混み合ったプラットフォームをガラス越しに見遣りながら、まだ熟れていない林檎を齧っていた。ガリガリ、歯を立てながら青い林檎を噛み砕く。鈍い音が無人のコンパートメントに響いた。窓から見える景色は画一的で、ホームでは映えないドラマが延々と繰り広げられていた。
惰性的に顎を動かし続けたのは、そんな欠伸の出るような退屈さを誤魔化すためだった。灰色の空は閉塞感を感じさせて、分厚い雲がロンドン上空をノロノロと漂っていた。
空まで退屈に見えたのは初めてだった。
顎が気怠く成る頃になって、ようやくドアが開けられた。見えたのは、燃えるような赤毛が目を引く、伸び切ってヨレヨレになった服の少年だった。ソバカスの目立つ幼い顔は、着古した服と同じくらい冴えなかった。
「やあ、あの、ここ空いてる? どこも席が一杯で‥」
モゴモゴとした口調の、後に濁すような申し出だった。意地悪く断ろうとも思ったが、手に持った林檎は齧る余地が殆ど残っていなかった。林檎半分。いや、クオーター分。殆ど芯だけになった林檎よりも、目の前の赤毛の方が魅力的だった。僕は他所行きの顔を貼り付けて、向かいへとひらひら右手を振った。何も言わなかったのは、面前の赤毛には所詮林檎クォーター分の価値しか感じなかったからだ。
果たしてどんな仕草に見えたのかは分からないが、ホッとした表情の赤毛が向かいの席に腰を降ろした。見ると、服と同じくらいしみったれた鼠を手にしていた。小汚い灰色の鼠で、ミミズのように長細く汚れた尻尾が特徴的だった。
僕の視線に気づくと、隠すように掌で覆った。見せびらかす程のペットではないと思ったのだろう。僕も同感だった。
「あ~、ありがとう。どこも席が一杯で、空いている所が無かったんだ‥」
一息ついて、所在が無くなってからようやく口を開いた。相変わらずモゴモゴとした口調で、語尾を滲ませるようにして話す。
返答の返しようがない言葉に、僕はまたひらひらと手を振った。
「兄たちの付き添いで毎年来てたけど、汽車に乗るのは初めてだったんだ。こんなに混んでいるなんて知らなかった…」
「へぇ」
兄達という言葉から察するに、恐らくは末っ子気質なのだろう。こちらからの質問を待つような、含ませる物言いが気になった。
覆った掌の合間から、灰色の尻尾が飛び出ていた。服もお下がりなら、ペットもお下がりだろう。活動的な兄が複数人いるが、家庭は裕福ではない。彼はそれを引け目に思い、新品のものを買ってもらえない事を気にしている。どんな兄弟がいるのかは簡単に想像がついた。
僕の相槌の後に、続く言葉がなかった。嫌な沈黙がコンパートメントに漂い、ちらちらとこちらを伺う赤毛の視線が催促するように僕をせき立てた。
「兄たち、君は兄弟がいるのかい?」
答えの分かった質問をするのは嫌いだった。僕は内心で溜息をついたが、赤毛の期待通りの言葉を口にしてやった。
「うん。居るよ。ほら、この制服はビルの使ってたやつで、杖はチャーリーのお古。スキャバーズは元々パーシーが飼っていたんだ」
しかし、そんな兄達を引け目に思う一方で、それを受け入れてもいるようだった。彼の兄達は優秀なのだろう。自慢の兄達だと思い、彼等と同じ物を使うことに喜びを持っている。
だから、事あるごとにそれをペラペラと話したいのだろう。杖、ローブ、鼠。赤毛は自嘲するようにして、自慢の品々を僕へ見せつけてきた。先程までのモゴモゴか嘘のような饒舌さだった。
「ビル、お兄さんの名前かい? お兄さんはもうホグワーツを卒業しているのかい?」
そこからは火がついたようだった。
ビルやらチャーリー、多産の家庭でしか付けないような平凡な名前の兄達。のべつ幕無しに話し立てるのは、彼等が如何に優れているのかについて。
ビルは一番上の兄で、チャーリーは二番目だった。
長男のビルはホグワーツを首席で卒業して、今はグリンゴッツで呪い破りをしている。
ルーマニアにいるチャーリーも卒業生で、仕事でドラコンを追いかけている。在学中はクィディッチチームのキャプテンだったらしい。花形のシーカーだった、声には羨みが滲んでいた。
兄弟は他にもいるという。在学中の兄が三人。寮内で人気者のジョージ、監督生のパーシーと悪戯好きのフレッド――もはや先程までの沈黙さえ懐かしかった。そんな赤毛を前にして、僕は適当に相槌を重ねた。
どれも優秀な、自慢の兄達のようだった。その功績を話す彼自身も、そうなりたいと願っているのだろう。無邪気に弾ませた口を開くたびに、悲痛に表情が陰った。それは一瞬の変化だったが、向き合う人間が無視できない程度には目に付いた。
「それで、君は?」
一息つけたところで、僕はまた彼の期待通りの言葉を吐いた。
ある意味で望んでいただろう言葉を受けて、やはり彼はその表情を浮かべた。
「えっ、あ~、うん。そういえば自己紹介がまだだったね。僕はロンだよ。ただのロン。ロン・ウィーズリー」
「宜しく。ミスター」
僕が差し出した右手におずおずと手を重ねた。気の抜けた様な握手を数秒、その後ゆっくりと離した。
ノロノロと手を戻したのは、名残惜しさよりも、不慣れな挨拶の為だろう。今まで対等な立場の同年代と接したことが無い。握手さえ初めての経験だったのだろうか。
「それで、君の名前は?」
多少の慣れなのか、或いは握手を済ませた後だからか、今度は彼の方から僕へ言葉を向けた。
あ~、僕は間抜けに口を開いてみせた。
「それが、信じてもらえないと思うけど、残念ながら… 無いんだよ、僕の名前――」
親がくれなかったんだ、言い終わる前に赤毛は吹き出した。思えば、冗談好きな双子の兄達にいつもからかわれていると口にしていた。馴れ親しんだ間柄では無かったが、僕の冗談だと思ったのだろう。
「フフッ。おいおい、僕が唯一持っているお下がりじゃないものがあるとすれば、それが僕の名前だよ」
「いや、本当に無いんだよ。親がくれなかったんだ」
僕はホグワーツからの「手紙」を見せた。宛先の無い手紙。名前の部分は空白だった。
「へぇ~っ。凄いな、もう魔法が使えるんだ」
「本当にこのまま家に来たんだよ」
疑うんならアパレシウムと唱えてみろと僕は言ったが、いやいやとウィーズリーは首を振った。
「ほら見ろ。そんな呪文なら昨日フレッドから習ったよ。流石に僕だってそう何度も担がされないぞ」
「いやいや、この呪文は本当にあるんだよ。透明インクで書いた文字を出現させる呪文なんだ」
アパレシウム! 僕は杖を振って唱えたが、「手紙」からは宛先が浮かび上がることはなかった。
「ほら、見てくれ。本当に何も書かれていなかったんだ」
「いやいや、早くフレッドとジョージに君を紹介してやりたいよ。君の冗談、本当にいいセンスしてる」
もはや臆面なくウィーズリーは笑い転げていた。
「もし君がグリフィンドールに入ったら、きっと二人と気が合うよ」
「へぇ、君の兄弟はグリフィンドールなの?」
僕は言った。ウィーズリーは笑うのを止めて、半ば神妙な顔で頷いた。
「あ。うん。そうなんだ。家族は皆グリフィンドール。パパもママも、兄弟も皆グリフィンドールなんだ」
もしもグリフィンドールに入れなかったら… 言外に滲むプレッシャーを見せつける。僕は気の毒そうな顔を作り、心を寄せる様にゆっくりと口を開けた。
「君も、そうなんだ…」
そして、からかって悪かったと謝罪をした。
「へんてこな名前だから口にしたくなかったんだ」
聞いても笑わないでくれと念を押すと、ウィーズリーは神妙な顔のまま頷いた。僕は息をついて、そんな赤毛の耳元に顔を近づけた。
「僕の名前は……」
言葉を切って、少しの沈黙を挟んだ。
その間に僕は音を立てないようにして息を吸うと、汽車中に響くように、思いっ切り叫んだ。
「――ヴォルデモート!」
「ウワーッ」
耳元で叫ばれたウィーズリーは跳び上がった。その燃えるような赤毛を逆立て、仰け反った頭がコンパートメントの壁を叩いた。ゴーンと大きな音が、震えた部屋に鳴り響いた。
そんな様子を見ながら、僕はゲラゲラと笑い転げた。
「なっ? 変な名前だったろ?」
あんまりな間抜けな光景に、笑いのツボが刺激された。僕は止め処なく溢れ出る笑いを前にして、自制の無いままに笑い続けた。