本日は「日本国憲法の施行を記念し、国の成長を期する日」だが、何故か米国製の現憲法を頂戴した有難い日となっている。「憲法記念日」との名称は「終戦記念日」と同じく戦後民主主義教育に因る洗脳である。

 国の成長を期する日であれば、国の成長を阻害する元凶でもある現憲法を見直すことは当然のこと。ならば、名称も「憲法記念日」より、我が国の正統な国法である欽定憲法の復元改正を「祈念する日」が相応しい。

 護憲派は幼稚な平和主義を掲げて「九条」を死守しようと叫び、営業保守派や自称・愛国者らは「九条」は領土主権を守る上でも早々に改正すべきであると主張する。どちらも「九条」こそが重要だと認識しているが、それは目指してる方向が同じだということに気付くべきだし、九条改正こそ究極の護憲運動でもある。

 営業保守や自称・愛国者らの謀る「取り敢えず改憲派」にしても、「九条の会」ら護憲派にしても、第九条が本丸と思っている点では同じ穴の狢というのが正しい。九条を改正することで現憲法が絶対的な存在となる。

 現憲法は最早、国の最高法規として機能しておらず矛盾だらけのクソ憲法と化している。矛盾の最たるものが前出の第九条なのは確かだ。戦争の放棄と非武装を論拠に誤憲派は「平和憲法」と信じて疑わない。

 現憲法前文では「平和を愛する諸国民の信義と公正」を重んじて国の在り方を論じている。つまりは悪いことをする者はいないという前提で憲法が制定されているのだが、この前文を遵守すれば犯罪者が出ることもなく、拠って警察も必要ない。だが現実には、警察組織によって治安や公共の福祉が守られているのだ。

 憲法とは「法律」ではなく、国家の理想を留めた「法」である。法律では無い故に罰則規定はない。憲法に書かれてあるのは国家の国民の理想であり、それを基に現実に対処するのが政治である。然らばこの国家の基本法が間違いだったり、時代遅れであるならば政治も混迷を深める。現在の政治の混迷の元凶は現憲法なのだ。

 第九条第一項で「日本国民は正義と秩序を基調とする国際平和を誠実に希求し、国権の発動たる戦争と武力による威嚇または行使は国際紛争を解決する手段としては永久に放棄する」としながら、第二項で「前項の目的を達成する上で陸、海、空の戦力は保持しない。また国の交戦権これを認めない」とは理解に苦しむ。

 これに従えば、悲しい事に自衛隊は本来は認められず、憲法違反の存在なのだ。安倍首相はこの九条に(その二)を加えて自衛隊を「我が国を防衛する為の必要最小限の実力組織」であると、その存在の明文化を企む。

 九条を遺して、新たに自衛隊の存在を「必要最小限の実力組織」と規定するという。こうしたインチキ改正案を営業保守派や自称愛国者らが支援する。尖閣列島の危機を訴え、九条の改正を図るというが、国会議員の発議さえも儘ならないのに、国民の過半数の同意なんぞ何時になるやら。その間に尖閣が奪われてしまうぞ。

 嘗て三島由紀夫は「檄」に於いて「最も名誉を重んずるべき軍が、最も悪質な欺瞞の中に放置され・・・国軍たりえず、建軍の本義を与えられず、警察の物理的に巨大なものとしての地位しか与えられず」と喝破した。

 未だに自衛隊とは三島が憂いた通り「警察の物理的に巨大なものとしての地位」の立場の儘であるのだ。安倍はそれを不条理と認識せずに過去の過ちを正当化するが如く現憲法に附帯しようとしてるのだ。

 自らの国家の防衛をも否定する矛盾だらけの現憲法に何故拘るのか。自衛隊を誇りある「国軍」とすることに何を、何に躊躇し、誰に憚るというのか。蔓延する全ての捩れや不条理は現憲法が元凶である。

 歴代首相の靖國神社への参拝が第二十条違反。私学助成金制度は第八十九条違反。田中角栄が日中国交条約を締結した際に「日華国交条約」を破棄したが、第九十八条には「いかなる理由があろうとも、日本が締結した条約は破棄してならない」とあり、日華国交条約の蹂躙が憲法違反であることは明らか。

 この田中による憲法違反に対して護憲派から抗議されたり問題にされたことは一度足りとも無い。要は、九条の会を始めとした護憲派の活動が如何にインチキかが分かるだろう。田中の前例に倣えば改憲は容易だ。

 改正要綱が第九十六条にあり「国会議員の三分の二以上が発議し国民の過半数の同意」で憲法改正出来るとあるが、これに基づき発議すれば第九十九条の「天皇及び摂政、国務大臣、全ての公務員は憲法を遵守しなければならない」の条項に抵触し、改憲発議自体、憲法を遵守していないことに問われることになる。

 右翼に限らず、国民には結社の自由や集会の自由、表現の自由が保障されているが、街宣するには道路使用許可が必要で、音量も規制される。国会議事堂周辺での街宣は静穏保持法案によって禁止されている。これらは明らかに憲法に抵触するもので、今や憲法は道交法や刑法より軽い法律と見做されているのだ。

 第六十六条の所謂「シビリアンコントロール」の条文には「内閣総理大臣その他の国務大臣は、文民でなければならない」とあるが、抑々、日本国憲法が制定されて戦力を保持することは出来なかったし、当時、軍隊(日本軍)は既に解体され国民は全て文民だった訳で、この条項はGHQの錯覚に因るものである。

 成文憲法のある世界の国の中で最も古いのは1789年の米国。次いでノルーウェー、ルクセンブルグ、スイスと続く。昭和22年制定の日本は15番目となっている。ところが米国、ノルーウェー、スイス、ドイツ、フランス、イタリア、韓国は幾度となく憲法改正を実施しており、メキシコに至っては400回以上も改正している。

 つまり、一字一句改正が成されていない日本国憲法というのは今や世界で最も古い憲法でもあるのだ。古くてもその憲法が立派であれば問題はないが、現憲法は日本人の智慧や叡智が全く入っておらず、国の基本法としては機能もしていない。正しく現憲法は「亡国憲法」「クソ憲法」と言うべき代物である。

 何処の国でも時代の流れに応じて憲法を変えていくものだ。環境問題、情報公開、プライバシー保護、国家の安全等々、日本国憲法を施行した昭和時代からは想像もしなかった程に社会は変化している。

 一刻も早く現憲法を破棄し、日本国民の手による日本国民の為の憲法制定を急がなくてはならないのであるが、未だ頓挫したままだ。 改正議論が進まない理由の一つに「護憲派」の抵抗があるのは言わずもがな。

 また、憲法第九条の「戦争放棄に関する条項」は世界大戦後、国連が勧めた「不戦条約」がその源であり、日本や米国、英国、仏国、伊国など多くの国が締結している。しかし、戦争放棄の国際条約を結んで世界から戦争が無くなったかというと、皮肉な事に条約とは全く正反対の道を歩んで往ったのである。

 平和主義を憲法で謳っている国は80ヶ国以上在り、イタリア、スペイン、ハンガリー、エクアドル、フィリピンは日本と同じ規定がある。護憲派は「世界で唯一の平和憲法」と賛美しているが、これこそ日本人の無知と奢り以外の何ものでもない。この現実を見れば「護憲」は「誤憲」であることに気付くだろう。人権・平和団体の連中に共通するものは、物事の見方が実に薄っぺらで実に腹立たしいものばかり。

 前述した通り、現憲法は改正などというレベルの話ではない。早急に破棄し自主憲法を制定する以外に無く、また新憲法制定より、大日本帝国憲法(欽定憲法)を復元し、時代を鑑み改正するのが最良である。

 因みに、大日本帝国憲法を「悪の権化」であるとか、大東亜戦争勃発の要因と考えてる人の多くが条文を読んでいないが、大日本帝国憲法こそ日本人(先人)の智慧と叡智が詰まった我が国の正統な国法である。

 大日本帝国憲法での改正条項は「(国民の代表である)国会議員の3分の2以上の出席且つ3分の2以上の賛成で成立する」とあり、実に分かり易く、態態、国民投票法案を成立させてまでやる必要はない。 

 保守派や自称・愛国者らに現憲法否定の理由を聞けば「米国から押し付けられた憲法だから」という声が少なくない。だが、米国から押し付けられたものは憲法だけではない。戦後民主主義にしろ、営利至上主義の新自由主義の経済理論にしろ、戦後の平和や繁栄にしろ、日本人の価値観に至るまで米国製だ。「押しつけ」がダメなら、米国から押し付けられている全てのもの、我が国に蔓延る米国製の全てを否定すべきであろう。

 我が国の重苦しい閉塞感や欠落している国家の大本を取り戻す上で、隘路を切り開くには現憲法を見直す以外には手は無い。領土主権を死守する上でも憲法改正では間に合わないし、何より皇統を護れない。

 現憲法で得たものは成否は別として「自由主義」「民主主義」「人権尊重」「平和主義」と、今日の基を築いたと言っても好いだろう。また、朝鮮戦争やベトナム戦争への参戦を回避出来たのも現憲法の御蔭だろう。

 だが、逆に失ったものは多い。「礼節」「長幼の序」「忍耐」「我慢」「滅私奉公」「信義」「忠義」「孝養」「恥」・・・数え挙げたら限がない。失ってしまったものが現憲法の所為かどうかは分からないが、日本人はいつの間にか利己的なことを恥じない人間ばかりが殖え、自己犠牲の精神など皆無に等しくなった。

 己を犠牲にして他人に尽くすことこそ日本人たる所以であり、美徳美風といえうものなのだが、今や心の中の高貴さを失い、高邁な知性の磨きを様を忘れ、目先の価値観と目先の欲望に溺れてしまったのは、敗戦後の占領政策以降であり、やはり国家の基本法が間違っていたからだ。 

 現憲法を「米国の押し付け憲法」と言うのは容易い。現実は米国からの強要ではあり、制定過程に問題が無い訳ではないが、大日本帝国(明治欽定)憲法第七十三条に因る改正手続きによって施行されたものだ。

 だが、占領軍の統治の下でその国の憲法を改正したということは国際法違反であるのは事実。ハーグ陸戦条約では、主権が回復しない占領下での憲法制定は「占領基本法」でしかないというのが国際的な認識である。

 昭和二十年十一月三日の日本国憲法の公布式に於いて、畏くも昭和天皇は「朕は、日本国民の総意に基いて、新日本建設の礎が、定まるに至つたことを、深くよろこび、枢密顧問の諮詢及び帝国憲法第七十三条による帝国議会の議決を経た帝国憲法の改正を裁可し、ここにこれを公布せしめる」と裁可なされた。

 当時、悲しい哉、我が国は連合国の占領下に在り、政府にしてみれば不本意ではあるが米国の様々な条件を呑まざるを得なかったというのが真相である。現憲法が帝国憲法七十三条に拠る改正であるなら安易な憲法改正は逆効果。結果的に現憲法を絶対なものとして認めてしまうことになってしまうのだ。

 抑々現憲法は主権回復と共に失効しており、旧帝国憲法の復元・改正こそ我が国の執るべき道である。右翼陣営の中にも「憲法改正」と「自主憲法制定」を一緒くたにしている者も見受けるが実に情けない。

「自主憲法制定や欽定憲法復元改正なんてとてもじゃないが無理。だったら取り敢えず改憲を目指すことの方がベストだ」という声も多い。「日本会議」がそうだし、安倍自民党の改憲も同じ認識だ。

 自民党は改憲政党ではない。改憲への突破口として「第九十六条改正」を目論み、その後に党是である新憲法の制定を目指しているのであれば、その手法は姑息であり、誤りであると言わねばなるまい。

 九十六条の改憲発議条項を緩和するということは、万が一、共産党などの革命亡国政権が樹立した場合、再改憲や天皇条項の削除も容易になるという危険も孕んでいることを須らく自覚すべし。

 国柄や国體と皇統を護り抜く上でも、「第一条」に対する共産党の「我々が天皇制に反対していることを以ても国民の総意ではなく、つまり天皇の存在は違憲である」という屁理屈を指弾し、更に「女系天皇」論や「女性宮家」に通じる「第二条」を議論することにより、現憲法の不敬さと不当性を明らかにしなければならない。

 5月3日は現憲法を「記念」する日ではなく、祖国日本の成長を期すのであれば新憲法の制定や正統な国法である大日本帝国憲法の復元・改正を国民の総意として心から「祈念」する日であらねばならない。

 ザ・右翼ジャーナル社々主 佐久間五郎