衝撃を受けた若き日のアメリカ体験
進藤さんは、海軍機関科士官であった進藤登三郎の三男として明治44(1911)年8月28日、横須賀に生まれ、父の転勤に伴って広島で育った。飛行機乗りを志すきっかけは、小学校に上がる前の大正6(1917)年頃、横須賀で海軍の水上機が飛ぶのを見て、その姿とエンジンの爆音に憧れたことだったという。
「人間が空を飛ぶ、というのが夢のように思えた。それからというもの、寝ても覚めても飛行機のことを考えていました。小さい頃から、乗り物やスピードの速いものに憧れてたんです」
飛行機に乗りたい一心で海軍兵学校を受験、昭和4(1929)年4月、60期生として入校した。
「海軍では大艦巨砲主義が主流でした。最後の勝負は、日露戦争の日本海海戦のように、戦艦同士の砲撃戦で決まるとされていて、飛行機などは補助的なものに過ぎないと軽んじられていた。海軍で出世したければ、砲術の道に進むのが一番、と言われてましたが、私はそちらの方には興味がなかったもんで‥‥‥」
昭和7(1932)年11月、兵学校を卒業、少尉候補生となると、練習艦隊の軍艦「八雲」「磐手」に分乗、昭和8(1933)年3月、北米方面に向けた遠洋航海に出航した。
練習艦隊が入港したロサンゼルスの外港・サンペドロには、司令長官リチャード・H・リー大将の将旗が翻る戦艦「カリフォルニア」をはじめ、戦艦、巡洋艦、航空母艦など、米合衆国艦隊の大部分が在泊し、日本から来た少尉候補生たちを歓待した。米海軍の少尉たちを「磐手」に招待し、盛大な酒宴を開いたり、日本の少尉候補生が米軍艦に招待されたりしているうちに、互いの理解と友情も深まってゆく。禁酒法下の米軍士官たちに、日本の軍艦でふるまわれる日本酒やビールは、ことのほか喜ばれた。
「2ヵ月にわたって、各地の港に寄港しながら、西海岸を北から南へ。行く先々で、米軍や日系人社会の歓待を受け、港に在泊中は、上陸も比較的自由に許されていました。ロサンゼルスでは、移住していた中学時代の同級生が、自動車で迎えに来てびっくりしました。日本では自家用車なんて、限られた金持ちのものだったけど、ここでは、市民が当たり前のように車を運転している。
ロスでは、民間飛行学校の教官をしていた日系二世の人に、自家用飛行機に乗せてもらいました。ロスからサンディエゴまで、30分ほどのフライトだったでしょうか。はじめて空を飛んだ感激もさることながら、アメリカでは、民間人が飛行機まで持っとるのかと、そちらのほうに驚きましたね」
アメリカを、クラス全員がその目で見、その地を自分の足で踏むというのは、戦前の日本人としては稀有な体験だった。
遠洋航海から帰った進藤さんは、軽巡洋艦「名取」、戦艦「日向」、伊号第四潜水艦、呂号第六十六潜水艦で勤務ののち、昭和9(1934)年11月、念願の飛行学生を命ぜられ、霞ヶ浦海軍航空隊に転勤。ここで8ヵ月半、初等練習機、中間練習機で訓練を重ね、希望と適性に応じて専修機種が決められる。進藤さんは戦闘機専修と決まった。
「このときは嬉しかった。乗るなら一人で自由自在に空を飛べる戦闘機、と思っていましたから、戦闘機専修を告げられたときは天にも昇る気持ちでした。飛行機こそわが恋人、飛行機の上で死ねたら本望だと思いました」
戦闘機搭乗員になった進藤さん(当時中尉)は、大村海軍航空隊で、複葉の三式艦上戦闘機、九〇式艦上戦闘機を使って、戦闘機乗りとしての腕を磨く。
初陣は、昭和12(1937)年、盧溝橋事件(7月7日)に続いて、8月13日に勃発した第二次上海事変のときである。上海沖に派遣された空母「加賀」戦闘機隊の一員として、進藤さんは九〇艦戦で中華民国軍機と空戦、1機を撃墜した。そして九六式艦上戦闘機で実戦を重ね、大尉に進級。
昭和15年9月13日には、制式採用されたばかりの第十二航空隊の零戦13機を率い、重慶上空で27機を撃墜、損失ゼロの完全勝利を果たす。
さらに、仏印(現ベトナム)ハノイに進駐する第十四航空隊の零戦隊を率い、「援蒋ルート」(米英ソが中華民国を軍事援助するために用いた輸送路)遮断作戦に従事した。