CROWN 3 L6: Only a Camera Lens between Us (1)

私たちの間にあるのはカメラのレンズだけ
 
20世紀は、数百万人が命を失う悲惨な戦争の時代でした。
しかし1990年代、戦争の脅威は減少しました。
ヨーロッパ諸国は連合を形成し、ソビエト連邦は崩壊し、
中国はそのエネルギーを使い経済発展に専念し始めました。
21世紀は平和な時代になるだろうという希望がありました。

残念ながら、新しい世紀は私たちの希望を叶えてくれませんでした。
中東で戦争が荒れ狂います。
その他の場所でも、小火器を持った非正規の兵士によって
小さな戦闘が行われています。
これらの兵士の中には、少年兵もいます。

これらの戦闘が終わると、社会に溶け込むべき数十万もの兵士が放置され、
破棄すべき数百万もの小火器が残されます。
これは、武装解除・動員解除・社会復帰(DDR)の
専門家の仕事です。
瀬谷ルミ子はこれら専門家の一人です。
これは、彼女の物語です。

Section 1

子供の頃、瀬谷さんはいつも
「名もないその他大勢」に惹かれていました。
心の中では、外国はとても遠くにあるように思われ、
自分にはもちろん「なじみのない」もののように思えていました。
瀬谷さんは地図帳を開いてアフリカを見つけたときには、
とても興奮しました。

瀬谷さんが高校生のとき、
ルワンダ人のための難民キャンプで
死にかけている母親と小さな子供の写真を見て、
ショックを受けました。
自分にこう尋ねました。
「おやつを食べながら写真を眺め、
 ここ日本で私は何をしているんだろう?
 私とこの親子の間にはカメラのレンズしかないのに、
 日本での私の暮らしとこの親子の暮らしの間には
 とても重大な違いがある」
と考えました。
私は、もしその気になれば自分の力で
状況を変えられる国に住んでいました。
それに反して写真の難民たちは
自らの苦しい立場を受け入れねばならなかったのです。

大学生のとき、
瀬谷さんは世界の紛争について読み始めました。
専門家と話をして、ルワンダを訪れるために
パートで稼いだお金を貯めました。
1997年、大学3年のときに夢が実現しました。
瀬谷さんはルワンダを訪れました。
多数派のフツ族と少数派のツチ族の間の
厳しい紛争によって打ちのめされていたルワンダ人の
何か役に立てるかもしれないと思っていました。
紛争中に80万から100万人の人が約3か月の間に殺害され、
200万人が難民キャンプに逃げ込みました。

大量虐殺を生き抜いた家族のところに滞在中、
瀬谷さんは何が起こったのかを突きとめようと努力しました。
しかしほとんどの人は沈黙を守るだけでした。
この人たちのトラウマは、
まだ癒されてはいなかったのです。
そして部外者に自分たちの本当の気持ちを
あらわにする気にはなれなかったのです。
瀬谷さんは、
自分がこの人たちの役に立てないと感じました。
自分には技術も知識も経験もないと悟りました。
これらすべてが、ルワンダで出会った人たちの
問題の解決に協力するには絶対に必要です。

Section 2

大学4年のときに、大学院での研究のために
イギリスに行く計画を立てました。
紛争解決の分野での専門領域を
絞りこまなければいけないとわかっていました。
本を読んだり、国際組織やNGOに関する情報を
ネットから集めたりするため図書館で時間を費やしました。
3か月たっても、情報をあまりにたくさん吸収しすぎて、
何を専門にすればいいのか決められませんでした。
その時突然、次の文が瀬谷さんの目に飛び込んできました。
「紛争地域は元兵士と少年兵を
 どのようにして社会に復帰させればよいのかという問題に
 今直面している」
これだ!と瀬谷さんは思いました。

1999年、イギリスで瀬谷さんは大学院での研究を始めました。
大学院生の間に、瀬谷さんは日本のNGOから
ルワンダで活動してほしいと依頼されました。
瀬谷さんの任務のいくつかは、
ルワンダの首都のキガリにNGOの事務所を開設することと、
紛争でご主人を亡くした女性に職業訓練を提供する
プロジェクトを立ち上げることでした。
瀬谷さんは、20代と30代のシングルマザーがほとんどを占める
10人の訓練生を選びました。
そしてこの訓練生たちに自立できるように
裁縫と洋裁の技術を教えました。

このプロジェクトがほぼ終わる頃に、
瀬谷さんはシエラレオネで進行中だった
DDRプロジェクトのうわさを耳にしました。
実際のDDRの進め方を自分の目で観察するために
現地に行くことにしました。
しかし、問題がありました。
現地の状況を理解していて、
何が問題なのか詳しく知っている人たちを
見つけることにどう取りかかれればよいのか?
もしこの状況をうまく切り抜けられなければ、
紛争解決の専門家として活動するという夢を
見るべきでさえないのです。
瀬谷さんは、くじけませんでした。
何とか連絡を取って、
戦争の被害者のためのキャンプと
元少年兵たちのためのケアセンターを
訪れることができました。
DDRプロジェクトの最高責任者の一人に
インタビューをすることもできました。
 
瀬谷さんは2001年に大学院での研究を終え、
2002年1月にシエラレオネに再び戻って来ました。
今度は、瀬谷さんは訪問者ではなく、
国連のボランティアとしてでした。
瀬谷さんの任務は、職業訓練を提供することによって、
元兵士たちの社会復帰を促進させることでした。
いろんな国出身の1チーム15人のスタッフと一緒に活動し、
瀬谷さんは徐々にDDRの専門的な知識を伸ばしていきました。