美馬達哉 方法としての反ワクチン 【現代思想】2020-11
2020年11月1日(日)
SARS-CoV-2に対するワクチン開発競争が,なにをもたらすのか,
けっこう厄介なもんだいかもしれないな、と思った.
「反ワクチン」の保健所長がいた.
主張は,ちょっとわかりにくかったように思う.
まぁ,それでもワクチンには,問題があるんだと……,
ワクチン自体が引き起こす身体上の問題もあったのだろうし,
あるいは,ワクチンをなかば強制的に接種しようとする国,行政の姿勢にある種の危険を感じたかもしれない.
いつごろからか,ワクチン接種にともなう身体上の反応を,「副作用」から「副反応」と言い換えるようになった……と聞く.ちょっと正確ではないけれど.
ちょっと「イヤな感じ」のすることだった.ことばの言い換えで,ワクチンの問題が解消されるわけではないのだから.
ワクチン開発で,企業側はワクチンによる副作用などについては,国が責任を持って対処する、というような条件をつけているとメディアが報じている.もうすこしきちんと追跡してほしいな,と思うが,まぁ,定番のワクチンなどでも副作用は生じていた,今回のように,おそらくじゅうぶんな治験を実施しないままじっさいに使用するとなると,相応のリスクがありうると踏んでいるんだろう、開発側としては.
で,じっさい,どうなるんだろう.
ワクチンなどの予防接種の、優先順位が問題になった.
結局どうなったのか,どうなるのか,メディアの報道ではよくわからない.
インフルエンザの場合など、アメリカでは,はっきりと接種の優先順位が決められている,と聞いた.それは,「社会防衛」上の観点から決められていたと思う.たとえば,航空管制官,警官,消防士……の優先順位が高いのだ.
めったにない機会なのだから,この際,いろんな議論が交わされるのがいいと思うのだが,さて.
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【現代思想】2020-11
特集*ワクチンを考える
方法としての反ワクチン
美馬達哉
人は蜂起する。これは一つの事実だ。そのことによって、主体性(偉人のではなく、誰でもいい人間の主体性)が歴史に導入され、歴史に息吹をもたらす。非行者は、濫用される懲罰に抗して自分の命を賭ける。狂人は、もはや監禁され権利を剥奪されはしない。民衆は、自分たちを抑圧する体制を拒否する。そんなことをしても、それぞれ、無罪になることはなく、治ることはなく、約束された明日は保証されない。(ミシェル・フーコー)(1)
種痘と近代性
ワクチンの歴史は、一七九六年のエドワード・ジェンナーによる牛痘を用いた天然痘予防ワクチンである種痘に始まる。一八〇五年にはすでに、ナポレオンが全軍の兵士に種痘を命じたことが知られており、牛痘による種痘は一九世紀にはすばやく西洋社会と植民地化された社会に拡がった(2)。種痘が天然痘を予防する効果は絶大で、一九八〇年、世界保健機関WH0は地球上での天然痘の根絶を宣言した。それは、近代の生物医学の輝かしい勝利とされている。だが、ワクチンの社会的機能はそれだけにはとどまらない。
従来、疫病による不慮の死は逃れられない運命と考えられてきた。それをコントロール可能としたワクチンの存在は、一九世紀以降の生物医学の権威を高めるとともに、近代社会における人間の生に対する合理的な支配の一つの範例となった。その意味で、ワクチンは人間の身体に介入する生物医学的テクノロジーであるだけではなく、生きた人間を対象とする統治の登場と密接に関わり合った社会的テクノロジーとしても理解する必要がある(3)。皮膚に穴を穿たれ、そこに牛由来の奇妙なものをすり込まれる「医療行為」を人びとに耐えさせたのは、人間の身体を調教する規律訓練を可能にするような権力の上昇だったと考えられるからだ。
この点からみれば、ヨーロッパ大陸での種痘の普及を牽引したのが兵士への接種であったことは示唆的だ。致死的な疾病のワクチンによる予防が、集団的な生の力としての国力や兵力を保持し増強するのに役立つことは当然だ。だが、それだけではなく、命令一下でワクチン接種に文句を言わず協力する人びとという「従順な身体」の生産、つまり人間の生の質的な変化ともつながっていることが示されている。ワクチンは人口を量的に増大させると同時に質的に有用なものへと変化させる、つまり生物医学的かつ生政治的なテクノロジーということになる。
歴史的に見れば、人間の身体を技術的に操作可能な対象物とする近代の生物医学の出現は、人間を合理性に従わせることで生産的労働力に作り替えた近代の資本制の成立とも重なっている。そして、生物医学による身体の合理的理解や制御の進展は、摩擦無しに進んだわけではない。それは、学問によって知識が蓄積されていく直線的プロセスではないからだ。多様な身体や多様な生き方に対してときには暴力的に規律訓練が押しつけられ、国家と支配階層に対する抵抗が繰り広げられた社会的な抗争の歴史とも、生物医学は一体化している。そうした身体をめぐる争いの文脈において、強制的にワクチンを打たれることは、烙印の痛みのように感知され、貧民に課せられた強制労働ともひと繋がりになった身体への暴力的攻撃として社会的に意味づけられた。
ワクチンあるところ、反ワクチン運動あり
ここで理論的な前書きを改めて記したのは、ワクチンをめぐる議論が有効性と有害作用という生物医学の場を中心として行われている現状と距離を置くためだ。どんなワクチンであっても医薬品である以上は有害作用のリスクがゼロということはあり得ない。そして、ワクチンと関連した障害を受けたと感じる人びとの経験において、ワクチンは有害な異物でしかない。いっぽう、ワクチンが疾病のリスクを事前に予防する手法である限りは、その有効性は集合としての人口のレベルにおいて確率の数字でしか表現できない。言いかえれば、ある個人が疾病に感染しなかったり軽い症状で済んだりした場合、それがワクチンの効果なのか、その個人の運が良かっただけなのか、一〇〇%確実に客観的判別をすることはできない。ワクチン被害のリアリティとワクチン有効性の数字の間の懸隔は、互いにかみ合わないすれ違いで、人間の生死を数え上げて加減乗除する算術で解決できるものではない。その意味で、ワクチンに関する生物医学的エビデンスの有無を追究することは、ワクチン強制接種に伴って誕生した反ワクチン運動の射程を理解するには有益ではないと、私は考えている。
たとえば、日本での「子宮頸がん」ワクチンに関する論争の場合、さまざまな論点(4)があるにもかかわらず、ワクチンと有害作用に関連があるかどうかが議論の中心とされている。そうした生物医学的問いとは意図的に距離を置き、「方法としての反ワクチン」において思考することが必要なのではないか。
そこで、ここでは、一九世紀に行われた国家レベルでのワクチン接種──とりわけ強制種痘──の導入とともに人びとの間に出現した反ワクチン運動を、人間の生に根ざした社会的不服従の文脈に置き直して取り上げたい(5)。それは、現代日本での反ワクチン運動をめぐる議論に側面からの光を当てることにもなるだろ。
当時の反ワクチン運動は、現在から顧みれば、愚かな人びとによる一時的な騒ぎに過ぎなかったようにみえる。だが、最初に国家レベルで制度化されたワクチンに対する民衆の執拗な反乱として、個人的反抗ではなく組織的な社会運動として繰り広げられていた。そのなかには、ワクチンから逃れるためにありとあらゆる手練手管を弄し、国家や支配階級の意のままにならぬことを決意した身体たちが姿を現している。反ワクチン運動のなかに、解放的な社会的潜勢力を見出そうとする本稿にとって、一九世紀の反種痘運動は、生物医学的には無知蒙昧な歴史の敗者であるからこそ、「方法としての反ワクチン」の一層有用な事例となるとさえ断言できる。
一八五〇年代に始まり一九世紀後半に最高潮に達する英国での反ワクチン運動についてR・M・マクラウド(6)の研究やナジャ・ダーバックの『身体の問題』(Bodily Matters)(7)による詳細な分析があり、西迫大祐による紹介と考察(8)も存在する。英国史研究者でもない私が、史実としてそれらの先行文献に追加すべきものはない。だが、ここで注目したいのは、個人の自由や権利と国家による強制との対立という図式とは少しずれた要素──拒否の戦略の存在である。
一九世紀英国の反ワクチン運動
英国で最初の「予防接種法(Vaccination Act)」が制定されたのは一八四〇年だった。その内容は、種痘以前に民間で行われていた人痘法を禁止し、貧民に対しては無料の種痘接種を貧民監督官の管理の下で提供するというものだった。なお、人痘法とは、天然痘患者の膿や瘡蓋を使った接種手法で、人間の天然痘ウイルスを使用するため、ときには強毒化し、天然痘流行を引き起こすリスクもあった。しかし、無料であっても種痘を受ける率は向上せず、その後も英国での天然痘の流行は繰り返されていた。この状況に対して、一八五三年には、子どもに対する種痘を親に対して義務づけ、それを怠った場合には罰金刑を科する強制規定が作られた。
国家の感染症(予防)に対する関心の背景には、インドが植民地化されたことで世界に拡がるパンデミックとなったコレラがあった。一九世紀のコレラは世界的な流行を繰り返し、一八三二年には英国でも流行を引き起こしていた。また、産業革命以降の貧富の格差の拡大で生まれた都市のスラム地区では、下層階級の問で発疹チフスが蔓延していた。コレラは、そうした状況のなかで流行を引き起こしたのだ。その一方で、一八四〇年代は、ロンドンでの上下水道の整備などエドウィン・チャドウィックによる公衆衛生改革が行われた時代でもあった。つまり、国家と支配階層にとって、とくに下層階級をターゲットにした感染症のコントロールは重要な課題であり、強制的な予防接種もそうした社会政策の一つとして位置づけられていたのだ。
だが、種痘の強制は、一九世紀後半の英国社会を広範に巻き込んだ強力な反対運動を引き起こすことになった。折しも、一八四八年革命の衝撃が西洋社会を大きく揺り動かし、英国では普通選挙を求めるチャーチスト運動やアイルランド独立運動など大衆的な政治活動が活発だった時期だ。
反ワクチン運動の主張の一例として、ダーバックは、一八六六年に反強制予防接種同盟(Anti-Compulsory Vaccination League)を設立するジョン・ギブスによる予防接種法批判の発言(一八五四年)を次のように要約している(9)。
国家による「自由の身に生まれた英国人」に対する医療処置の強制は、男女を問わず個人が自分の身体への権利を失う危険な新時代へと私たちを導くと思われる。さらにギブスは、「自由の王国の知性を有する人間」が「医療専門家の惨めな奴隷」に落ちぶれるとは、と挑戦的に問いかける。
ここに示されている医学的専制主義(medical despotism)に対する批判と医学的自由(medical liberty)の擁護という政治的テーマは、当時の反ワクチン言説の中心を占めていたものだ。「予防接種に一撃を/自由を高らかに/国中にこだまを響かせ/英国人は自由だ」との反ワクチン運動ソングまであったという(10)。
国家と医療の関連でいえば、予防接種法の制定は、国家が医療を正しいかどうか判断して規制する「国家医療(state medicine)」という面で、英国における重要な転機となっていた。一八四〇年法では、危険と判断された人痘法は禁止され、牛痘による種痘のみが推奨された。これは、医療実践の内容に対する国家規制である。また、その後、一八五三年に強制接種になった際には、種痘を行うこと自体は誰でも可能とされていたものの、国家にその対価を請求できるのは「法的に資格のある医学専門家」だけと規定されていた(11)。もっとも当時はまだ医師免許制度は無く、その後一八五八年に初めて、正式な国家レベルでの免許制度が創設されている。自由主義の思想からみれば、それは英国医師会に所属し生物医学を奉じる医師による医療の独占であり、排他的なギルドと同様と見なされた。
反ワクチン運動の担い手たち
国家と結びついた医療専門家への反発は、反ワクチン運動の基盤となっていた。強制接種に反対し、個人の自由と権利の尊重を唱えていた中産階層の人びとには、薬草療法や水治療法(ハイドロパシー)などの非正統的医療の担い手や支持者も多かったことが知られている(反ワクチン運動の指導者の一人ギブスは水治療者だった)。ただし、当時の近代医学では、内科的には瀉血と下剤が多用され、外科手術での感染による死亡率は高かった(ジョゼフ・リスターによる消毒法が使われるようになり、外科手術が比較的安全になるのは一八七〇年代)。そのため、もし仮にエビデンスで考えれば、有効性はともかく、非正統医療のほうが有害ではなかったとは言えるだろう。なお、二〇世紀初頭に米国で盛り上がつた反ワクチン運動では、西洋の代表的な非正統医療の一つホメオパシーが重要な役割を果たした(12)。
また、一九世紀後半では、近代の生物医学の基本となる細菌学説は確立しておらず、伝染病の原因として環境要因(ミアスマやコンスティテューション)を重視する考え方も有力だった。そうした衛生主義者は、ワクチンよりも公衆衛生や都市環境の改善を重視していた。健康な空気と水を行き渡らせることで、健康な身体を形作れば、それが伝染病の予防に役立つと主張していたのだ。実際、一九世紀ロンドンでの都市衛生の整備は、細菌学説に批判的な衛生主義者によって主導され、コレラの制圧にめざましい成果を上げた。
さらに言えば、英国全体で見れば、都市部での発疹チフスやコレラの流行のほうが、天然痘よりも喫緊の健康問題であった。ワクチンで予防可能かどうかという事実判断と、その予防法を公共政策として優先すべきかどうかという価値判断とは異なり得る。
また、反ワクチン運動は、国家と支配階層による暴政のシンボルとしての強制種痘に反対する対抗文化の中心としても位置づけられていた。コミュニティの相互扶助を基盤とするさまざまな団体、たとえば、労働組合やチャーチスト運動、初期の生活協同縄合などに支持者がいたほか、英国国教会に対抗する宗教的少数泳(クエイカーなど)や心霊主義者も、そこには含まれていた。宗教的な反ワクチン運動において、強制種痘は国家による(カトリック風の)幼児洗礼のようなものとして批判され、宗教的寛容と信教の自由と同じ論理のなかで、医学的自由が主張された。
女性の地位向上や女性参政権を主張する初期のフェミニズム運動も、反ワクチン運動の支持者だった(13)。フェミニズム運動はとくに、予防接種法とともに「接触伝染病予防法(Contagious Disease Act)」(一八六四年)に強く反発し、国家と医師による恣意的な取り扱いから子どもと女性を守るための運動として位置づけていた。接触伝染病予防法とは、当時の性道徳に従った婉曲な言い回しで、実際には梅毒など性行為感染症の管理を通じた売買春の国家管理を目的としていた。その内容は、軍駐屯地などで売買春を行う女性に対して、警察の取り締まりによる性行為感染症の検査と指定された専用病院(Lock Hospital)への強制入院を義務づけるものだった(一八八六年には廃止される)。
下層階級の貧民たちにとっての種痘は、「新救貧法(一八三四年)」のもとでの強制の一つと見なされた。貧民を対象とする無償の種痘は、新救貧法の枠組みで貧民監督官によって課されていたからだ。院外救貧の禁止と劣等処遇の原則で知られる新救貧法は、救済に値しない「働ける貧民」に労役所での労働を強制し、「働けない」として医学的に選別された貧民を救済に値するとして施設収容するものであった(待遇は最下層労働者以下)。当時の貧民は、無慈悲で屈辱的な社会政策として新救貧法の対象となることを拒み、激しく抵抗していた。また、当時は医学教育用の解剖用遺体が不足していたため、身寄りの無い貧民は死後に解剖用遺体として扱われる(一八三二年の「解剖法(Anatomy Act)」に始まる)(14)との規定も存在していた。これも、身体への医学的な暴虐と受け取られ、国家と医療の結びつきへの強い不信と反発を招く背景となった。
反ワクチン運動の「勝利」
英国での反強制予防接種同盟の力の見せ場となったのは、種痘拒否の罰金支払いを拒否した人びとの差し押さえ資産の公売だった(15)。反ワクチン運動の支持者は、公売人を公然と脅迫し、大挙して公売場に押しかけ、種痘を批判する示威行動を行い、最終的には同盟が罰金を支払って持ち主に差し押さえ物品を返還するというパターンが、各地で繰り返された。こうした理由から公売人のなり手がおらず、警官隊に保護されて遠方の都市からリクルートされていたという。種痘も罰金も拒否して収監を選んだ反ワクチン運動の支持者たちは自らを、当時のアイルランド独立派の政治的囚人と同様に、自己の信念に基づいて行動する「良心的反対者(conscientious objector)」と位置づけ、一般犯罪者とは異なる取り扱いを要求し、一九世紀末にはそれを認められた(16)。
さらに、一八九八年の予防接種法改正では、信念から「真摯に反対する」者に対しての種痘の義務からの免除が認められた。当初、その運用は、反ワクチンの信念の真摯さを示すために判事の前で証言し、正式の証明書(発行手数料を伴う)が必要という複雑なシステムであった。だが、一九〇七年改正によって証明書は不用となり、強制的な種痘は英国では廃止される(17)。
以上をまとめれば、たしかに国家による強制に反対する人びと(「自由の身に生まれた英国人」)が個人の権利と自由を守った物語のようにみえる。だが、それだけではなさそうだ。
その点を探るために、ここに、植民地として英国の支配下にあったインドでの状況を重ね合わせてみよう。インドでは、一八八〇年に牛痘接種法が制定されたものの、その適用地域は一部の大都市と軍駐屯地に限られていた。しかも、インド民衆の反感や反乱を恐れていた政府は、種痘の義務化に極めて慎重だった(18)。もともと、インドでは、専門の宗教的治療者による子どもへの人痘接種が、天然痘の女神シータラーと結びついた宗教儀礼として、一般化していたからだ。歴史家デヴィッド・アーノルドは、「牛痘接種は、イギリスの邪悪な意図と、陵辱され破壊される危機にあるインド的なもの、そして聖なるものとの闘争の現場として理解されたのである」と表現している(19)。そのため、二〇世紀後半の国際的な天然痘撲滅運動が盛り上がり、独立後のインド政府自身による予防接種の組織化が行われるまで、種痘の義務化は進まなかった。
当然のことながら、植民地において、女神シータラーに信を置く民衆は、植民地政府に対して、種痘を受けない権利や医療を選択する自由を求めはしなかった。たんに、自分たちの生、つまり生活様式のなかに国家が入り込んでくるのを拒否していただけだ。ただし、単純な対立というわけでもない。牛痘接種そのものに対しては受け入れ可能な余地があり、種痘とともに女神シータラーへの祈りを捧げることも行われたようだ。アーノルドは、「抵抗されたのは牛痘接種そのものというよりも、むしろかなりの程度まで、唐突であり、野蛮でさえあったその付与の方法だった」と論じている(20)。
女神シータラーの導きはなくとも、同時期の英国で新救貧法という恥辱のもとでの種痘を強制された下層階級は、国家と国家医療に対して何かを要求するのではなく、国家からの分離と拒否という形での抵抗をすることが多かったはずだ。そもそも、貧民や[た?]ちが国家から期待できるのは、労働可能な貧民と労働不能な貧民を医学的に区分した上での収容と労役でしかなかった。ダーバックは、子どもの出生届を提出しなかったり、誕生日を変えて二重に出したり、ニセの住所で出したりして行政を混乱させたり、さらに引っ越しを繰り返したり、人前では子どもの本名を使わなかったりすることで、国家と医療と種痘を拒否し、逃走しようとした人びと──とりわけ母親たち──が多数いたことを記している(21)。
こう考えてみれば、一九世紀英国の反ワクチン運動は、自由と権利の言説によって鼓舞されつつも、本国での自由と権利という民主主義的な制度化に完全に取り込まれたわけではない。この揮動はその傍らで、帝国の版図のさまざまな場所において、国家と国家医療に抵抗し、ときには逃げ出した有象無象の人びとによる拒否のうねりのごく一部だったのではないか、と思えるのだ。
黒い獣の夢
──ということは、あなたは、反ワクチン運動は一八四八年の世界革命の一部だったと言いたいのですか、つまり、予防接種の拒否は解放的政治のプロジェクトになり得るとでも?
──そうですね。歴史の恣意的なねじ曲げ、それどころか奇妙な妄想のように聞こえますか。たしかに、確実な根拠はありません。ひょっとしたら、「黒い獣」に唆されて見た一夜の夢かもしれません。
──え、なんですって?
──とあるワクチンを受けた女たちの示す病状をめぐって、ヒステリーという古風な言葉が囁かれています。かつてヒステリーを男性医師たちがどう表現していたかを、ジョルジュ・ディディ=ユベルマンが紹介しています。多少長いですが引用しましょう(22)。
「私は、実証科学への自分の嗜好が満たされないこの種の病人に、あとで良心のとがめることのないよう、全神経を注がねばならなかった。あらゆる著者が一致して、不安定・不規則・夢想・突発性の典型と考え、いかなる法則・規則にも従わず、病気どうしがいかなる厳密な理論によっても結ばれていないとみなしているような病気を扱うのは最もいやな仕事であった。私は観念し、取りかかった。」
これは、フロイトが、医師にとっての黒い獣(betenoir)と呼んだ病なのです。
──それがワクチンとどう関係するのですか?
──奇妙な症状の原因については生物医学の議論が続いています。ワクチンと関係ないのか、注射の痛みがきっかけになったのか、ワクチン成分に対する副反応なのか、などです。けれども、それは、ここで扱う問題ではありません。重要なのは、黒い獣が侮蔑されていることです。そして、侮蔑の表現は結局のところ、理解も制御もできない相手への恐れから生じるものです。
──いったい何のことやら?
──格好良く表現すれば、こうなります。召喚された黒い獣は、ワクチンと反ワクチンを個人史ではなく世界史において理解するよう求め、私はそれに応えようとした、と。
──なぜまた、そんな無謀なことを?
──エピグラフにしたフーコーの引用の続きが答えになるでしょう(23)。
「そうした声に耳を傾け、その言うところを分かろうとするのに意味があるためには、そうした声が存在し、それを黙らせようとするすべてがあるというだけで十分だ」
註
(1)ミシェル・フーコー(二〇〇一)「蜂起は無駄なのか?」高桑和巳訳『ミシェル・フーコー思考集成Ⅷ 政治/友愛』筑摩書房、九八頁。文脈に合わせて訳文は変更した。
(2)一八世紀には、西アジアや中国など非西洋社会では広く行われていた人痘を用いた種痘(天然痘の患者の膿を健康な人に接種する方法)が西洋社会に伝わり、王位継承者の天然痘による死亡などのあった英国では広く受け入れられていた(ウィリアム・H・マクニール『疫病と世界史』佐々木昭夫訳、新潮社、一九八五年、二二七頁)。
(3)ミシェル・フーコーは、一九七八年一月二五日の講義で、天然痘予防のための種痘は「当時の医学理論ではまったく考えられない技術」だったが、数学や統計学によって実利的に認められて社会に拡がったと述べている(『安全・領土・人口』高桑和巳訳、筑摩書房、二〇〇七年)。個人的身体に関わる狭義の近代医学と集合的身体である人口に関わるリスクの医学には根本的な断絶がある(美馬達哉『リスク化される身体』青土社、二○一二年)。
(4)その例として、米国ではHBO製作で、ニューヨーク在住の二〇代女性ハンナを主人公とするドラマGirlsでの二〇一二年のエピソード(“All Adventurous Women Do”)が引き起こしたSNS上での議論がある(Elena Conis(2015)Vaccine Nation:America's Changing Relationship with Immunization,The University of Chicago Pressの1O章)。これは婦人科検査で、ヒトパピローマウイルス(HPV)感染の判明したハンナの困惑を描いたものだ。彼女は、イボ(尖圭コンジローマ)や子宮頸がんのリスクに怯え、他の女性への責任感から何人かの男性パートナーに感染のことを伝え、誰から移されたのかと悩み(口論し)、一生に一度は感染して無症状の女性がほとんどと知って、「冒険する女はみんな同じ」と自己肯定のtweetをする。米国では一二歳で女性だけにHPVワクチン(日本でいう「子宮頸がん」ワクチン)が推奨されていたことから、自分のこととして受けとめたティーン女性の問でさまざまに議論されたという。そこには、HPV感染とワクチンのリスク、受ける権利と受けない権利、義務化の必要性、製薬企業の営利主義(HPV啓発のための大量のコマーシャル、ワクチン価格の問題)、ジェンダーの問題(当初は女性だけだったこと、HPVに肛門がんのリスクもあるのにゲイが対象になっていないこと)、フェミニズムへのバッシング(未成年のセックス許可証になるという道徳的保守派からの批判)などが幅広く含まれていた。
(5)ある歴史家は、米国の反ワクチン運動が多くの過ちを犯したことを認めつつも「アメリカ人が疾病を克服してきた歴史を誇りに思うのと同様に、医学的な異議申立て者たちの精力的な活動の歴史を誇りに思う」とまで述べている(Robert D.Johnston(2004)Contemporary Anti-vaccination Movements in Historical Perspective,in Robert D.Johnston ed.The Politics of Healing:Histories of Alternative Medicine in Twentieth-century North America,Routledge.259-286.)。
(6)R.M.MacLeod(1967)Law,Medicine and Public Opinion:The Resistance to Compulsory Health Legislation 1870-1907(Part 1 & 2).Public Law.Summer 107-128 & Autumn 189-211.
(7)Nadja Durbach(2005)Bodily Matters:The Anti-Vaccination Movement in England,1853-1907,Duke University Press.
(8)西迫大祐(二〇一九)「19世紀イギリスの反予防接種運動における自由と権利について」『法律論叢』第九一巻第六号、三四九-三六三頁。
(9)Durbach,2005,p.13
(10)Durbach,2005,p.77
(11)Durbach,2005,p.24
(12)Martin Kaufman(1967)The American Anti-vaccinationists and Their Arguments°Bulletin of the History of Medicine 41(5):463-478.
(13)Anne L.Scott(1999)Physical Purity Feminism and State Medicine in Late Nineteenth-century England.Women's History Review 8(4):625-653.
(14)John Knott(1985)Attitudes to Death and Dissection in Early Nineteenth Century Britain:The Anatomy Act and the Poor. Labour History 49(Nov.,1985):1-18. 当時は、解剖用遺体を入手するための死体泥棒が横行していた。ピーター・ラインバウによれば、一八世紀には刑死者の死体解剖に抵抗する暴動が頻発していたという(Peter Linebaugh(2011)The Tyburn Riot Against the Surgeons.in Douglas Hay et al.ed.Albion's Fatal Tree Crime and Society in Eighteenth-Century England,Verso.,65-117)。
(15)Durbach,2005,p.53.
(16)Durbach,2005,pp.50-55.
(17)Durbach,2005,p.174.
(18)Durbach,2005,p.188.
(19)デイヴィッド・アーノルド『身体の植民地化──19世紀インドの国家医療と流行病』見市雅俊訳、みすず書房、二〇一九年、第三章。
(20)アーノルド、二○一九、一三九頁。
(21)アーノルド、二○一九、一四○頁。
(22)Durbach,2005,p.666
(23)ジョルジュ・ディディ=ユベルマン『ヒステリーの発明──シャルコーとサルベトリエール写真図像集』谷川多佳子・和田ゆりえ訳、みすず書房、二〇一四年、上巻一〇二頁。
(24)フーコー、二○○一、九九頁。文脈に合わせて訳文は変更した。
(みま たつや・医療社会学/神経科学)
SARS-CoV-2に対するワクチン開発競争が,なにをもたらすのか,
けっこう厄介なもんだいかもしれないな、と思った.
「反ワクチン」の保健所長がいた.
主張は,ちょっとわかりにくかったように思う.
まぁ,それでもワクチンには,問題があるんだと……,
ワクチン自体が引き起こす身体上の問題もあったのだろうし,
あるいは,ワクチンをなかば強制的に接種しようとする国,行政の姿勢にある種の危険を感じたかもしれない.
いつごろからか,ワクチン接種にともなう身体上の反応を,「副作用」から「副反応」と言い換えるようになった……と聞く.ちょっと正確ではないけれど.
ちょっと「イヤな感じ」のすることだった.ことばの言い換えで,ワクチンの問題が解消されるわけではないのだから.
ワクチン開発で,企業側はワクチンによる副作用などについては,国が責任を持って対処する、というような条件をつけているとメディアが報じている.もうすこしきちんと追跡してほしいな,と思うが,まぁ,定番のワクチンなどでも副作用は生じていた,今回のように,おそらくじゅうぶんな治験を実施しないままじっさいに使用するとなると,相応のリスクがありうると踏んでいるんだろう、開発側としては.
で,じっさい,どうなるんだろう.
ワクチンなどの予防接種の、優先順位が問題になった.
結局どうなったのか,どうなるのか,メディアの報道ではよくわからない.
インフルエンザの場合など、アメリカでは,はっきりと接種の優先順位が決められている,と聞いた.それは,「社会防衛」上の観点から決められていたと思う.たとえば,航空管制官,警官,消防士……の優先順位が高いのだ.
めったにない機会なのだから,この際,いろんな議論が交わされるのがいいと思うのだが,さて.
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【現代思想】2020-11
特集*ワクチンを考える
方法としての反ワクチン
美馬達哉
人は蜂起する。これは一つの事実だ。そのことによって、主体性(偉人のではなく、誰でもいい人間の主体性)が歴史に導入され、歴史に息吹をもたらす。非行者は、濫用される懲罰に抗して自分の命を賭ける。狂人は、もはや監禁され権利を剥奪されはしない。民衆は、自分たちを抑圧する体制を拒否する。そんなことをしても、それぞれ、無罪になることはなく、治ることはなく、約束された明日は保証されない。(ミシェル・フーコー)(1)
種痘と近代性
ワクチンの歴史は、一七九六年のエドワード・ジェンナーによる牛痘を用いた天然痘予防ワクチンである種痘に始まる。一八〇五年にはすでに、ナポレオンが全軍の兵士に種痘を命じたことが知られており、牛痘による種痘は一九世紀にはすばやく西洋社会と植民地化された社会に拡がった(2)。種痘が天然痘を予防する効果は絶大で、一九八〇年、世界保健機関WH0は地球上での天然痘の根絶を宣言した。それは、近代の生物医学の輝かしい勝利とされている。だが、ワクチンの社会的機能はそれだけにはとどまらない。
従来、疫病による不慮の死は逃れられない運命と考えられてきた。それをコントロール可能としたワクチンの存在は、一九世紀以降の生物医学の権威を高めるとともに、近代社会における人間の生に対する合理的な支配の一つの範例となった。その意味で、ワクチンは人間の身体に介入する生物医学的テクノロジーであるだけではなく、生きた人間を対象とする統治の登場と密接に関わり合った社会的テクノロジーとしても理解する必要がある(3)。皮膚に穴を穿たれ、そこに牛由来の奇妙なものをすり込まれる「医療行為」を人びとに耐えさせたのは、人間の身体を調教する規律訓練を可能にするような権力の上昇だったと考えられるからだ。
この点からみれば、ヨーロッパ大陸での種痘の普及を牽引したのが兵士への接種であったことは示唆的だ。致死的な疾病のワクチンによる予防が、集団的な生の力としての国力や兵力を保持し増強するのに役立つことは当然だ。だが、それだけではなく、命令一下でワクチン接種に文句を言わず協力する人びとという「従順な身体」の生産、つまり人間の生の質的な変化ともつながっていることが示されている。ワクチンは人口を量的に増大させると同時に質的に有用なものへと変化させる、つまり生物医学的かつ生政治的なテクノロジーということになる。
歴史的に見れば、人間の身体を技術的に操作可能な対象物とする近代の生物医学の出現は、人間を合理性に従わせることで生産的労働力に作り替えた近代の資本制の成立とも重なっている。そして、生物医学による身体の合理的理解や制御の進展は、摩擦無しに進んだわけではない。それは、学問によって知識が蓄積されていく直線的プロセスではないからだ。多様な身体や多様な生き方に対してときには暴力的に規律訓練が押しつけられ、国家と支配階層に対する抵抗が繰り広げられた社会的な抗争の歴史とも、生物医学は一体化している。そうした身体をめぐる争いの文脈において、強制的にワクチンを打たれることは、烙印の痛みのように感知され、貧民に課せられた強制労働ともひと繋がりになった身体への暴力的攻撃として社会的に意味づけられた。
ワクチンあるところ、反ワクチン運動あり
ここで理論的な前書きを改めて記したのは、ワクチンをめぐる議論が有効性と有害作用という生物医学の場を中心として行われている現状と距離を置くためだ。どんなワクチンであっても医薬品である以上は有害作用のリスクがゼロということはあり得ない。そして、ワクチンと関連した障害を受けたと感じる人びとの経験において、ワクチンは有害な異物でしかない。いっぽう、ワクチンが疾病のリスクを事前に予防する手法である限りは、その有効性は集合としての人口のレベルにおいて確率の数字でしか表現できない。言いかえれば、ある個人が疾病に感染しなかったり軽い症状で済んだりした場合、それがワクチンの効果なのか、その個人の運が良かっただけなのか、一〇〇%確実に客観的判別をすることはできない。ワクチン被害のリアリティとワクチン有効性の数字の間の懸隔は、互いにかみ合わないすれ違いで、人間の生死を数え上げて加減乗除する算術で解決できるものではない。その意味で、ワクチンに関する生物医学的エビデンスの有無を追究することは、ワクチン強制接種に伴って誕生した反ワクチン運動の射程を理解するには有益ではないと、私は考えている。
たとえば、日本での「子宮頸がん」ワクチンに関する論争の場合、さまざまな論点(4)があるにもかかわらず、ワクチンと有害作用に関連があるかどうかが議論の中心とされている。そうした生物医学的問いとは意図的に距離を置き、「方法としての反ワクチン」において思考することが必要なのではないか。
そこで、ここでは、一九世紀に行われた国家レベルでのワクチン接種──とりわけ強制種痘──の導入とともに人びとの間に出現した反ワクチン運動を、人間の生に根ざした社会的不服従の文脈に置き直して取り上げたい(5)。それは、現代日本での反ワクチン運動をめぐる議論に側面からの光を当てることにもなるだろ。
当時の反ワクチン運動は、現在から顧みれば、愚かな人びとによる一時的な騒ぎに過ぎなかったようにみえる。だが、最初に国家レベルで制度化されたワクチンに対する民衆の執拗な反乱として、個人的反抗ではなく組織的な社会運動として繰り広げられていた。そのなかには、ワクチンから逃れるためにありとあらゆる手練手管を弄し、国家や支配階級の意のままにならぬことを決意した身体たちが姿を現している。反ワクチン運動のなかに、解放的な社会的潜勢力を見出そうとする本稿にとって、一九世紀の反種痘運動は、生物医学的には無知蒙昧な歴史の敗者であるからこそ、「方法としての反ワクチン」の一層有用な事例となるとさえ断言できる。
一八五〇年代に始まり一九世紀後半に最高潮に達する英国での反ワクチン運動についてR・M・マクラウド(6)の研究やナジャ・ダーバックの『身体の問題』(Bodily Matters)(7)による詳細な分析があり、西迫大祐による紹介と考察(8)も存在する。英国史研究者でもない私が、史実としてそれらの先行文献に追加すべきものはない。だが、ここで注目したいのは、個人の自由や権利と国家による強制との対立という図式とは少しずれた要素──拒否の戦略の存在である。
一九世紀英国の反ワクチン運動
英国で最初の「予防接種法(Vaccination Act)」が制定されたのは一八四〇年だった。その内容は、種痘以前に民間で行われていた人痘法を禁止し、貧民に対しては無料の種痘接種を貧民監督官の管理の下で提供するというものだった。なお、人痘法とは、天然痘患者の膿や瘡蓋を使った接種手法で、人間の天然痘ウイルスを使用するため、ときには強毒化し、天然痘流行を引き起こすリスクもあった。しかし、無料であっても種痘を受ける率は向上せず、その後も英国での天然痘の流行は繰り返されていた。この状況に対して、一八五三年には、子どもに対する種痘を親に対して義務づけ、それを怠った場合には罰金刑を科する強制規定が作られた。
国家の感染症(予防)に対する関心の背景には、インドが植民地化されたことで世界に拡がるパンデミックとなったコレラがあった。一九世紀のコレラは世界的な流行を繰り返し、一八三二年には英国でも流行を引き起こしていた。また、産業革命以降の貧富の格差の拡大で生まれた都市のスラム地区では、下層階級の問で発疹チフスが蔓延していた。コレラは、そうした状況のなかで流行を引き起こしたのだ。その一方で、一八四〇年代は、ロンドンでの上下水道の整備などエドウィン・チャドウィックによる公衆衛生改革が行われた時代でもあった。つまり、国家と支配階層にとって、とくに下層階級をターゲットにした感染症のコントロールは重要な課題であり、強制的な予防接種もそうした社会政策の一つとして位置づけられていたのだ。
だが、種痘の強制は、一九世紀後半の英国社会を広範に巻き込んだ強力な反対運動を引き起こすことになった。折しも、一八四八年革命の衝撃が西洋社会を大きく揺り動かし、英国では普通選挙を求めるチャーチスト運動やアイルランド独立運動など大衆的な政治活動が活発だった時期だ。
反ワクチン運動の主張の一例として、ダーバックは、一八六六年に反強制予防接種同盟(Anti-Compulsory Vaccination League)を設立するジョン・ギブスによる予防接種法批判の発言(一八五四年)を次のように要約している(9)。
国家による「自由の身に生まれた英国人」に対する医療処置の強制は、男女を問わず個人が自分の身体への権利を失う危険な新時代へと私たちを導くと思われる。さらにギブスは、「自由の王国の知性を有する人間」が「医療専門家の惨めな奴隷」に落ちぶれるとは、と挑戦的に問いかける。
ここに示されている医学的専制主義(medical despotism)に対する批判と医学的自由(medical liberty)の擁護という政治的テーマは、当時の反ワクチン言説の中心を占めていたものだ。「予防接種に一撃を/自由を高らかに/国中にこだまを響かせ/英国人は自由だ」との反ワクチン運動ソングまであったという(10)。
国家と医療の関連でいえば、予防接種法の制定は、国家が医療を正しいかどうか判断して規制する「国家医療(state medicine)」という面で、英国における重要な転機となっていた。一八四〇年法では、危険と判断された人痘法は禁止され、牛痘による種痘のみが推奨された。これは、医療実践の内容に対する国家規制である。また、その後、一八五三年に強制接種になった際には、種痘を行うこと自体は誰でも可能とされていたものの、国家にその対価を請求できるのは「法的に資格のある医学専門家」だけと規定されていた(11)。もっとも当時はまだ医師免許制度は無く、その後一八五八年に初めて、正式な国家レベルでの免許制度が創設されている。自由主義の思想からみれば、それは英国医師会に所属し生物医学を奉じる医師による医療の独占であり、排他的なギルドと同様と見なされた。
反ワクチン運動の担い手たち
国家と結びついた医療専門家への反発は、反ワクチン運動の基盤となっていた。強制接種に反対し、個人の自由と権利の尊重を唱えていた中産階層の人びとには、薬草療法や水治療法(ハイドロパシー)などの非正統的医療の担い手や支持者も多かったことが知られている(反ワクチン運動の指導者の一人ギブスは水治療者だった)。ただし、当時の近代医学では、内科的には瀉血と下剤が多用され、外科手術での感染による死亡率は高かった(ジョゼフ・リスターによる消毒法が使われるようになり、外科手術が比較的安全になるのは一八七〇年代)。そのため、もし仮にエビデンスで考えれば、有効性はともかく、非正統医療のほうが有害ではなかったとは言えるだろう。なお、二〇世紀初頭に米国で盛り上がつた反ワクチン運動では、西洋の代表的な非正統医療の一つホメオパシーが重要な役割を果たした(12)。
また、一九世紀後半では、近代の生物医学の基本となる細菌学説は確立しておらず、伝染病の原因として環境要因(ミアスマやコンスティテューション)を重視する考え方も有力だった。そうした衛生主義者は、ワクチンよりも公衆衛生や都市環境の改善を重視していた。健康な空気と水を行き渡らせることで、健康な身体を形作れば、それが伝染病の予防に役立つと主張していたのだ。実際、一九世紀ロンドンでの都市衛生の整備は、細菌学説に批判的な衛生主義者によって主導され、コレラの制圧にめざましい成果を上げた。
さらに言えば、英国全体で見れば、都市部での発疹チフスやコレラの流行のほうが、天然痘よりも喫緊の健康問題であった。ワクチンで予防可能かどうかという事実判断と、その予防法を公共政策として優先すべきかどうかという価値判断とは異なり得る。
また、反ワクチン運動は、国家と支配階層による暴政のシンボルとしての強制種痘に反対する対抗文化の中心としても位置づけられていた。コミュニティの相互扶助を基盤とするさまざまな団体、たとえば、労働組合やチャーチスト運動、初期の生活協同縄合などに支持者がいたほか、英国国教会に対抗する宗教的少数泳(クエイカーなど)や心霊主義者も、そこには含まれていた。宗教的な反ワクチン運動において、強制種痘は国家による(カトリック風の)幼児洗礼のようなものとして批判され、宗教的寛容と信教の自由と同じ論理のなかで、医学的自由が主張された。
女性の地位向上や女性参政権を主張する初期のフェミニズム運動も、反ワクチン運動の支持者だった(13)。フェミニズム運動はとくに、予防接種法とともに「接触伝染病予防法(Contagious Disease Act)」(一八六四年)に強く反発し、国家と医師による恣意的な取り扱いから子どもと女性を守るための運動として位置づけていた。接触伝染病予防法とは、当時の性道徳に従った婉曲な言い回しで、実際には梅毒など性行為感染症の管理を通じた売買春の国家管理を目的としていた。その内容は、軍駐屯地などで売買春を行う女性に対して、警察の取り締まりによる性行為感染症の検査と指定された専用病院(Lock Hospital)への強制入院を義務づけるものだった(一八八六年には廃止される)。
下層階級の貧民たちにとっての種痘は、「新救貧法(一八三四年)」のもとでの強制の一つと見なされた。貧民を対象とする無償の種痘は、新救貧法の枠組みで貧民監督官によって課されていたからだ。院外救貧の禁止と劣等処遇の原則で知られる新救貧法は、救済に値しない「働ける貧民」に労役所での労働を強制し、「働けない」として医学的に選別された貧民を救済に値するとして施設収容するものであった(待遇は最下層労働者以下)。当時の貧民は、無慈悲で屈辱的な社会政策として新救貧法の対象となることを拒み、激しく抵抗していた。また、当時は医学教育用の解剖用遺体が不足していたため、身寄りの無い貧民は死後に解剖用遺体として扱われる(一八三二年の「解剖法(Anatomy Act)」に始まる)(14)との規定も存在していた。これも、身体への医学的な暴虐と受け取られ、国家と医療の結びつきへの強い不信と反発を招く背景となった。
反ワクチン運動の「勝利」
英国での反強制予防接種同盟の力の見せ場となったのは、種痘拒否の罰金支払いを拒否した人びとの差し押さえ資産の公売だった(15)。反ワクチン運動の支持者は、公売人を公然と脅迫し、大挙して公売場に押しかけ、種痘を批判する示威行動を行い、最終的には同盟が罰金を支払って持ち主に差し押さえ物品を返還するというパターンが、各地で繰り返された。こうした理由から公売人のなり手がおらず、警官隊に保護されて遠方の都市からリクルートされていたという。種痘も罰金も拒否して収監を選んだ反ワクチン運動の支持者たちは自らを、当時のアイルランド独立派の政治的囚人と同様に、自己の信念に基づいて行動する「良心的反対者(conscientious objector)」と位置づけ、一般犯罪者とは異なる取り扱いを要求し、一九世紀末にはそれを認められた(16)。
さらに、一八九八年の予防接種法改正では、信念から「真摯に反対する」者に対しての種痘の義務からの免除が認められた。当初、その運用は、反ワクチンの信念の真摯さを示すために判事の前で証言し、正式の証明書(発行手数料を伴う)が必要という複雑なシステムであった。だが、一九〇七年改正によって証明書は不用となり、強制的な種痘は英国では廃止される(17)。
以上をまとめれば、たしかに国家による強制に反対する人びと(「自由の身に生まれた英国人」)が個人の権利と自由を守った物語のようにみえる。だが、それだけではなさそうだ。
その点を探るために、ここに、植民地として英国の支配下にあったインドでの状況を重ね合わせてみよう。インドでは、一八八〇年に牛痘接種法が制定されたものの、その適用地域は一部の大都市と軍駐屯地に限られていた。しかも、インド民衆の反感や反乱を恐れていた政府は、種痘の義務化に極めて慎重だった(18)。もともと、インドでは、専門の宗教的治療者による子どもへの人痘接種が、天然痘の女神シータラーと結びついた宗教儀礼として、一般化していたからだ。歴史家デヴィッド・アーノルドは、「牛痘接種は、イギリスの邪悪な意図と、陵辱され破壊される危機にあるインド的なもの、そして聖なるものとの闘争の現場として理解されたのである」と表現している(19)。そのため、二〇世紀後半の国際的な天然痘撲滅運動が盛り上がり、独立後のインド政府自身による予防接種の組織化が行われるまで、種痘の義務化は進まなかった。
当然のことながら、植民地において、女神シータラーに信を置く民衆は、植民地政府に対して、種痘を受けない権利や医療を選択する自由を求めはしなかった。たんに、自分たちの生、つまり生活様式のなかに国家が入り込んでくるのを拒否していただけだ。ただし、単純な対立というわけでもない。牛痘接種そのものに対しては受け入れ可能な余地があり、種痘とともに女神シータラーへの祈りを捧げることも行われたようだ。アーノルドは、「抵抗されたのは牛痘接種そのものというよりも、むしろかなりの程度まで、唐突であり、野蛮でさえあったその付与の方法だった」と論じている(20)。
女神シータラーの導きはなくとも、同時期の英国で新救貧法という恥辱のもとでの種痘を強制された下層階級は、国家と国家医療に対して何かを要求するのではなく、国家からの分離と拒否という形での抵抗をすることが多かったはずだ。そもそも、貧民や[た?]ちが国家から期待できるのは、労働可能な貧民と労働不能な貧民を医学的に区分した上での収容と労役でしかなかった。ダーバックは、子どもの出生届を提出しなかったり、誕生日を変えて二重に出したり、ニセの住所で出したりして行政を混乱させたり、さらに引っ越しを繰り返したり、人前では子どもの本名を使わなかったりすることで、国家と医療と種痘を拒否し、逃走しようとした人びと──とりわけ母親たち──が多数いたことを記している(21)。
こう考えてみれば、一九世紀英国の反ワクチン運動は、自由と権利の言説によって鼓舞されつつも、本国での自由と権利という民主主義的な制度化に完全に取り込まれたわけではない。この揮動はその傍らで、帝国の版図のさまざまな場所において、国家と国家医療に抵抗し、ときには逃げ出した有象無象の人びとによる拒否のうねりのごく一部だったのではないか、と思えるのだ。
黒い獣の夢
──ということは、あなたは、反ワクチン運動は一八四八年の世界革命の一部だったと言いたいのですか、つまり、予防接種の拒否は解放的政治のプロジェクトになり得るとでも?
──そうですね。歴史の恣意的なねじ曲げ、それどころか奇妙な妄想のように聞こえますか。たしかに、確実な根拠はありません。ひょっとしたら、「黒い獣」に唆されて見た一夜の夢かもしれません。
──え、なんですって?
──とあるワクチンを受けた女たちの示す病状をめぐって、ヒステリーという古風な言葉が囁かれています。かつてヒステリーを男性医師たちがどう表現していたかを、ジョルジュ・ディディ=ユベルマンが紹介しています。多少長いですが引用しましょう(22)。
「私は、実証科学への自分の嗜好が満たされないこの種の病人に、あとで良心のとがめることのないよう、全神経を注がねばならなかった。あらゆる著者が一致して、不安定・不規則・夢想・突発性の典型と考え、いかなる法則・規則にも従わず、病気どうしがいかなる厳密な理論によっても結ばれていないとみなしているような病気を扱うのは最もいやな仕事であった。私は観念し、取りかかった。」
これは、フロイトが、医師にとっての黒い獣(betenoir)と呼んだ病なのです。
──それがワクチンとどう関係するのですか?
──奇妙な症状の原因については生物医学の議論が続いています。ワクチンと関係ないのか、注射の痛みがきっかけになったのか、ワクチン成分に対する副反応なのか、などです。けれども、それは、ここで扱う問題ではありません。重要なのは、黒い獣が侮蔑されていることです。そして、侮蔑の表現は結局のところ、理解も制御もできない相手への恐れから生じるものです。
──いったい何のことやら?
──格好良く表現すれば、こうなります。召喚された黒い獣は、ワクチンと反ワクチンを個人史ではなく世界史において理解するよう求め、私はそれに応えようとした、と。
──なぜまた、そんな無謀なことを?
──エピグラフにしたフーコーの引用の続きが答えになるでしょう(23)。
「そうした声に耳を傾け、その言うところを分かろうとするのに意味があるためには、そうした声が存在し、それを黙らせようとするすべてがあるというだけで十分だ」
註
(1)ミシェル・フーコー(二〇〇一)「蜂起は無駄なのか?」高桑和巳訳『ミシェル・フーコー思考集成Ⅷ 政治/友愛』筑摩書房、九八頁。文脈に合わせて訳文は変更した。
(2)一八世紀には、西アジアや中国など非西洋社会では広く行われていた人痘を用いた種痘(天然痘の患者の膿を健康な人に接種する方法)が西洋社会に伝わり、王位継承者の天然痘による死亡などのあった英国では広く受け入れられていた(ウィリアム・H・マクニール『疫病と世界史』佐々木昭夫訳、新潮社、一九八五年、二二七頁)。
(3)ミシェル・フーコーは、一九七八年一月二五日の講義で、天然痘予防のための種痘は「当時の医学理論ではまったく考えられない技術」だったが、数学や統計学によって実利的に認められて社会に拡がったと述べている(『安全・領土・人口』高桑和巳訳、筑摩書房、二〇〇七年)。個人的身体に関わる狭義の近代医学と集合的身体である人口に関わるリスクの医学には根本的な断絶がある(美馬達哉『リスク化される身体』青土社、二○一二年)。
(4)その例として、米国ではHBO製作で、ニューヨーク在住の二〇代女性ハンナを主人公とするドラマGirlsでの二〇一二年のエピソード(“All Adventurous Women Do”)が引き起こしたSNS上での議論がある(Elena Conis(2015)Vaccine Nation:America's Changing Relationship with Immunization,The University of Chicago Pressの1O章)。これは婦人科検査で、ヒトパピローマウイルス(HPV)感染の判明したハンナの困惑を描いたものだ。彼女は、イボ(尖圭コンジローマ)や子宮頸がんのリスクに怯え、他の女性への責任感から何人かの男性パートナーに感染のことを伝え、誰から移されたのかと悩み(口論し)、一生に一度は感染して無症状の女性がほとんどと知って、「冒険する女はみんな同じ」と自己肯定のtweetをする。米国では一二歳で女性だけにHPVワクチン(日本でいう「子宮頸がん」ワクチン)が推奨されていたことから、自分のこととして受けとめたティーン女性の問でさまざまに議論されたという。そこには、HPV感染とワクチンのリスク、受ける権利と受けない権利、義務化の必要性、製薬企業の営利主義(HPV啓発のための大量のコマーシャル、ワクチン価格の問題)、ジェンダーの問題(当初は女性だけだったこと、HPVに肛門がんのリスクもあるのにゲイが対象になっていないこと)、フェミニズムへのバッシング(未成年のセックス許可証になるという道徳的保守派からの批判)などが幅広く含まれていた。
(5)ある歴史家は、米国の反ワクチン運動が多くの過ちを犯したことを認めつつも「アメリカ人が疾病を克服してきた歴史を誇りに思うのと同様に、医学的な異議申立て者たちの精力的な活動の歴史を誇りに思う」とまで述べている(Robert D.Johnston(2004)Contemporary Anti-vaccination Movements in Historical Perspective,in Robert D.Johnston ed.The Politics of Healing:Histories of Alternative Medicine in Twentieth-century North America,Routledge.259-286.)。
(6)R.M.MacLeod(1967)Law,Medicine and Public Opinion:The Resistance to Compulsory Health Legislation 1870-1907(Part 1 & 2).Public Law.Summer 107-128 & Autumn 189-211.
(7)Nadja Durbach(2005)Bodily Matters:The Anti-Vaccination Movement in England,1853-1907,Duke University Press.
(8)西迫大祐(二〇一九)「19世紀イギリスの反予防接種運動における自由と権利について」『法律論叢』第九一巻第六号、三四九-三六三頁。
(9)Durbach,2005,p.13
(10)Durbach,2005,p.77
(11)Durbach,2005,p.24
(12)Martin Kaufman(1967)The American Anti-vaccinationists and Their Arguments°Bulletin of the History of Medicine 41(5):463-478.
(13)Anne L.Scott(1999)Physical Purity Feminism and State Medicine in Late Nineteenth-century England.Women's History Review 8(4):625-653.
(14)John Knott(1985)Attitudes to Death and Dissection in Early Nineteenth Century Britain:The Anatomy Act and the Poor. Labour History 49(Nov.,1985):1-18. 当時は、解剖用遺体を入手するための死体泥棒が横行していた。ピーター・ラインバウによれば、一八世紀には刑死者の死体解剖に抵抗する暴動が頻発していたという(Peter Linebaugh(2011)The Tyburn Riot Against the Surgeons.in Douglas Hay et al.ed.Albion's Fatal Tree Crime and Society in Eighteenth-Century England,Verso.,65-117)。
(15)Durbach,2005,p.53.
(16)Durbach,2005,pp.50-55.
(17)Durbach,2005,p.174.
(18)Durbach,2005,p.188.
(19)デイヴィッド・アーノルド『身体の植民地化──19世紀インドの国家医療と流行病』見市雅俊訳、みすず書房、二〇一九年、第三章。
(20)アーノルド、二○一九、一三九頁。
(21)アーノルド、二○一九、一四○頁。
(22)Durbach,2005,p.666
(23)ジョルジュ・ディディ=ユベルマン『ヒステリーの発明──シャルコーとサルベトリエール写真図像集』谷川多佳子・和田ゆりえ訳、みすず書房、二〇一四年、上巻一〇二頁。
(24)フーコー、二○○一、九九頁。文脈に合わせて訳文は変更した。
(みま たつや・医療社会学/神経科学)
2020-10-27 22:37
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