渓流詩人の徒然日記

知恵の浅い僕らは僕らの所有でないところの時の中を迷う(パンセ) 渓流詩人の徒然日記 ~since May, 2003~

スズキ ハスラー125

2021年12月02日 | open


「本格派スクランブラー」と銘打っ
いたスズキのTS125は、中型TS
シリーズの小型版として人気を博し
た。
1971年登場。
当時珍しく毎年のようにモデルチェ
ジされ、1976年時点で5型になっ
いた。
このスズキは実によく走った。

また、TS125Tというオフ車にロード
タイプのタイヤとフェンダーを装着
た当時初めてのパターンの車種も
メーカー純正で発売された。
これは、現行のモタード発想の先駆
だったといえる。
Tには乗った事がないが、普通のハ
スラーにはよく跨った。
実に走りが良かった。


『仮面ライダー』(1971)の中で
仮面ライダーが乗るサイクロンの
通常モードはスズキT20という
当時のバカっぱやバイクがベース
だった。


スズキT20 250cc


だが、砂地での戦闘チェイスシーン、
ジャンプシーンでは、いきなりオフ
車に変わる(笑
これはスズキのTSハスラーをベース
に撮影マシンが作られていた。


スズキはTV番組にオートバイを提供
する広報活動を積極的にしていた。
そのため、1970年代のテレビに出て
来るバイクは殆どがスズキだ。
仮面ライダーシリーズだけでなく、
『ワイルド7』や舘ひろしが乗る二輪
もスズキだった。

『ワイルド7』(1973)。
全車スズキ。


世界初のモデルガンメーカーの
MGC(レプリカガンのモデルガン
は日本人が明した)が全面協力
で、まだ完成されて間もないブロ
ーバックのモデルガンが大量に
使用された。
これにより、日本の映像作品で
カートが排莢されるシーンの撮影
が可能となった。


本来は原作に忠実に描かれる筈の
ドラマだったが、川津祐介の横槍
により、自分が主人公であるかの
ように指揮官草波までもがバイク
に乗るシーンに脚本を書き換えさ
せた。最低。一気に草波隊長のイ
メージを消滅させた。
いくら当時力を持っていた大物俳優
であろうと出しゃばり過ぎだ。
また、ドラマも、社会悪と闘う暗殺
のライセンスを持つ警察官という設
定ではなく、仮面ライダーのショッ
カーのような悪の組織と戦うバイク
集団、というお子ちゃま向けに書き
換えられた。


しかし、コスチュームや車両に関して
は原作のイメージを踏襲しており、
製作サイドの本気度が見えた「駄作」
だった。


多くのTVドラマではスズキが使われ
ていたが、唯一、『人造人間キカイ
ダー』(1972)だけはカワサキを使用
した。


ドマッハである。
しびれる。


1970年代。
都内のマルソーの暴走くんたちは
カワサキのマッハをマッパと呼んだ。
KHの事をケッチとは呼んでいない。
ケッチ呼称の登場は1978年道交法
改訂以降の事だ。
CB400fourの事は1976年時点で
ヨンファアと呼んでいた。
基地の米兵はフォーインワンと呼
んでいた。
ヨンフォアはホンダが初めてドリ
ームCB250/360Tで採用した6速
リターンシフトを導入したホンダ
の6速2作目だった。
ヨンフォアは登場当時には408cc
だった。これが1975年10月の新免
許制度(自動二輪の中に排気量限定
規定が設置された)に合わせて1976
年春に398ccにボアダウンしたヨン
フォアII型が出た。
私の高校1-2年の頃には、警察により
盛んに「ヨンフォア狩り」が行なわ
れた。
ヨンフォアを軒並み止めて、車検証
と免許を提示させ、408ccモデルに
中型限定付自動二輪免許で乗ってい
ら条件違反のキップを切った。

その後、警察がやったのは「刀狩り」
だ。
これはスズキのカタナに乗っている
者で、海外標準仕様のクリップオン
=フロントフォークにダイレクトに
オンのセパレートハンドルを装着し
ている車両を軒並み止めて、それが
国内の750アップハンドル(耕運機
ハンドルと呼ばれた)をセパハンに
交換していたら、全車を整備不良
で違反キップを切り、さらに「故障」
というシールをタンクに貼られた。
このシールというやつが今のシール
のように綺麗に剥がれる物ではなく
紙シールのようなもので、剥がすと
紙と接着剤がタンクにべったりと
残る。
そんな時代だった。
勿論、マルソーの集会などでは、
交通機動隊が警棒で走行中のバイク
の運転者を殴り倒して転倒させたり、
スボコで集団で取り囲んで殴る蹴る
なども当たり前だった。
でも、土曜の夜には1チームで二輪
200台(ほぼ2ケツ)、四輪400台が
何チームも首都圏のメトロポリタン
の道路を激走した。数万の若者が
都内首都圏を爆走する。
クルージングが120キロ。暴走する
族だ。後年の音だけでかくてチンタ
ラ走る珍走団とはまるで別物。
コールなどという妙な物も存在して
いなかった。とにかく集団激走だっ
た。
ただ、これは、現実の話だが、環七
などでの沿道の住民たちは、道に
すずなりで、手を振ったり、検問で
機動隊にスボコにされているマルソー
の少年たちを介護したり、声をかけ
て介抱したりしてくれていた。おじち
ゃん、おばちゃんたちが。
マルソーを嫌っていた人たちは家から
は出なかっただろうし、現実は群衆
の市民たちが少年たちの味方をして
警官に抗議する姿も現場ではあった。
こうした事はマスコミ等は一切報道
しない。歴史の事実は、報道協定に
より隠蔽されるし、そうされて来た。
1970年代暴走族と社会的世相の実態
などは、その時にタイムリーにその
中にいて体験をした者たちにしか知
り得ない。

劇画『ワイルド7』では、全学連の
学生や暴走族に対して、認容する
ような視点で描かれているのは、
あれは原作者望月三起也先生が持
つ気持ちの表れなのだろう。
あの環七の市民たちに似た。
緑の墓などは学生たちと共同作戦
でワイルド7がファシズム監獄を
破壊した。
しかし、「無差別テロ」について
は望月先生は完全否定だった。

映画『ワイルド7』(2011)ではいろ
いろなメーカーのオートバイが使わ
れていた。
日本の映像文化シーンでスズキが
果たした役割は大きかった。
権力者と教育者たちが「バイク全否
定」の洗脳を国民に強いようとして
いた権力行使の1970-80年代、スズキ
は数々のドラマでモーターサイクル
をスポンサード提供する事で一石を
投じた。
単に自社製品を売りたいがなでは
ない。
スズキの理知たる点がそのあたりに
ある。国内に蔓延する変態症候群で
あるスズ菌の発生原因は、そうした
スズキというメーカーのコア部分に
あるのかも知れない。
スズキのバイクは走る。
乗りにくいモデルもあるが、とにか
くよく走る。
面白いオートバイを作るメーカーだ。
日本人で最初で最後のマン島TTを
制した男が乗ったのはスズキの50cc
ワークスマシンだった。1963年。
これまで唯一の日本勝利者。
その記録は今でも塗り替えられてい
ない。
スズキのクルマ、個性強いが味も濃い。
ハマるとヤバいメーカー。
スズ菌は不治の病だ。

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