (2021). ヘイトスピーチと対抗報道
今回は書評です。著者は共同通信で「ヘイト問題取材班」として活動するジャーナリストです。この手の「ヘイト問題総括本」とでも言うべきものはすでに『レイシズムとは何か』などを紹介していますが、この手の問題は刻一刻と状況が変化するものですから、定期的に読んでおくことのは意義があるでしょう。
続く官製ヘイト
本書はヘイト問題の現在地として、様々なかたちのヘイト問題を取り上げています。その中でも特に紙幅を割かれているのは、政府主導による民族差別政策、いわゆる官製ヘイトです。その中でも代表的なものは種々の補助金から朝鮮学校を排除したものです。著者によれば当時の安倍晋三首相は首相就任3日目にはすでに排除の方針を決めていたようで、並々ならぬ憎悪を感じ取れます。もっとも、この排除は菅(かん)政権の時から始まっており、この点は民主党政権における数少ない「汚点」であると私は考えています。まぁ、この汚点があってもなお自民党のほうが酷いんですけど。
政府によるコリアン差別はあまりにもみみっちい水準まで徹底しており、その粘ついた憎悪に寒気を覚えるほどです。2018年には修学旅行先の北朝鮮から帰った神戸朝鮮高級学校の生徒のお土産を没収、2019年には幼児教育無償化から朝鮮学校を排除しています。
特に重要な点として、本書は官製ヘイトが拉致問題と繋がって増幅されていることを指摘しています。本書では2018年に家族会と救う会によって開かれた「国民大集会」の様子が紹介されていますが、一言で言って下手なヘイト団体の集会よりも酷い有様です。当時すでに『新潮45』に寄稿した記事が問題視されていた杉田水脈衆議院議員を歓迎し、スピーチした家族会のメンバーは朝鮮の2国をひっくるめて「息を吹くように平気で嘘をつく」と罵っています。それでいて、戦後最長の在任期間を誇りながら拉致問題を前進させられないどころか、北朝鮮からもたらされた情報を隠匿していた安倍晋三を批判することはないのですから。
著者が紹介するように、拉致被害者として著名な横田めぐみ氏の写真がヘイトデモに使用される事例は珍しくありません。政権が拉致問題を政治利用し、あたかも解決しないほうが都合がいいかのような態度をとっているという評価は極めて妥当なものでしょう。
拉致被害者家族の名誉のために付言すれば、もちろんこのような態度をとる人ばかりではありません。著者はそのうちの1人である横田滋氏を紹介し、氏がヘイトスピーチに否定的な態度をとっていたことや朝鮮学校の無償化除外を批判していたことを指摘しています。
「対抗報道」はできているか
本書は「対抗報道」と銘打たれているように、一見するとマスメディアとヘイト問題の関係に重点が置かれているように見えます。しかし、残念ながら、一読した印象ではメディアの動きはあまり論じられておらず、どちらかと言えば著者の個人的な取材経験と市民による活動に重点が置かれているようです。これはある種やむを得ない事情があるのではないかとも思えます。つまり、「対抗報道」とは言いつつ、実際のところマスメディアは碌に「対抗」できていないのではないか、そのためにメディアの動きとして書くことがあまりないのではないかということです。実際、神奈川新聞や共同通信のヘイト問題取材班のような例外を除けば、多くのメディアはよくて両論併記、悪ければ政府の差別的な見識を垂れ流しという有様です。それはいまもあまり変わっていません。
本書は映画『否定と肯定』を紹介し、両論併記が歴史の真実を蝕むことを指摘しています。それは、歴史問題に限らず同じことです。本邦では桜井誠のような「極端な排外団体」がレイシストであることは周知されつつあるかもしれませんが、自民党のような政府与党も在特会と大差ないレベルであることがメディアにすら理解されておらず、そのためメディアも自民党の差別的な言説を何の保留もなくあたかもまともな政治的態度の1つであるかのように報じてしまうのではないでしょうか。
一億総「薄っすらネトウヨ」時代
本書で私が注目したのは、実は最後のあとがきにある著者の告白です。著者はここで、自分が大学生のころまで差別主義的な右翼であったことを明かしています。幸い、彼は周囲の知人の指摘と大学の講義によって「目覚め」ますが、重要なのは、仕事としてヘイト問題を扱っているような人ですらのほほんと生きているときには差別主義者になってしまうということです。これはもはや、日本という国の構造の問題でしょう。
まぁ、目にするメディアはこぞって隣国を差別し、政府もコリアンを差別する政策を次々に打ち出すという状況下であれば、むしろネトウヨにならないのが難しいかもしれません。オタクが頑張って否定しようとしてもなお、メディアの影響力というのは重大ですから。
我々がこのような社会を変え、一億総「薄っすらネトウヨ」時代を終わらせるには、やはり社会構造の大きな変化が必要です。差別する政治家を追い落とし、企業を潰し、SNSには責任を取らせなければいけません。ヘイトすると当選し、儲かり、無責任でも責められないという社会構造こそが問題であり、これを変えない以上個人の意思や自覚では構造には抗いがたいからです。逆に、構造さえまともであれば、余命ブログを読んで懲戒請求してしまうような人でもそこまではいかずに済むかもしれません。
人間はどうしても安きに流れるものです。であれば、安いほうをまともにするしかないでしょう。
角南圭祐 (2021). ヘイトスピーチと対抗報道