--ゼロからの出発--
ヤオハン元社長 おしんの息子(3)
過去にとらわれるな! で再起誓う
平成9年9月18日のヤオハン倒産後、和田一夫氏(72)は半年ほどの間、「静岡県内の親戚の家に身を寄せ、当時50ほどあった肩書きを全て返上」し、“謹慎蟄居”していた。
この間マスコミの前から姿を消し、会社へも行っていない。和田氏は否定するが、当時の週刊誌は「倒産後、一度も本部に来ておらず、自宅近くのヤオハン店舗にかつらをかぶって買い物に来ていた」とも伝えていた。
また債権者集会で和田氏は私財を提供することを表明していた。「家や保険など一切合財、会社に差し出した。資産はかなりあったが、倒産前にもかなりつぎ込んでいたので、実際は10億円程度しか残っていなかったと思う」と話す。
謹慎生活は当然ながら辛いものだった。「何もすることがなかった。仕事がないのがこんなに辛いものかとしみじみわかった」
その考えが変わったのは、ある夜見た夢。亡父・良平氏が枕もとに立ち、「一夫、何をくよくよしている。過去にとらわれるな」と諭した。驚いて、目を覚ますと、10月24日の命日だったという。
気持ちが吹っ切れた。「失敗は次へのステップ。『カンパニードクター』として自分の経験を生かして世の中の役に立ちたい」と、年が明けた平成10年4月、「ワダ経営」を設立し、経営コンサルタントを始めた。住居も東京・本郷にアパートを借りた。倒産から約半年がたっていた。
それでも生活は楽ではなかった。「年金と生命保険を取り崩した中からやりくりしていましたが、それがいつ、底をつくかと心配でならなかった」と、きみ子夫人(67)。
しかしまだ世間からの風当たりは厳しかった。それは倒産時に社長だった実弟の晃昌氏ら3人が、9年11月9日に200億円にのぼる粉飾決算で静岡県警に逮捕されたが、和田氏は司直の手にかかることがなかったからだ。
世評では、ヤオハングループは和田氏が切り盛りしており、カネの流れを知らないはずがない、とされていた。しかし和田氏は「粉飾に関しては知らなかった。そんなに赤字が出ていないと思っていた。だからこそ、まだがんばれると思って会社更生法の申請をなかなか出さなかったんです」と反論する。関係者は「今でも一夫さんと晃昌さんは犬猿の仲で、行き来が全くない」とささやく。
普通なら倒産後間もない状況で、トップだった人間が経営コンサルタントを始めても顧客はなかなか集まらないだろう。この苦境を救ったのは、『おしん』のモデルとなった亡母・カツさんのときから熱心な信者だった新興宗教「生長の家」だった。和田氏は信者の企業経営者で構成する「栄える会」の会長を務めたこともあり、ワダ経営を始めたときも「栄える会のメンバーが3分の1ほど出資してくれた」(和田氏)。
ヤオハンの海外戦略が坂道を下り始めた契機のひとつに、噂として新興宗教に傾倒する様子を香港の大物が見限った、との臆測も流れた。それが本当なら、宗教で救われたというのはなんとも皮肉な話だ。
さらにその後、飯塚へ移住することになるのも、生長の家がひとつのきっかけになる。
(梶川浩伸)
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