真珠湾攻撃で零戦隊を率いた指揮官が語り遺した「日本人不信」の理由

「あれが犬死にだったというのか」
神立 尚紀 プロフィール

真珠湾攻撃から帰投後に感じた複雑な思い

12月8日午前1時半(日本時間・以下同)。第一次発進部隊が次々と6隻の空母を発艦する。

第一次発進部隊は、零戦43機、九九艦爆51機、九七艦攻89機(うち雷撃隊40機、水平爆撃隊49機)、計183機で、総指揮官は淵田美津雄中佐である。第一次攻撃では、雷撃隊が二列に並んで停泊している米戦艦の外側の艦を攻撃、水平爆撃隊が上空より内側の艦を爆撃する。さらに艦爆隊は飛行場施設を爆撃することになっていた。

機動部隊の各空母では、第一次の発艦後、すぐに第二次発進部隊の準備が始められた。

第二次は零戦36機、九九艦爆78機、九七艦攻(水平爆撃のみ)54機、計168機が発艦し、うち零戦1機と艦爆2機が、エンジン故障で引き返している。こんどは、艦爆が第一次で撃ちもらした敵艦を狙い、艦攻が敵飛行場を水平爆撃することになっていた。

午前1時40分、格納庫からリフトに載せられた飛行機がつぎつぎと飛行甲板に揚げられ、整備員によって所定の位置に並べられる。搭乗員が飛行甲板に整列する。空は白々と明るくなり、はるか水平線上に大きな太陽が、雲に隠れそうになりながら昇ってくる。飛行機のエンジンが始動され、回転するプロペラが、日の光を浴びて鈍く輝く。

「赤城」から発艦するのは、零戦9機と九九艦爆18機。2時13分、進藤さんの搭乗する零戦、AI-102号機は、その先頭を切って発艦した。第二次発進部隊の総指揮官は「瑞鶴」艦攻隊の嶋崎重和少佐、進藤さんは、制空隊(零戦隊)の指揮官を務める。

昭和16年12月8日、真珠湾に向け空母「赤城」をまさに発艦する、第二次発進部隊制空隊指揮官・進藤大尉が搭乗する零戦二一型(機番はAI-102)
 

「第一次の発進を見送ったときにはさすがに興奮しましたが、いざ自分が発進する段になると気持ちも落ち着き、平常心に戻りました。死を覚悟しましたが、それほど悲壮な気分にもなりません。

真珠湾に向け進撃中、クルシーのスイッチを入れたら、ホノルル放送が聞こえてきました。陽気な音楽が流れていたのが突然止まって早口の英語でワイワイ言い出したから、よくは聞き取れませんが、これは第一次の連中やってるな、と奇襲の成功を確信しました」

と、進藤さん。オアフ島北端、白波の砕けるカフク岬を望んだところで高度を6000メートルまで上げ、敵戦闘機の出現に備える。オアフ島上空には、対空砲火の弾幕があちこちに散らばっていた。

「それを遠くから見て、敵機だと勘違いして、接敵行動を起こしそうになりました。途中で気づいて、なんだ、煙か、と苦笑いしましたが」

第一次に遅れること約1時間、真珠湾上空に差しかかると、湾内はすでに爆煙に覆われていた。心配した敵戦闘機の姿も見えない。空戦がなければ、地上銃撃が零戦隊の主任務になる。進藤さんはバンク(機体を左右に傾ける)を振って、各隊ごとに散開し、それぞれの目標に向かうことを命じた。

「艦攻の水平爆撃が終わるのを待って、私は『赤城』の零戦9機を率いてヒッカム飛行場に銃撃に入りました。しかし、敵の対空砲火はものすごかった。飛行場は黒煙に覆われていましたが、風上に数機のボーイングB-17が確認でき、それを銃撃しました。高度を下げると、きな臭いにおいが鼻をつき、あまりの煙に戦果の確認も困難なほどでした。それで、銃撃を二撃で切り上げて、いったん上昇したんですが……」

銃撃を続行しようにも、煙で目標が視認できず、味方同士の空中衝突の危険も懸念された。進藤さんは、あらかじめ最終的な戦果確認を命じられていたので、高度を1000メートル以下にまで下げ、単機でふたたび真珠湾上空に戻った。

「立ちのぼる黒煙の間から、上甲板まで海中に没したり、横転して赤腹を見せている敵艦が見えますが、海が浅いので、沈没したかどうかまでは判断できないもののほうが多い。それでも、噴き上がる炎や爆煙、次々に起こる誘爆のすさまじさを見れば、完膚なきまでにやっつけたことはまちがいなさそうだと思いました。これはえらいことになってるなあ、と思いながら、胸がすくような喜びがふつふつと湧いてきましたね。

しかし、それと同時に、ここで枕を蹴飛ばしたのはいいが、目を覚ましたアメリカが、このまま黙って降参するわけがない、という思いも胸中をよぎります。これだけ派手に攻撃を仕掛けたら、もはや引き返すことはできまい。戦争は行くところまで行くだろう、そうなれば日本は……」

進藤さんは、歓喜と不安、諦観が入り交じった妙な気分で、カエナ岬西方の集合地点に向かった。

空襲を終えた攻撃隊、制空隊は、次々と母艦に帰投し、各指揮官が発着艦指揮所の前に搭乗員を集め、戦果を集計した。

進藤さんは、「赤城」艦爆隊と合流して帰還した。南雲中将が艦橋から飛行甲板上に下りてきて、「ご苦労だった」と進藤さんの手を握った。ほどなく、最後まで真珠湾上空にとどまっていた総指揮官・淵田中佐の九七艦攻が帰艦すると、大戦果の報に、艦内は沸き立った。

しかし、日本側にとって残念なことに、敵空母は真珠湾に在泊していなかった。もし、敵空母が近くの海上にいるのなら、こんどはこちらが攻撃されるかも知れない。第一次、第二次の攻撃から帰還した零戦が、燃料、弾薬を補給して各空母から数機ずつ、ふたたび上空哨戒のため発艦する。

艦上では、第三次発進部隊の準備が進められている。「蒼龍」の二航戦司令官・山口多聞少将からは、「蒼龍」「飛龍」の発艦準備が完了したとの信号が送られてきた。この攻撃隊を出撃させれば、1機あたり150発しか用意できなかった各空母の零戦隊の20ミリ機銃弾は、概ね尽きるところであった。しかし、南雲中将は、第三次発進部隊の発艦をとりやめ、日本への帰投針路をとることを命じた。

「当然もう一度出撃するつもりで、戦闘配食のぼた餅を食いながら心の準備をしていましたが、中止になったと聞いて、正直なところホッとしました。詰めが甘いな、と思いましたが……」

と進藤さんは言う。体調不良を押してここまできたが、ようやく任務が果たせた。緊張の糸が切れた進藤さんは、そのまま士官室の祝宴にも出ず、私室で寝込んでしまった。

真珠湾攻撃で日本側は、米戦艦4隻と標的艦1隻を撃沈したのをはじめ、戦艦4隻、その他13隻に大きな損害を与え、飛行機231機を撃墜破するなどの戦果を挙げた。資料によって異なるが、米側の死者・行方不明者は2402名、負傷者1382名を数えた。いっぽう、日本側の損失は、飛行機29機と特殊潜航艇5隻で、戦死者は64名(うち飛行機搭乗員55名)。また、米軍の激しい対空砲火を浴びて、修理を要する飛行機は100機あまりにのぼった。攻撃に参加した零戦搭乗員の最年長は32歳、最年少は20歳であった。進藤さんが遺した真珠湾関連の機密書類は、戦死者の告別式次第で締めくくられている。

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