2020-11-14 (Sat)
22:59
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狭き門の作者 André Gide の日本語表記はジッドもしくはジードもしくはジイドである。
日本語とは違って明示的な促音・長音というものがフランス語には無い。
アクセントのある音節の母音から日本語の促音・長音に類似した響きを感ずることは十分にある。
フランス語のアクセントというものは英語やドイツ語とも異なっていて奇妙というほかない代物なのである。
あなたの耳が Gide をジッド、ジード、ジイドのどれに感ずるかは空耳のなせるわざであろう、
しかしそれだけではない。
フランス語を母語とする人々が同じ発音をしているわけではない。
彼ら個々人によってジッド、ジード、ジイドのどれに近似するかも異なってくるのである。
これはプリンスの Bat dance という曲をネタとしたもので空耳アワー史上で最も面白くかつ謎めいたものとして知られる。
歌詞の一部(とは言っても歌声ではなくプリンスの叫び声というべきものである)が ”ノーキョーギューニュー” に聴こえるというもので、番組では爆笑モノであった。
番組では Don't stop dancing が空耳の部分であるとしていたが、どう聴いてもこれが「農協牛乳」には聴こえないということでなおいっそう盛り上がっていた。
しかし、Don't stop dancing をあてがうのはまったくの間違いなのだ。
タモリも安斎もスタッフも、さらには視聴者も、その後のネット上の連中も、いったい何が「農協牛乳」に対応している空耳の部分であるかを把握できていないのである。
外国語の音楽の歌詞は、大概の場合、レコードがリリースされた際に付録されているライナーノーツとともに書かれた歌詞カードに記載されている内容で認識される、
番組のスタッフもその歌詞カードから Don't stop dancingを引いてきたのであろう。
しかし歌詞カードの記載内容が作詞者が書いた内容と正確に一致しているという保証は無い。
(ライナーノーツにずいぶんと間違って書かれていることが多いことはロックファンならばご周知ではないだろうか?)
「農協牛乳」が叫ばれる周辺に、Don't stop dancing という歌詞は私の耳には聴こえては来ない。
では「農協牛乳」の正体はいったい何であろうか?
それは、I'm not going to kill you である。
このことは私の知る限り誰も指摘してはいない。
これについては後日談があってもおかしくないはずだが私はそれを調べることもなく答えに気づいた。
(プリンスの大ファンである安斎さんは気づいていてもいいはずなのであるが)
限界効用と需要量、限界費用と供給量、各々の対応関係を分析した結果、価格と需要量、価格と供給量の関係は以下のようにグラフ化される。
これが限界革命と呼ばれるワルラス達の成果とマーシャルの分析によって生成された需要曲線と供給曲線である。
しかしこれらが日常の経済にどのように呼応しているのかは心もとない。
いったいこの図が示しているのは実際のところ何から何への因果関係なのか、それとも何と何の相関関係なのか不明瞭というほかないということである。
私はあるスーパーの店舗のトマトの値段をずっと監視し続けた。
ある日のトマトは私の目には酷く不味そうでとても買いたくなる代物ではなかった。
そのトマトを買う人は多くはないであろう。
しかしトマトを買わない理由は私と違う人もいるはずだ。
ある人は値段が高いから、またある人は私と似たような理由でトマトに魅力を感じなかったから。
その一方でそのトマトを買う人もいる。
トマトを買う人が少しでもいるからには店は身構えてトマトにどのような値段をつけるかを考えなくてはならない。
どんな値段をつけるのか?、それは彼らの利益を最適化する値段である。
さらに彼らは最適という要件を長期・短期のいずれかであるかを選択しなくてはならないだろうがここではそれは不定とする。
(すぐに業績をあげないと解雇されてしまう店長ならば短期的な目標としてトマトの値段を定めるだろうが。)
一部の消費者に買ってもらえることが保証されているという仮定の元にその店長はトマトの値段を決行するであろう。
値上げ!
かくして店長のトマト値上げは功を奏した。
店舗には桜田淳子の気まぐれヴィーナスがかかっていた。
故にこのような法則が成立するのである。
需要が少ない程値段は上がる。
このような事実観察を法則として一般化してしまうことにどのような誤謬があるのだろうか。
さらにそれは既に成立している経済理論の妥当性とどのように価値を比較する余地があるだろうか?
以上
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Last Modified : 2020-11-15