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「トレーナー……ボク、今日は走りたくない。トレーニング休むね」 トレーナー室に入った途端、ボクはそう宣言した。 トレーナーの匂いの充満する部屋に入った途端、気味が悪いくらい世界の彩度が上がる。 部屋の奥のデスクに座ったトレーナーが不思議そうに、そして心配そうに見つめてきた。 「発情期か?」 「うん。そう」 さすがはボクのトレーナーだ。以心伝心。 ボクの体調をひと目で見抜いたらしい。
周期的に訪れるウマ娘特有の症状、発情期。 その症状は人によって差があって、それを抑えるための薬も色々あって。 でも、薬が万能というわけでもない。 ちゃんと効いて全く問題のない人もいれば、全然効かない人もいたり。 基本的には効いていても、心身のどこかに不調が出たり。
ボクはそれほど症状がひどくなくて、軽めなほうだけど……。 発情期が来ると体がダルくなって、走りたくなくなった。 「いつも元気なテイオーが、今日は妙におとなしい」とか言われるのはシャクだけれど、こればっかりは逆らえない。 薬も飲むのもあんまり好きじゃなかった。 飲むと気持ちが沈んで、無敵なテイオー様としての自信がなくなっちゃう。 そんなボクはボクじゃない。 だからいつも弱めの薬を飲んで、1週間くらい大人しくしておくことにしていた。
「まあ、レースもまだ先だし、今無理する必要もないからなあ。基礎トレーニングだけして後は休みにしようか」 「うん。でも、今日は基礎トレもなしでいい?」 ボクはトレーナーに近寄って上目遣いで彼を見つめた。 近寄ると、さらに世界が輝きを増す。トレーナーの匂いの影響だ。 好きな相手とかだとこうなっちゃうらしい。 この感覚も悪くないかな。いわゆるトースイカンってやつ?お酒なんて飲んだことないけど。 「……しょうがないな。今日だけだぞ。そのかわりしっかりと休んでストレスを抱えないように」 ストレスを抱えないように、かあ……なかなか難しいこと言うなあ。 「……ねえ、トレーナー。しばらくここにいても良い?」 ちょっと試してみたいことがあるのだ。ボクはトレーナーにお願いした。 「別にいいけど、レースの調査や研究を続けるから相手はできないぞ」 彼は特に気にすること無くパソコンの画面に視線を戻した。
パイプ椅子を持ってきて、トレーナーの隣に陣取る。 どんな資料を見ているんだろうか。 「あんまりジロジロ見ないでくれよ。生徒が見たらいけないものもあるから」 「はーい」 そう言いつつも、ボクは画面に釘付けだ。
トレーナーが見ていたのは、目下ボクのライバル候補たちのデータだった。 レースの成績やレースの動画、トレーニング中に撮影された映像まである。 こんなのいつ撮ったんだろうか。 ……テイオー様のトレーナーとして、ボクを一番に見ていなきゃいけないはずなのに。 自分の中に嫉妬が湧き上がるのがわかった。 それが発情期の影響で膨れ上がっているのもわかる。 カイチョーに教わったことの一つ。自分をキャッカンテキに見つめる、ってテクニックだ。 冷静なもうひとりの自分をちゃんと置いておけば、心が揺れたってヘーキヘーキ。 こんなに上手くいくと思ってなかったけど、やっぱりボクって才能あるかな?
……っと、本当の目的はトレーナーの調べているものを知ることじゃなかった。 今日のボクの目的は、トレーナー本人。彼の態度と匂いの変化をみること。 発情期の匂いや音に敏感な状態を使って、トレーナーを観察し尽くしてやるのだ。 こんなこときっと誰も考えないだろう。 ボク、天才かも?
最初は「そんなに見られると気が散る」とか言っていたトレーナーは気づけば画面に集中していた。 データや動画を見ては、それに関する考察を書いていく。 すごい。いつもこんな仕事をしていたんだ。 ボクと一緒にいない時間はいつも何してるんだろと思ってたけど、トレーナーって結構大変な仕事なんだな……。 トレーナーの匂いが変わっていくのもわかった。 説明が難しいけど、青みがかった感じ。これがトレーナーの集中状態の匂いなんだ。 へぇ~。面白い。
画面にはミホノブルボンが映った。うん。彼女も強敵だ。 信じられないほどの量のトレーニングで、自分の不得意や不利を覆してくる。 彼女がトレーニング中に走っている動画が流れる。 ボクより大きな体で、大きいストライドで力強く走っていた。 その瞬間、トレーナーの匂いに、こう、うっすらと朱色が交じるような感覚があった。 彼の視線はブルボンの体に向けられていて……彼女の体はボクよりすごく立派で。 ボクは思わずトレーナーの二の腕を叩いた。
「いてっ!何するんだ。邪魔しないでくれよ」 トレーナーが振り返ってボクを睨んだ。 「トレーナーの集中が切れかかってたから注意してあげたんだよ!」 おっと、キャッカンテキに自分を見なきゃ。 でも、これは許せないかなー。 あの朱色。絶対エッチな意味でしょ。 「いや、ちゃんと集中してたって」 トレーナーは心外そうな顔でボクに言い返してきた。 「どこに~?」 ボクは意地悪な顔を作って彼を問い詰めた。 「いや、どこって……」 彼は言いとどまった。また匂いが変化する。黄土色な感じ。これは困ったって意味かな? 動画は停止されていて、ブルボンのトモがアップで表示されていた。 「……言っとくけど、そんな意図はないから」 動画が閉じられた。ホントかな?
「トレーナーがウマ娘のトモに興味あるなら、ボクのを見せてあげてもいいけどね~」 ボクはわざとらしく椅子の上で大きく足を動かして組んでみた。 さっきと同じ朱色が差し込む感じがあった。 へぇ~……トレーナー、ボクにも反応しちゃうんだ。 「あー……やめてくれそういうことは。最近はトレーナーとウマ娘の間で風紀が乱れてるって話もあるんだ。そういう行為はNG!いいな?」 そんなこと言っちゃって。でも体は、というか匂いは正直だよね。 目を反らしているけれど、一度ボクを意識したせいなのか少しずつトレーナーの匂いの朱色が濃くなっていくのがわかった。 ……どこまで濃くできるかな? 気づいたらキャッカンテキなんて言葉は忘れていた。
右足の上履きと靴下を脱ぐ。 素足をトレーナーの横に差し出した。 「ほら、この間コケてポールにぶつかった時の傷!結構治ったでしょ」 ボクはスネにあるかさぶたを見せつけた。 本命は太ももでスカートを上げてること。でも、この角度ならギリギリ見えないでしょ。 「本当だ。良かった」 トレーナーはスカートの方に気を取られることなく、かさぶたと周囲の痣をマジマジと見つめた。 彼の匂いの感覚から朱色が引いて、全体的に白っぽくなったような。なんだろうこれ。 「結構な勢いでぶつかったから、心配だったんだよな。これから大切な時期だから気を付けないといけないぞ」 怪我をした子供を心配するような目で見られる。 たぶん、白っぽいのは安心とか、そういうのなのかもしれない。 むぅ。上手くいかない。 カイチョーなら、どうやって挑発するのかなー。 あの『皇帝』が男性にアピールするところをイメージしようとしたけれど、結局思いつかなかった。 きっとカイチョーなら……アピールなんかしなくても、男性が寄ってくるに違いない。 カイチョーみたいな魅力をボクも身につけることができるかな。
スカートをパタパタ仰いだり、制服の胸当てを外したり……いろいろ試したけど、反応が鈍いし怒られたので止めた。 トレーナーはまたパソコンとにらめっこしている。 ボクは窓から外を眺めた。 トレーニングコースではマックイーンとライスが並走しているのが見えた。 それを見ても体のダルさが勝って、走りたいと思えない。そんな自分がユウウツだ。 ボクは肩肘をついてため息を付いた。 その瞬間、トレーナーの匂いにまた少し朱色が混ざるのがわかった。
むっ!またエッチなの見てるな!? サッとトレーナーの方に顔を向けると、彼と目があった。 「どこ見てたの?」 パンツとかブラとか、見えなかったと思うけど。うなじフェチとか? トレーナーはごまかそうと口をモゴモゴと動かした後。 「……テイオーの顔だよ。そうやって、大人しく窓の外を眺めてたりするとすごい綺麗だからさ。見とれてたんだよ」 綺麗だなんて、トレーナーからそんなことを言われるのは初めてだった。 嬉しい。心臓がバクバクする。
「ボク、綺麗だった?」 「あ、ああ」 トレーナーに詰め寄ると、彼はたじろいだように身を反らした。 「カイチョーと、どっちが綺麗?」 「え?シンボリルドルフと比べて?」 困惑を示す黄土色な匂いはなかった。 「俺はテイオーが一番綺麗だと思ってるよ」 嘘をついた時の匂い、っていうのはまだ確認してなかったけれど。 トレーナーの匂いに揺らぎはなかった。
「ニッシッシ。じゃあ綺麗なテイオー様をたっぷり見せてあげよう!」 ボクはトレーナーの目の前で仁王立ちした。 そうじゃないんだよなあ……そうつぶやきながらトレーナーは苦笑した。 もちろん、こういうのが違うってことは、ボクだってわかってる。 でもぼんやり窓の外を眺めてる綺麗さなんて、最強無敵なテイオー様に似合わない。 絶対、ボクなりの魅力でトレーナーを魅了してやるんだから。
お互い目を合わせていたけど、トレーナーから先に目をそらした。 目線がパソコンの画面に戻される。 でも、その直前に、ごくわずかな朱色を感じた。 ……勝機アリ、かな。 ボクは窓の外を見るのはやめて、トレーナーだけを見つめることにした。 また違うボクの魅力を彼が見つけてくれるように。