昭和20(1945)年8月14日、我が国はポツダム宣言を受諾。そして9月2日、降伏文書に調印した。米国を始めとした連合国ではこの翌日の9月3日を「対日戦争終結記念日」や「第二次世界大戦(太平洋戦争)終戦の日」として祝っている。つまり、8月15日を「終戦記念日(終戦の日)」というのは誤りである。
9月2日、東京湾上に停泊してた戦艦ミズーリの甲板上での降伏文書への調印の為に重光葵外相と梅津美次郎参謀総長らが参列。右足が不自由な重光は義足を引き摺りながらステッキを頼りに細い階段を喘ぎ喘ぎ上る。
重光外相の右足は昭和7年4月29日「上海天長節爆弾事件」により失った。甲板に辿り着いた重光外相は、調印を前に一杯の水を所望するも「卑怯者のジャップに飲ませてやる水などない」と冷たく拒否される。
「上海天長節爆弾事件」とは朝鮮独立運動家・尹奉吉に因る爆弾テロ。重光は当時、駐中華民国公使として天長節奉祝式典に参列していた。国歌を斉唱が始まると同時に参加者に向けて尹奉吉が爆弾を投擲した。重光はその場から逃げることなく国歌「君が代」を歌い続け、結果として片足を失うこととなった。
重光はこの事件を振り返り、「爆弾が投げられたのは分かっていたけれど、国歌斉唱中なので動かなかった。動くのは不敬であると考えた」と述べている。 同じく、重光の隣で遭難し片目を失った海軍大将・野村吉三郎(後に駐米大使に就任)も「国歌斉唱中だったから逃げなかった」と同様の理由を語っている。
野村や重光はその後に外相や駐米大使となるが、現在の政治家でこの二人の様なこうした決死の覚悟と肝の据わった官僚や政治家がいるだろうか。我が国政治の不幸は正に国家観と覚悟無き政治家が元凶である。
「君が代」「日の丸」に反対する勢力は国旗国歌を重んじることなく、自称・愛国者や保守派にしても国旗国歌を軽々しく利用するが、重光や野村の様な決死の覚悟が伴っているかといえばそれもまた疑問である。
 
昭和20年9月2日、降伏文書の署名に因って我が国は正式に「負け」を認めたが、先の大東亜戦争の大義は決して間違ってはいない。抑抑、何故に我が国が米英相手に開戦を決意し真珠湾攻撃に至ったかが問題であり、それには少なくてもペリー来航時代のアジア近代史にまで遡らなければ到底理解は出来まい。
我が国は西欧列強に倣い、強力な中央集権国家を形成する為に明治維新の大業を短期間で成し遂げた。15世紀の大航海時代以来、白人による世界制覇の波がアジアにも押し寄せ、アジアは次々と列強に蚕食され植民地となった。その間に勃発した「日清・日露戦争」や「日韓併合」も避けては通れない宿命的な歴史だった。
「日清・日露戦争」での日本大勝利の報は、固唾を呑んで見守っていた世界の人々を驚嘆させ、特に有色人種に与えた影響は強烈だった。一方で、欧米では日本人に対する脅威が横溢し「黄禍論」が巻き起こってくる。
日露戦争勝利から15年後、パリ講和会議で日本は「人種平等の原則」を国際連盟規約に載せることを提案するも、議長を務める米国大統領ウイルソンは「有色人種に人権など必要無い」との差別や蔑視から否決される。
その後、世界は第二次世界大戦に突入し、我が国はABCD包囲網に因って四面楚歌に陥り、最後通牒である「ハルノート」を突き付けられると「最早生き残る道は連合国との戦争しかない」との決断に至るのだ。
今も糾弾して止まない「リメンバーパールハーバー」は、日本人への偏見と差別と歴史への冒涜であり、対日戦勝利を祝ってる場合ではなかろう。先の大戦の過ちを猛省すべきは米国自身である。
我が国が戦争に至る要因は、昭和16年12月8日渙発の「開戦の詔勅(米英両国ニ対スル宣戦ノ詔書)」に明示されている。この大戦への大義がこの日を以て全否定され戦争に至ったのだ。詔勅の一部を列記してみる。
【中華民國政府曩ニ帝國ノ眞意ヲ解セス濫ニ事ヲ構ヘテ東亞ノ平和ヲ攪亂シ遂ニ帝國ヲシテ干戈ヲ執ルニ至ラシメ茲ニ四年有餘ヲ經タリ幸ニ國民政府更新スルアリ帝國ハ之ト善隣ノ誼ヲ結ヒ相提携スルニ至レルモ重慶ニ殘存スル政權ハ米英ノ庇蔭ヲ恃ミテ兄弟尚未タ牆ニ相鬩クヲ悛メス米英両國ハ殘存政權ヲ支援シテ東亞ノ禍亂ヲ助長シ平和ノ美名ニ匿レテ東洋制覇ノ非望ヲ逞ウセムトス・・・彼ハ毫モ交讓ノ精神ナク徒ニ時局ノ解決ヲ遷延セシメテ此ノ間却ツテ益々經濟上軍事上ノ脅威ヲ增大シ以テ我ヲ屈從セシメムトス斯ノ如クニシテ推移セムカ東亞安定ニ關スル帝國積年ノ努力ハ悉ク水泡ニ帰シ帝國ノ存立亦正ニ危殆ニ瀕セリ事既ニ此ニ至ル帝國ハ今ヤ自存自衞ノ爲蹶然起ツテ一切ノ障礙ヲ破碎スルノ外ナキナリ皇祖皇宗ノ神靈上ニ在リ朕ハ汝有衆ノ忠誠勇武ニ信倚シ祖宗ノ遺業ヲ恢弘シ速ニ禍根ヲ芟除シテ東亞永遠ノ平和ヲ確立シ以テ帝國ノ光榮ヲ保全セムコトヲ期ス 御名御璽】
「中華民国政府は、以前より我が帝国の真意を理解せず、濫り(みだり)に闘争を起こし、東アジアの平和を乱し、終に帝国に武器を取らせる事態に至しめ、もう四年以上経過している。幸いに国民政府は南京政府に新たに変わった。帝国はこの政府と善隣のよしみを結び、共に提携するようになったが、重慶に残存する蒋介石の政権は米英の庇護を当てにし、兄弟である南京政府と未だに相互のせめぎ合う姿勢を改めない。米英両国は、残存する蒋介石政権を支援し、東アジアの混乱を助長し、平和の美名にかくれて東洋を征服する非道な野望を逞しくしている・・・米英は少しも互いに譲り合う精神がなくむやみに事態の解決を遅らせようとし、その間にも益々経済上・軍事上の脅威を増大し続け、それによって我が国を屈服させようとしている。この様な事態がこのまま続けば、東アジアの安定に関して我が帝国が払ってきた積年の努力は悉く水の泡となり、帝国の存立も正に危機に瀕することになる。事ここに至っては、我が帝国は今や、自存と自衛の為に、決然と立上がり、一切の障害を破砕する以外にない。皇祖皇宗の神霊をいただき、汝ら国民の忠誠と武勇を信頼し祖先の遺業を押し広め速やかにす禍根をとり除き、東アジアに永遠の平和を確立しそれによって帝国の光栄の保全を期すものである」
だが大東亜戦争の大義は実現せず、8月13日「大東亜戦争終結に関する詔勅」が渙発、翌14日公布。詔勅の中で昭和天皇は「然るに交戦既に四年を経ており、朕が陸海将兵の勇戦、朕が官僚官吏の精勤、朕が一億国民の奉公、それぞれ最善を尽くすに拘らず戦局は必ずしも好転せず世界の大勢もまた我に有利ではない。こればかりか敵は新たに残虐な爆弾を使用して多くの罪なき民を殺傷しており、惨害どこまで及ぶかは実に測り知れない事態となった。然もなお交戦を続けるというのか。それは我が民族の滅亡をきたすのみならず、延いては人類の文明をも破滅させるはずである。そうなってしまえば朕はどのようにして一億国民の子孫を保ち、皇祖・皇宗の神霊に詫びるのか。これが帝国政府をして共同宣言に応じさせるに至った所以である」と御発露遊ばされた。
抑々、8月15日は前々日に渙発された「大東亜戦争終結に関する詔勅」が奉じられた日(玉音放送)であって終戦の日ではない。「終戦記念日」との名称はGHQによる戦後民主主義教育の洗脳の最たるものである。
こうしたことを理解せずに、8月15日を「終戦記念日(終戦の日)」として靖國神社に参じ英霊のみを追悼するその行為は正に贔屓の引き倒しでしかなく、我が国の歴史と戦争の大義をも忘却せしめるものだ。
況してや靖國神社は英霊を追悼する施設ではなく、国家の為に尊い命を捧げた英霊の功績を顕彰する神社である。神になられた英霊の死を悼む行為は神道否定で、英霊に対する冒涜である。靖國神社創建の意義も知らず単なるパフォーマンスで愛国者を気取り「英霊に哀悼の誠を捧げて来た」とは何事ぞ。
保守や愛国者でなくても本来の日本人なら心の中に「日本人の魂」というものを持っている。この国の歴史伝統や先人達に対する尊敬や愛着の「想い」である。我が国が戦争に負けたのであればその事実を限りなく口惜しいと思い、占領で失われたものが有るならばそれを何としても取り戻したいと思う「心」である。
そう考えるとき右翼を標榜する者や、保守であるべき政治家から日本人としての魂から発する思いを感じることもなく、思想無き右顧左眄型の偽善者ばかり。「保守」とは民族、宗教、言語、歴史、価値観、習慣、制度の世界の中で最も優れた精神文化を護り継承して行くものでなくてはならないのだ。
また、正統の保守主義者に於いて時間を体験する仕方は、過去の意味を直視し、その中に価値を見出す発見によって未来を創造して行くものである。だが、昨今の自称保守派らは未来が全てであり、今日の屈辱的調印日なんぞ知ってか知らずか完全無視を極め込んでいる。何が保守か、何が愛国者か(苦笑)
歴史は国家の大本である。歴史を語る上で大切なのは、古今東西、世界に蔓延る覇権主義の克服を主張すべきであって、他国の覇権主義に目を瞑り、一方的に自虐の淵に止め処なく漬かり込むことではない。
神の国である祖国日本に生まれ育った者として、大東亜戦争の真の歴史と意義を知ることは国民としての義務である。9月2日は降伏文書への調印という日本人として決して忘れてはならない屈辱の日であり、心静かに英霊に感謝の誠を捧げ、先人の偉業を偲びたい。すめらぎいやさか すめらみこといやさか 天皇陛下万歳
ザ・右翼ジャーナル社々主 佐久間五郎
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9月2日、東京湾上に停泊してた戦艦ミズーリの甲板上での降伏文書への調印の為に重光葵外相と梅津美次郎参謀総長らが参列。右足が不自由な重光は義足を引き摺りながらステッキを頼りに細い階段を喘ぎ喘ぎ上る。
重光外相の右足は昭和7年4月29日「上海天長節爆弾事件」により失った。甲板に辿り着いた重光外相は、調印を前に一杯の水を所望するも「卑怯者のジャップに飲ませてやる水などない」と冷たく拒否される。
「上海天長節爆弾事件」とは朝鮮独立運動家・尹奉吉に因る爆弾テロ。重光は当時、駐中華民国公使として天長節奉祝式典に参列していた。国歌を斉唱が始まると同時に参加者に向けて尹奉吉が爆弾を投擲した。重光はその場から逃げることなく国歌「君が代」を歌い続け、結果として片足を失うこととなった。
重光はこの事件を振り返り、「爆弾が投げられたのは分かっていたけれど、国歌斉唱中なので動かなかった。動くのは不敬であると考えた」と述べている。 同じく、重光の隣で遭難し片目を失った海軍大将・野村吉三郎(後に駐米大使に就任)も「国歌斉唱中だったから逃げなかった」と同様の理由を語っている。
野村や重光はその後に外相や駐米大使となるが、現在の政治家でこの二人の様なこうした決死の覚悟と肝の据わった官僚や政治家がいるだろうか。我が国政治の不幸は正に国家観と覚悟無き政治家が元凶である。
「君が代」「日の丸」に反対する勢力は国旗国歌を重んじることなく、自称・愛国者や保守派にしても国旗国歌を軽々しく利用するが、重光や野村の様な決死の覚悟が伴っているかといえばそれもまた疑問である。
昭和20年9月2日、降伏文書の署名に因って我が国は正式に「負け」を認めたが、先の大東亜戦争の大義は決して間違ってはいない。抑抑、何故に我が国が米英相手に開戦を決意し真珠湾攻撃に至ったかが問題であり、それには少なくてもペリー来航時代のアジア近代史にまで遡らなければ到底理解は出来まい。
我が国は西欧列強に倣い、強力な中央集権国家を形成する為に明治維新の大業を短期間で成し遂げた。15世紀の大航海時代以来、白人による世界制覇の波がアジアにも押し寄せ、アジアは次々と列強に蚕食され植民地となった。その間に勃発した「日清・日露戦争」や「日韓併合」も避けては通れない宿命的な歴史だった。
「日清・日露戦争」での日本大勝利の報は、固唾を呑んで見守っていた世界の人々を驚嘆させ、特に有色人種に与えた影響は強烈だった。一方で、欧米では日本人に対する脅威が横溢し「黄禍論」が巻き起こってくる。
日露戦争勝利から15年後、パリ講和会議で日本は「人種平等の原則」を国際連盟規約に載せることを提案するも、議長を務める米国大統領ウイルソンは「有色人種に人権など必要無い」との差別や蔑視から否決される。
その後、世界は第二次世界大戦に突入し、我が国はABCD包囲網に因って四面楚歌に陥り、最後通牒である「ハルノート」を突き付けられると「最早生き残る道は連合国との戦争しかない」との決断に至るのだ。
今も糾弾して止まない「リメンバーパールハーバー」は、日本人への偏見と差別と歴史への冒涜であり、対日戦勝利を祝ってる場合ではなかろう。先の大戦の過ちを猛省すべきは米国自身である。
我が国が戦争に至る要因は、昭和16年12月8日渙発の「開戦の詔勅(米英両国ニ対スル宣戦ノ詔書)」に明示されている。この大戦への大義がこの日を以て全否定され戦争に至ったのだ。詔勅の一部を列記してみる。
【中華民國政府曩ニ帝國ノ眞意ヲ解セス濫ニ事ヲ構ヘテ東亞ノ平和ヲ攪亂シ遂ニ帝國ヲシテ干戈ヲ執ルニ至ラシメ茲ニ四年有餘ヲ經タリ幸ニ國民政府更新スルアリ帝國ハ之ト善隣ノ誼ヲ結ヒ相提携スルニ至レルモ重慶ニ殘存スル政權ハ米英ノ庇蔭ヲ恃ミテ兄弟尚未タ牆ニ相鬩クヲ悛メス米英両國ハ殘存政權ヲ支援シテ東亞ノ禍亂ヲ助長シ平和ノ美名ニ匿レテ東洋制覇ノ非望ヲ逞ウセムトス・・・彼ハ毫モ交讓ノ精神ナク徒ニ時局ノ解決ヲ遷延セシメテ此ノ間却ツテ益々經濟上軍事上ノ脅威ヲ增大シ以テ我ヲ屈從セシメムトス斯ノ如クニシテ推移セムカ東亞安定ニ關スル帝國積年ノ努力ハ悉ク水泡ニ帰シ帝國ノ存立亦正ニ危殆ニ瀕セリ事既ニ此ニ至ル帝國ハ今ヤ自存自衞ノ爲蹶然起ツテ一切ノ障礙ヲ破碎スルノ外ナキナリ皇祖皇宗ノ神靈上ニ在リ朕ハ汝有衆ノ忠誠勇武ニ信倚シ祖宗ノ遺業ヲ恢弘シ速ニ禍根ヲ芟除シテ東亞永遠ノ平和ヲ確立シ以テ帝國ノ光榮ヲ保全セムコトヲ期ス 御名御璽】
「中華民国政府は、以前より我が帝国の真意を理解せず、濫り(みだり)に闘争を起こし、東アジアの平和を乱し、終に帝国に武器を取らせる事態に至しめ、もう四年以上経過している。幸いに国民政府は南京政府に新たに変わった。帝国はこの政府と善隣のよしみを結び、共に提携するようになったが、重慶に残存する蒋介石の政権は米英の庇護を当てにし、兄弟である南京政府と未だに相互のせめぎ合う姿勢を改めない。米英両国は、残存する蒋介石政権を支援し、東アジアの混乱を助長し、平和の美名にかくれて東洋を征服する非道な野望を逞しくしている・・・米英は少しも互いに譲り合う精神がなくむやみに事態の解決を遅らせようとし、その間にも益々経済上・軍事上の脅威を増大し続け、それによって我が国を屈服させようとしている。この様な事態がこのまま続けば、東アジアの安定に関して我が帝国が払ってきた積年の努力は悉く水の泡となり、帝国の存立も正に危機に瀕することになる。事ここに至っては、我が帝国は今や、自存と自衛の為に、決然と立上がり、一切の障害を破砕する以外にない。皇祖皇宗の神霊をいただき、汝ら国民の忠誠と武勇を信頼し祖先の遺業を押し広め速やかにす禍根をとり除き、東アジアに永遠の平和を確立しそれによって帝国の光栄の保全を期すものである」
だが大東亜戦争の大義は実現せず、8月13日「大東亜戦争終結に関する詔勅」が渙発、翌14日公布。詔勅の中で昭和天皇は「然るに交戦既に四年を経ており、朕が陸海将兵の勇戦、朕が官僚官吏の精勤、朕が一億国民の奉公、それぞれ最善を尽くすに拘らず戦局は必ずしも好転せず世界の大勢もまた我に有利ではない。こればかりか敵は新たに残虐な爆弾を使用して多くの罪なき民を殺傷しており、惨害どこまで及ぶかは実に測り知れない事態となった。然もなお交戦を続けるというのか。それは我が民族の滅亡をきたすのみならず、延いては人類の文明をも破滅させるはずである。そうなってしまえば朕はどのようにして一億国民の子孫を保ち、皇祖・皇宗の神霊に詫びるのか。これが帝国政府をして共同宣言に応じさせるに至った所以である」と御発露遊ばされた。
抑々、8月15日は前々日に渙発された「大東亜戦争終結に関する詔勅」が奉じられた日(玉音放送)であって終戦の日ではない。「終戦記念日」との名称はGHQによる戦後民主主義教育の洗脳の最たるものである。
こうしたことを理解せずに、8月15日を「終戦記念日(終戦の日)」として靖國神社に参じ英霊のみを追悼するその行為は正に贔屓の引き倒しでしかなく、我が国の歴史と戦争の大義をも忘却せしめるものだ。
況してや靖國神社は英霊を追悼する施設ではなく、国家の為に尊い命を捧げた英霊の功績を顕彰する神社である。神になられた英霊の死を悼む行為は神道否定で、英霊に対する冒涜である。靖國神社創建の意義も知らず単なるパフォーマンスで愛国者を気取り「英霊に哀悼の誠を捧げて来た」とは何事ぞ。
保守や愛国者でなくても本来の日本人なら心の中に「日本人の魂」というものを持っている。この国の歴史伝統や先人達に対する尊敬や愛着の「想い」である。我が国が戦争に負けたのであればその事実を限りなく口惜しいと思い、占領で失われたものが有るならばそれを何としても取り戻したいと思う「心」である。
そう考えるとき右翼を標榜する者や、保守であるべき政治家から日本人としての魂から発する思いを感じることもなく、思想無き右顧左眄型の偽善者ばかり。「保守」とは民族、宗教、言語、歴史、価値観、習慣、制度の世界の中で最も優れた精神文化を護り継承して行くものでなくてはならないのだ。
また、正統の保守主義者に於いて時間を体験する仕方は、過去の意味を直視し、その中に価値を見出す発見によって未来を創造して行くものである。だが、昨今の自称保守派らは未来が全てであり、今日の屈辱的調印日なんぞ知ってか知らずか完全無視を極め込んでいる。何が保守か、何が愛国者か(苦笑)
歴史は国家の大本である。歴史を語る上で大切なのは、古今東西、世界に蔓延る覇権主義の克服を主張すべきであって、他国の覇権主義に目を瞑り、一方的に自虐の淵に止め処なく漬かり込むことではない。
神の国である祖国日本に生まれ育った者として、大東亜戦争の真の歴史と意義を知ることは国民としての義務である。9月2日は降伏文書への調印という日本人として決して忘れてはならない屈辱の日であり、心静かに英霊に感謝の誠を捧げ、先人の偉業を偲びたい。すめらぎいやさか すめらみこといやさか 天皇陛下万歳
ザ・右翼ジャーナル社々主 佐久間五郎
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