--ゼロからの出発--
ヤオハン元社長 おしんの息子(4)
光と影の狭間で夢の実現目指す
平成11年11月11日、この日は和田一夫氏(72)にとって特別な日だ。
「復活の日」で、福岡県飯塚市への移住のきっかけとなる「出会いの日」でもあった。和田氏は他人が真似できないことをやろうという「オンリーワンの経営」を提唱、それにちなんで「1」が並ぶ同日、熊本で経営セミナーを開いた。
この日、参加していた飯塚市在住のひとりの若者が書いたアンケートに、「飯塚をアジアのシリコンバレーにしたい」とあったことが、飯塚行きのきっかけになったのだ。
この運命的な舞台を設定したのは、またも「生長の家」関係者。和田氏の側近中の側近、土屋高徳氏(75)は、「和田さんが信者で構成する『栄える会』の会長を16年やった関係で、会の中に和田さんの信奉者が多い。そうした人が力を貸してくれた」と話す。
アンケートを書いた若者は今、和田氏の“かばん持ち”を自任する正田英樹氏(28)。セミナーから数日後、アンケートを読んで共感した和田氏は正田氏に電話をした。「まさか電話がかかってくるなんて、考えてもいませんでした。それもすぐに…」と正田氏。
当時、ソフト開発会社を興していた正田氏が支援してくれれば自分の考えていることができると和田氏は考えたのだ。いても立ってもいられなくなり、同年12月17日、飯塚の地に初めて足を踏み入れる。そしてとんとん拍子に移住と新会社の発足が決まった。
「最初に案内された九州工業大情報工学部には2500人もコンピューターを学ぶ学生がいること。行政が本気になって『アジアのシリコンバレー』というビジョンに取り組み、そのときお会いした市の担当者から『失敗の経験をぜひ我々に教えてもらいたい』と言われ、使命感にかられたこと。そうしたことなどで決めたのです」と和田氏。
新会社は年が明けた12年3月2日に発足した。出資者は和田氏の親族や経営セミナーの受講者ら。くしくも、この日はヤオハン・ジャパンも新たなスタートを切った。社名もヤオハンと変えてジャスコ主導で再建の道を歩み始めたのだ。
今月には、ジャスコが15年度中にヤオハンを「マックスバリュ東海」と変更、グループ企業のうち東海地区の中核会社で上場を目指すことを明らかにした。海外でも知られたヤオハンの名が消えることになる。そして来年2月、会社更生法申請から4年半というスピードで再建が完了する見込みも立った。
昨年5月、和田氏は飯塚に移り住む。「この人のためなら命も投げ出そうと思ってきた」という土屋氏も、始めは自分の年齢を考えてとまどった。しかし最終的には和田氏の家に“ホームステイ”しながら行動をともにすることにした。
周りで仕事をするのは、ほとんどが若い世代。正田氏が「私はヤオハンが絶頂のころのことはまだ学生で関心もなかったので、ほとんど知らない。だから先入観なく和田氏に接することができた」と話すように、若いからこそ和田氏へのマイナスイメージがない。今もヤオハン社内に根強く残る和田氏に対する怨嗟の声とは対照的だ。
ヤオハン関係者は「あの人にいい感情を持っている社員は少ない。多くの社員が路頭に迷い、残った社員も再建で苦しい思いをしている」と漏らす。
何事にも光と影はつきものだが、「流通業界のソニー」を目指す夢が大きかっただけに、傷跡も深かった。新たに抱いた「飯塚をアジアのシリコンバレーに」という夢は、果たしてかなえられるのだろうか。
(梶川浩伸)=敬称略、この項おわり
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