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先人達の精神を次の世代に

私の四代前の祖父、小此木彦四郎が埼玉県大里郡泰村から横浜に出てきたのは明治の中頃である。開港以来、横浜に新天地を求めて日本全国から青年が集まった。わが先祖もそうした者の一人であった。彦四郎は横浜で竹屋を始めた。その子才三郎の代になって竹屋から材木商となる。才三郎は孫を養子に迎えた。それが私の祖父の歌治である。これからの話はその歌治の数多くあるエピソードのひとつである。

横浜港での木材の取り扱いは明治の中頃に始まった。原木を筏に組み、港から大岡川や中村川などの河川を使って材木商の店の前まで運び、必要に応じて製材した。製材するまでは、材木商はそこに筏を不法係留していたのである。大震災まではこの不法係留に対して、取締当局も比較的寛大であった。しかし、関東大震災後の震災復興で木材需要が増えて原木の輸入が急増、港や河川には原木があふれた。

昭和二年頃、事態を重くみた横浜市は市設貯木場の建設を計画した。その建設候補地として選ばれたのが新山下町地先である。新山下は材木商が店を構える大岡川や中村川の至近の場所である。横浜の材木商にとっては貯木場として一番の適地であった。

この計画に東京の外材業者が横槍を入れる。新山下ではなく東京に近い鶴見沖に作れというのが彼らの主張であった。この主張に横浜税関や大蔵省も同調する。しかし、横浜も新山下案で行かざるを得ない。両者の激しい綱引きが始まる。横浜の官民あげての建設促進運動が始まる。横浜材木商組合の組合員九五人が二〇台のハイヤーで税関に押し寄せ、税関長を口説き落とす場面もあったという。

こうして大貫栄太郎を組合長とする材木業界の熱意と、「どうせ作るなら大貯木場を作れ」と号令をかけた有吉忠一市長の指導力で、昭和八年、新山下に貯木場が完成した。これはその竣工式の時の写真である。当時の新山下の貯木場からは遠くワシン坂や現在の港の見える丘公園も見える。

有吉忠一市長 祖父・小此木歌治
有吉忠一市長 祖父・小此木歌治

歌治は組合の副組合長としてこの建設運動に関わるが、竣工時には組合長になっていた。昭和九年、歌治は横浜の主要木材業者を糾合して横浜港木材倉庫を設立し、貯木場の実質的な管理運営を担った。尚、この会社の社長にはその公共的な性格を勘案して、横浜貿易協会の会長であった上甲信弘氏が就任した。また、荷役業務は横浜港いかだ請負業組合所属の一四社が合併し設立された株式会社豊組がこれに当たった。 当時東京港は不開港であったので、輸入木材はすべて横浜港で本船から水面に卸し、筏に組んで東京木場方面に回漕したため大変な活況であった。 因みに歌治はその隣地(現在は富士倉庫の敷地になっている)に倉庫を建て、金港倉庫を設立した。これが弊社の発祥となる。
筏師によるお披露目 筏師によるお披露目
筏師によるお披露目。遠くに山手が見える

横浜市貯木場の説明 横浜市貯木場の説明
横浜市貯木場の説明(横浜港木材倉庫株式会社)

横浜港木材倉庫株式会社社長に就任した、上甲信弘氏 竣工式の様子
横浜港木材倉庫株式会社社長に就任した、上甲信弘氏 竣工式の様子

遠くに現在の港の見える丘公園が見える
遠くに現在の港の見える丘公園が見える

その後、貯木場を取り巻く環境は急展開する。長い戦争の時代を経て、敗戦。日本は廃墟から奇跡的な復興を遂げ、高度経済成長時代を迎える。そういう歴史の推移の中で、木材の主流は原木から製品になる。そして新山下の貯木場は使命を終え、平成十年、完全に埋め立てられた。

開国以来、欧米との窓口の役割を担うという意味において、横浜は他のどの都市よりも密度の濃い時を過ごした。その時の中で、横浜の先人達がどのような気持ちを込めて足跡を残してきたのか。その精神に思いを致し、それを次の世代に確実に引き継いでいく事こそ、私たちの責務であろう。

(小此木歌藏)

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