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日系人と海外移住資料館 

第2章 ヨコハマから旅立つ人々


【 「ぶらじる丸」横浜港出港風景 横浜市消防局のブラスバンドが演奏 1972年 】


第二次世界大戦が終結し、日本人の海外移住が再開されてから、横浜港は「移住の窓口」としての役目を果たしてきた。そこで1956年に開設されたのが、横浜移住あっせん所だった(1961年には磯子区の根岸に移転し、その後、横浜移住センターと改称、さらに1971年には海外移住センターと改称された)。

「当時の一般市民にとって、海外へ行くのはもちろん初めてのこと。現地の言葉や文化を学んだり、出入国の手続きをしたりするためにも、海外移住センターでしばらく研修生活を送る必要がありました。」

と語るのは、海外移住資料館業務室の西脇さん(以下同)。実際に、同船するメンバーと数々の勉強会を受講し、寝食をともにしている様子が写真に残されている。


【 海外移住センターでの食事風景 1972年 】


壮行式では、代表者が誇らしげに謝辞を読み上げている様子がうかがえる。


【 海外移住センター「講堂での壮行式」 1972年 】

【 岸壁に乗りつけたバスから荷物を下ろす移住者  1972年 】


横浜市消防局のブラスバンドが演奏をするなか、40日を超える船旅へ向けて、移住者は旅立っていった。

当時のトランクの中身をのぞいてみると、衣類など生活必需品のほか、語学辞書や医学辞典、化粧品、囲碁をはじめとする遊び道具などを見つけることができる。中には「子供用の浣腸が大いに役立った。」という証言もあり、家族移住する親の思いがしのばれる。

船中生活についてもさまざまな記録が残されている。戦前に比べて改善されたとはいうものの、三等船室での生活は厳しく、船酔いに苦しむ者も少なくなかったという。しかしそんな中でも、船中運動会を実施したり、ガリ版刷りの新聞を発行したりと、楽しみを見出していたようだ。


【 「ぶらじる丸」移民船内での生活風景 甲板で洗濯物を干す 1954年~1962年頃 (C)商船三井客船(株) 】



【 船内大運動会 「ぶらじる丸」 1954年~1962年頃 (C)商船三井客船(株) 】

【 船内大運動会 「ぶらじる丸」 子どもたちのダンス 1954年~1962年頃 (C)商船三井客船(株) 】



【 船内「赤道祭」の記念に  運動会や演芸会など様々な行事が催される中、赤道通過の際に行われる「赤道祭」は船内生活のハイライトだった。 】


「横浜港から南米への移住がピークを迎えたのは、1957年ごろ。とは言っても、吉永小百合が主演を務める映画『さようならの季節』(1962)に『ブラジルなんて誰も好んで行きたくはない』というセリフが出てくることからも、移住は未知の世界でした。」

そもそも戦後の移民が増加した背景には、国内の人口増加がある。日本政府が移住者を募集する際に作成されたのが、「移住啓発映画」だ。ポスターや新聞などでの告知に加え、南米での安定した暮らしや成功者のインタビューなどで構成された映像を放映することで、移住希望者を募った。移住には、単身移住・技術移住・家族移住などの形があった。現地での成功を夢見たり、先に単身移住した家族から呼び寄せられたりと、移住の理由はさまざまだったという。しかし実際には、現地での生活は楽なものではなかった。

戦後、南米への移住が始まった1952年から21年目となる1973年に、「にっぽん丸」で285人の移住者が横浜港を出発した。これ以降の渡航手段が航空機に変わったことから、これが移住船最後の出港となった。

しかし、横浜港の役割がこれで終わったわけではない。横浜港を中心に南米へ旅立った人々は、戦後だけでも約7万人。日系人として生活する彼らへの支援は、現在も続けられている。


(3章へ続く)

画像:商船三井客船(株)提供


(語り手)

西脇祐平(にしわき・ゆうへい)
JICA横浜 海外移住資料館 業務室担当者 www.jomm.jp

(執筆者) 河村仁美


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