私の記事、
の続編です。
皆様、下記の文章を難しいと思いますか?私は、非常に極めてハッキリとしたわかりやすい文章だと思います。
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わたしは「哲学」を勉強し、大学でも「哲学」を教えてきたわけですが、以前から自分のやっている思考作業は、「西洋」という文化圏で伝統的に「哲学(フィロソフィ)」と呼ばれてきたものの考え方とは、決定的に違うところがあると思っていました。よく日本には哲学はなかったと言われますが、わたしもそう思いますし、哲学がなかったということを別に恥ずかしいことだとは思いません。
「哲学」というのは、やはり西洋という文化圏に特有の不自然なものの考え方だと思うからです。
ですから、自分のやっていることは、強いて言えば、そうした「哲学」を批判し、そうしたものの考え方を乗り越えようとする作業ではないかと思い、それを「反哲学」などと呼ぶようになりました
>>『反哲学入門』 木田元著 P2-3
哲学者の木田先生は、この本で、古代ギリシア哲学、キリスト教から二十世紀のハイデガーとナチズムまで論じています。
そして、上記に引用したとおり、「哲学」というのは、やはり西洋という文化圏に特有の不自然なものの考え方と明言され、日本との文化比較までされています。
木田先生の論説は、西欧文化史の根源を明らかにする極めて高度な内容ですが、非常に平易に簡明に書かれている。これぞ、碩学と尊敬するのにふさわしい方の文章です。
そして、前記事でも引用したのが駄文の典型は下記です。
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そして、現状における知の分野は、累乗的に拡大し、このビッグデータ化した体系は、拙ブログだけで叙述しきれないのは当然です。
なので、あなた自身も、ネットばかりしないで常に勉強する癖をつけて、最低限の通念を共有できる「相互了解」の段階まできてください。
>>(小僧のレスからの抜粋)
この小僧が言っているのは、自分は何もわからないとの自白です。『叙述しきれないのは当然』だと記している。それを、『累乗的に拡大』『ビッグデータ化』などと、自分自身が理解してもいない、ご大層な言い訳で取り繕っているだけです。小僧は、自分の記している言葉の説明すらできていない。例えば、小僧のいう『最低限の通念』とは何かは、記事全体を読んでもわかりません。書いている小僧自身がわかっていないからです。
木田先生のような碩学と、馬鹿な小僧の文章を比較すれば、違いがハッキリわかります。
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