1966年元旦、眞木壮一郎は機上の人となっていた。東京から遥か6,800キロ、インド洋に浮かぶ“光輝く島”セイロン島の首都コロンボへ。前年夏のマキノ・アイランドに次いで2度目のMRA(道徳再武装運動)大会に参加するためのフライト。今回は、新進気鋭の学生フォークシンガー・マイク真木としての招聘、同行者は親友のロビー和田と日高義だったと思われる(注1)。
真木曰く「僕ら若者が10何年かすると国の指導者となってゆく。その若者たちに心身ともに新しいファッションを植えつけ、立派な人間に成長させ、この広いアジアに、そして世界の困難な問題をカタッパシから片付けていく、ファイトある若者を育てよう」という大会(注2)。1ヶ月の滞在期間中、正しい人間・正しい国・正しい世界を造るMRAの教義を学び、現地の学生達とフォーク・ソングを歌い、若いエネルギーを爆発させるようにバレーボールやクリケットで汗を流した。様々な人と会った。中でも感銘深かったのが、インドの伝統楽器サーランギーを演奏するフォークシンガー・スリヤ・セナ氏との交流。「君がセイロンの歌を歌い、私が日本の歌を唄う。これが世界平和の秘訣じゃよ」。まるで修行僧のようなセナの言葉の一つ一つが真木の胸に響いた。最終日、友人達と出かけたハイキングの帰途に見た夕陽も忘れがたい。水牛の声がこだまするケラニ川の向こうに沈む大きな太陽。西の空はどこまでも血のように赤かった。
2月に帰国した真木は、シンコー・ミュージック(新興楽譜出版社)の制作により待望のレコーディングに入るのだが、この録音契約がいつどのように決まったかについては諸説あり、日本のフォーク・ソング黎明期の研究における混乱の原因となっている(注3)。現在、定説とされているのが、「バラが咲いた」のデモテープを録音する学生アルバイトとして声がかかり、思いがけず出来栄えが良かったため、そのままレコードにして発売したというもの。この説は、当事者である真木本人とフィリップス・レコードのディレクター(当時)本城和治氏が近年繰り返し証言していることから疑う余地が無いように思われるが、1966年当時の様々な資料と関係者の証言をつぶさに検証すると、興味深いことに全く異なる“事実”が見えてくるのである。
まず、これだけは断言しておかなければなるまい。マイク真木は、たまたま「バラが咲いた」のデモテープを吹き込んだ無名で泡沫な学生アルバイトなどではなく、(当時日本ビクター株式会社が提携していた)フィリップス・レコードと、漣健児こと草野昌一率いる新興楽譜出版社の双方が周到な準備の下、世界的規模でのデビューとセールスを画策した、いわば作られた“麒麟児”であったということだ。そして、その背後に、MRAの世界戦略があったであろうことは、ほぼ間違いない事実と思われる。
以下、レコード・デビューまでの経緯を辿ってみる。当時の複数の雑誌によると、真木は、前回触れた1965年暮れの「日劇フォーク・ソングフェスティバル」でオリジナルのフォーク・ソングを歌って注目され、「世界のトップ・レーベル“フィリップス”でレコーディングする幸運をつかんだ」とある。原盤を制作したシンコ―・ミュージック社長の草野昌一は、後年、真木にレコーディングを持ちかけた際の様子を次のように回想している。
「たまたまマイク真木というのが、日比谷公会堂でコンサートをやると知っていたんでね、出かけていったんですよ。その頃マイクのお父さん(引用者註・舞台美術家の眞木小太郎氏)は東宝で大道具だか小道具の仕事をしていらして知っていたもんで、息子さん紹介してよ、ってノリで楽屋でマイクに会って、ちょっとレコーディングしない?と聞いたら、もうぜひやりたいって。それもマイクはその頃自分で作っていたヘンなフォークをレコーディングさせてもらえると思ったもんだから、“草野さんの言うことは何でも聞くから”って(笑)」(注4)。
ファースト・コンタクトの場所が、有楽町の日劇ではなく、日比谷公会堂になっているなど、記憶の混乱が見られるが、この証言は、草野が直接真木と交渉したことを明らかにしている点において重要だ。
さて、セイロン島から帰国後の1966年2月、MFQ時代の仲間であるギターの渡辺かをるを引き連れて意気揚々とスタジオに現れた真木に、草野が提示した曲は、バリー・サドラー軍曹作・歌による「悲しき戦場(グリーン・ベレーのバラード)」の漣健児訳詞版であった(注5)。「グリーン・ベレーのバラード」は、この年の1月にアメリカで発売されるやいなや、ひと月足らずのうちに約100万枚のセールスを上げた当時話題の特大ヒット曲である。そして、売上が型破りなら、歌の内容もまたすこぶる異色であった。タイトルのグリーン・ベレーとは、アメリカ陸軍のゲリラ戦用特殊部隊のこと。ベトナム戦争時、CIAの指揮下で、北ベトナム側の要人や兵士の誘拐・拷問・暗殺などの血なまぐさい秘密作戦を遂行した。そんな彼らを「アメリカの最高の男たち」と讃え、ベトナム戦争を礼賛した歌が「悲しき戦場(グリーン・ベレーのバラード)」なのである。それは、フォーク・ソングの形式をとってはいるが、決して民衆の側から生みだされたものではなかった。もう一点、指摘しておかねばならないことがある。それは、この歌がMRAの思想と奇妙に合致している点である。財団法人MRAハウス代表理事を務めた澁澤雅英は、政策研究大学院大学の伊藤隆教授らが2003年に実施したインタビューで次のように証言している。(注6)
澁澤 「アメリカとヨーロッパの(引用者註・MRAの)分裂というのは非常に面白い現象で、特にベトナム戦争をやっていたでしょう。それに対するヨーロッパの反応は、いまのイラク問題とちょっと似たところもあるけれど、イラクほど馬鹿なことではなかったかもしれないけれど、ちょっと似ていましたね。ヨーロッパのほうは、ブックマン本来の道徳でやろうといい、アメリカのほうはもっと若い人でワイワイやって、ベトナム戦争を肯定し――。」
伊藤 「肯定のほうですか。」
澁澤 「肯定でもないんだけれど、やっぱりアメリカとしては五十万人も兵隊を出しているんだから、それに反対するというわけにはいかないですよね。」
伊藤 「でもベトナム反戦運動というのがずいぶんあったじゃないですか。」
澁澤 「そうそう、それとは違うんですね。」
しかし、いくら大ヒットしているとはいえ、何もこのようなファナティックな好戦歌まで、アメリカの植民地よろしく、わざわざ日本語に訳して商売しなくともよかろうと思うし、何より、先の戦争の記憶もまだ風化していない中、大半の日本人が拒絶反応を示すであろうことは容易に推察されるが、そこは、手練れの訳詞家、漣健児の腕の見せどころ。彼は、この勇ましい戦争礼賛歌に「俺の願いはただただひとつ/母待つ国に帰ることだけ/俺もゆこう 平和の国へ/沈む夕陽に祈りを込めて」という(原曲と異なる)歌詞をのせることで、多くの日本人が共感できる厭戦歌にしてしまった。しかし、だからといって、この歌の危険な本質は何ら変わるものではなく、その点において、音楽の商売人たる草野の倫理感は厳しく問われるべきであろう。
当然というべきか、真木はこの歌を頑として拒絶した。原曲の右翼的イメージもさることながら、またぞろ外国のコピーに逆戻りすることが耐え難かったし、あくまでも自分のオリジナルを歌うことにこだわりたかった。一方、草野の耳には、真木の持ってきた楽曲は、稚拙で“ヘンなフォーク”にしか聴こえなかった。それらは、いずれもアマチュアっぽく、草野が過去に手掛けた日本語ポップスの誰もが口ずさめるヒットナンバーとは程遠い水準のように思えた。シングル盤に相応しい曲が無いのだ。窮する草野の頭にふと妙案が浮かんだ。そうだ、あの歌だ、ハマクラ(浜口庫之助)さんがアフロ・クバーナで慈しむように歌っているあの歌でいこう。寂しかった僕の庭にバラが咲いたあの歌――。かくして、1966年春の東京に“和製フォーク・ソング”第一号が誕生することになるのである。(つづく)
(注1)この推測は、同年(1966年)秋、ロビー和田が、セイロン島の首都コロンボの素晴らしさを歌い上げた自作のフォーク・ソング「コロンボ」をシングル盤として発表し、日高義もまたセイロン島行きにインスパイアされたと思われる楽曲(詳細は次回述べる)を真木に書いていることによる。
(注2)メンズ・クラブVOL.52「セイロン島にて/マイク・真木」(1966年4月号)
(注3)中でも、黒沢進が行なった小山光弘氏(元フロッギーズ)のインタビュー証言は興味深い。小山曰く「フィリップスの本城さんという大プロデューサーがきて、新宿の喫茶店で昼の12時から(引用者註・フロッギーズが)プロになる、ならないで話しをするわけですよ。で、終わったのがね、夜中の12時。僕一人じゃどうしようもないから、金子(引用者註・洋明)さんや石川鷹彦さんや小室(等)さんを呼んだりして、説得してもらうわけですよ。“こいつら絶対にプロになりませんよ”と。それでとうとうあきらめてね、“それじゃわかりました、誰かプロになる人はいませんか”。僕が“あのう真木壮一郎さんて方、きっと僕やると思うんですよ”といって。それが『バラが咲いた』だよ。」(「資料日本ポピュラー史研究 GSとカレッジフォーク篇」1983年1月発行)。面白い話ではあるが、時系列に致命的な矛盾があり、信憑性は低い。恐らく、小山が黒沢相手に“かました”与太話の類であろう。
(注4)「熱狂の仕掛け人」湯川れい子(小学館)
(注5)赤旗(1966年6月12日)。なお、真木が蹴った「悲しき戦場」は、その後ケン・サンダースによって吹き込まれ、真木の「バラが咲いた」と同年同月(1966年4月)にビクターから発売された。
(注6)「澁澤雅英オーラルヒストリー」政策研究大学院大学(2004年1月)