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日系人と海外移住資料館

第1章 日系人とヨコハマ


【 横浜移住センター外観(1970年頃) 】


 Y150の会場である「トゥモローパーク」や、ショッピングセンターの「ワールドポーターズ」などが目を引く、みなとみらい21地区の一画。華やかな横浜の象徴でもあるこの場所に立ち並ぶのが、「JICA横浜 海外移住資料館」。
 独立行政法人国際協力機構横浜国際センター(JICA横浜)が運営するこの資料館は、横須賀市にあった水産研修センターと磯子区にあった海外移住センターを統合し2002年に設立された同センターに併設され、無料公開されている。
 毎年3万人以上が訪れるというこの資料館では、日本人の海外移住の歴史や海外で活躍する日本人・日系人の姿を知ることができる。今日のパスポートに相当する「御免の印章」や、移住者が渡航の際に持参したトランクなど、約1,500点が常設で展示されている。
 この海外移住資料館が横浜の地にあるというのは、偶然ではない。その昔、ここ横浜港から多くの人々が移民となり、海外へ旅立っていったという歴史的な経緯がある。


【 旅立ちの日 海外移住センターから足取りも軽やかに出発する人たち(1972年) 】


 「かつて移住者を多く送り出す場であった横浜は、その歴史を蓄積すると同時に、日系人支援を行なう中心的な場となっているんです。」
そう語るのは、海外移住資料館業務室の西脇さんだ。そもそも、日本人の海外移住にはどのような歴史があるのだろうか。資料館の展示に沿って見てみよう。


 日本人の海外移住の皮切りとなったのは、海外渡航禁止が解かれた1866年。しかし、これは外交上必要に迫られたことから政府がやむなく実施したもので、実際に海外へ出かける人々は少なかった。いわゆる「移民」の元祖と言えるのが、19世紀後半から渡航を始めた契約労働者たちだ。特に、「官約移民」としてハワイへ旅立った人々は、サトウキビプランテーションなどで厳しい肉体労働を強いられたが、29,000人いた移民のうち約4割はハワイに残ることとなった。


【 ハワイ移民が労働に従事したサトウキビ畑プランテーション 】


 その後、日米関係が悪化したことで、1924年には日本人のアメリカ入国が禁止されてしまう。北米を中心に排日感情が高まりを見せた様子は、当時出版された書物や風刺マンガからもうかがうことができる。
 北米に変わる移住地となったのが、ブラジルを中心とする南米。コーヒー栽培は家族労働が条件とされたため、「単身者の出稼ぎ」ではなく、「家族単位」での移住へと移行していった。


【 ハワイ移民 娯楽のひとつであった相撲大会 】


 第二次世界大戦中は海外移住が中断され、アメリカやペルーなどで日本人の強制収容が行なわれるなど、日系人にとっては厳しい状態が続いた。しかし、戦後にはアメリカで日本人の帰化が認められたり、南米などへの移住が再開されたりと、再び日本からの移住者は増えていった。


【 「ぶらじる丸」横浜港出港風景 】


 そんな戦後移住者を世界へ送り出していた港の一つが、横浜港だった。横浜から旅立つ日本人とは、どのような人々だったのだろうか。まだ一般市民にとって遠い世界であった海外へ旅立った人々、その心のうちを知るカギは、海外移住資料館にあった。


(2章へ続く)

(語り手)
西脇祐平(にしわき・ゆうへい)
JICA横浜 海外移住資料館 業務室担当者
http://www.jomm.jp

(執筆者) 河村仁美


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