真珠湾攻撃で零戦隊を率いた指揮官が語り遺した「日本人不信」の理由

「あれが犬死にだったというのか」
神立 尚紀 プロフィール

真珠湾攻撃命令への士官たちの意外な感想

最初のインタビューのさい、進藤さんは、自宅で定位置にしているソファの傍らに置かれた棚から、古い書類やアルバムをいくつか取り出して、私に見せてくれた。なかでも、特に大事に綴じられていたのが、第十二航空隊の零戦初空戦の公式記録である『戰闘機隊奥地空襲戰闘詳報』(拙著『零戦隊、発進!』〈潮書房光人新社〉に全文掲載)と、『機密第一次發進部隊命令作第一號』にはじまる、真珠湾攻撃の作戦計画の詳細を記した機密文書である。いずれも、作戦に携わった分隊長以上の主要幹部にのみ配布された書類で、これらの書類のなかには、「用済後要焼却」の印が押されているものもあり、個人が保管することは本来ならあり得ない。

「ほんとうは持ってちゃいけんのですがね、焼却しそびれたまま、昭和17(1942)年11月、南方へ急な転勤命令が出て、退役海軍機関大佐の父に、『還ってくるまでこれを保管しておいてください』と預けたんです。それで、父は『軍機』の朱印に驚いて、桐の箱に入れて釘を打ち、誰にも見られないよう蔵の隅に置いていたみたいです。その後、戦争に負けていろいろあって、書類のことはすっかり忘れておったんですが……」

航空母艦「赤城」「加賀」の第一航空戦隊、「蒼龍」「飛龍」の第二航空戦隊を主力に、第一航空艦隊(一航艦=司令長官・南雲忠一中将)が新たに編成されたのは、昭和16年4月のことである。一航艦は、実戦に際しては、他の艦隊から臨時に配属する速力の速い戦艦、巡洋艦、駆逐艦などを合わせ、「機動部隊」として作戦に従事することになっていた。

ハノイにいた進藤さんは、一航艦の編成にともなう人事異動で、旗艦「赤城」の戦闘機分隊長に転勤を命ぜられた。「赤城」戦闘機隊の飛行隊長は、海兵で3期先輩の板谷茂少佐である。

「長く続いた戦地勤務で、私の体は疲れ切っていました。できれば今度は内地の練習航空隊の教官配置につけてもらえないかと思っていた矢先の転勤命令。正直なところ、はじめはげんなりしましたね」

空母搭載の飛行機隊は、洋上訓練や出撃のとき以外は、陸上基地で訓練を行うのを常としている。搭乗員が揃うと、「赤城」戦闘機隊は、鹿児島・鴨池基地を拠点に、飛行訓練を開始した。

昭和16年6月、空母「赤城」戦闘機隊の搭乗員たち。2列め中央・板谷茂少佐、右から2人め・進藤大尉
 

まずは、搭乗員全員の零戦での慣熟飛行から始まり、着艦訓練の前段階として、飛行場の限られた範囲に飛行機をピタリと着陸させる定着訓練が行われる。訓練は空戦、無線電話、着艦訓練と進み、特に空戦訓練は、1機対1機の単機空戦よりもチームワークを重視する編隊空戦に重点が置かれ、3機対3機、3機対6機の編隊同士の空戦訓練が、実戦さながらに実施された。吹流しを標的とする射撃訓練も、さかんに行われた。

9月に入ると空母「翔鶴」「瑞鶴」からなる第五航空戦隊が新たに加わり、「赤城」の搭乗員の一部は五航戦に転勤する。一航戦、二航戦の戦闘機隊は全機、大分県の佐伯基地に移って合同訓練を始め、五航戦戦闘機隊は大村、次いで大分基地で訓練をする。

「猛訓練が進むにつれ、疲れがどうしようもないほど蓄積してきました。体がだるく、食欲もない。食事の匂いが鼻につき、吐いてしまうこともある。8月には黄疸の症状も出始め、周囲から『君の目は黄色いじゃないか』と言われるほどでした。それで、仕方がない、休暇療養を願い出ようと決心したんですが‥‥‥」

ところが、そう決心した矢先の、進藤さんの記憶によれば10月1日頃、各航空戦隊の司令官、幕僚、空母の艦長、飛行長、飛行隊長クラスの幹部が、志布志湾に停泊中の「赤城」参謀長室に集められ、ここで南雲中将より、「絶対他言無用」との前置きのもと、真珠湾攻撃計画が伝えられた。航空参謀・源田實中佐からは、今後、この作戦に向けての訓練を急ピッチで進める旨の指示もあった。

「しまった。これを聞いたからには、休ませてくれとは言えないな」

と、進藤さんは観念したと言う。傍らにいた板谷少佐が、やや興奮した面持ちで、

「進藤君、こりゃ、しっかりやらんといかんな」

と、声をかけてきた。

「やりましょう」

進藤さんは答えた。だが、解散が告げられ、基地に帰る内火艇に乗り込むときに、

「俺たちは死力を尽くして戦うだけだが、戦争の後始末はどうやってつけるつもりなのかな」

と、誰にともなくつぶやいた板谷少佐の言葉が心に残った。こちらのほうが本音なんだろうな、と進藤さんは思った。

板谷少佐の海兵57期と進藤さんの60期は、海軍兵学校卒業後、ともに遠洋航海でアメリカに行っている。進藤さんは、8年前に見たアメリカを思い出した。

「西海岸だけを見ても、国土は広いし、街は立派だし、あらゆるものが進んでいる。恐るべき国力。こんな国と戦争をしても、局地戦ですむならともかく、全面戦争になれば勝てるはずがない」

という進藤さんの感想は、海軍士官として常識的なものの見方でもあった。しかし、

「もし戦争になったら、なるべく敵に痛い目を見させて、講和条件が有利になるよう全力で戦う。そのためには、個々の戦闘能力を、極限まで高める努力を惜しまない」

という決意もまた、軍人として当然ともいえる、暗黙の了解事項であった。

関連記事

「真珠湾攻撃」に参加し、太平洋戦争を最後まで生き抜いた「戦闘機乗り」の“壮絶すぎ...
真珠湾攻撃は本当に「だまし討ち」だったか…当事者が語る80年前の“真実”
最大の激戦を生き抜いた「ラバウル海軍航空隊」搭乗員たちのその後
「俺は不死身だ」…真珠湾で8発被弾してもなお生還し、終戦まで生き抜いた“戦闘機乗...
【戦争秘話】「終戦の日」の3日後、“日本海軍最後の空戦”を戦った零戦搭乗員たちが...
原爆投下のその日、迎え撃つべき“戦闘機搭乗員”達はまさかの「飛行休み」だった…
【戦争秘話】真珠湾攻撃に参加した若き搭乗員がもらした意外なひと言
【戦争秘話】「玉音放送」直前まで戦い続け、死んでいった“若き零戦パイロット”たち
山本五十六は、なぜ真珠湾攻撃を実行したのか…?その裏にあった「真の思惑」
【戦争秘話】日本海軍司令部が戦わずして“自滅”に陥った「意外すぎる理由」とは

おすすめの記事

「真珠湾攻撃」に参加し、太平洋戦争を最後まで生き抜いた「戦闘機乗り」の“壮絶すぎ...
真珠湾攻撃は本当に「だまし討ち」だったか…当事者が語る80年前の“真実”
最大の激戦を生き抜いた「ラバウル海軍航空隊」搭乗員たちのその後
「俺は不死身だ」…真珠湾で8発被弾してもなお生還し、終戦まで生き抜いた“戦闘機乗...
真珠湾攻撃に参加した隊員たちがこっそり明かした「本音」
【戦争秘話】「終戦の日」の3日後、“日本海軍最後の空戦”を戦った零戦搭乗員たちが...
原爆投下のその日、迎え撃つべき“戦闘機搭乗員”達はまさかの「飛行休み」だった…
「神風特別攻撃隊」の本当の戦果をご存じか?
【戦争秘話】真珠湾攻撃に参加した若き搭乗員がもらした意外なひと言
人間爆弾・桜花を発案した男の「あまりに過酷なその後の人生」
奇跡的に生還した「回天」搭乗員が語った「死にぞこない」の葛藤
【戦争秘話】「玉音放送」直前まで戦い続け、死んでいった“若き零戦パイロット”たち
「ポンコツ戦闘機」F35、こんなに買っちゃって本当に大丈夫?
ハリウッド映画では描かれなかったミッドウェー海戦 真実の証言