■店長のプロフィール■
三浦正士 miura nobuyoshi
1954年、鹿児島県西之表市生まれ、
2歳から鹿児島市・指宿市・大口市・鹿児島市で育つ。
家族:1男2女、孫5人
趣味:詩・絵・ギター・聖句歌作曲・手品・逆立ち・子どもと遊ぶこと
子どもと遊ぶ : 特に公園伝道で遊ぶベスト5は、⑤長縄跳び ④鬼ごっこ ③草野球 ②ドッジボール ①陣取り…今は公園伝道中止しています
パソコンはエクセル大好き…文書作りはすべてエクセルで。ワードは文字データを飛ばせないのでほとんど使っていません
当HPは07年6月から…メモ帳(html)とエクセルによる手作りです
原付50cc大好き…すべの配達業務はこれで行なっています。経費削減のため低燃費の原付を重宝しています。2010年に2台目の新車を購入しました。前の単車は寿命となりました。この新車も12年以上は使おうと思っています
当書店が鹿児島から消えることのないために年金の掛け金を掛けることができなかったため、年金受給の時が来たら月額2万円程度となります。これでは老後の生活ができませんから、天に召されるまで書店を経営させていただきたいと思っています。年金だけではなく、生命保険も掛けることができませんでしたが、主に感謝しています。これらのことは書店を継続させるための工夫の一つでした
所属している教会は「鹿児島キリスト集会」(書店の2F)で、牧会の奉仕に与っています。
→鹿児島キリスト集会のHP
( 最終更新日:2018/8/13 )
書斎で孫を抱いて
孫とともに開聞岳をバックに
近影です
■当書店の足あと■
←《旧 書店》
昭和56年~平成6年
の約14年間は、この
建物を使わせていた
←《今の書店》
3階建てのビルになりました。
3F;自宅
2F;集会
1F;書店
①
1981年(昭和56)
4月29日に大動物臨床獣医師(共済組合)を退職し、キリスト教専門書店を立ち上げるために現在の場所に引越す。
臨床獣医師として地方で順調にその働きに与っていたとき、鹿児島県内にキリスト教書店が1店も存在していない事実を知り、誰かが書店経営のために立ち上がる者が起こされるように祈り始めるが、自分に関しては大動物診療所を建てる夢を大きく描いていた。ところが自分の診療所建設についての祈りよりも、誰かがキリスト教書店を開業することへの祈りが強く熱くなって行った。文書による教会成長と聖徒の信仰の成長、さらに文書による伝道の前進を思い、主に訴えるようになり、さらに家族伝道への思いが加えられていったあるとき、「あなたがしなさい」という思いが心の中から生じてきた。これが自分の思いなのか主からの思いなのかはっきりさせなければならなくなってきた。大動物診療という重労働の中ではあったが、昼食だけ抜く断食の祈りを開始して主のみことばを待ち望んだ。しかし何の導きも与えられなかった。主の答えを待ち続けた。忍耐して待ち続けた。1ヶ月経ち、2ヶ月経ち、3ヶ月経ち、それでも導きを得ることはできなかった。さらに祈り続けることにした。すると祈り始めて7ヶ月目に、聖書を読み始めていた母から電話が入り、みことばの意味を教えて欲しいと頼まれ、旧約聖書の伝道者の書11章1節の箇所を開くことになった。と、その瞬間、感情からではない涙があふれ出した。クリスチャンになって初めての体験であった。「パン(生活を支えている経済)をわたしに任せて、書店経営と伝道の働きに立ち上がれ」との主のご意志をたましいではなく霊で受け止めた瞬間であった。ちょうど、ルカ18:22の『イエスはこれを聞いて、その人に言われた。「あなたには、まだ一つだけ欠けたものがあります。あなたの持ち物を全部売り払い、貧しい人々に分けてやりなさい。そうすれば、あなたは天に宝を積むことになります。そのうえで、わたしについて来なさい。」』のみことばそのものであった。当時私が勤務していた農業共済組合の家畜診療所は12町からなっていた。私は一人で一つの町を担当していた。そのため退職することは困難と思われた。それでも私は翌日すぐに組合長室に出向き事の次第を話し、依願退職の気持ちを伝えたが、予想通り言下に断られた。当時、ルーキーであったにもかかわらず、年を経るごとに不思議と病畜の治癒率が上昇し診療件数も増え、12名の獣医師の中で診療所長の次に成績が上がってきており、農家の方々からも厚い信頼をいただくようになっていたため、組合長としては当然のごとく私の申し出を却下したのである。それでも間隔を置いて、2度3度と退職願いを出し、4度目くらいで根負けしたと言って、新しい担当獣医師が見つかるまでは働くと言う条件付きで退職願いを受理していただいたのであった。
②
私物の注射器や聴診器、携帯用外科手術器具等は書店経営した店舗付き住宅の戸袋に納め、書店経営者としては全くの未経験者の自分が開店したばかりの小さな店舗にいた。鹿児島県内の教会との連絡もまだ取らないまま、しかも簿記もしらず、現金出納簿の存在も知らず、確定申告の仕方も知らず、何とレジスターもなく、小さな計算機がひとつと売上帳(大学ノート)だけ。その時私が持っていたのは目に見えない信仰による"確信"だけだった。
木製の本棚を大工さんに作っていただき、オレンジ色のテント看板も仕上がり、あとは店内に並べる書籍をいのちのことば社から卸していただく許可を待つだけとなったが、いのちのことば社からの許可がいっこうに下りない。主の時を待つ。
数日後、いのちのことば社の営業部長の田中四郎さんから電話があり、鹿児島県内のプロテスタント信者数が少ないため書店の営業利益のみでの経営は不可能ですとの返事。ついでに「即刻、獣医の職に戻ることをお勧めします」との厳しい通達であった。さらに、主の時を待つほかなかった。
食い下がり続ける私を断念させるために、田中さんはわざわざ東京の本社から鹿児島まで会いに来て下さった。到着された田中営業部長をガランとした店舗付き住宅にお連れしたのは夕方。引越して間もない殺風景な店舗横のタタミ部屋4畳半で、2歳半の娘と家内と一緒に、水炊きの食事を食べていただく。湯気の向こうの田中さんの顔とその時の雰囲気を今でも鮮明に思い出すことができる。
その食事の席で、主にある私のこれまでのいきさつを話し、それを聞かれた田中さんが、「良く分かりました。三浦さんの中に確かに主が働いておられることが分かりましたので、書籍を卸させていただきます。初めから通常の掛け率(20%の利潤)で卸しますので、主にあってがんばってください。」
このひとことで鹿児島一麦書店が実質的にスタートしたのである。約一月後の6月に開店。はじめは木造2階建ての建物の1階部分だけを貸りてのスタートだった。ちなみに2階の部屋は一般の人が住んでおられた。
③
開店して半年後の12月に次女が生まれた。その頃の売り上げによる利潤は毎月約8万円。店舗付き住宅の家賃が5.5万円でしたので、食費に充てるお金はない極貧生活を体験した。その時私は神に導かれてパン工場に行き耳パンを求めた。小麦粉20キロ入り用の紙袋に詰め込まれた耳パンが25円。実はこれは豚の餌としてただで分けるものだったようだが、しつこく値段を要求した私にパン屋さんが間に合わせでつけてくれた値段だった。耳パン生活は3年に渡ったが神との関係は深まっていった。神との苦しみの共有なしに喜びの共有は味わえない事を学んだ貴重な時期だった。
④
平成6年12月に大家さんが3階建てのビルに建て直し、1階書店・2階教会・3階自宅として使わせていただく。
多くのクリスチャン、教会やキリスト教幼稚園の皆さんに利用していただいていた。感謝。
ところが、平成30年に入って売り上げが激変した。原因・理由が分からないまま数か月が過ぎた。来店客が少なくなったのだ。いやほぼゼロに近くなったのだ。卸元であるいのちのことば社流通センターとデンパン(伝道文書販売センター)への支払いが難しくなった。途方に暮れながら数か月が流れた。7月のある日、来店されたひとりの牧師の方から聞いた言葉に絶句した。WINGS(いのちのことば社通販課)といのちのことば社による外販(出張販売サービス)の存在だ。寝耳に水だった。キリスト教専門店がある県内・市内の教会に販売していると聞いたのだ。あわてて情報をかき集めると、確かにこの二つで当書店への注文が激減したことが分かった。今、いのちのことば社と交渉し続けている。地方の専門店を育成し、文書伝道の働きを共有し、共存共栄を土台とする働きが、今、崩れてきている現実に、唖然としている。みなさん、お祈りください。
■その他■
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「おーいみんな、なかよくやろうよ!」
を公開中。
管理人MIURA作; 2007-09-05更新;
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