アンニョンハシムニカ
Visit North Korea,Yoshio Iwamura
日朝友好兵庫県民の会は2008年5月17日に結成されました。会は
文化人,メディア,学者などで構成されています。
2008年10月11日(土)~15日(水),はじめて朝鮮民主主義人民共和国(以後,共和国)へ岩村義雄が訪問。
訪朝団は,貞松融氏(貞松・浜田バレエ団団長),橋元治氏(元サンテレビ取締役),藤井良一氏(元神戸新聞総合印刷社長),議員たちや教育者たちが同行しています。
朝鮮対外文化連絡協会(1970年代設立,国交のない国との窓口,略称 対文協)のスタッフ,出合う人々の表情,近代的に整備された大都市200万人の都会は,最貧国,危険な国というイメージを払拭しました。
360度見渡す限り,平壌は近代都市。日本を除く海外からの観光客が多い。
日本は国交がありませんが,欧米諸国からの多くの観光客と共和国のいたるところで出会います。交易もさかんであることは海外製品も珍しくなく,中国と同様,庶民に携帯が普及しています。
日本でのテレビ報道,YouTube,SNSは,繁栄をよそに貧困であえいでいる映像や脱北者のドキュメンタリー一辺倒です。
拉致問題が拍車をかけています。
2012年9月7日(金)~11日(火)の2回目の訪朝を通して,海外からの訪問者に見せる表の顔と,民衆の抑圧された裏の顔があるにちがいないという半信半疑は完全にひっくり返りました。なぜなら自由に行動,撮影ができるからです。
水害,干ばつ,飢餓で苦悩する民のところへ赴きたいという願いがありました。弱者や貧しい人,難民,孤児に寄りそう活動を続けている機構の代表として,積極的に個人的にどの旅行者も近づかない地域にも足を伸ばしました。しかし,日本で流されている場面を目撃することができませんでした。
「主はこう言われる。正義と恵みの業を行い,搾取されている者 を虐げる者の手から救え。寄留の外国人,孤児,寡婦を苦しめ,虐げてはならない。またこの地で,無実の人の血を流してはならない」(エレミヤ 22:3)。
隣国に対して,日本人がいかに近視眼的,狭量な見方しかしていないかをまざまざと突きつけられました。“百聞は一見に如かず”です。
アリラン祭 各地域,学校では半年以上をかけて人文字を練習してきた成果。
地方の農業はどうか,多くの人民が飢えているという先入観を刷り込まれている日本人は,訪朝してみるといいでしょう。
ミコク農場 2008年11月13日 嵋谷協同農場(沙里院市)
朝鮮の古都世界遺産開城(ケソン) を経て板門店(パンムンジョム)へ
共和国のどの地域に行ってもヨーロッパやアメリカからの旅行客が多い。高速道路のサービスエリヤで。2008年11月12日
朝鮮戦争[1950年6月25日-1953年7月27日休戦]
板門店は非武装地帯の中にあります。冷戦時代の歴史現場として約半世紀の間,南北の分断歴史を証言し,今でも戦争は終結しておらず,停戦中です。
各地の学校を訪問
授業を視察。教育費無料の子どもたちの表情は明るいし,国を支える思いは幼い時から培われています。
勤勉で,責任感が強い,約束を守る同じアジア人の共和国とは一日も早く国交が回復するように,願います。
2008年10月13日 牡丹峰第一中学校訪問
牡丹峰第一中学校 授業参観終了時 朝鮮新報の取材
2012年9月9日 陵羅小学校訪問
金策大学訪問 2008年10月13日
離日前,2012年9月4日の新聞で,47人が台風で死亡。訪朝前に5万円の見舞金を用意し,現地で手渡しました。帰国後も日朝友好兵庫県民の会は2012年9月末に募金活動をしました。
平壌城大同門前で子どもとスナップ 2008年11月14日
高句麗時代,豊臣秀吉は1592-1598年,陸軍19万人,海軍9千人で朝鮮侵略。無防備の村々で虐殺。2万人の鼻,耳をそぎ,日本に戦利品として持ち帰ります。身分の低い農民たちは首でなく,鼻をそぎ,数珠つなぎにしました。豊国神社(京都市東山区大和大路正面茶屋町530)は秀吉を祀る場所で通称「鼻塚」(「耳塚」)として語り継がれています。
キリシタン大名小西行長,黒田長政,加藤清正などが怒濤のように侵攻しました。
平壌城大同門は,1593年,秀吉軍が大敗を喫した場所で市民のいこいの場になっています。
共和国でお世話になった対文協(外務省に相当)の方たち
左端 日本人より日本語が上手な李河進(はじん)氏 右端 金英一(よんぎる)氏 黄虎男局長
洪善玉副委員長 右端 桂成訓(そんすく)氏 平壌から自宅まで朝鮮服を着用して帰国
帰国してからいろいろな報告会で,見聞きしたことを紹介しました。とりわけ2009年2月8日には,朝霧生協会館は満員になりました。神戸新聞の告知記事も影響が大きかったせいもあります。
「マインドコントロールされたのではないか」とか,「共和国の宣伝塔になりさがったのか」という反応もありましたけれど,ほとんどの方は,「へえー,そんなに近代化していたとは驚き」「地下鉄も走っていたのですか」「もっと知らされるべきであり,決してけんか腰で話してはいけないですね」「一度,行ってみたいわ」と質疑応答が交わされました。
小倉紀蔵氏たち学術団約70名も2012年4月に訪朝しました。「北朝鮮との国交交渉には,…拉致も核問題も魔法使いが突然解決してくれることはありえない。まずは文化や経済などの交流によって通路を確保しつつ,未来を切り開くしか道はない。」(朝日新聞 2012年5月26日付)。
経済制裁など何の効果もないことは実証されています。
隣国と仲良くしていくには,民衆の一人ひとりが,現地へ行くことが近道です。遠い国から近い国への橋渡しは私たちに依存していると実感しました。
⇒ 第3次訪朝 エラスムス平和研究所参照
ボランティア道の母 岩村カヨ子 Kayoko Iwamura
訪朝している際,常に連絡をとりあっていた配偶者岩村カヨ子は2016年10月17日に逝去。夫婦共に,料理のみならず,文化,アイデンティティに接し,在日朝鮮人と親交を深めることができたことは感謝。毎年,金剛山歌劇団の鑑賞を楽しみ,車中では演奏されたCDに耳を傾けるのが好きでした。
夫婦は日朝友好兵庫県民の会の日帰り旅行には必ず参加。丹波マンガンや,神戸朝鮮高等学校,神戸朝鮮初中級学校などの運動会,バザーには出席して子どもたちを応援しました。