「毎日、部下の何人かは必ず死ぬんです」
こうして、機動部隊は意気揚々と引き揚げたが、参加搭乗員のあずかり知らないところで、外交上の重大な瑕疵が起こっていたことが、やがて明らかになる。日米交渉の打ち切りを伝える最後通牒を、攻撃開始の30分前に米政府に伝える手はずになっていたにもかかわらず、ワシントン日本大使館の職務怠慢で通告が遅れ、攻撃開始に間に合わなかったのである。
攻撃を受けた米側が、このミスを見逃すはずがない。真珠湾攻撃は「卑怯なだまし討ちである」と喧伝され、かえって米国内の世論をひとつにまとめる結果となった。「リメンバー・パールハーバー」のスローガンのもと、一丸となった米軍はその後、驚異的な立ち直りを見せ、これから3年9ヵ月におよぶ長い戦いが始まる。
最後通牒が遅れたことを、搭乗員たちは当時知る由もなかったが、戦後になって聞かされた「だまし討ち」の汚名は、生き残った当事者にとってじつに心外なものであった。
「あれは『だまし討ち』ではなく『奇襲』です。最後通牒が間に合わなかったのは事実なんでしょうが、アメリカも1898年の米西戦争では宣戦布告なしに戦争をした前歴があります。
アメリカは開戦を覚悟し、戦争準備をしていたはず。真珠湾の対空砲火を見れば一目瞭然ですよ。ふつう、炸裂弾を弾薬庫から出して信管を取り付け、発射するまでには、ある程度の時間を要する。それが、第一次の雷撃隊からも損害が出るほどの早さで反撃できたんですから、砲側に置いて臨戦準備をしていたとしか考えられない。
それなのに『だまし討ち』などというのは、日本側の実力を過小評価していたため、予想以上の被害を出してしまったことに対する責任逃れの言い訳にすぎないと思います。そもそも戦争に『だまし討ち』などないんだ」
と、進藤さんは憤懣やるかたない、といった口調で語っている。
内地に帰還した進藤さんは呉海軍病院に直行し、軍医の診察を受けた。診断の結果は、「航空神経症兼『カタール性』黄疸」、2週間の加療が必要とのことで、そのまま入院することになる。
12月30日付で「赤城」分隊長の職を解かれ、広島の生家での転地療養が認められた。真珠湾攻撃に参加した者には、民間人に話していいこと、いけないことが厳密に定められている。進藤さんは両親に、真珠湾攻撃に参加したことだけは告げたが、心配させまいと思い、戦争の話はつとめてしないようにした。それでも、「海鷲・進藤大尉」の帰郷は誰からともなく近所に伝わり、毎日のように真珠湾の話をねだりに客がやってくる。子供たちは、道で進藤さんの姿を認めると、憧憬のまなざしで、直立不動になって挙手の敬礼をした。
進藤さんは2ヵ月半の療養ののち、大分海軍航空隊に復帰。徳島海軍航空隊飛行隊長を経て、昭和17(1942)年11月8日付で、最前線・ニューブリテン島ラバウルで作戦中の、第五八二海軍航空隊飛行隊長兼分隊長への転勤が発令された。少佐進級を目前に控えた進藤さんには、大きな航空作戦で複数の航空隊が合同作戦を行う場合など、空中総指揮官としての役割が求められていた。
しかし、真珠湾攻撃から約1年。はじめ楽勝ムードだった戦況も大きく様変わりしていた。五八二空は連日のように出撃を重ね、その都度、何名かの搭乗員の命が海と空に消えた。
「ラバウル、ソロモンで戦ったこの時期が、私にとってはいちばん辛かった。毎日の搭乗割(出撃搭乗員の編成表)は私が書くんですが、名前を書くとね、そのうちの何人かは必ず死ぬんですよ。空戦で、目の前で墜ちていく部下もいる。ほんとうに辛かったですね……」
少佐に進級した進藤さんはその後、第二〇四海軍航空隊飛行隊長、空母「龍鳳」飛行長を経て、昭和19(1944)年3月、内地に帰還、親どうしの決めた相手・天野和子さんと慌ただしく結婚式を挙げた。
そして、第六五三海軍航空隊(空母「千歳」「千代田」「瑞鳳」の3隻からなる第三航空戦隊に属する航空隊)飛行長となり、日米の空母決戦となった「マリアナ沖海戦」(6月19~20日)、日本海軍最後の決戦ともいえる「比島沖海戦」(10月20日~25日)に参加するも、いずれも日本側が大敗を喫している。比島沖海戦では、ルソン島・マバラカット基地より初めて出撃する神風特別攻撃隊を見送った。
「私は『決戦』という言葉が嫌いでした。決戦、決戦と何べんも。いままで、その掛け声のもとでどれほど多くの部下を死なせてきただろうか……。決戦なんて一回でいいんだ、といつも思っていましたね。
とにかく、情けない時代でした。若い士官たちは、自分がやらなきゃ、と使命感に燃えていたようですが、この頃になると、飛行機の性能の面でも量の面でも、敵に大差をつけられて、よほど有利な態勢でなければ空戦に入るな、という教育をせざるを得なかった。かつて大陸で、中華民国空軍のソ連製戦闘機を一方的に追い回していたのが、いまや零戦が、そのときの中国軍機の立場になってしまっている。緒戦の勝ち戦の手痛いしっぺ返しを食わされているような気がしたものです」
妻・和子さんによると、マリアナ沖海戦と比島沖海戦、どちらの出撃のさいも、進藤さんは一言もないまま黙っていなくなり、数ヵ月して帰った後も、戦場での話はいっさいしなかったと言う。機密保持と、新妻に心配をかけたくない思いと、両方だったのだろう。
昭和19年11月、鹿児島基地に帰還した進藤さんは、こんどは同じ鹿児島基地の第二〇三海軍航空隊飛行長に発令される。沖縄戦が始まると、二〇三空は、まさに最前線となった九州で、邀撃戦や沖縄へ出撃する特攻機の直掩など、激しい戦いに明け暮れるようになった。
「ちょうどその頃、司令・山中龍太郎大佐に呼ばれ、『うちもそろそろ特攻を出さないといかんだろうか』と。ついに来たか、でもお断りだ、と思いました。『うちの隊にはいっぺんこっきりで死なせるような部下は一人もおりません。何べんも使って戦果を挙げてもらわなきゃならんのですから、特攻は出したくありません』と答えたら、『そうだな』と相槌をうたれた。司令部から何を言ってきたのか知りませんが」
進藤さんはその後、5月3日付で筑波海軍航空隊飛行長に転勤を命ぜられる。筑波空は茨城県に本部を置き、もとは練習航空隊だったが、実戦部隊に格上げされ、局地戦闘機「紫電」で編成された戦闘第四〇二飛行隊、戦闘第四〇三飛行隊を傘下におさめていた。
昭和20年7月になると、戦闘第四〇二飛行隊を、進藤さんの指揮下、京都府の福知山基地に、戦闘四〇三飛行隊は、司令・五十嵐周正中佐が率い、兵庫県の姫路基地に、それぞれ展開させ、来るべき敵の本土上陸部隊を迎え撃つための訓練を重ねた。機種は順次、新鋭機「紫電改」に更新され、いずれは「紫電改」部隊の第三四三海軍航空隊に代わる、海軍の新たな主力戦闘機隊になるはずだった。