渓流詩人の徒然日記

知恵の浅い僕らは僕らの所有でないところの時の中を迷う(パンセ) 渓流詩人の徒然日記 ~since May, 2003~

原風景

2021年11月25日 | open


私が生まれて初めて跨って同乗して
走ったオートバイはこれ。
まだ2才になるかならないかの頃の
事だ。
その時の状況と、その場にいた運転
者と母の会話もよく覚えている。
跨らせただけだと思ったら、タンク
の上に乗せて走り出したので母は
慌てたとつい先日言っていた。
近所を一周してきた。
世の中が変わった。
生まれて初めて、山手線でも東急
東横線でもなく、何十キロという
速度を体験したのだった。
親戚のいる広島県の福山市に東京
から遊びに行った時の事だ。
オートバイに乗って走っていると
キャッキャと笑いころげ、エンジン
を切ると泣き出す。
キックでエンジンをかけるとまた
ケラケラ笑い出す。
自然とそうなった。
「ほれ。見てみい。
こんぎゃーにすると泣き止む。
おかしな子じゃのぅ」
と言う運転者のセリフまで覚えてい
る。言葉は1才半で普通に話してい
た。私の娘が初めて口にした単語は
犬の名前で、生後8ヶ月だった。
また、私と同じく1才3ヶ月でお年
はいくつ?と尋ねると指を1本出し
て単語も口にして答えていた。
1才半では大人と全く同じように
会話をしていた。

また、その時のヤマハの排気音も
よく覚えている。
ドルルルンというような音だ。
バリバリとかG行のノイジーな音で
はなく、こもるような潤いのある音。
その14年後に自らが乗って知った
後年のヤマハRDよりもさらに5年後
の81年に乗ったRZの音が62年に乗
ったヤマハの音に近かった。
1962年時排気煙の匂いは残念ながら
覚えていない。

幼児期の記憶は、断片的ではあるが
覚えている事もある。
1才時の時の隣りうちのおばちゃん
の顔とか割烹着とか。
目黒の家の隣りのうちに遊びに来る
オートバイは、なぜかしら左にアク
セルがあった記憶がある。
ただ左に回す所があって、ほかの
オートバイとなんか違うなあと感
じていた。座る所は自転車みたい
なオートバイだった。
それが戦後16年目の時の1才時。
よく見る自転車は、いわゆる後に
呼称を知った重荷用というような
自転車しかなかった。
年上の男の子たちがそういう自転
車で三角乗りをやっているのをよ
く見るようになったのは、もうし
ばらくして、3才頃からだった。
自転車が普及してきた頃かも知れ
ない。

ただ、私が初めて自分用に買って
貰った自転車は、前輪にサスペン
ションがついていた。1964年の
だ。2年保育なので幼稚園に入
前だ。
ブレーキがまた変なブレーキで、
ハンドルグリップのエンドに電車
の三角吊革のような物が着いて
いて、それを引っ張る。
走行中にブレーキかけられない
じゃんねえ(笑
そして、ペダルとチェンはロード
レーサーのように直結していて
空回りしない。
なので、基本的に止まる時には
足の力でペダルを止めるブレーキ
だ(笑
他の子が乗ってるようなフツーの
自転車が欲しかったよお〜(笑
親父も何でよりによって最初から
レーサーみたいな自転車を私に与え
たのか。大人用の重荷用でもいか
ったのにさ。
私のそのマイバイクは、色はハン
ドルが何故かエンジ色に塗装され
ていた物だった。その色はなかなか
よかった。ミニカーみたいで。
でも、ペダルがいかんせん重たす
ぎで苦労した。
空転しないから、補助輪が外れて
二輪で乗れるまで苦労した。
何の事はない。ペダルから両足を
外して跨って慣性のみで走ると、
すぐに補助輪無しで乗れるように
なった。今までの苦労は何だった
のか、と(笑


過日、1962年に私をヤマハに乗せ
てくれた人が亡くなった。
叔祖父は超高齢だった。
あの日のあの時、私は私の質性に
目覚めた。
BORN TO RIDE.
とわに、乗ると共にあらんことを。
それが全ての源。源の者。


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