昭和47(1972)年9月29日、田中角栄は「日中共同声明」に調印。中国共産党を唯一の政府であると認め、主権回復した昭和28(1953)年4月28日に締結した国際法規である「日華国交条約」を一方的に破棄した。
田中角栄らが強行した「日中共同声明」と「日中国交条約」締結によって「日華国交条約」が蹂躙された。この行為は終戦間際に日ソ中立条約を破棄して我が国に宣戦布告したソ連の蛮行と同じであり、道義国家失墜の象徴でもある。国際条約の破棄は明らかな日本国憲法第98条違反でもあるが、護憲派は沈黙を極め込んだ。
この調印を受け、中華民国は直ちに我が国との国交を断絶。我が国が未だに台湾を国家として認めていないのは、我が国に因る国際条約の蹂躙が原因であり、主権国家として許されない破廉恥行為でもある。
未だ我が国が台湾を国家として認めない故に「チャイニーズタイペイ」などという中途半端な表記が罷り通っているが、これつまり、田中が戦勝国でもない中国共産党を「唯一の政府」と認めた結果なのだ。
我が国が道義国家として生まれ変わるのならば、田中の日中共同声明での「先の大戦で中国国民に重大な損害を与えたことに、責任を痛感し深く反省する」との歴史認識を撤回すべきで、田中に認識がその後の村山談話や細川護熙の謝罪決議、河野談話に繋がっていることを我々国民ははそろそろ気付くべきである。
愛国者や右翼人の中にも大陸浪人を気取り、四書五経に被れている者がいるが、それら親中派の多くが、我が国と支那の関係を「一衣帯水」だとか「古くからの隣人」などといった心得違いをしている。
日中間に国交関係が樹立されたのは20世紀に入ってからで100年程の関係である。況してや、中華人民共和国(中共)との国交は50年程しか無い、我が国と戦争もしていない中共が戦勝国として国連の常任理事国に就いていることも摩訶不思議なことで、戦勝国は中華民国であり、つまりは現在の台湾だろう。
親中派は常々「日中は同文同種、一衣帯水の関係」との認識を示す。だが、これは全くの誤りであり、無知以外の何ものでもないが、こうした認識こそ中国共産党の策謀に嵌っている証左の最たるものである。
607年、聖徳太子は小野妹子を隋に派遣し対等外交に踏み切り、後に蘇我氏を滅ぼした中大兄皇子らが645年「大化の改新」を実現する。その後、天智2(663)年、唐・新羅連合軍に攻撃された百済は日本に救援を求めると、我が国はこれに応じ出兵した。これが世にいう「白村江(はくすきのえ)の戦い」である。
応援に出た日本軍はこの海戦で大敗を喫し、この敗戦を機に我が国は中華圏との正式な外交を絶つこととなった。生き残った者は捕虜となった。大伴部博麻(おおともべのはかま)は、捕虜となった一人である。
「唐が日本を攻める」という情報を得るも、日本に知らせる術もなく、自らを奴隷に売って金を作り、仲間を帰国させこの危機を知らせた。それは持統4(689)年の事であり、その後、博麻が帰国したのは白村江の戦いから何と30年後のことだった。博麻が帰国した後、持統天皇は博麻の功を顕彰し勅語を下賜した。
【朕、その朝を尊び国を愛(おも)ひて、己を売りて忠を顕すことを嘉ぶ】
この勅語が「愛国」という言葉の由来である。日本人が失った徳目を呼び返そうという標語として「愛国心」は最も相応しい言葉だと思うが、現在の「保守ブーム」や「ネット右翼」の過熱ぶりを目の当たりにする時、「愛国心」というものが軽薄なものになってしまっていることに隔靴掻痒の感は否めない。
「国を愛する心を涵養する」とは如何なることか。それは、日の丸を軽々しく掲げ、反中・反韓といった安っぽいスローガンで愛国心を昂揚することではなく、八紘を掩(おお)ひて宇(いえ)にせむこと。つまりは神武肇国の大理想である「八紘一宇」を掲げて、天皇國日本の真姿開顕へ奮闘前進することである。
三島由紀夫は嘗て、「日本の様な国には、愛国心などという言葉はそぐはないのではないか。大和魂で十分ではないか」と語ったが、激しく同意する。我ら日本人が持つべきは「大和の心(大和魂)」であり、つまり、花鳥風月、山川草木、春夏秋冬といった我が国の恵まれた自然に逆らわず調和して暮す従順な心である。
国を愛する心の涵養とは、愛国心を強要することではなく「大和心を涵養」に尽きる。これ即ち、国学者・本居宣長の宣う「敷島の大和心を人問わば、朝日に匂う山桜花」という、この言葉に極まれり。
大陸との交流があった時代に国書を携えて派遣したのは「倭国」としてであり、「日本」と名乗ってからは一度足りとも正式な国書を携えた外交はない。親中派の「一衣帯水」「同文同種」という認識は誤りである。
明治4(1871)年に「日清修好条規」を結んだ相手は満州人の清朝であり、清を支配していたが漢民族の国ではなかった為に、正式な外交は明治45(1915)年の「中華民国」誕生まで待たなければならなかった。
毎年9月29日は、右翼民族派陣営が中心となり「反中共デー」の運動が全国で行われている。だが、数十人、或いは数人の左翼集会を取り上げるマスコミは、この運動を一切無視し報道されたことはない。
この「反中共デー」運動の輪が広がることで、日中関係のこうした歴史的経緯と不条理が明らかになり、歪な対中外交が改まり、そして何より台湾との国交恢復が成されることを願って止まない。
ザ・右翼ジャーナル社々主 佐久間五郎
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田中角栄らが強行した「日中共同声明」と「日中国交条約」締結によって「日華国交条約」が蹂躙された。この行為は終戦間際に日ソ中立条約を破棄して我が国に宣戦布告したソ連の蛮行と同じであり、道義国家失墜の象徴でもある。国際条約の破棄は明らかな日本国憲法第98条違反でもあるが、護憲派は沈黙を極め込んだ。
この調印を受け、中華民国は直ちに我が国との国交を断絶。我が国が未だに台湾を国家として認めていないのは、我が国に因る国際条約の蹂躙が原因であり、主権国家として許されない破廉恥行為でもある。
未だ我が国が台湾を国家として認めない故に「チャイニーズタイペイ」などという中途半端な表記が罷り通っているが、これつまり、田中が戦勝国でもない中国共産党を「唯一の政府」と認めた結果なのだ。
我が国が道義国家として生まれ変わるのならば、田中の日中共同声明での「先の大戦で中国国民に重大な損害を与えたことに、責任を痛感し深く反省する」との歴史認識を撤回すべきで、田中に認識がその後の村山談話や細川護熙の謝罪決議、河野談話に繋がっていることを我々国民ははそろそろ気付くべきである。
愛国者や右翼人の中にも大陸浪人を気取り、四書五経に被れている者がいるが、それら親中派の多くが、我が国と支那の関係を「一衣帯水」だとか「古くからの隣人」などといった心得違いをしている。
日中間に国交関係が樹立されたのは20世紀に入ってからで100年程の関係である。況してや、中華人民共和国(中共)との国交は50年程しか無い、我が国と戦争もしていない中共が戦勝国として国連の常任理事国に就いていることも摩訶不思議なことで、戦勝国は中華民国であり、つまりは現在の台湾だろう。
親中派は常々「日中は同文同種、一衣帯水の関係」との認識を示す。だが、これは全くの誤りであり、無知以外の何ものでもないが、こうした認識こそ中国共産党の策謀に嵌っている証左の最たるものである。
607年、聖徳太子は小野妹子を隋に派遣し対等外交に踏み切り、後に蘇我氏を滅ぼした中大兄皇子らが645年「大化の改新」を実現する。その後、天智2(663)年、唐・新羅連合軍に攻撃された百済は日本に救援を求めると、我が国はこれに応じ出兵した。これが世にいう「白村江(はくすきのえ)の戦い」である。
応援に出た日本軍はこの海戦で大敗を喫し、この敗戦を機に我が国は中華圏との正式な外交を絶つこととなった。生き残った者は捕虜となった。大伴部博麻(おおともべのはかま)は、捕虜となった一人である。
「唐が日本を攻める」という情報を得るも、日本に知らせる術もなく、自らを奴隷に売って金を作り、仲間を帰国させこの危機を知らせた。それは持統4(689)年の事であり、その後、博麻が帰国したのは白村江の戦いから何と30年後のことだった。博麻が帰国した後、持統天皇は博麻の功を顕彰し勅語を下賜した。
【朕、その朝を尊び国を愛(おも)ひて、己を売りて忠を顕すことを嘉ぶ】
この勅語が「愛国」という言葉の由来である。日本人が失った徳目を呼び返そうという標語として「愛国心」は最も相応しい言葉だと思うが、現在の「保守ブーム」や「ネット右翼」の過熱ぶりを目の当たりにする時、「愛国心」というものが軽薄なものになってしまっていることに隔靴掻痒の感は否めない。
「国を愛する心を涵養する」とは如何なることか。それは、日の丸を軽々しく掲げ、反中・反韓といった安っぽいスローガンで愛国心を昂揚することではなく、八紘を掩(おお)ひて宇(いえ)にせむこと。つまりは神武肇国の大理想である「八紘一宇」を掲げて、天皇國日本の真姿開顕へ奮闘前進することである。
三島由紀夫は嘗て、「日本の様な国には、愛国心などという言葉はそぐはないのではないか。大和魂で十分ではないか」と語ったが、激しく同意する。我ら日本人が持つべきは「大和の心(大和魂)」であり、つまり、花鳥風月、山川草木、春夏秋冬といった我が国の恵まれた自然に逆らわず調和して暮す従順な心である。
国を愛する心の涵養とは、愛国心を強要することではなく「大和心を涵養」に尽きる。これ即ち、国学者・本居宣長の宣う「敷島の大和心を人問わば、朝日に匂う山桜花」という、この言葉に極まれり。
大陸との交流があった時代に国書を携えて派遣したのは「倭国」としてであり、「日本」と名乗ってからは一度足りとも正式な国書を携えた外交はない。親中派の「一衣帯水」「同文同種」という認識は誤りである。
明治4(1871)年に「日清修好条規」を結んだ相手は満州人の清朝であり、清を支配していたが漢民族の国ではなかった為に、正式な外交は明治45(1915)年の「中華民国」誕生まで待たなければならなかった。
毎年9月29日は、右翼民族派陣営が中心となり「反中共デー」の運動が全国で行われている。だが、数十人、或いは数人の左翼集会を取り上げるマスコミは、この運動を一切無視し報道されたことはない。
この「反中共デー」運動の輪が広がることで、日中関係のこうした歴史的経緯と不条理が明らかになり、歪な対中外交が改まり、そして何より台湾との国交恢復が成されることを願って止まない。
ザ・右翼ジャーナル社々主 佐久間五郎
※コメントは返信も煩わしいので会員のみにさせて頂いておりますが、コメントやメッセージ、御意見御感想、近況報告等は mr.cordial@live.jp へ御気軽にメールを寄せられたい。
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