これからは、本題からやや離れて、戸山の歴史には必然の「斧懸神社」の紹介をさせていただきます。
□ 戸山の斧懸神社と斧懸の松(斧懸:おのかけ) □
戸山赤坂に大山祇神を祭神とする斧懸神社があります。「青森史」には、元文元年(1736年)に戸山村と戸崎村が再建したとあり、また明治初期に青森県が編纂した新撰「陸奥国史」の社寺縁起旧期の中には砥山神社と記されており、「元は斧懸神社と云う」とあるようです。江戸時代の民俗学者の菅江真澄は「砥山という村があり、斧掛明神という神社があった。その由来をたずねると、斧かけの松というのが御社のかたわらにたっていた。むかし木こりが宮木を切ろうというとき、まず斧に神への奉献物をとりそろえて、松に懸けて奉ったという」と記しているようです。上欄と重複するところもありますが、次のような記録があります。
・当時の砥山(砥取山)は砥石を産することで有名であったが、採石すれば荒天を招くと信じられていた。
・元禄16年には稲仕舞いが済まないうちに砥石を採取することを藩から禁止されている。
今、砥取山の砥石を見る限りでは、天然荒砥 で明治以降は大々的には採掘していない感じだが、漆器の砥に使われていたなら中仕上砥程度の細かさと思います。
さて、戸山の斧懸神社はその後、山子たちの信ずる所となり、山に木を伐りに入る者は、境内の老松に祈りを込めて、斧の形に枝を払った木を放り投げ、松の枝にひっかかった者だけが山に入ることを許される習慣があったそうです。
また、そのむかし、まだ青森平野が海であった頃漁師たちは斧懸神社の老松を、はるか沖合いから帰港の目印にしたものだそうです。
今も、八十余段の石段を登りつめると、陸奥湾や津軽半島の山々と青森平野を一望できます。そこが海だったというイメージで眺めるとまた違う眺めになります。
「斧懸の松」の前には石碑があり、何代目かはわかりませんが「斧懸の松」として現存しています。時の流れで、山子ばかりでなく、戸山や近郷の人々の嫁とり婿とりの占いの樹になった時期もあるようです。現在はその由縁について知る人も少く、現在の斧懸の松に枝を放り投げて引っ掛けるには大きすぎますが当時の様子を思い浮かべながら訪ねていただければ幸いです。
ここまでお読みいただいた方、お付き合いいただきありがとうございました。
あと書き・・・・由緒ある砥石の産地で包丁の研ぎをしていながら、砥石を使わずベルトサンダーで砥ぐことに少し後ろめたさを感じていました。今回、ホームページ掲載のためにと「砥山」について調べる中で、前述の『砥山の研磨石は、青砥山にもまさるよい石であるが、神のおられるところであるから、祟りがあるのをおそれて掘り取らず、質のよくない砥石を砥崎(戸崎)の境から堀り使用する』の記録の発見で、砥山にいながら砥石を使っていないことに対して少し気持ちが楽になりました。
現在、機械砥ぎの精度の高さに新しい発見をしながら砥ぎの仕事を楽しまさせていただいています。廉価で切れる包丁砥ぎでみなさまのお役に立てればいいなと思っています。
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