第二次世界大戦が終結し、日本人の海外移住が再開されてから、横浜港は「移住の窓口」としての役目を果たしてきた。そこで1956年に開設されたのが、横浜移住あっせん所だった(1961年には磯子区の根岸に移転し、その後、横浜移住センターと改称、さらに1971年には海外移住センターと改称された)。
「当時の一般市民にとって、海外へ行くのはもちろん初めてのこと。現地の言葉や文化を学んだり、出入国の手続きをしたりするためにも、海外移住センターでしばらく研修生活を送る必要がありました。」
と語るのは、海外移住資料館業務室の西脇さん(以下同)。実際に、同船するメンバーと数々の勉強会を受講し、寝食をともにしている様子が写真に残されている。
壮行式では、代表者が誇らしげに謝辞を読み上げている様子がうかがえる。
横浜市消防局のブラスバンドが演奏をするなか、40日を超える船旅へ向けて、移住者は旅立っていった。
当時のトランクの中身をのぞいてみると、衣類など生活必需品のほか、語学辞書や医学辞典、化粧品、囲碁をはじめとする遊び道具などを見つけることができる。中には「子供用の浣腸が大いに役立った。」という証言もあり、家族移住する親の思いがしのばれる。
船中生活についてもさまざまな記録が残されている。戦前に比べて改善されたとはいうものの、三等船室での生活は厳しく、船酔いに苦しむ者も少なくなかったという。しかしそんな中でも、船中運動会を実施したり、ガリ版刷りの新聞を発行したりと、楽しみを見出していたようだ。
「横浜港から南米への移住がピークを迎えたのは、1957年ごろ。とは言っても、吉永小百合が主演を務める映画『さようならの季節』(1962)に『ブラジルなんて誰も好んで行きたくはない』というセリフが出てくることからも、移住は未知の世界でした。」
そもそも戦後の移民が増加した背景には、国内の人口増加がある。日本政府が移住者を募集する際に作成されたのが、「移住啓発映画」だ。ポスターや新聞などでの告知に加え、南米での安定した暮らしや成功者のインタビューなどで構成された映像を放映することで、移住希望者を募った。移住には、単身移住・技術移住・家族移住などの形があった。現地での成功を夢見たり、先に単身移住した家族から呼び寄せられたりと、移住の理由はさまざまだったという。しかし実際には、現地での生活は楽なものではなかった。
戦後、南米への移住が始まった1952年から21年目となる1973年に、「にっぽん丸」で285人の移住者が横浜港を出発した。これ以降の渡航手段が航空機に変わったことから、これが移住船最後の出港となった。
しかし、横浜港の役割がこれで終わったわけではない。横浜港を中心に南米へ旅立った人々は、戦後だけでも約7万人。日系人として生活する彼らへの支援は、現在も続けられている。
(3章へ続く)
画像:商船三井客船(株)提供
(語り手)
西脇祐平(にしわき・ゆうへい)
JICA横浜 海外移住資料館 業務室担当者 www.jomm.jp
(執筆者) 河村仁美