「むなしい人生でした」に込められた意味
終戦直後のハイパーインフレと、それに続く新円切替で紙幣が紙くず同然になり、頼りにしていた海軍の退職金も底が見えた昭和21(1946)年4月のある日、これまで心の拠りどころであった、零戦初空戦を指揮したさいに支那方面艦隊司令長官より授与された感状を、ビリビリに破り裂いた。そして、生きるための仕事を求めて、妻子をつれて東京に出た。
進藤さんは、横須賀でしばらくトラック運転手をしたのち、福島県の山奥にあった沼沢鉱山に勤めた。この間、昔の部下たちの間では、
「進藤少佐が行方不明になってるそうだな」
「ああ、どうやら自決したらしいぞ」
などとあらぬ噂がたてられていたが、本人はもちろん、そんなことは知る由もない。
昭和27(1952)年、発足したばかりの海上警備隊(海上自衛隊の前身)から入隊要請を受けたが、健康診断で糖尿病との結果が出て、不採用になってしまった。海上警備隊入りはあきらめざるを得ず、広島に帰って昭和29年秋、東洋工業に入社。昭和30年2月、ディーラーの山口マツダに工場長として出向し、サービス部長、部品サービス本部長、常務取締役を歴任。昭和54(1979)年、67歳で退職するまで、サービス部門の責任者として、山口県内に12あったサービス拠点、120名のサービスマンを統括する仕事に従事した。
進藤さんが戦時中、父に託した零戦初空戦や真珠湾攻撃の機密書類と再会したのは、会社を辞め、広島に帰って、老朽化した生家を建て替えたときである。蔵のなかから、蓋に「三郎書類」と父の筆跡で墨書された埃の積もった古い桐箱が見つかった。釘を抜き、箱を開けると、40年近く忘れていた書類が出てきた。進藤さんは、不意に青春時代にタイムスリップしたかのような、不思議な感覚にとらわれたと言う。同時に、「軍機」の朱印を見て、「大変なものを処分もせずに持っていてしまった」と、一瞬狼狽した。
蔵には、戦後、進藤さんが破いて紙屑籠に捨てたはずの感状も、切れ端をつなぎ合わせ、筒に入った状態で保管されていた。父・登三郎さんが拾って補修していたのだ。父はすでに亡くなっていたが、親心が進藤さんの胸に沁みた。
――私がはじめて会った平成8(1996)年、進藤さんは85歳だった。進藤さんは心臓に持病を抱えていたが、心臓の機能が健康な状態の半分以下に落ちていると医者に言われたことを、和子さんには隠していたらしい。頭脳明晰、記憶も鮮明で、最初は8時間、話し続けて疲れた様子もなかったのが、会うたびに衰弱してゆくのが目に見えるようだった。
私が進藤さんと最後に会ったのは、平成11(1999)年初秋のこと。初めて進藤さん方を訪ねてちょうど3年、これが8度めの訪問だった。庭には、酔芙蓉の花が、あのときと変わらず美しく咲いていたが、進藤さんはずいぶん弱っているように見えた。
「いまは一日このソファに座ったまま、ほとんど動かん。十二空の戦闘詳報や真珠湾攻撃の書類なんかは、本棚のここから手の届く範囲に置いてあって、ときどき読み返して昔のことを思い出しています。最近はウトウトしていることの方が多いですがね」
平成12(2002)年2月2日、死去。いつも午睡をしていたソファに座ったまま、庭の手入れをしている和子さんの姿を眺めながら、眠るような最期だったという。享年88。
2日後、進藤さんの亡骸は軍艦旗に包まれ、親族と数名の海兵のクラスメート、山口マツダの部下ら限られた人々に見送られて、荼毘にふされた。遺骨は、両親も眠る広島市内の本照寺の墓地に葬られた。進藤さんが大切にしていた戦闘詳報などの資料は、和子さんから託され私の手元にきた。蔵にしまわれていた軍服や飛行帽は、開設準備中だった呉市海事歴史科学館(大和ミュージアム)に寄贈された。
あるとき、進藤さんに、
「人生を振り返って、どのような感慨をお持ちですか」
と聞いてみたことがある。進藤さんは即座に、
「むなしい人生でしたね」
と答えた。
「戦争中、誠心誠意働いて、真剣に戦って、そのことにいささかの悔いもありませんが、一生懸命やってきたことが戦後、馬鹿みたいに言われてきて。‥‥‥つまらん人生でしたね」
――進藤さんが亡くなって20年が過ぎたが、この言葉は、ずっと私の胸に棘のように刺さったままだ。