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この作品「結婚しませんか」は「ヘタリア」「島国同盟」等のタグがつけられた作品です。
結婚しませんか/藻屑の小説

結婚しませんか

58,524 文字(読了目安: 1時間57分)

星降る丘で君を待つ2 お7 藻屑となりて
ほしまつー開催おめでとうございます。参加できてとても嬉しいです!

!!注意!!
現代パロディです。
アーサーさんが女性関係でやんちゃしていた(している)描写があります。
R指定となる描写はありませんが、匂わせています。
フランシスさんが出てきます。足を向けて寝られません。

2021年11月13日 15:00
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重たい足取りで街を歩く。暑くうだるような夏を感じていたのがつい1か月前だとは信じられない。もう街中を吹く風は木枯らしめいて肌寒い。勤務時間を終えて歩く街は遠くの夕日が長い影を作り、行きかう人もビルもなんだか寂しげに見える。そう思うのは今自分が向かう先が、どうしようもなく嫌だからだろうか。気が滅入り、そう見えるだけかもしれない。目の前を歩く会社帰りであろうOLはウキウキと軽い足取りでヒールを鳴らして歩いているというのに。自分と言えば。

ビルが立ち並ぶ大通りの一つのビルを見上げる。母親が送って寄越した住所はここだったはずだ。
アーサーは、母親に泣きつかれ、根負けして見合いをすることにした。
泣きつかれる原因は間違いなく自分にある。だがそれが悪いことだとは思っていない。
自分は、結婚に向いていないととうの昔に分かっていた。
自分じゃない誰かと一緒の家でずっと過ごすということが耐えられない。仕事で疲れたその後に、人の気配を感じながら家にいることが耐えられない。自分じゃない誰かが使ったコップ、カトラリー、タオル、トイレ、風呂。それを自分が使うと考えるとゾッとする。
だからと言って潔癖症かと言えばそうでもない。ただ、自分の心休まるテリトリーに他人を入れたくない、それだけだ。
もちろん、三十代手前のアーサーにも肉欲はある。いや、ある、という慎ましやかな程度ではないのかもしれない。持て余し、夜ごと連絡する女が違う。顔が好みの女、声が心地いい女、胸が好みの女、咥えるのがうまい女。その時の気分で時間も深夜も近いという時間であっても連絡を取る。非常識だと知り合いの知り合いは言う。だが、それでも女も拒まないのだから、同意の上だ。遠慮することはない。ただもちろん一人で歩かせるなんてことはしないし、タクシーを向かわせるか自分が相手のところに行く。
自由を最大限に謳歌し放蕩をしていたのが母親の耳に入ったのだった。すでに皆成人している四人兄弟の四番目なのだから、放っておいてほしいと思う。だが、生まれも育ちも箱入り、というのがふさわしい母親の関心ごとと言えば父親からの愛情と庭のバラ、それに俺たちだけなのだろう。そんな彼女の生きてきた今までに知り合ったことのないようなろくでもない男に自分の息子がなっていたと知ったら。
ゆうに一時間は電話口で泣かれ、結婚して欲しいと言われたのだ。
だがそんなことで自分の悠々自適なこの生活を手放すこともなく、結婚したいと思う人がいないだの仕事が忙しいだの言ってその場は電話を切った。納得してくれたかと思いきや、母親は諦めてはいなかった。

人と人、家と家のつながりが希薄になってきた今、見合いの形も変わってきた。親、親せきなど知り合いの妙齢の男女、当事者同士が引き合わされる形だった以前の見合いとは違い、今は全く見知らぬ人間たちが集まる会となった。
そもそも今の見合いの形は結婚離れが進んだ日本で、少子化対策のために国が支援する機関が運営を始めた。その頃はまだ、子どもを産み育てる増やすという目的の元で運営されていたシステムで、出会いは男女の結婚の為に用意されていた。
しかし、結婚しない世代が次々と一人ひっそりと亡くなり発見が遅れ腐乱死体が相次いで発見される、という社会問題が多発するようになった。そうしてお見合いは孤独死防止という目的も持つようになった。必要なのは異性同士だけではなく、同性同士でも孤独死は防げるという観点から結婚も異性だけに限らず同性同士でも行えるように、と法が変わったのはそう遠くない過去の事だった。
結婚するにふさわしい年齢の独身の者に、国が文書で連絡をする。その文書には、月二回開催される会の案内が封されていた。それぞれランダムに指定された見合いの場だった。その会に出席か欠席かを毎月報告必要があった。もちろん、仕事や他の用事があれば欠席も認められる。だが、案内を無視してその報告を数か月怠ると、その連絡は両親まで行くことになる。アーサーも然り。
仕事が立て込んでいたこともあるし、結婚・見合いに興味のないアーサーはあえて無視を決め込んでいたのだった。未開封の封書が10通を超えた頃、突然に母親からの泣き落としが入った。
母親が自分の代わりに出した「出席」の報告は、あっと言う間に今日の見合いに繋がったのだ。
母親からメッセージで送られてきたのは大通りから一本奥に入ったビルの地図と日にちと時間。
結婚はしたくないとどれだけ言ってもアーサーの言葉など聞きやしないだろう母親に、仕方なく「行ってきたがいい人がいなかった」と断ろうと作戦を変えた。

「いらっしゃいませ。御予約のお名前をお聞きしてもよろしいでしょうか」
看板も案内表示もないビルに恐々足を進めると、中から初老の男性が現れた。黒いスーツにネイビーのネクタイが似合う、白髪の男性だった。白髪だからと言って、老人のように見えるほど年を取っている風でもなく、落ち着いた雰囲気があった。
「カークランドです」
「お待ちしておりました。どうぞ、良い出会いを」
そういうと、紳士は正面の大きな扉のノブに手を置いて押し込めた。ギィ、と重い音を上げて大きな扉が開かれると、目の前にはビルの大きさからは想像もつかない広々としたフロアが現れた。きらびやかなシャンデリアが何灯も吊るされ、室内を煌々と照らしている。一歩先に進むと足はふかふかの絨毯の感触を伝える。赤地に小花柄の模様はどこか空間をより高貴な雰囲気に見せる。
フロアにはもうすでに数名の男女がそこにいた。年齢層も思ったよりも幅があるようだった。自分くらいの20代後半から、もっと若い奴、それに40代くらいまで。すでにそれぞれが手にグラスを持って談笑をしあっていた。
アーサーの近くにもボーイが一人シルバーのトレイを片手にやってきた。トレイの上にはいろいろなアルコールが乗せられていた。もともとアーサーはあまり会に乗り気ではなく、会の雰囲気に染まる気もなかった。アルコールを摂取しないつもりでいたので、指先がどのグラスにするかほんの一瞬迷った。だが、飲まずに素面でこの雰囲気にいることも馬鹿らしく思えて、奥の背の高いシャンパングラスを選んだ。琥珀色のシャンパンに細かな泡が列になって昇っている。グラスを選ぶとボーイはそっと距離を置いて壁際に寄った。
アーサーはあたりを見渡した。すでに数名のグループで話をしている者、二人きりで距離を詰めようと話をしている者、さまざまだった。それらから距離をとりつつ自分が身を置くにいい場所はないかと見渡すと、左手側の壁際に、ソファが置かれているのが見えた。
そこに座って様子を見ようと近づくと、そこには先客がいた。
黒い丸い頭が背もたれから覗いていた。近づくと濃いグレーのスーツを纏った男だと分かった。近づくまで、男だと分からなかったくらいに、背はそれほど高くないようだ。男は左側の窓をじっと見ているようだった。さっきまで薄暗かった外はもうすでに日は沈み、暗くなっていた。アーサーは男が座っているソファの正面に対するように置かれているソファに座ろうかと、男に声を掛けた。
「失礼」
「えっ、あ、はいっ!」
びくり、と黒髪の男は大きく肩を震わせた。まるで自分が声を掛けるまでこちらの気配も様子も全く分からなかったようだった。
「……、すまない、驚かせるつもりはなかった」
「あ、…いえ、すみません、ぼーっとしてまして」
「正面、いいか」
「え、ええ、どうぞ」
男の斜めの位置に腰を下ろした。正面に座るにはまだお互いを知らず、自然と警戒をしている。
ただ、この見合いの場で、誰も見ず、外を眺めているなんてどこか違和感を感じた。
自分と同じにおいの、違和感。
「実は、あまり乗り気ではなくて」
「えっ」
また窓の外に視線を向けようとしていた男が驚いたようにこちらを見た。
「忙しさで案内を放っておいたら親のところに案内が行っていた」
「まあ」
「…それまで、放蕩していたから当然なんだけど、結婚して落ち着けと勝手に申し込みされてた」
一度男は目を大きく見開いたかと思えば、口元に手をやって、くすくすと笑い始めた。
「私もです」
「へえ」
そうだと思ってはいたが、当然、といった表情は失礼だろうと驚いて見せた。
「親が、そろそろいい歳なんだから結婚しなさいって。でも、本人はそんな気全くないんです」
「困ったもんだ」
「本当に」
くすくすと笑う男は、一度、目を伏せてそれからじっとこちらを見た。
窓から見える夜空よりももっと深い黒の両の目が、アーサーを見つめた。
その目がアーサーの視線とぶつかると、びくりとアーサーは体を震わせた。目の奥の強い力に目が反らせない。それに、じっと見つめられているとこちらの考えていること、全てが見透かされる様なそんな吸引力があった。
「あの、でも、貴方はほら、見られてますよ。お嬢さん方がずっと」
ちら、と男が視線をあたりに向ける。その方にアーサーも視線を向けると、確かに会場の人間がこちらをちらりちらりとこちらを見ている。
ただそれは今に始まったわけではなく、アーサーは自分の容姿がこの国ではまだ珍しいからだと知っていた。イギリス人の父と母の間に生まれたアーサーの容姿は、その両親の影響を多分に受けていた。少しくすんだブロンドの髪に深い緑の瞳、決して自分は彫りが深いとは思わないが日本人に比べたら隆起がはっきりしている目元と鼻筋。好奇の目を向けられることも少なくはない。もちろん、それだけではないことも、もう30年近く生きていれば知っている。この容姿目当てで寄ってくる女がいるということも知っているし、それがために自分がこれほど放蕩していられるのも知っている。
「ああ、でも、追いかけるのは好きじゃなくて。何か用があれば声を掛けてくるだろ?」
「酷い人。いいんですか?お母さまに怒られますよ」
「いいよ、見合いに行ったという実績が欲しいだけだから。だろう?」
暗に、お前もそうだろう、と言うと男は一段と口元の笑みを深めて、目を閉じた。
なぜだかその仕草が凄く色っぽくて、男なのに、自分よりも低い声なのに、この会場の全ての人間の中で一番色気を感じた。
「そうですね。私も一緒です。ですので、失礼します」
「うん?おい、どこに」
ずっとこの男と話していたかったし、見つめていたかった。
同じ目的で同じ胸中を分け合ったと同士だと思っていたのに。
「話し相手になってくださりありがとうございました」
「え、おい!」
アーサーが呼び止めるのも構わずに、男はひとつ頭を下げて背中を向けて歩いて行った。近寄ってくるボーイに持っていたグラスを渡し、一つ二つ言葉を交わして去った。さっき自分が入ってきた大きな扉の向こうに、男の姿が消えていった。
アーサーの耳には、さっきまで目の前にいた艶やかな男の低い声ではなく、周囲のけたたましい声しか聞こえなかった。



風呂上りの熱の残る体を乱雑にバスタオルで拭く。バスタオルはいつもの通りふわふわで吸水性もいい。手早く髪の毛の水分を吸わせると体に巻き付けて冷蔵庫を開く。ほぼアルコールの缶しかない庫内の一本を取り出す。キンキンに冷えた金属が指先に痛みとして伝わる。プルタブを起こすと、プシュっとガスが飛び出る音が響く。この音で一層喉の渇きを感じてしまう。一気に喉に流し込むと、ようやく渇きは抑えられた。ふう、とアルコールの混ざった息を吐くと、上着に入れっぱなしだった電話が鳴った。
こんな夜中に誰だろうかとディスプレイを見てため息がでた。母親だった。通話のマークをタップして耳元にあてると上機嫌な母親の声がした。
「はい。ええ、今日。行きましたよ」
母親からの報告を聞かせろとの催促の電話だった。誰か良さそうな人はいたの?と聞く声に、あの男の姿が頭に浮かんだ。名前も知らない、グレーのスーツのあの男。口元に手を当てて笑う声はとても心地よく、深い深い黒の瞳は全てを飲み込み、意識すら引きずられそうなほどの吸引力。目を少しも反らすことはできなかった。
正直に一人いたと言うと、電話口の向こうはなんとも嬉しそうな声を上げていた。
「ええ。わかっていますよ。そうなったら紹介しますから。はい」
ええ、はい、と従順なようで断定をしない生返事を繰り返していると、言いたいことを好きに言った母親は満足したのか、それじゃあね、と電話を切った。



疲れる。せっかく冷えたビールを喉に流し込んでいい気分で一日が終えられると思いきや、もう肺の奥は空気がよどむ様だった。
一人で気が済むまで話しきらないと落ち着けない母親は、最近父親とうまくいっていないのかもしれない。俺が小さい頃にもそういったことはあった。だが家にはアーサー以外のあの人の子どもはいて自分一人があの人の相手をしなければならないわけでもなかった。それに、そういう時は家の外に出てしまえば追いかけてくることもなかった。だが今は、電話を直接かけてくるようになった。無視をしたこともあった。が、その後がよりしつこくなってしまったので、今時間を割いた方がいいと経験から学んだ。だが、疲れるものは疲れる。
気の乗らない見合いも、思いがけず興味をひかれる不思議な男に会い、悪くなかったと思っていたのに。悪かったのはむしろその後だ。あの男が去ってアーサーが一人になったと見るや否や、こちらの様子をちらちらと見ていた女たちが一人二人とやってきた。それまで二人だけで静かに言葉を交わしてゆっくりと時間が過ぎていたというのに、いきなりキャンキャンと喧しい空間になった。しばらくはその会話に耳を傾けていたし、どこか好ましいと思えば今日の夜にでも一緒に居てもいいと思ったのに。
だが今日は、それすらせずにこうして自宅に一人帰ってきた。いや、しなかったのではない。できなかったのだ。しようと思えば隣に座ったあの赤いドレスの女や正面にいた緑のドレスの女はついてきただろうと思っている。
だがしなかったのは、あの男が心のどこかで気になっていたから。あの男がどういう男か、一人考えるのも悪くない、そう思って一人で帰宅したのに。結局は母親からの電話で台無しだ。
重い息を吐いて缶に指を伸ばすも、すでにぬるくなって欲していた冷えたアルコールではなくなっていた。このままシンクに流してしまおうかとも思ったが、それはさすがにもったいなく、だがゆっくりと味わいたいような味ではない。アーサーは一気に喉の奥に流し込んだ。


あの日と同じ道のりで、アーサーは暮れゆく街並みを歩いていた。あの時よりも少し寒くなって、日が落ちるのが早くなった気がする。街灯の光や店先からもれる光が目につくようになってきた。
前回の見合いの後、数日もしないで次回の見合いの案内がアーサーの自宅に届いた。
一度きり、母親の気を反らすために一度だけと参加した見合いの会だったが、アーサーは案内が届くや否やすぐに出席、と返事をした。
数日前の自分からは想像もできない。ひとえに、あの男がいるかもしれない、あの男と会えるかもしれないという願いからだった。
しかし、その気持ちにはアーサーはあの男と親しくなりたい、交際したい、結婚したい、…どうにかなりたい、という気持ちはない。ただ、自分の目の前にいながら、消えるように去ったあの男とまた会いたい、ただそれだけだった。
あの男がアーサーが希望した会にまた現れるとは限らない。会の趣旨として、もし一度会った人間に興味の湧く人間がいなかったとしたら、同じ人間と会うようにセッティングをするとは考えられない。より多くの出会いを、とまだ会ったことのない人間同士を同じ会場に集めるだろう。
アーサーの行動は当たる確率の低い賭けに近かった。
それは重々承知していた。だが、あの黒髪の男に会うためにはそれしか方法がなかった。アーサーは、長期戦の覚悟で、今回も出席とした。それまでにあの男がいい相手を見つけて結婚するかもしれない。そもそもそれまでのアーサーと同じで、結婚に乗り気ではなかった様子から、もう会には出席しないかもしれない。
そう頭では理解しているが、アーサーができることはこれくらいしかなかった。
あの日に比べて、軽い足取りで、あの日と同じビルに入って行った。
「いらっしゃいませ、カークランド様」
あの日の繰り返しなのではないかと思うほど、同じ光景だった。出迎えてくれたのは黒いスーツにネイビーのネクタイの、白髪の男性。異なっているのは、アーサーが名乗らずとも名前を呼んだこと。
「お待ちしておりました。どうぞ、良い出会いを」
「ありがとう」
アーサーは再び、開かれた扉の向こうのきらびやかな世界へ足を踏み入れた。
フロアに入ってすぐ、前回男がいたソファの方向に目を向ける。しかし、あの時と変わらぬ設えのソファに、あの時と同じ丸い黒髪の後ろ頭は見えなかった。
きょろきょろと辺りを見渡しても、あの艶やかな黒髪は見当たらなかった。
もしかしたら、自分よりも遅く到着するかもしれない。その一縷の望みを捨てきれず、アーサーはあの日と同じソファのあの場所に座った。そして、あの時男がしていたように、真っ暗になっている夜空を窓越しに眺めていた。
だが、視線の先は、男の黒髪のようにただただ黒が広がるばかりだった。


もうすぐ終業間近の17時。職場の休憩室は、誰もいなかった。無理もない。帰る者は片付けを、残業を余儀なくされる者はこんなところにいないで仕事をしているだろうから。アーサーは、人の気配のしない休憩室が好きだった。
自動販売機のコーヒーのボタンを押した。機械の中では上から落とされた紙コップに液体が注がれる。
もともと紅茶が好きなアーサーだが、家にいる時や紅茶専門店に入った時以外は紅茶は飲まない。ヘタな技術、ヘタな淹れ方をした紅茶を飲まされるくらいなら、コーヒーを飲んでいた方がマシだと思っているからだ。もっと旨い紅茶を出せるようなものを配備しろ、と常々思っているアーサーは、もちろん社内でも専らコーヒーを飲んでいた。
自動販売機から、抽出終了を告げる機械音がピー、として扉のロックが外される。
アーサーは熱くなったカップの縁を指先で持って、ソファに腰を下ろした。一口、温度を確かめながらコーヒーに口をつける。相変わらずの苦い汁だった。
ふう、一つ息を吐いてぼんやりと視線を足元に向ける。
昨日は結局、アーサーの待っていた人物は現れなかった。
長期戦を覚悟していたアーサーだったが、来ない待ち人を待ち続けるのはさすがに疲れた。
相変わらず一人でいると、誰かしらが話しかけにやってくる。秋波を送る女、マウントを取りたがり品定めにやってくる男、同性愛者の男。こいつらと親しくなるつもりもないし、興味もなかった。だが、邪険にしたり冷たくあしらっているといつかは出禁になってしまうと危ぶんだアーサーは、それなりに話の相手になり、世間話やそれ以上に踏み入らないよう細心の注意を払っていた。
仕事以上に気を遣っていたようだ。帰宅後は疲労感で一杯になり、シャワーを浴びるとすぐにベッドに倒れ込んで気が付いたら朝になっていた。湯上りに使ったタオルも首に掛けたまま、しっかりと乾かさずに寝た髪の毛はいつも以上に好き勝手に跳ねていた。
また今日も帰宅すると次回の見合いの希望調査の文書が届いているだろうか。早く、あの男に会いたいとアーサーは見合いの日に仕事が入らぬよう、早々に抱えている仕事を終わらせることにしている。今日もそのために急ぎではないもののやらねばならぬ仕事の為に残業すると決めていた。
手のひらの中のコーヒーの入った紙コップが温くなってきたのを指先で確認して、飲んでしまおうとした時だった。
「うわ、なに、今日残業?もっと要領よくやれよ~」
聞きたくない男の声が背後からした。振り向くまでもない、この声の持ち主は同期入社のフランス人だ。
「お前と違って、毎日ヒマじゃねえんだよ、フランシス」
「うっそだ~昨日早々帰ってたじゃん。お兄さん、見てたんだから」
一口、コーヒーを飲み下して視線を上げると、フランシスはアーサーの座るソファの隣に腰を下ろしていた。
その姿は薄手のコートを羽織り、手にはビジネスバッグ、まだ終業まで数分あるというのに、もう退社する出で立ちだった。
「もう帰り支度かよ。やっぱりお前ヒマじゃねえか」
「ヒマじゃありませんー、することはしっかりしてるんだからね。あ、お前も昨日は早く帰ってたよね。何なに?新しい彼女?」
「そんなんいねえよ」
「うわ、最悪、秘書課のリサちゃんは?総務課のミサキちゃんは!?受付のアイちゃんは!!!?」
「…よく覚えてんな。そもそも付き合ってねえよ。向こうが寄ってきただけだろ」
「うっわ、うっわ、最悪!こんな男のどこがいいんだか…趣味悪い。あ、そういえばさ、家にお見合いの会の案内が来てさ。アーサー行くとか言ってたじゃん、どうなったあれ」
「……行った」
「……へぇ、お前そういうやつ絶対行かないって言ってなかったっけ?」
「あの女がうるさかったんだよ。一度行けばしばらくは黙ってくれるかと思った」
「おふくろさん?そりゃあ、こーんな放蕩息子、放っては置けないよな」
「けっ、お前だって大して変わらねえくせに」
いつの間にか、左手に持っていたコーヒーのカップはぬるくなっていた。冷えたコーヒーなど飲めたもんじゃない。アーサーはカップの中のコーヒーを一気に飲み干した。カップの底にはコーヒーかすがいくつも残り、一気に口の中に入れたためか、アーサーの舌の上にもざらりとした感触があった。
飲み終わった後の余韻もなにもあったもんじゃない。だからコーヒーは苦手なんだとアーサーは一つ息を吐いた。
「で、どうだった?いい子、いた?」
「……わからない」
「はあ?」
「心にひっかかる奴がいた。場の雰囲気にそぐわない、俺に似た奴が。だけどあっという間に帰ってもう会ってない」
「……えっと、それって、つまりお前がフラれた?」
「フラれてねえよ!そもそもそいつは男だった」
「ああー、お前、完全な異性愛者だしね。じゃあなんで気になってるのさ」
「だからわからないっつってんだろ」
「いいじゃん、素直になれよ。気になるのは最初だけだって!男も女も関係ない、ただ惹かれ合う人と人なだけ。ああ~、ついにあのさびしんぼアーティーが真実の愛に目覚めたか!」
アーティー、そう聞こえた時にアーサーの手の中の空っぽの紙コップはぐしゃぁっと派手な音を立てて握りつぶされた。誰しも持っている幼少期の愛称。2歳年上のフランシスの後ろをちょこちょこと付きまとって一緒に遊んでいた頃のアーサーは両親からそう呼ばれていた。
「ハッ、気まぐれフランが良く言うぜ。一週間とツレが同じだったことは見たことないけどな」
アーサーはソファから立ち上がって、自動販売機の横に設置されているゴミ箱に握りつぶした紙コップを放り投げた。ガコン、とゴミ箱の縁に当たって箱の中に吸い込まれていった。
「そのままお前にその言葉返してやるよ」
フランシスがそう言うのを鼻で笑ってその場を後にした。



菊は、左手の親指に力をこめて、十字キーを大きく左に傾けた。そしてそのまま、右手の親指のボタンを連打する。
画面のモンスターは大きな爆発音とともにはじけ飛んだ。
「…ふう」
「やった!菊ちゃん!さすが、菊ちゃんのシーフは最強だよ!」
ヘッドセットのマイクの位置を口元に戻し、菊はパソコンのディスプレイに向かい、話を始めた。
近頃人気のオンラインゲーム、ワンダーストーリーを友人と楽しむのが菊の専らの日課だった。平日は夜22時から、休日は前の日の夜から引き続き昼間でプレイすることもあった。
「いえいえ、フランシスさんのアドリーヌちゃんの魔法が効いていたからですよ」
「でしょ?ホーリーレイン、覚えたばかりだったんだよね~。この呪文、グラフィックもすごくキレイでさ~使っちゃうんだよ!」
「わかります!!空からいくつもの白い光が降り注ぎ、敵を貫いてゆく…パッションピンクのアドリーヌちゃんの髪の色と派手な衣装からは想像できない神々しさ…これはどんな強力魔法を覚えても使い続けたくなるのわかります。私もシーフくん、攻撃の一発一発は強打ではないのになんせ二刀流…もう強い弱い関係なしに男は憧れますよ二刀流…何度やっても選んじゃうんですよね~」
うんうん、とヘッドセットの耳当てからフランシスの優しい頷きの声が聞こえる。
「菊ちゃんもう使いこなしてるもんね、神業の剣技だし。これが見れなくなるのも惜しいけど違うキャラの菊ちゃんもみたいな!んー、でも例えば、どう?このレイラちゃんとか!」
「レイラちゃん!!!!!もう、神の所業ですよね!!清楚な雰囲気を漂わせておいて全キャラ随一の攻撃力と防御力を誇るお姫様…」
「でしょでしょ!今度はレイラちゃんでやってよ!」
「ふふふ、ですね」
菊はPCの脇に置いてあったマグカップに手を伸ばす。フランシスとのオンラインの待ち合わせ前に並々に注いでいた麦茶がすっかり空っぽになっていた。話をしながら、真剣にゲームをするとなぜか喉が渇く。今も水分が欲しいと手を伸ばしたのに、手にしたマグカップは空振りに終わった。
「すみません、飲み物取ってきます」
「Oui、じゃあ俺も」
ヘッドセットを外して、デスクから立ち上がる。ずっと前傾姿勢で座っていたためか立ち上がっても腰にまっすぐに力が入らない。フランシスさんを待たせてはいけない、と少し背中を丸めたままにマグカップ片手にキッチンへ向かう。冷蔵庫の中を覗くと、アイスコーヒーやアルコール、他の飲み物もあったが味を変えるよりもすぐに水分を補給したくてまたマグカップに3割くらいの麦茶を注ぐ。そのままごくごくと喉を鳴らして飲み干す。思っていたよりもずっと喉が渇いていたのだろう。だがまだ飲めそうだと思ったので、またマグカップに麦茶を注いでボトルを冷蔵庫へ戻す。マグカップ片手にまたパソコンデスクに戻ると、画面の向こうではすでにフランシスさんがパソコンの前に戻っているようで、二人のキャラクターに回復アイテムを使っているところだった。
「すみません、お待たせしました。回復ありがとうございます」
「全然~しょうがないけど、回復魔法使うキャラがいないから時間あるうちにやっちゃったよ」
「フランシスさんマジ神」
「でしょ~もっとお兄さんを褒めて!」
くすくすと笑っていると、あ、とフランシスが声を出した。
「そういえばさ、菊ちゃんお見合い行ったんだって?」
「う、そ、そうです…」
「どうだった?いい子いた?」
マイクに通らないようにそっと息を吐く。
「ダメです。私には合わない会でした」
「え、どうしたの?嫌な事あった?」
「いえ、特になかったんですけど、周りの人たちもきらきら、会場もきらきら、私みたいな陰キャにはやっぱり合わない場所でしたよ」
「ふうん?」
「みんな素敵な方なんですよ?服も髪も皆さん素敵におめかしされて。でも女性も男性もその顔の下でお互いを品定めしているんだって思ったら…ちょっとひきません?」
「ええ~~だってそういう会じゃん!その駆け引きが面白いんじゃん」
「それはフランシスさんがきっとカッコいいからですよ。私完全に品定めされる側なのでその視線がいたたまれなくなって…」
「じゃあ誰ともしゃべらなかったの?」
「しゃべ、……」
菊の頭にふと一人の男が思い浮かんだ。
男も女も完全に気合の入った服に化粧に髪型に靴を身にまとって、目の前の人物を品定めしながら話をし、さらにあたりを伺う。完全にその目は肉食獣のそれだ。なのに表情は至って穏やかに、選ばれようといい顔をしているのがなんとも滑稽だった。そのギラギラした場の雰囲気に近寄りたくなくて、少し距離の離れたところにあるソファに座って頭上まで開けている窓を通して空を見ている。賑やかな声で耳が疲れて、少しぼんやりと意識をこの場から離していた時だった。
声をかけて来た男がいた。明らかにこの場に辟易している自分に、わざわざ声を掛けて来た男が。
「しゃべり、ました」
「ほら!どう?その人は」
「でも、その人、男の人でしたもん」
「ええー、菊ちゃんも?」
「『も』って…どういうことです?」
あ、とフランシスが小さく声をあげる。
「これってあまり他の人に言わない方がいいのかな?俺の同僚もさ、この前行ったみたいなんだけど、何股上等来るもの拒まずみたいな男なのに、すっごいだらしない異性愛者なのに、声かけて来たの男だけなんだって」
「おや」
「気になるよね~そんな男が声かけた男って!」
「そうですね。そんな奇特な方が私以外にいたなんて」
「菊ちゃんはどうだったの?その声かけた男とは」
「どうもこうも、フランシスさんとのオンラインの待ち合わせ時間になりましたので帰ってきましたよ。何もありません」
「えーー、連絡先交換とか」
「していませんね」
「ま、まさか名前とか」
「残念ながら」
「きーーーくちゃーーん!」
「だって私、前に言ったじゃないですか。結婚に一番ふさわしくない人間なんだって。あれこれ自分の事を他人に話すのは好きじゃないし、ホラ、女性が好きなことも知らないし興味ないし。喜ばせるような言葉も言えないし。それになにより、自分の好きなことだけに時間を使いたいんですよ。生きていくために仕事は仕方ないですよ。お給料もらえないとそもそも生きていけないし。それだけでも十分苦痛なのにそれ以外にも時間を割こうなんて考えられません。こうしてフランシスさんとオンラインゲームを好き勝手することもできなくなるじゃないですか」
「そうかもしれないけどさあ」
「さ、私のことはいいですから、続きしましょう?」
菊は下がってきたメガネをかけなおして、コントローラーを握りしめた。

フランシスのせいで、菊の頭の中にはあの日の記憶が蘇ってきていた。
キラキラ輝くシャンデリアにテーブルに所狭しと並べられた食べ物と飲み物。体のシルエットを露わにするようなドレスを身に纏い、高いヒールを履いた女たちと、一張羅であろうスーツを身に纏い、磨き上げられた革靴を履いた男たち。目の前の人間と談笑しているかと思いきや、お互いがお互いを品定めするかのようにきょろきょろと視線を彷徨わせ、周囲にも気をはっている。ここはまるでゲームの中の戦場のようだった。敵の奇襲を受けぬよう、あたりを注意深く見渡して、相手よりも先に獲物を見つける。そして見つけたら好機を逃さず攻撃を仕掛ける。そんな状況に、菊は深い息を吐いた。
親からの風当たりが強くなってきて仕方なく一度顔を出した見合いはまったく乗り気ではない。そんな菊は男と女の戦場に挑戦者として名乗り上げるつもりもなく、適当に勧められたアルコールのグラスを一つ手に持って、人気のない壁際のソファで夜空を見上げていた。ぼんやりとこの見合いの後のことを考えていた。一度顔を出したのだから、親には適当なことを言ってもう来ないことにしよう。それにフランシスさんと21時から一年前に発売されたオンラインゲーム、「ワンダーストーリー」を一緒にしようと約束していた。なんとしても間に合うように帰りたい。フランシスと出会ったきっかけのゲームだった。オンラインというルールがあまり得意ではなく、一人クエストをこなしていた時、同じく一人でクエストをしていたフランシスが声を掛けて来たのがきっかけだった。可愛くも色っぽい女魔法使いキャラのアドリーヌちゃんを操作しているものだからてっきり女性かと思っていた。しかしチャットでの会話に疲れ、音声会話をしながら操作しようとなった時に、フランシスが操作していたことが分かった。男性の、しかもフランス人。始めは仲良くなれるか心配だったが会話してみればなんてことはない自分と同じオタクだった。

一人、手元のグラスにちびちびと口をつけていた。あまりアルコールが得意ではない菊は、帰宅後のオンラインゲームに差し障りがないようにほんの少しずつ飲んでいた。しかしあまりにも手持ち無沙汰で時間を潰すに他の手段が思い浮かばず、また一口、口に含もうかとグラスを持ち上げた時だった。
背後から、失礼、と男の声がした。
「えっ、あ、はいっ!」
菊はびくり、と大きく肩を震わせた。まさかフロアの端で分かりやすく戦線離脱をしている自分に声を掛けてくる人もいないだろうと思っていたから。手にしていたグラスを落とさなかったのが本当に幸いだった。声のした方に顔を向けると、そこにはキラキラしたシャンデリアの光を受けた金の髪の男が一人いた。体にぴたりと合うスーツを着こなし、このために着慣れないスーツを引っ張り出して着て来た、という風ではない。日ごろスーツを着慣れている人の姿だった。仕事帰りなのだろうか、顔もどことなく疲れているようにも見える。ただ、その瞳は透き通った春の緑のような生き生きとした色をしていて、一度目が合うと吸い込まれそうな気がしてしまう。実際、菊も見とれて驚いてしまった。
失礼極まりないが、こういった場に来るのは、自力で結婚相手を見つけられないような人たちばかりだと思っていたから。
「……、すまない、驚かせるつもりはなかった」
しばらく、その瞳から目を反らせずにいるとそれを驚いたからだと勘違いしてくれたようだった。
「あ、…いえ、すみません、ぼーっとしてまして」
「正面、いいか」
男は菊の目の前の空いているソファを指さした。
「え、ええ、どうぞ」
菊が男が座るのを許可すると、男は菊の斜めの位置に腰を下ろした。どうしてこんなフロアの隅に来るのだろうか。視線だけであたりを伺うと、目の前の男へフロア全体の視線が向いていた。それもそのはず。目の前のソファに座った男は、なんとも整った顔をしていた。しかも金髪碧眼、という日本人が外国人を想像するときに思い浮かぶあの容姿。少し眉が太めに感じるがそれも意志が強そうに見えるし、自信に満ちた雰囲気を醸し出している。あまり人の容姿や美醜に興味のない菊でさえ、少し見惚れてしまった。世の中にはこんなにかっこいい人がいるものだ、と。
これだけ美しい顔ならそれを商売道具にしているのだろうか。モデル?芸能人?もしやホストやその類?
ぼけっと目の前の男を見ていると、男は突然、自虐的な笑いを浮かべた。
「実は、あまり乗り気ではなくて」
「えっ」
男が急に話を始めた。こちらが聞いたわけでもないし、勝手に菊がいるソファにやってきたのだから、居心地の悪さを感じて無理して話をしなくてもいいはずなのに。菊も聞く必要が必ずしもあったわけではない。聞きたくないのであればさっさと立ち上がってしまえばよかったのに、なぜか菊の足は立ち上がることをせず、男の声に耳を傾けていた。
男の話す内容は、どこかで聞いたような話だった。
放っておいた見合いの案内が親のところに行き、親が申し込みを済ませていた。
親を手っ取り早く黙らせるためにとりあえず一度参加しただけの見合いの会。
菊にも想像が容易い話だった。自分は結婚を意識したり誰かと付き合いたいだとかそんな願望もない。
そうだろう。
これだけ男も女も周囲の視線を集めているいわゆるイケメンはきっと交際相手には不自由しないだろう。
きっと彼が結婚を嫌がる理由は自分とは違う。
一人の人に縛られたくない、もっと遊んでいたい、そういう理由なのだろう。
ずっと自由に籠ってゲームやアニメを見ていたい自分と違う。恵まれている人間はどこにでもいるのだと視線を持ち上げたとたん、壁に掛かっていた時計が目に入った。短針が指し示すのは8の数字。
(あっ…!フランシスさんとの時間!!)
何を差し置いても優先すべき自分のリカバリータイム。癒しの時間。間に合うように帰るにはもうここを出なければならない。ああ、今日は滝の洞窟のボスに挑む約束だった。楽しみで楽しみでならない。想像するだけで心が躍り、ウキウキとしてしまう。心の躍動が顔にでてしまいそうだった。いや、出てしまったかもしれない。口元が緩むのを感じながら、菊は腰を上げた。
「失礼します」と言葉を掛けて立ち去ろうとすると、顔がもう笑顔でこらえきれなかった。だって、ここ数日、フランシスさんとゲームをするために生きていると言っても過言ではなかったのだ。
会話の脈絡のないところで立ち去ろうとする菊にあっけにとられた相手の驚いた顔が視界に入る。だが四の五の言っていられない。だって、ゲームの待ち合わせの時間なのだから。
さようなら、イケメンさん。その美しい緑の瞳が映すにふさわしい人とお時間過ごしてくださいね、口には出さなかったが、心の中でそう思って立ちあがると、男はあからさまに狼狽して菊を呼び止める。
その時の声は、なぜか菊の耳にずっと残っていた。自分よりも少し高めの、甘くもそして余裕のある声。耳に心地よく響いていた。


「…くちゃん、菊ちゃん!」
「えっ、あ!すみませ、あっ!」
急いでコマンド入力をするもすでに遅し。菊が操作する盗賊のキャラクターはハーピーの足のカギ爪に囚われHPは0と赤く表示されていた。
「うわ、魔法間に合わない!」
フランシスがアドリーヌの魔法詠唱を始めるも、その間にハーピーがアドリーヌに近づいていく。そして菊と同様足の爪によって戦闘不能となっていた。
「あーー、くそ、もう少しだったのに。……菊ちゃん?どうしたの」
「ああーーすみません!少しぼーっとしていて」
「珍しいね、何かあった?」
「…いえ、なにも」
「ふうん…。ま、もう遅いし今日はこのへんでおしまいにしようか。あ~あ、明日も仕事がなかったらよかったのに」
「同感です」
そう言うと、フランシスが吐息交じりに笑った。
「じゃあ、またね。連絡するよ」
「はい、おやすみなさい」
就寝の挨拶をすると、ぷつり、とフランシスの音声が途切れた。菊もパソコンの電源を落としてヘッドホンを外す。
こうして会話をしながらゲームをしていると、忘れそうになるが、フランシスの声も決して悪い声ではない、むしろいい声なのだ。伸びやかな美声で、艶やかで男らしい。さっきみたいに吐息交じりに笑うことが何度もあったが、ヘッドホン越しに直接耳に吹き込まれると、うわ、と菊は狼狽することがあった。男が聞いてもいい声、とはフランシスのような声なのだろう。
だが、菊の頭の中はずっと一人の声をリフレインしていた。もう会うこともないであろう、見合いの会で出会った外国人。それでいいし、そのつもりであの場を去ってきた。でもどうしてあの声が忘れられないのだろうか。
そのせいで、ゲームする集中力も失うし、うまく立ち回れば勝てなくはないボスに負けてゲームオーバーになるし、フランシスさんにも迷惑をかけた。また今度はこういうことのないようにしなければ。
ふう、と菊は深く息を一つ吐いて空っぽになったマグカップを手にキッチンへ向かって行った。


ざわざわとあちらこちらで繰り広げられている騒々しい会話の声が部屋の中を満たしていく。早速、菊はこの場に来てしまったことに少し後悔をした。
前回参加した見合いの会から3か月。何度か届いた参加の案内を見送っておきながら今回参加したのにはもちろん訳がある。あの日フランシスとゲームをしながら思い出したあの外国人の声。菊はあの声にずっと囚われていた。
始めは人とのつながりを求めるあの会で人とも関わらずに一人ぼうっとしていたタイミングで声を掛けて来たから無意識に記憶に残っているのだと思っていた。だがそれから数日もすると、もっと深いところで掴まっていたことに気が付いた。それが何故なのか、もう一度あの人に会えばわかる、そう感じていたから。この会であったということしか接点はない。それにこの会にあの人が来るとは限らない。菊はそれも承知だった。だが、何もせずにはいられなかった。己のうちに起こった感情を持て余した時に届いた会の案内を見てすぐに返事を出していた。彼に会えるかもしれないと淡い期待を抱いて参加したこの会は、以前と変わらず男と女が目利きし合う欲望が見え隠れする会に変わりはなかった。ホールを満たす上辺だけで腹を探り合う会話に菊は再び辟易とした。
だがその理由だけではなく、またホールの窓際のソファにあの時と同じように腰を下ろした。
ここに居ればまた会えるような気がして。


菊は手元の腕時計に目をやった。カチ、と長針が動いて12を指示した。20時になった。ソファに座り、時折周囲をきょろきょろと見渡すもあの金色の頭はこの場にはいない。
やはり、今日は来ないのだろう。いや、今日だけではなくもしかしたらずっと。あの時、「乗り気ではない」と言っていたから、申し込みすらしないかもしれない。
まあいい。この場に来ない、それが結局答えなのだろうと菊は思った。あの一瞬、言葉を交わしただけの関係以上にはならないということだろう。なんだかんだずっと関わりのある人間と言うのはこちらが逃げたり避けたとしても否応なく再会したり関わりが残るものだ。それすらないということはあの人と自分はそういう「縁」がなかったということだ。何かを盲目的に信じているわけではない菊だが、こういった時の運だったり見えざる縁は存在すると思っている。
つまり、自分とあの人はもう会うことがかなわないのだろう。
それでいい。それならもうあの声を聞くことはできないのだと諦められるし、納得もいく。
既に飲み干して空になったグラスを持ち上げて、返すためにボーイを探そうと視線を持ち上げた。その視線はすぐにボーイとぶつかって、それだけでボーイは近寄ってきて空いたグラスを受け取った。お代わりを尋ねられたが断った。このまま帰ろうと足先を扉に向けて歩き始めた時だった。
「……いた」
「えっ…」
急に後ろから手首を掴まれた。それも、強い力で。掴まった腕の先を振り返り見ると、また菊は驚いた。
「あ、この、前の」
菊が待っていた、あの人だった。
相変わらず金の髪は照明の光を受けてキラキラと輝いているが、心なしか髪の流れは乱れているし、肩で荒く息を吐いている。
「ようやく来たかと思えば、どこに行くんだ」
走ってきたようだ。はあはあと体全体を使って呼吸を繰り返しているも、握りしめられている手の力は緩むことはない。目の前に、あの人がいる。待っていた人が。「どこに行くんだ」ただそれだけで菊の背中はぞくりと震えあがった。これだ。この声だ。ずっとあれから囚われて離されなかった、甘い声。
「え、と…帰ろうかと思って、」
「帰る?」
男の眼光が少し鋭くなった。
「は、はい」
「冗談じゃない」
今までも相当に強く握られていた手首は、さらに力を込めて握りしめられる。さすがに菊もその力に痛みを覚えて眉根をひそめると、男はハッとした表情でようやく聞き取れるくらいの小さな声で「すまない」と言って菊の腕を解放した。
「少し、いいか。場所を変えて話したいんだ」
「…私、ですか」
「そうだ。お前以外に俺は誰と話をしている」
辺りをきょろきょろと窺うも菊とこの男以外には近くには見当たらない。
「どなたかとお間違えでは」
「ない。3か月前、ここで会っただろう?」
覚えていた。相手も自分と同じく、あの日の事を覚えていた。そんな些細なことが菊を喜ばせた。
「そ、うです」
「よかった、忘れられてるのかと思った」
そんなことはない。だってあなたの声を擦り切れるほど何度も何度も頭の中を巡っていたから。そう本当に言ってしまうかと思った。
「じゃあ、いい?行こうか」
今日はフランシスとのゲームの約束はない。それ以外に夜に予定がはいりようのない菊は急いで帰る必要もなく、断る理由もない。
だが、この人について行っていいのだろうか。いくら端正な顔で声が気になっているからって。
まさか呼び出されて何か悪いことの片棒を担がされるとか、脅されてお金を巻き上げられるとか、海外に売られるとか、悪い想像が頭を駆け巡る。
そんな想像で一杯の頭で目の前の人を見ると、怪訝そうな表情をしていたのだろう。
「…何を想像しているか知らないが、そんなことはしない。ただ、頼みがあるんだ」
「……あの、ますます、怪しいんですが」
「心配性だな。取って食いやしない。俺もお前も結婚したくない、そう認識しているんだが、そのために協力しないか」
「協力、ですか」
「ああ。そうなると、この会場では話がしにくくなる」
確かに、ここは真剣に結婚や恋人を探す人たちが集まり、その人たちのために多くの団体、企業が運営している場なのだ。そこで結婚しないためにどうするか、などという話はできまい。
「確かにその通りです」
「心配なら、指定した場所でいい。こっちはどこでも構わないから」
「あの、でしたら」


声を掛けた男、本田菊の少し後ろで夜の街を歩く。11月の20時過ぎはもう秋ではなく冬のキンと冷えた空気で街は満たされていた。アーサーはトレンチコートの前をかき集めた。
結婚をしないための共犯者の名前すら聞いていないことに気づいて、会場を出た後すぐに聞いた。
本田菊、と少し照れながら男は教えてくれた。ああ、ぴったりだな、と思った。男なのに花の名前だということに少し驚いたが、菊の花をイメージすると納得した。スッと背筋を伸ばしている居住まいはまさに大輪の花を天高く押し上げる菊の花の姿そのものだし、派手さはないがどこか高潔で美しい。今も半歩前を歩いている男の背は、少し自分の目線よりも低く、目の前に頭がある。その髪も夜の闇に負けないくらいに深い黒で、艶やかだ。乱れもなく清潔感がある。日本人はきれい好きが多いと知っていたが、きっとこの男も同じなのだろう。じっと後ろ頭を見つめていたら、急に歩みが止まった。
「ここで、よろしいですか」
菊が指で示しているのは居酒屋だった。建物の外だというのに、中からはにぎやかな声がする。
「個室もありますし、ご覧の通り賑やかです」
いいな、と思った。居酒屋なら男二人で入っても違和感はない。それに賑やかな店内で二人が結婚しないための作戦会議をしても喧騒にまぎれて周囲には詳しい内容まで聞こえないだろう。個室ならなおの事。
機転が利くし、これから自分たちが共謀する内容を思うとこれ以上ない人物に思えた。この男がいいと思った自分の予感は当たっていたのだろう。
「なにより、ご飯が美味しい」
「最高だな」
そう言うと至極嬉しそうにして居酒屋に入って行った。
外に漏れ聞こえて来た喧騒のとおり、中は人であふれていた。
自分たちの来訪に気づいた店員がこちらにやってきた。
「すみません、二人です。できれば個室でお願いしたいのですが」
「ご案内します」
もしかして満席か、と危惧したが空いていたようだった。店員が案内したのは通路の一番奥の個室。願ってもない場所だった。自分たちと、呼んだ店員しか来ない隅の席。これは偶然だとしてもこれからの自分たちのすることが祝福されているようだった。
「どうぞ、カークランドさん」
「ありがとう」
勧められるまま小上がりの奥に進み、腰を下ろす。きっとこれも彼なりの警戒の表れなのだろう。深く知り合っていない二人で個室に入り、入り口から遠い奥に座ると、万が一出入り口をふさがれてしまったら逃げようがない。出入り口に位置すればこちらが動く前にこの個室から逃げることはできると思ったのだろう。
その警戒心の強さもこれからことを成すのに頼もしい。そう思って遠慮なく奥へ進んだ。そしてコートを脱いで隅に置き、メニューを手にした。
「本田さんは飲む?」
「そうですね、では生を」
「じゃあ、俺も。すみません、生二つ」
個室へ案内してくれた店員が去る前に飲み物を頼む。
「はい、ご注文ありがとうございます」
店員が個室の戸を閉めると、メニューを広げて菊の方へ向けた。
「どれがお勧め?」
「そうですね、とりあえず、卵焼きと揚げ出し豆腐と鶏のから揚げと、あ、お刺身も美味しそう。カークランドさんは苦手なものあります?」
にこにことメニューを眺めているのは、さっきまで猜疑心と警戒心丸出しでこちらを窺っていた男とは別人のようだった。心から信頼をしているわけではなさそうだが、少し対応が軟化したのはありがたい。
「特にないかな。好きなの頼んで。うまそうなのもらうから」
「失礼します。生二つ、お持ちしました」
「あ、注文いいですか。卵焼きと、揚げ出し豆腐と鶏のから揚げと、お刺身の盛り合わせ、炙りトマトにじゃがバター。あ、枝豆もください。以上で」
つらつらと手元のメニューを読み上げた菊のオーダーの確認をして、店員はまた去って行った。
「……意外と、食うんだな」
「え、もちろん、一人でなんて食べませんよ。でも、こういうところ来るの久しぶりではしゃいじゃいました」
「そうなのか」
「ええ。あまり出歩くのも好きじゃありませんし、こうして飲み合う友人も少ないですから」
「ふうん、そうなのか」
「まあ、とりあえず、乾杯しましょう?」
片手で持つにはずっしりと重量のあるジョッキをもう片方の手で支えて差し出されたので、アーサーはそれに応えるようにジョッキどうしををカチリ、と触れさせた。
外はすでに冬の冷気が支配して、体が芯まで冷えたと思っていたのに、こうしてジョッキごと冷えたビールは格別な飲みごたえがあった。ごくり、ごくりと喉を鳴らして飲み込んでいると、大きく目を見開いている菊と目が合った。
「おお」
「あ、もしかして本田さん、酒苦手だった?」
「苦手ではないんですけど、もう年もアレなので飲むのが遅いんですよ。いや、カークランドさんはいい飲みっぷりで」
「年?そう言えば聞いてなかったな」
「そうですね、名前以外は何も知りませんしね。まずはさっき仰ってた『協力』についてお聞かせください。それからです」
菊はジョッキを置いて髪を耳に掛けた。長すぎない髪の毛が、さらりと頬に掛かっていた。それを耳に掛けただけなのに露わになる頬のなだらかなカーブに目が離せなくなった。
「あ、ああ。まずは確認だけど、本田さんもお見合いの会に行きたくなくて、結婚したくない。間違いない?」
「はい。間違いありません」
「本田さんは、同性愛者?」
「んぐっ…!??」
幾分か軽くなったジョッキを片手で持って傾げていた菊は、急にむせ返った。
「っ、ごほ、すみませ、少し急で驚きました」
「俺は完全な異性愛者。そこまではOK?」
おしぼりで口元を押さえる菊の頬は少し赤い。あまりこういった話題は苦手なのだろうか。それとも、同性愛者だが人に知られたくないことだったのだろうか。
「お、おっけーです。私も、同性の方と、と言うのは考えたことがないので、違うと思います」
完璧だった。これから打ち明ける作戦は、同性愛者であれば遂行することが難しくなる。ゴールまで、無事ではいられない。
「なあ、俺と結婚しないか?」
「……、…………はい??」
たっぷりと間をおいて、口を開けたり開いたりして何かを言いたげにでも言葉が出ない、そんな様子だった。
「失礼します」
そんな時だった。居酒屋の店員が個室の扉を開いた。片手に乗せたトレイには皿が2つ、後ろにはもう一人店員が待ち構えていて、両手に大皿を持っていた。
「唐揚げと、揚げ出し豆腐、お刺身と炙りトマトです」
白黒させていた目をハッとさせて菊はテーブルの上のジョッキとおしぼりを寄せてスペースを作っている。
店員から皿を受け取ってテーブルに乗せると、それですでにテーブルがいっぱいになる。まだ何種類か頼んでいたようだったが、大丈夫だろうか。
「失礼しました」
店員がアーサーたちの個室から去ると、少し離れたところの客からワッと沸くような歓声が聞こえた。それはそれは賑やかな声で、個室の中で無言の二人がこの空間から取り残されているように感じた。
「あの、すみません。聞き間違いですか」
こちらの様子を窺うようにうつむいた顔で、視線だけをこちらに向けた。
「いや、たぶん違う。俺たち、結婚するのはどうだ?と言った」
「いえ……あの、さっき、異性愛者だろう、と言いましたよね?」
「だからだよ。俺も本田さんもお互い男には興味がない。とりあえず形だけ結婚すれば、この見合いの会のクソ面倒な案内から逃れられる。親たちもとりあえずは黙らせることができる。それで、しばらく、そうだな、3か月ってところでどうだ?やっぱり合わなかった、結婚自体も合わないだろうと言えば無下に勧めたりはしないはずだ。ただ、戸籍にはでかでかとバツがつくけどな。もし片方でも同性愛者なら別れる時に絶対こじれるから、本田さんが異性愛者で本当に良かった」
「そ、うですね……」
「それとも、本田さんは他に結婚したい人がいる?」
「いえっ!そんなことは……!正直、凄く驚いています。でも、カークランドさんがおっしゃるように、一度結婚してみるのも手かもしれませんね」
目を大きく見開いたり、顔を赤くしたり、驚きで声を詰まらせたりとしていた菊がようやく落ち着いたようで、いい笑顔をこちらに向けた。
「だろう?他には?聞きたいことがあるなら聞いて」
そう言って割り箸を手に取り、観賞用と化していたテーブルの上の料理に手を伸ばす。カラッと揚がった唐揚げは箸を通してもサクリとした食感を想像させる手ごたえがあった。すぐに食べたいから皿に取り分けたわけではない。だが、さっきから箸をとる気配すらない菊の手前、一度自分が取った方が食べやすいかと思ったから。思った通り、菊はテーブルの端に置いてあった醤油さしを手にした。小皿に醤油を注いで、薄くて白く透明な切り身を口に運んだ。
「あの、カークランドさんて、異性愛者なんですよね。なんで異性の方と結婚なさらないんですか。カークランドさんが声を掛ければどなたか応じる方もいらしたでしょう?」
「俺さ、結婚不適合者なんだよ。誰かと一緒に住めない」
「おや」
「誰かの気配を感じながら、他人と生活なんてできないって分かってるんだよ。人が使ったタオル、誰かの食器、生活音に床に落ちたゴミや髪の毛。そういったものが無理なんだ。仕事で疲れて来た家でさらにストレス抱えるなんて冗談じゃない。もしこんなこと、女に言ったらどうなると思う?」
「……なるほど。でもお付き合いはする」
食欲に火が付いたのか空腹を意識しだしたのか、菊の箸はずっと動いたままだった。
「まあな。それとこれは別問題」
「私も結婚不適合者です。あっ、いえ、誤解しないでください。私のはカークランドさんの状況以前ですよ。女性を喜ばせるような言葉を掛けてあげることも気遣いもできませんからね。きっと、女性はあなたみたいな見目美しい方がお好きでしょう?平凡で根暗な私は一人で部屋に籠っていた方がずっとずーーっと気が楽なんです。だから結婚うんぬんよりも結婚までの道のり不適合者」
平凡?誰が?目の前で幸せそうにうまそうに飯を食ってるやつが?真っ黒な髪と同様に黒く艶やかに潤む目も、優しげな雰囲気も言葉も、みんなみんな目を惹きそうだっていうのに?
「じゃあ、カークランドさんのお話をお聞きすると、私たちは一緒に住まない、ということですか?」
「どうする?」
不思議な感覚だった。今では人を長時間家に入れるのも快くなかったのに、この菊なら、問題なさそうな気もしてきた。どこが、とか決め手は、とかは全く分からないけれど、ただ、なんとなく。
「本田さんならどっちでも大丈夫な気がする」
「……私の癒しの空間に、入ってきませんか?」
「なんだそれ」
「私、今、オンラインゲームにハマってましてね。会話しながらオンライン上のゲームをするんですが、その部屋に入ってこないでほしいです」
「なんだそんなこと。じゃあ俺は、育ててる植物には手を触れないでほしい。俺が水の管理も肥料も全部決めたい」
「わかりました」
「……うん?」
「結婚しましょう」
「ほっ、本当か!」
「はい。一生だったら困りますけど、数か月、ですもんね。ほんの少しだと思えば気が楽です。それに実際の恋人ではないし、別れる時もそこまで辛くはないでしょう」
菊は、笑顔を向けた。

これほどうまくいくとは思っていなかった。「結婚」と言えば女ほどではないにしろ、男にとっても一生の大きな転換期だ。今日のうちに色よい返事を貰えるとは思っていなくて、逆に騙されているんじゃないかとか、明日になって「やっぱりやめましょう」と言われないか心配だった。
「それじゃあ、アーサーさん、また」
「うん、お休み、菊」
結婚しようと決めた後、他人行儀なファミリーネーム呼びはおかしいだろうと名前で呼ぶことを提案した。サスペンスものの初歩的な犯人のミス、お互いの呼び名が親しすぎてそこから隠ぺいした犯罪が掘り起こされる、という筋書きもあるくらいだ。
これから二人は好きあって結婚する、という設定なのだ。最初は恥ずかしがった菊もそう説得すると、名前呼びを受け入れた。
さっきまで店内にいた居酒屋の入り口で去る菊の背中を見送る。これで相手が女性なら送ってやらねばと思うが相手は男性だ。アーサーはまだ本田の人となりを知りたくてもう一軒行こうかとも考えたが、まだ週末ではなく明日も仕事のあるお互い社会人だ。、早々に明日に備えるのが常識だろう。
とりあえず、作戦は伝えて了承を得た。あとはお互いの周囲に報告し終えてしまえば簡単だ。報告もうちの方はそれほどこじれるとは思っていない。なんせ放蕩していた四男だ。片付くだけで御の字だろう。連れて来たのが今まで影もなかった「男」だとしても。
菊の方はどうだろうか。拍子抜けするほどあっさりと結婚の申し出を受け入れた菊。本当は異性愛者じゃなくて同性愛者だとか、隠してはいないだろうか。それとも、きちんと理解されていないのか。いや、そんなことはあるまい。連絡先も交換したし、恋人を演出するための呼び名も了承された。
びゅう、と冷たい風が一筋アーサーの周りに吹き付けた。思わず肩をすくめてしまう。
まあいい、どうせ数か月の関係なのだから。仮に向こうが同性愛者で本気になったとしても、それからの筋書き通りにすればいいだけのこと。演技で離婚するのではなく、本当に離婚すればいいだけのこと。そのあとどうなろうが自分には知ったことではない。
ただ、今日一緒に居酒屋で過ごして見た、コロコロと楽しげに変わる表情も、美味しそうに食べ物を頬張るところも、丁寧な言葉とにじみ出る知性と穏やかさ。とても居心地が良かった。どうせ一緒に過ごすのなら、今日感じたような好感触な菊と一緒にいたい、そう思った。


年末が近くなると、なぜか街は気忙しくなる。いつの間にかこの国の街の風景として根付いたハロウィン風の飾りが終わるとこれでもかと主張していたオレンジのカボチャのオーナメントはあっという間に、ベルや星、もみの木に打って変わる。これもあと数十日もすれば正月飾りに間に化ける。周りを行く人の気忙しい足の歩みに合わせたわけではないのに、菊の足もいつもよりも早く動く。
退勤時間間際にあれほど書類が回って来るとは思わなかった。いくら週末明けの月曜日だからと言って、両手に抱えるほどの伝票を持ってくるのはどうかと思う。週明け、数週間後に控えた年末年始の休業に合わせて身軽になりたい人たちが今まで抱え込んでいた伝票を一気に処理しようと思ったのだろう。
あなたたちは抱えていた伝票を経理に回して一仕事終わったつもりでいるでしょうけど、その先にあなた方が出した書類を処理する人間がいることを決して忘れないでほしい。
菊は常々そう思っていた。
それに、今日急いでいるのは仕事が押して困る理由があったから。人でごった返す駅前に、菊が探す人が立っていた。
「あっ、お待たせしました、アーサーさん」
「いや、今来たところ。それより急がせたみたいで悪かったな」
「いいえ、大丈夫です。はい、これ」
菊はアーサーに青い大きな封筒をビジネスバッグから取り出して手渡した。A4サイズの紙がそのまま入るサイズの封筒を受け取って、アーサーは嬉しそうに笑った。
その顔はすっかり冷え切って頬はもともと白い肌がもっと凍えるような青白くなり、鼻は真っ赤に染まっている。
「サンクス、助かる」
アーサーに手渡したのは、菊とアーサーの名前が記入されている婚姻届。そしてそれ以外に菊の母親の名前。この週末に、菊の親が菊の元にやってきて、菊とアーサーに会った。もちろん、結婚の報告、ということで。
土曜日にアーサーと菊、菊の両親4人で会って、日曜はアーサーを除いた菊親子で会った。その時に結婚に同意して証人となってくれるように菊は両親に話をした。数か月で離婚する、しかもこの人を心から大切に思って一緒にいるためにする結婚でもないのに、両親に話をするのはさすがに菊の良心がチクリと痛んだが、もう引き返せない。菊は無事証人のサインをもらっていた。
「親は何か言ってた?」
「もともと、女性と結婚とかそういう方向に全く興味を示さなかったのはそういうことかって。アーサーさんのこと根掘り葉掘り聞かれました。あ、すみませんが、もし次うちの親と会う時は適当に話を合わせておいてくださいね。アーサーさんの事、適当に話しちゃいましたので」
「はは、OKOK」
嬉しそうにアーサーは自分のビジネスバッグに封筒をしまい込んだ。
「本当に、アーサーさんの御両親には会わなくていいんですか?」
婚姻届に必要な二人の証人のサイン。大概は双方の親に挨拶をした時に書いてもらうことが一般的なようだ。菊もその通説に則って母親に記入を頼んだ。だが、アーサーは頑なに母親に会うことを拒んだ。親、特に母親から執拗な連絡を、できればその関係を切りたくて結婚という手段を選んだ彼は、その結婚相手の菊ですら母親に会わなくてもいいと言っていた。
「いいよ、別に親じゃないと証人になれないっていうものでもない。適当に誰か見繕って書かせる。それに菊が会うほどの親じゃないから」
「……そういう、ものですかね」
「そうだ。あ、どうする、この後、どっかメシでも行く?」
「そうですね。冷えてきましたので何か温かいものでも食べたいですね。随分お待たせしてしまったようなので」
「実は待った。クッソ寒い。早く行こうぜ」
菊はくすり、と笑って、頭の中でこの辺で温まる美味しいごはん屋さんがないか記憶を巡らせた。


「あ、聞いたよ」
「え、何がですか」
今日は水曜日。フランシスと一緒にオンラインゲームを楽しむ日だった。
いつも通りフランシスはアドリーヌを使い、先日覚えたばかりの爆発を巻き起こす呪文を連発している。彼は派手好きらしく、呪文のグラフィックの派手さ加減で使う呪文を選んでいるようだった。
「結婚するんだって?」
「えっ、え、えええええ?ど、どうして」
どうしてフランシスが知っているのだろう。両親以外の誰にも言っていない結婚の事を、どうして知っているのだろう。これが一生かけて連れ添う相手との結婚ならもちろんフランシスにも言うし、式にも参列して欲しいと思うのに、その正体は偽装のための結婚で、菊はなるべく誰にも気取られないようにしていたはずなのに。
「おあっ、あぶな、菊ちゃん!」
「あっ、この!」
急に結婚のことに話題が飛んで、動揺が隠せなかった。
厭らしいタイミングで切り込んできたアーマー系のモンスターに一太刀浴びせられた。しかしすぐにゲーム画面へ意識を向けなおして、カウンターを食らわせる。それから一気に畳みかけて、モンスターは土煙と一緒に消えた。
「…フランシスさん、どうしてそれを」
「あーー、うん、実はさ、昨日知り合いの婚姻届の証人になってほしいって言われてさ」
「え」
「菊ちゃん!!!なんでよりにもよって、あのアーサーと結婚すんの!!」
「えっ、フランシスさん、え、アーサーさんのお知り合いなんですか」
「知り合いって言いたくないけど!アイツとは小さい時からの顔見知りなんだよ。今回みたいに困った時に良いように使われてるけど。ねえ、菊ちゃん、アーサーのことどれだけ知ってるか知らないけど!考え直した方がいいよ??」
「どうしてですか、暴力ですか、反社会的ななにか……、そういう方のようには見えませんでしたけど」
「もうね、最悪だから!横暴、自己中心的、偉そう、乱暴者、可愛げのない」
「ちょ、え?それって、本当にアーサーさんですか?別のアーサーさんと勘違いされてませんか」
「違わないよ、アーサー・カークランドだろ?俺、菊ちゃんのサイン、ちゃんと見たんだから!」
「あの、そんな乱暴な方には見えませんでしたし、偉そうとか、横暴とか…別の方としか思えないんですけど」
「っかーー、アイツ菊ちゃんの目の前でいい子ぶってんだな」
「…それに、一生をかけた結婚じゃありませんから」
思いのほか、自分でも驚くほどのしょんぼりとした声が出た。
「どういうこと」
その沈んだ声に何か察したのか、フランシスの声は相対してピリ、と鋭さを増した。
「どなたにも言わないでくださいね。私が結婚したくないって言っていたのはフランシスさんご存じですよね」
「うん。だから驚いてるんだけど」
「これは、本気の結婚ではありません。アーサーさんも同じです。一時、周りの声を黙らせるためだけの結婚」
「じゃあ周りが静かになれば離婚するって?」
「そうです。早ければ、数か月ののちに」
「そう……ただ、アーサーには気を付けて。本当にアイツには俺、手を焼いてんだから。それに」
少しの沈黙ののち、フランシスは口を開いた。
「うまくいくとは思えない」



アーサーは、フーーー、と大きく息を吐いた。そしてそのまま、どさり、と体をソファに投げ出す。
ようやくうるさいのが帰って行った。
いつも通り姦しく母親は一人で喋っていた。ただ、今回は対象が自分ではなくて、菊だったということ。
婚姻届を提出するまでは黙っていようと思い、証人の欄も両親ではなくフランシスに頼んだくらいだというのに、どこからどう情報を入手したんだか、母親はアーサーのところへ電話を寄越してきた。そして当然、とも言わんばかりに結婚相手でである菊に会わせろと。
知られてしまった以上は仕方ないと、菊に確認の連絡を入れるも、菊は二つ返事で会ってくれると言った。最初は適当なホテルのラウンジで適当に会ってさっさと帰ってしまおうと思っていたが、何を思ったかアーサーの部屋をあの母親は指定してきた。これ以上ゴネていても面倒なだけだ。嫌々ながら了承をした。
それが菊にとって、初めてアーサーの部屋に入ることになってしまった。
母親がやってくる時間よりももっと早く菊には来てもらって、家の中を最低限案内をした。恋人なら何度か来たことがあるだろう。案内している最中は菊は目を輝かせていた。「広いですね」「おキレイにされててすごいです」「素敵なお家ですね」と褒めてくれる。
その甲斐あってか、母親は何も疑わずに菊に会ってようやく帰って行った。
「悪かったな。疲れさせただろう」
「いいえ、とてもアーサーさんは愛されてるなあと思いましたよ」
「どこが。あんなの、子離れできてないだけだろう」
くすくすと菊は笑った。
「紅茶淹れる。飲むだろう」
「ぜひ。アーサーさんの紅茶、とても美味しいんですね」
「お褒め頂きどうも」
そう言えば、菊には振る舞ってやってなかった。母親が来た時に菊にも出してやったがそれが菊が初めて飲んだタイミングだった。
「あまりに美味しくて、演技するの忘れそうになりました」
「ん?ああ、まあそうだよな。付き合ってたんなら何度か飲んでるはずだしな」
「危ないところでした」
「はは、そう言ってもらえるなんて光栄だな。菊は紅茶あまり飲まない?」
「ええ、そうですね。どちらかと言えば、コーヒーや緑茶は自分で淹れて飲みますけれど。今まで美味しい紅茶に出会ったことがありませんでしたので、紅茶の美味しさが知らなかっただけだと思っています」
「それは残念だな。人生の大いなる損失だ」
「本当に」
「どうする、次はストレートにしようか」
「はい!」
昨晩から、疑念に思っていたことが本当にそうなんだと分かった。
菊のこの喜ぶ顔を見たくて、手を変え品を変え、菊に尽くしている自分がいる。今まで付き合ってきた女たちにはそんなことしたことがなかったのに。機嫌を取られることはあれど、こうして尽くして喜ぶだなんて、その頃の自分が見たら驚くだろう。
「アーサーさんのお母さん、お優しそうでしたね」
菊がそう言うのを背中で聞きながらそれでも手は止めない。沸騰したお湯を茶葉を入れたポットに一気に注ぐ。ケトルから勢いよく飛び出した熱湯は、茶葉にしみこみ、かぐわしい匂いが立ち込めた。
「はっ、俺じゃなくて『カークランド』の家の心配をしてんだろうよ。四男と言えども放蕩していたらたまったもんじゃないんだろうな。それより、菊を凄く気に入ってたよ」
「おや、そうですか」
「落ち着きのない俺にぴったりな落ち着いた素敵な方、だってよ」
いつもの砂時計をひっくり返して、菊の方を振り向いた。
「みんなアーサーさんの事を思って言ってられるんですよ」
「は、どうだか」
「もう…。帰りがけに、何度も何度もお願いされましたよ。『アーティをよろしくお願いね』って。素敵なお母さまじゃないですか」
そんなこと菊に言ってたの知らなかった。見送りもそこそこに俺が部屋に引っ込んだ後も最後まで菊が見送っていた。その時に言われたのだろう。アーティだなんて久しぶりに聞いた。子どもの頃はそう呼ばれるのが何よりも好きだったが、あの人が俺のすることにあれこれ口を出してくるのがうっとおしくなった頃から、その名前で呼ばれるのもうっとおしくなっていったのを覚えている。
「そう」
それだけを返事して、また菊に背を向けて砂時計を見つめる。あとほんの少しガラスのくびれに溜った砂が落ち切るのを待った。
そしてぴたりと砂が動かなくなるのを確認して、ポットの中の茶葉をスプーンでひと混ぜする。
鮮やかな茶色を混ぜ、最後に茶葉を躍らせる。茶葉が動いている間にカップにそれぞれ注いでいく。
最後の一滴までカップに落としきる。
ゴールデンドロップ。その最後の一滴がそう呼ばれるそうだ。
その一滴が紅茶の味を決める。甘みも旨味も風味も全部この一滴を入れるかどうかで大きく味が変わる。
その一滴を菊のカップに。
自然としたその行動に、もう違和感はなかった。
トレイに二つのカップを乗せて菊のいるリビングに向かおうとすると、電子音がリビングから響いた。
「あっ、私、です」
菊はごそごそとカバンの中に手を突っ込んで、スマートフォンを取り出した。テーブルに紅茶を置いて、菊の様子を窺っていると、表示された画面をみて少し目を見開いて驚いていた。
「母親です。すみません、いいですか」
「うん、もし邪魔なら外出してるけど」
「いえ、大丈夫です」
菊がそう言うから遠慮なくアーサーは菊が電話をする真正面に座った。淹れたての紅茶を飲んで欲しかったのに仕方がない。アーサーは一人でカップに口をつけた。
「えっ、ちょっと、どういうことです、それは、聞いてません。困ります」
おや、と思った。いつもは落ち着いてにこやかにしている菊が、こうも狼狽しているなんて。相手が肉親だからだろうか、口調もいつもよりも少し鋭さが増している気がする。
「そうですけど…急です。ええ。ええ、……わかりました。はい」
耳からスマートフォンを離して、一つ大きくため息をついた。
「……どんな要件か聞いても?」
「あっ、すみません、それが」




「アーサーさん、終わりました?」
菊は洗い終わって絞った雑巾を広げた。一生懸命磨いたアーサーの家の床は夕刻になって傾いている太陽の光を反射している。
今日は菊がアーサーの家に引っ越す日だった。
アーサーの部屋で彼の両親と会った後に急にかかってきた菊の母親の電話の要件は、菊の部屋に妹の桜が引っ越せないかということだった。急な転勤なのだそうだ。しかもその転勤もどれだけ長く居るか分からない。そのため、新しくアパートを探すのももったいなく面倒ということで、菊の一人暮らしをしていたアパートが候補になった。
両親は自分がアーサーと結婚して一緒に暮らすと思っていた。
そうだろう。
だが自分たちは一時籍を入れるだけの形だけの結婚というイメージをしていたから、菊はアパートを手放すつもりもなかったし、そのままアパートで暮らすつもりだった。
それが、妹の桜に追い出される形で住まいを失った菊に、その連絡を貰った時に一緒にいたアーサーが、同居を申し出てくれた。
始めは一時の婚姻関係なだけなのに、同居はどうしようかと思ったが、差し迫った桜の引っ越しに新しい菊の引っ越し先を選ぶ余裕などなかった。菊は、一時アーサーの家を拠点とし、婚姻関係を解消するまでに新しい住まいを探すことにした。そして、アーサーの家の一室で物置となっていたところを菊の部屋として使うことになったのだ。
「まだ、もう少しかかりそう」
もとの家も桜がそのまま入居するということで、主だった家財は残してきた。一番大きいものがオンラインゲームに熱中しすぎても腰を痛めない椅子で、あとは少ないものだった。仕事に行くためのスーツにワイシャツ、それにちょっと外出するときの服にだらっとするときの服。持ち込んだのはそのくらいだった。
アーサーが明け渡してくれた部屋もそこまで広くはなかったが、その程度の荷物と成人男性一人が住むなら狭すぎることもない。
アーサーは、菊のために明け渡した部屋から出したものを片付けていた。もともとあまり物のないアーサーだったが、それでも一部屋分の荷物はすぐに片づけられるというほどの量ではない。
「すみません、こうなるつもりはなかったんですけど、その」
「ああ、気にするな、菊となら不思議と、大丈夫な気がする」
「なるべく、普段は部屋から出ないようにしますから」
菊がそう言うと、アーサーは曖昧に、うん、と返事をした。
「あ、そうだ、夕食はどうしましょう。いつもどうしてます?」
「あーーー、そうだな、食ってない」
「えっ!?」
「適当にどこか店入って酒飲んで帰って来ることもあるし、まったく食べてこないで家でビール飲んでお終いのときもあるし」
「……アーサーさん、私、夕食は食べないとダメな人なんです」
「お、おう」
「それになるべくなら自分で作りたいんです。自分の好みのようにしたい」
「そ、そうか」
「アーサーさんさえお嫌でなければ、私が作ってもいいですか」
「…いいけど、冷蔵庫の中、何もないぞ」
「あっ」
そうだった。何も料理をしない人の冷蔵庫ほど潔いものはない。菊は慌ててアーサーの許可も得ずに冷蔵庫の扉を開いた。
「ああ~~見事なまでのビール専用冷蔵庫……」
「悪かったな」
これからどこかのお店で食事を済まそうか、それとも材料を買ってきて作ろうか逡巡したあと、菊は意を決した。
「ちょっと、買い出しに行ってきます」
「わかった、少し待って。ついて行くから」
「え、でもアーサーさんまだ片付け終わってないんじゃ」
「俺がもう少し自炊してれば買う物も少なくてすんだんだろ?行くよ。荷物持ち要るだろうし」
「あ、りがとうございます。実は、この辺土地勘もなくて、スーパーがどこにあるかとか心配だったんです」
「だと思った。ほら、行くぞ」
アーサーは薄いコートを羽織って、菊にも上着を手渡した。


「うまかったよ、カレー」
菊はあっという間にカレーを夕食に作った。その手際は見事なもので、なにか手伝おうにも手を出す方が邪魔になるんじゃないかと遠慮してしまった。
久しぶりに家で食事をしたな、と思った。
「もしかして、と思って持って来て正解でしたね」
隣でカレー皿を洗いながら菊は笑った。
菊が使い込んだ炊飯器や調理器具を桜は不要と言ったそうで、菊はもったいないと持参していた。だが、今となってはそれは大正解だろう。アーサーの家には自炊するのに必要な調理器具が一切なかったのだ。


二人分と言えども、カレー皿とスプーンとカップだけの洗い物はあっという間に終わった。
手を拭いて、アーサーはあたりの匂いに気が付いた。自分の家に、嗅ぎなれない匂いが満ちているのが驚きだ。コメが炊き上がるにおい、カレーのスパイシーな匂い。それも含めて生活臭がするのがなんだか落ち着かなくて、かっこ悪くて、アーサーは家で自炊をしようとしなかった。面倒だったのももちろんある。
買ってきて封を開けてパウチのものを食べる、それが精いっぱいだった。
だが、今この場に漂う匂いは全く不快ではなく、むしろそれを菊と共有できるのが、なんだかふわふわとしてくすぐったい気持ちになる。
「私もいつもよりもたくさん食べちゃいました。目の前に一緒に食べてくれる人がいるって、食事が進んじゃうんですね」
「うん、うまそうに食ってたな」
「えっ、そうですか」
「居酒屋でもそう思ったよ。知ってたか、菊はうまいもの口に入れるとまず口元が笑うんだよ」
「うわーーー恥ずかしすぎます」
「なんで、いいことだろ」
菊は布巾で濡れたスプーンを拭いていた手をとめた。
「だって、30過ぎの男がそれって痛いだけじゃないですか」
「それが信じらんねえんだって。本当に俺より年上かよ」
「見たでしょう?婚姻届書いた時に私の本人証明」
居酒屋で、アーサーの心の内を打ち明けてからは本当に驚くほどトントン拍子で話が進んだ。
すでに双方の両親には会い、婚姻届は提出済みだった。
職場に話すかどうかはそれぞれに任せてある。たった数か月の婚姻だ、支障はあるまい。
イレギュラーだったのが菊の引っ越しだったが、まあ大丈夫だろう。菊に自分がなぜ結婚したくないか、自分の家に他人を入れたくないかは話してある。菊も自室で籠っていたいと言っていたから、何とかなるだろう。
それに、今こうして一緒に食事をしたり後片付けをして分かったが、菊とは非常に感性が近いな、と思った。丁寧なキッチンの使い方も、汚れた食器の扱いも、視界に止まったゴミや汚れも放っておかないですぐに取り除くところも。だからだろうか、一緒に居ても違和感がない。たった数日、会っただけの人だというのに、ずっと前から過ごしてきたかのような居心地の良さ。アーサーは、すでに菊と一緒に過ごすことに不安はなかった。
「お、風呂が沸いた」
菊も食器を片付けるのを終えた時だった。
湯舟にどうしても浸かりたいと菊が言うものだから、湯舟に湯を張った。ここに越してきて、初めてのことかもしれない。
「入ってきたら」
「え、いいんですか」
菊は、きっと暗に自分が先に使って嫌ではないかということを確認しているのだろう。
「大丈夫だって。言っただろう?ここに菊が越してくるって分かった時から了解していることだから」
「じゃあ、お先にいただきますね」
「どうぞ、ゆっくり」
パタパタとスリッパの足音を鳴らして菊は部屋に戻ってからバスルームに向かって行った。

湯舟に入るのが好きだと言ってた菊は、随分と時間を掛けて風呂を満喫したようだった。
バスルームにはシャワーを浴びて体の汗や汚れを落とすだけの為に入る物だと思っていたのに。
菊は、それ以外に湯船につかって体を温め、そして気持ちをリフレッシュさせるために入るのだそうだ。
ゆっくりと入り菊の目的も達成できたようで、そのお眼鏡にかなってよかった。
ただ、一つだけ、予想をしていなかったことがある。
「あがりました、アーサーさん。ありがとうございました」
にこやかに上機嫌で菊がそう言った。湯上りの、火照った顔で。まだ湿った髪の毛は十分にタオルで拭ききれておらず、肩にタオルを掛けている。温かいお湯に浸かることによって、幾分か気持ちも緩んだのか。さっきよりもずっと、こちらに気を許しているようだった。
その顔と入ったら。
アーサーは、人の感情よりも自分の感情を優先して生きて来た。それは自分の母親を見て学んだことだった。母親の機嫌を窺っていたらこちらが我慢せざるを得ないことばかりになってしまう。それに早く見切りをつけ、自分の感情を優先して生きることを幼少時に覚えた。
だから、人が喜ぶ顔だとか喜ばれることをしようと思ったことも終ぞなかった。
「アーサーさん?」
菊の、上機嫌な顔を見て、ぞわり、と背中がむず痒くなった。そして遅れて心臓が大きく拍動した。
「あっ、ああ、わかった」
「ありがとうございました。引っ越しの疲れも吹っ飛びました」
ニコニコと微笑む菊の顔から、目が離せない。もっと見ていたい、そう思った。
「では、私、自分の部屋にいますので。おやすみなさい」
「あ、うん、おやすみ」
今まで、自分のうちになかった感情が起こるのがわかった。だが、その感情の湧き出る根源に、アーサーは驚きを隠せなかった。
だってそれは菊の嬉しそうな顔を見るたびに巻き起こる。
菊が嬉しそうにしていると、胸が締め付けられるように苦しくもなり、そしてこちらも嬉しくなる。
そういった経験をしてこなかったアーサーは、初めて自分の中に巻き起こる感情に戸惑っていた。






ゴクリ、と喉を鳴らして温くなったコーヒーを飲み下す。
「…本田さん、大丈夫ですか」
空になったカップを書類が積まれているデスクに辛うじて確保されているスペースに置いて、菊は声の主を見る。
「…ええ」
「どうしたんですか、その隈!」
「昨日、なかなか眠れなくて。いや、お恥ずかしい」

一昨日、結婚の共謀相手であるアーサーの家に引っ越した。当初は数か月籍だけを一緒にするだけの結婚でいいだろうと言っていたのにも関わらず、その予定も大きく変わり、一緒に住むようになってしまった。
だが、眠れなかった理由は住環境の変化だけではない。アーサーだ。
はじめて会った時から思っていたが、なんであんなにかっこいい男が世にいるのだろうか。
自分では「放蕩」とは言っていたがきっとその言葉は色々とオブラートに包んで濁した故の言葉なのだろう。本当は夜毎相手をとっかえひっかえ好き放題、入れ食い状態、そういうことなのだろう。それも不思議ではない整った顔立ちと、それに愛嬌とですら感じる少し太めの眉毛。
そんな男と一つ屋根の下、過ごしてみるがいい。
初日は先にお風呂を使わせてもらってさっさと部屋に籠ったからまだ大丈夫だった。
問題は、二日目だった。
アーサーが夕食よりも先にシャワーをしたいというものだから、その待っている間に夕食の準備をした。昨晩多めに作ったカレーもあっという間になくなり、ストックのおかずもない状態から夕食を作らねばならない。何でも食べられるというアーサーの事を信じて、とりあえず作ってみようとカボチャの煮物にハンバーグ、それにサラダと準備していた時だった。
キッチンでパタパタと動く菊の隣に、湯上りのアーサーがやってきた。
もちろん、夕食を手伝うわけではなく、冷蔵庫の中のミネラルウォーターを取りに来ただけなのだが、その時の姿が良くなかった。
湯上りの、そのまま。下は履いているが上半身は裸で頭からバスタオルを被って、濡れた髪も乾かさずに。
「あっ、アーサーさんっ!」
「うん?あ、すまない、邪魔だったか」
火照った顔にミネラルウォーターをさっきまで飲んでいた唇は濡れててらてらと光る。それはまるで別のシーンを想像してしまうような色気。
ただでさえ、正面から見つめられると妙な照れが出て視線を逸らしてしまうのに、そんな姿を見せられてしまったら。
「こっ、これからハンバーグ焼きますからっ!そんな裸で…っ、油、跳ねますからっ!」
「うわ、ハンバーグも作れんの?菊って、本当に凄いな」
「あぶないですって、ほら!ソファのところで待っててください、ね」
「ありがとう、すげー楽しみ」
半ば、キッチンから追い出すように声を掛けた。少し乱暴だったか、とアーサーの表情を窺うも、アーサーは見たことのない笑顔を浮かべていた。
キレイな、よそゆきな笑顔じゃなくて、どちらかというと幼さの残るような生き生きとした笑顔。
「……どういたしまして」
菊はなんだかむずがゆくなって、アーサーからの視線から逃げるように、アーサーに背を向けてコンロに向き合った。
アンバランスな魅力が彼にはあった。黙っていればノーブルな装いが似合いの正統派な美男子だと思う。だが、少し口を開けば努めて丁寧に話をしているがその性根は少し危うい男の匂いがする。ちょっと乱暴になる言葉の端も、アンバランスさをより強調させる。それに、今、目の前で見た少年のように嬉しそうに笑う笑顔。アンバランスでありながらも、一つ一つがアーサーという人間をより魅力的に見せる。そして、その魅力に気が付けばどれが本当の彼なのか、翻弄されるのだろう。


隣のデスクの後輩が心配そうな視線を寄越すが、それ以上答えるつもりもなく再び書類とPCのディスプレイに集中しようとした時だった。
「あ、そう言えば、本田さんご結婚されたそうですね」
PCのキーボードを叩く菊の指がまたぴたり、と止まり、勢いよく会話の主を見た。
「ええっ!!ど、どこからそんな話が!」
「あれ、違うんですか、庶務の方から通勤手当の再提出の書類預かりまして」
そうだった。一人で住んでいた家から、一緒に住むことになったアーサーの家が会社から反対の方向で、しかも近くなるから通勤手当を一部返納する手続きを庶務係にお願いしたのだった。ほんの数か月住むだけのアーサーの家だから黙ったまま受給していてもバレはしなかっただろうが、多く貰いすぎている、という事実に肝心なところで小心者の菊は正しく手続きをしたのだった。ただ、それは給与上の手続きだけに収めようと思っていた。姓をどうこうするとか、課内に報告するとか、そういうことは全く想定していなかった。
「あ、ありがとうございます。結婚、なんですけどね、少しご内密にお願いできますか。お相手が公表するのを憚られる様なお立場の方なので」
「えっ、そうなんですか。…わかりました。ではこれ、お渡しします」
「お手数をおかけしましたね」
書類を受け取ると、後輩君は小さく、いえ、と言った。
驚いた。アーサーとの間では結婚を職場で言うかどうかはお互いに任せると決めた。菊としては一時の事なのだから公表するつもりはなかったし、まして同性相手だとは進んで言うつもりはなかった。だが、越してすぐの勤務日にこうして同僚に知られることになるなんて想像していなかった。すぐに離婚が決まっている結婚なのだから、余計な気遣いをして欲しくなかったのに。朝からちらちらと視線を感じているのはそのためだろう。菊はため息を零した。肺の奥から零れた空気は、さっき飲んだ温いコーヒーの匂いがした。


さっさと退勤して飛び乗った割に、電車はすでに人でいっぱいだった。
なんとか出入り口近くに自分の居場所を確保して、菊は肩を下ろした。
あれから一日中、周囲の好奇の視線を受け続け、妙な居心地の悪さを覚えていた。もういっそのこと、周囲に自分から報告した方が楽になれるだろうか。そうしてまた一人になった後にも言ってしまおうか。最初は今日のように好奇の視線を向けられるだろうが、人の噂も七十五日。きっと自分への興味なんて何日も続かないだろう。
ぼんやりとそう考えていると、降りなれない最寄り駅についていた。人の波に流されないように歩き始める。社内でスマホをちらりと確認したが、アーサーからは何の連絡もない。
帰宅は遅くなるのだろうか。今朝、合いカギを貰ったときには何も言っていなかった。
足は自然と、この前二人で行ったスーパーに向かっている。
自炊はしないし、必要でなければ夕食は食べないと言っていた彼。きっと今日も同じ。
ならば何か作っておいてもいいだろうか。
料理は好きだ。何かを食べたいメニューがあったらどこかへ食べに行くよりも自分で作ることの方が多い。
だが、自分一人で食べるために作る料理の味気ないこと味気ないこと。それは彼と一緒に住むようになって知った。
一緒に食べたカレーもハンバーグも、ほっそりとした見た目に反して意外と大食いなアーサーは、たくさん食べてくれた。
今日は、なにを作ろうか。また、食べてくれるだろうか。



終業時間の2分前、アーサーはメールソフトには何も届いていないことを確認してPCの電源を落とした。
デスク周りの書類をとりあえず引き出しに突っ込んで、ひらっきぱなしの顧客のファイルは閉じて書類庫へ戻す。
いつもなら終業時間になっても帰ろうとしない自分が、早々に帰宅準備をしていると近くのデスクの奴らが何か言いたげな驚きの目をこちらに向けているが気にしない。
なぜなら、つい数分前の事。自分よりも若干終業が早い菊から、夕食を作るから食べてほしいとのメッセージが届いた。
菊の手料理は、とても旨かった。家に菊が越してきてから何度となく作ってくれる料理を一緒に食べているが、菊が作った料理は何を食べても飽きることはない。
不思議だった。今まで人が作った料理なんか食べたいと思ったことすらなかったのに、今では、菊の料理を食べたくて早く帰宅したいとすら思っているのだから。菊の料理を意識してしまうともうだめだ。夕食など食べなくても酒があれば十分だった食生活がそれでは物足りなく感じてしまう。それに、あの味を思い出すと口の中に唾液があふれ、胃が動き出す。自分の意思とは無関係なところでもうすでに菊の料理に支配されているのだ。
ビジネスバッグを手に、「お先に」と言いフロアを後にする。気持ちも足も逸るままにエントランスに向かうエレベーターへ向かうと、目の前に見覚えのあるブロンドの男がいた。
「あれ、アーサー、珍しい。早いな」
いつぞやとは真逆の状況だった。フランシスはまだまだ勤務中らしくコートも着ておらずバッグも持っていない。その両手には珍しく書類を抱えていた。
「お前と違って仕事はキチンと時間内に収めてんだよ」
「俺だってね、いつもはそうなんだよ!はっはーん、菊ちゃんと約束だな」
「その『菊ちゃん』てのやめろ。髭が移る」
「いいじゃんかよ。お前と菊ちゃんが知り合う前から俺たち友達だったんだから」
自分たちの婚姻届の証人のサインをこいつに頼んだのが失敗だった。まさかこいつが菊と知り合いだったとは知らなかった。あれから顔を合わせる度に聞きたくない声で「菊ちゃん」と言うものだからイライラが募る。
「今は俺と結婚してんだよ」
「はいはい。紙っ切れだけの関係の結婚な」
「それでも結婚は結婚だ。馴れ馴れしくすんじゃねえ」
「うっわ、こわ。菊ちゃんには早く現実を見つめてほしいよ」
「ほざいてろ」
ハン、とフランシスを鼻で笑うとちょうど下の階へ行くエレベーターがやってきた。
それに乗り込んで振り向くと、フランシスは上の階のエレベーターを待っているようで乗り込んでこない。
書類を片手で抱えなおして、空いた方の片手を軽くあげたのを見て、アーサーもバッグを持っていない方の手を軽くあげた。
アーサーの事を口が悪いだの性根が悪いだの言うフランシスだったが、フランシスだってそのアーサーと軽口の応酬をするくらいなのだ。お互い様だとアーサーは思っていた。だが、フランシスは面倒見がよく、きっと菊のことも心底心配しているのだろう。
せめて菊がこいつに早く結婚を解消したいなどと愚痴を言うようなことはしないようにしたいと思った。

家の鍵を取り出そうとしてふと思い至って、鍵を出さずにドアノブを握りしめた。するとやはりそのドアは軽く引くだけで開いた。そっと身を扉の内側へ滑り込ませると、玄関まで漂う甘く優しい匂いがした。
「ただいま」
「あっ、アーサーさんお帰りなさい。今、夕食をつくってますから、少し待っててください」
帰宅を告げながら家の中をリビングに向かって進むと、先に帰宅していた菊がエプロンを纏いそこにいた。
「うん、すっげーいいにおい。今日は何?」
「じゃがいもがそろそろ安くなってきましたので、たくさん買ってしまって。今日は肉じゃがです」
「いいな。とてもうまそうだ。今日飲んでいいよな?月曜だけど」
「いいですね、私もいただいても?」
「もちろん。ちょっと待って。すぐ着替える」
そう言いながら右手の指はネクタイのノットに差し込まれ、ネクタイを緩めにかかっている。
さっさと自室に引っ込んで手早くスーツを脱いでいく。いつもならじっくり時間を掛けて型崩れなどしないようにハンガーにかけて仕舞うのに、今日はそれもおざなりにクローゼットに押し込んで楽な格好になる。戦闘服ともいえるビジネススーツからリラックスするための部屋着に着替えると、もう気持ちもリラックスモードになるのだろうか。うまそうな匂いに呼び覚まされたのか、アーサーは再び空腹を覚えた。
「あー腹減った」
頭に思い浮かんだその状態を隠さず言葉にすると、菊がこっちを見て、嬉しそうに笑った。
「じゃあ、ご飯多めにしましょうか」
「そうして。あ、菊の分も出しておくな」
冷蔵庫の扉を開けるも、中に入っているのは一人で暮らしていた時とは異なった。アルコールの居場所も随分と狭くなった。菊が料理をするようになって、冷蔵庫の中は随分とにぎやかになった。調味料に色々なおかず、それに甘いもの。菊は甘いものに目が無いようだった。和菓子も洋菓子もなんでもいい。それらに押し寄せられて、今まで庫内を独占していたビールの缶は端に数本あるのみだった。
キンキンに冷えている缶を二本取り出して、ダイニングテーブルに置く。そのテーブルにはすでに置く場所が無いくらいにおかずの大皿が並んでいた。菊がつくる料理は一品一品の量が多く、さすがにそんなに量は食べられないのに、とアーサーは思っていたが、それは誤算とばかりにあっという間に二人の胃袋に収まってしまうのだ。うまさにアーサーはいつもよりも量が食べられてしまうし、菊は体形からは考えられないような量を食べることがわかった。
今日はほうれん草とキャベツを海苔で和えたものとピーマンのきんぴら、それに小鉢の肉じゃが。そこに真っ白でほかほか湯気ののぼるご飯とキノコの入ったみそ汁を菊がトレイで運んできて準備は完了した。菊の目の前にビールを置けば、嬉しそうな笑顔を浮かべていた。
「ありがとうございます」
「こっちこそ。食べていい?」
「どうぞ。召し上がれ」
いつもなら真っ先に一番冷えた状態のビールを喉に流し込むところだが、今日はまず箸を手に取った。ほかほかのご飯とみそ汁をまず味わいたかった。肉じゃがをつまみながらご飯を半分くらい胃におさめてから、ようやく人心地ついた。そこでようやくビールの缶を手にした。すっかり缶の周りは水滴が満ちていた。それだけ温くなっているのだろうが、それでいい。菊の料理を食べながら飲みなれたアルコールを流し込む。
「うーー、うまい」
ちらり、と菊の方を見ると、菊もビールの缶を口にしていた。
「ふーーー、最高です」
「本当だな」
「今日は、何もおっしゃらなかったので、帰りが遅くなるのかと思ってました」
「え、毎日一緒に食べる気でいたんだが。これからは遅くなる日には連絡するよ」
「わかりました。では二人分準備しますね」
「あ、でも菊も残業とかあるんだろう?毎日じゃなくてもいいから…」
「ふふ、ありがとうございます。でもこうして家でのんびり食べるのも好きなんですよね」
そう言って菊はまた缶を傾けた。傾いた角度から相当飲んでいることが分かる。
アーサーは目を細めた。とても居心地がいい。他人と一緒に暮らすなんて、菊と出会うまでは考えられなかったのに、今では菊と過ごすことに居心地の良さを感じている。
菊は、今まで知り合ったどんな奴よりもいい。仕事で顔を合わせる男どものようにいちいち突っかかったりもしないし、意味ありげに視線を送ってきた女たちのようにこっちの機嫌を窺うようなこともしない。
穏やかな声色に穏やかな会話。こっちの生活に踏み込みすぎずにいてくれて、さらには作る食事がうまい。
まだ、一緒に暮らすようになって数日だというのに、今までに感じたことのない居心地の良さを感じていた。
「どうしました?おかわりします?」
じっと菊を見ていたのが気づかれた。箸を止めて菊は言った。アーサーは嬉しそうに頬を持ち上げて、空になった茶碗を差し出した。


完全にリラックスしていた。美味しいごはんを腹いっぱい食べて、酒が進んで、自分が話すことににこやかに聞いてくれる菊が居て。
菊は今またキッチンにいる。夕食はすでに終えた。食器の片づけはアーサーがして、ダイニングテーブルの上はすっかり片付いている。二人はソファに移動してまたアルコールを飲んでいた時、菊が急に「すこしおつまみが欲しいです」と言ってまたキッチンに向かって行った。さっきまで夕食をあれだけ作っていたのに、さらにアルコールに毒された体でまだ何か作ろうとする菊の食に対する欲求に呆れすら感じる。
「はい。ジャガイモ揚げてみました」
「サンキュ」
フォークを一本差し出されたのを受け取る。菊は大皿をテーブルに置いた。すこし、と言っていたのに随分と多い量に笑いが零れた。
そのままジャガイモを差して口元に持ってくる。近づけただけで分かる熱気は揚げたての証拠。ふう、と少し息を吹きかけて口に入れるがそれでもホカホカの熱は残っていて、火傷しないようまたビールを呷る。
「うま」
油と塩味がたまらない。あれだけ食事をしておいて、まだ食べられるとは。
「そうなんですよね、どうしてか夜遅くってこういう味の濃いもの食べたくなっちゃいますよね」
「分かる。いつも酔っぱらってから食べたいものが浮かんで、コンビニ買いに行くかすっげ―悩んでから買いに行く」
「アーサーさんでもそういうことがあるんですか」
「どういう意味だよ」
「ほら、電話一本でお呼び出しすれば買ってきたり作ってくれそうな女性がいそうですけど」
「ぐっ、」
気道にビールが入った。
ゴホゴホとむせかえるのを菊は背中を擦る。
強ちまちがいではない。むしろ、もっと酷いことを頼んでいただろう。向こうがこっちに好意を持っているということを知りながらベッドを強要したり、酔ったことで性的な興奮を持て余し、咥えろだの自分の欲求を達成するだけの酷いことを言っていた。
「だ、大丈夫ですか」
「大丈夫だ…むせただけだから」
「急いで食べるからですよ」
ふふふ、と笑う菊はとても柔らかい表情をしていた。アーサーよりも酒量は少なかったが、明らかに酔っている。頬や目元は赤くなり、いつもよりもずっと柔らかく笑う。
その顔がなんだか余裕でいっぱいに見えて、カチンときた。
こんなに自分は狼狽えているのに。
そう思ったら、アーサーは菊が耳に髪を掛ける左手の手首を掴んでいた。
アーサーさん?と不思議そうな声でこちらを見上げる。真っ黒な瞳は潤んで、ほんの少し動揺の為か左右に揺れている。
驚いているのは分かっていたが、その黒い瞳に吸い込まれそうだといつもいつも思っていた。
今日も、引き寄せられてしまう。
目が離せなくなって、自然と近づいて。

「……え」
「あ」
ふに、と唇に触れたのは柔らかい感触。
キスした。菊とキスをした。
菊は当然のように驚いている。そうだろう、自分だってどうしてそんなことしたのか驚いている。自分が一番、驚いている。おかげで、あ、なんて情けない声がでてしまった。

「あっ、アーサーさん!酔いすぎですよ!ああーもう、私も酔いました。お皿はこのままでいいです、朝に片づけますから、ではおやすみなさい!」
「ちょっ、菊!」
一方的にまくしたてられて、菊はさっさと自室に戻って行った。
バタン、といつもよりも強めのドアの音をして菊はいなくなった。ドアの音の後は、しんと自分だけ残されたリビングは静まり返った。
どうして菊にキスをしたんだろう。
自分は完全に異性愛者でそもそも菊をそういう対象に見てはいない。なのに、どうしてキスをしたのか。菊が強請った?いや、そんなことはない。
ふと、指先が自分の唇に触れる。ほんの一瞬、菊の唇と触れた自分の唇。菊の唇とは違って硬い指先の皮膚は、どれだけ菊の唇が柔らかかったのかと思い出させる。
キスなんか、何回もした。あいさつ代わりに舌を絡めたこともある。大概は口紅が塗られた人工的な塗料の味がした。
だが、ナチュラルな皮膚が触れたキスは記憶を遡らせても思い出せなかった。
「くそっ」
ソファの上に仰向けに寝転んで、顔を両手で覆った。




週末の夕食時のファミレスは混雑していた。新しい客の来店を告げるベルは時折なるし、店員を呼ぶベルはひっきりなしだ。どのテーブルが呼んでいるか表示する電光掲示板はいくつものテーブル番号を表示している。
菊は、ひとりファミレスでコーヒーを飲んでいた。
子ども連れや学生のカップル、友人同士での会話で賑わうファミレスでひとり食事もせずにコーヒーを飲むスーツ姿のサラリーマンは少し異質で、浮いていると感じている。だが、約束した時に指定された店がここなのだから仕方がない。
「おまたせ。菊ちゃん、だよね」
「あっ、フランシスさんですか?」
フランシスは、菊の目の前の席にドカリ、と座った。
フランシスと現実世界で会うのは初めてだった。いつもはオンラインゲームの画面の向こう側で声だけを知る間柄だったのに、実際に目の前で見ると想像のフランシスよりもずっとずっとかっこよかった。
緩くウエーブのかかった金髪を軽く後ろで縛って柔らかそうな雰囲気を出しているが、あごにはほんの少し髭を蓄え、男らしさがみえる。日本人には持ち得ないシュッと高い鼻筋も彫りの深い顔のつくりも、薄紫色の瞳も二次元の方のようだ。あと、ここは想像通りだったが、長身でスタイルが良く、とりわけ足が長くスーツが似合っていた。同居人のアーサーはどちらかと言えばかっちりとした体に寸分の隙のないスーツを着こなしているが、目の前のフランシスは美しくスーツを着ていた。その姿は男性でありながら「エレガント」という形容がパッと頭に浮かんだ。
「初めて会うと緊張しちゃうね、菊ちゃんは、ウン、想像通り美人だ」
「や、やめてください、私は想像以上のフランシスさんにドキドキしてます」
「もおーー、菊ちゃんの想像を軽く超えちゃったってことでいいのかな?うれしー」
にこにこしながらフランシスはテーブルのベルのスイッチに手をやった。
それほど待たずに店員が注文を聞きに来た。フランシスはメニューも見ず、菊と同じカフェオレを頼んだ。
店員はあっという間に去り、また菊とフランシスだけの空間になった。
「で、どうしたの?アーサーがなんかした?」
ぐ、と息が詰まった。
「あっ、アーサーさんの事とはなにも言ってませんけど!」
「いやあ、しばらくアイツの様子がおかしくってさ。こっちはいいんだよ、ざまあみろって思ってるから。でも菊ちゃんがゲームしながらしょんぼりしてるのは気になっちゃうよ。しかも『家では話せません』ってそりゃあもうアーサーとのことで何かあったなって思っちゃうじゃん。アタリ?」
「あ、あたりです」
「やっぱり、お兄さん名探偵!で、どうしたのさ」
「ううーーー、あの、ですね。……えーーーと、…ス、しました」
「え、ごめん、何も聞こえない」
賑やかな店内の声に、絞り出した菊の声はフランシスには届かなかったようだ。下唇にグッと力を入れて、もう一度声を出した。
「……キス、といいました」
「え」
「アーサーさんと、しました」
「えっ」
「お待たせいたしました、エスプレッソのカフェラテです」
店員がタイミングよくやってきて、フランシスの前にコーヒーを置いた。ふわり、といい匂いがあたりに漂う。
一瞬凍り付いた表情を明るくさせて、ありがとう、と店員に向かってフランシスが言うと、店員もにこやかに去って行った。
「ごめん、キスしたって聞こえたけど」
「そ、うです。間違ってません」
「菊ちゃんって、そっちだったっけ?」
「ちがいます…」
「じゃあ、アーサーが無理やり?」
「無理やり、ではないです…」
「どういうシチュエーションならそうなるわけ?」
「ご飯を食べながら、お酒を飲んでたんです。私の自意識過剰じゃなければ、お互いいい距離感の友人になれたと思っていたんです。お互いのパーソナルスペースに入っても苦じゃないと。そうしたら、ある時会話が止んで、視線を感じてアーサーさんを見たら…」
「キスされた」
フランシスさんからキス、という単語が聞こえるとなんだか照れてしまう。菊は無言のまま一つ頷いた。
そして視線を落としてテーブルの上に置いた自分の握りしめた拳を見つめていると、頭上からため息の音が聞こえた。
「酔っぱらってたんだろうな、あいつ。それ以上は?」
「それからは、何もありません。私も驚いて自分の部屋に戻って行きましたから。アーサーさんはあの日酔っていたのでしょうか。私はあまり酔っていませんでしたから、記憶もはっきりしています。ですから、あの日以来、アーサーさんを見ると、以前のように自然にふるまうこともできず」
「そりゃそうだよ!それはアイツが悪い。圧倒的にアイツが悪い。どうする、これを機に別れちゃえば?」
「ち、ちがうんです。……それは私の望むところではありません」
「はあ?どういうこと?」
菊の目の前のコーヒーカップに手を伸ばす。コーヒーはすっかり冷めてしまっており、菊は一気に飲み下した。苦みだけがあっという間に口の中に広がる。
「……嫌じゃ、なかったんです」
「え?」
「私は、どうしたのでしょう。あの時の理由を知りたくてたまらない。でも聞いてしまえば『酔った上の過ち』と言われてしまうのも知っています。それじゃあ嫌なんです。間違いだったなんて言われたくない。いつそう言われてしまうか、最近、アーサーさんを見るのも、苦しくて苦しくて」
「菊ちゃん……」
「たった数か月の偽装結婚を貫かねばならないのに、苦しくて」
目頭が熱くなり、視界が水分で歪む。泣くまいと必死に瞳を閉じて堪える。
「……アーサーは、お勧めしないって前も言ったけど。それは今も変わらないよ。だけど、菊ちゃんは、アーサーに恋してんだね」
「……」
ハッと顔を上げて瞳を開くと、フランシスは優しそうな笑みでこちらを見ていた。


「悪い、帰ってくれないか」
自分でも驚くほど冷えた声が出た。
その声に、アーサーの両脚の間に裸でうずくまり、アーサー自身を口に含んでいた女はギロリ、とアーサーを睨みつけた。
自分の急所を擦りながら口淫していた女の右手を引きはがした。握りつぶされたらたまったもんじゃない。
引きはがされた手の甲で、唾液でべとべとになっていた唇を乱暴に拭うと、女はベッドの上にあったクッションを掴んでこちらへ投げつけて来た。たかがクッションだが、当たるとそれなりに痛い。そのうえ、当たり所が悪く、ファスナーの金具が右のこめかみに当たった。嫌な痛みがした。皮膚を引き攣るような痛み。最悪血が出ているだろう。そうならなくても腫れることは確実だ。
この場でその患部を触ることはできなかった。なぜなら、女に声を掛けたのも自分、なのに心ここにないベッドの上で帰れと言っているのも自分。振り回し、傷つけた自覚はある。それなのにこちらが傷つけられて痛いというのは違うと思っていた。
女は乱暴に衣服を元通りに身に着けていく。何事もなかったかのようにスーツ姿に戻って、ストッキングを纏った足をヒールの高い靴に滑り込ませた。そしてそのままこっちを一瞥もせずにホテルの部屋から去って行った。

菊が人と約束があるから、と一緒に夕食をとらないと言った。
アーサーはひとりであの家に帰る気もしなくて、しばらく急ぎでもない適当な仕事をしていた。が、こころここにあらずの様子では仕事にも身が入らず、スマートフォンのアドレス帳から適当な女の連絡を探し出した。この女じゃないとダメだとかそういうことではなかった。たまたま表示されたのがあの女だっただけだ。たまたま向こうの予定もなく、適当なホテルで落ち合って、お互い裸になってノリノリな女がアーサーのを咥えた、その時だった。何かが違う、それでは満たされないとアーサーは気づいてしまった。
今までは女の肌それだけが自分を満たしてくれると知っていたのに。

胸がジクジクと痛むのはただ、それだけ、菊がいないということ。

自由にならないのが嫌で拒んでいた結婚で、これからも自由に好き勝手するための偽装結婚だったのに。
たまたま目についた相手が菊だったのに。
菊がいないというだけで、こんなにも世界はつまらなかっただろうか。

痛むこめかみに指をやると、そこからはやはり血が滲んでいたようで、指先に赤い血が残った。
ベッドサイドに置いてあったティッシュで軽く押さえると、ジクリ、と痛みも強くなった。

菊とは、あれから口をきいていない。一週間だ。一緒に暮らしているし、朝食も夕食も一緒にとっている。だが、菊からは今までのように声を掛けられて話すことは無くなった。
菊にキスをした、その事実を否定はしないが、あれは不可抗力だったのだ。ソファで隣に座って、ニコニコと嬉しそうにしていたその唇から目が離せなくなって、ちらりと瞳を見ると逸らされなかった。だから、キスをした。
柔らかい唇、ほんの少し触れた時に香った菊の匂い。
さっきまで女に施されていた時にはピクリともしなかった中心に熱が集まるのがわかった。
菊に触れたい。もう一度キスしたい。そうでなければこの熱は行き場を失って自分のこの痛みもきっと晴れることはない。
興味もない女に会って、はっきりと分かった。菊が大切で、菊と一緒に居たい。菊とずっと笑いあっていたい。謝って、気持ちを伝えようと。
アーサーは、脱ぎ散らかしたワイシャツに袖を通した。もしかして菊が帰宅しているかもしれないと望みをかけて。


アーサーがタクシーを降りると、自分の家に電気がついているのが見えた。菊はもう帰宅しているようだ。逸る気持ちのまま、エレベーターに乗り込んだ。菊がいるフロアの階にエレベーターが到着して扉が開くと、心臓はバクバクと鼓動を強めた。菊になんて言おう。ごめん、我慢できなかった、つい。違う。そうじゃない。菊が好きなんだ。
ドアの前に立って、震える指でカードの鍵を取り出す。機械に触れさせるとガチリ、とロックが解除される音がした。恐る恐るドアを開くと、そこに菊の靴があった。時間も時間だったから、あまり大きな音が立たないように入ってきたつもりだったのに、菊は気づいたようで、リビングの方から顔を覗かせた。
「あっ、お、おかえりなさい」
「あ、うん」
ホッとした。今までのぎくしゃくとした感じが嘘のようだった。柔らかい菊の表情を久しぶりに見た気がした。
「私も今帰ってきたところで。アーサーさんお夕食は?」
「あーー、食ってない、けど、いらない」
「……どうして」
「ちょっと、その前に話がしたいんだけど、もう寝る?」
「い、いえ、まだ少し起きていようかと」
「よかった、いい?」
リビングのソファを指さすと、菊は頷いた。菊が座った隣にコートを脱いでスーツのまま腰を下ろした。
アーサーがどう切り出そうか少し迷って、口を開いたり、止めたりをしているとき、菊が話し始めた。
「アーサーさん、今まで、どこに」
「…どこって、仕事」
「アーサーさんのお仕事って、そんなにどなたかと密着するんですか」
「?どういうことだ」
「こんなに、キツイ香水の匂いが移るような近さで、お仕事されてたんですか」
ハッとしてアーサーは腕を鼻に近づける。
アーサーはあまり香水を好まなかった。菊もだ。嗅ぎなれない、香水の匂いは、鼻の奥にいつまでも残る。
「すみません、今日はやっぱり寝ます」
「あ!菊!」
菊が自室のドアを開いて体を滑り込ませる。思わず呼び止めると、視線だけ向けたその目が合った。
「また、明日にしましょう。少し頭落ち着かせたいです」


「よーーーお、色男!どうしたその顔」
アーサーは声の持ち主の姿を見る前に、一つ大きな息を吐いた。顔を見ずしてもわかる、この声の主は今一番会いたくない男だった。
「うるっせ、ほっとけ」
「さては、昨夜はお楽しみでしたか?」
「なんのことだよ」
ぎろり、と睨みつけるも、フランシスは心底分からない、という顔をしてこっちを見た。
「…菊ちゃん、この前随分と思いつめてたけど」
「まさか、菊のこの前の予定の相手って……」
「そうだよ」
「てめっ、お前だったのか!」
「ちょっと!すぐそうやって暴力に訴えるの反対!というかさ、お兄さんすんごく、とてつもなくフォローしてあげたつもりだったんだけど。どうしてあれで何もなくてお前はそんなに疲れた顔してんのさ」
「どういうことだ」
アーサーの手がフランシスの襟元を握りしめていたのを離した。フランシスはネクタイを直しながら、じとり、とアーサーを見た。
「菊ちゃんがさ、お前のことですっごい思いつめてたの!涙こぼしながら話してたのを聞いてた」
「おれの、こと?」
「お前、色んな相手と遊んでた割に、ヘタクソだね~~。いきなりキスとかないわ」
「なんっ…!お前どうしてそれを!」
「お前と、別れたくないってさ。でも今までみたいな友人にはなれないって」
「…菊が、そう言った?」
「なのに、お前と来たら!どうしてそこでミスるんだよ!ヘタクソ!意気地なし!」
「なあ、フランシス、俺はどうしたらいい?」
「…はあ?知るか。お前が悪いんだろ」
「そうだよ、俺のせいだ。だから聞いてんだろ、菊は、どうすれば喜んでくれる」


何度も何度も意識を反らそうとしても、一度鼻についたあの匂いは記憶からは消せなかった。
明らかに、女物の香水だった。
アーサーは、自分でも言っていた。これからも遊び続けるための結婚なんだと。
それを承知で自分も結婚の申し出を飲んだのではないか。つまりは、これからはアーサーが昨日のような女の影を纏わせて帰ってきても不思議はないということ。それを承知で自分はアーサーと結婚をしたのだと。
だが、それは頭で理解しているよりも随分と菊にダメージを与えた。あのキスを、誰かほかの人にしたのかと。あの優し気な視線を、自分以外の誰かに向けたのかと。
自分とアーサーは結婚している。が、そういう関係にならない結婚だったのだ。籍は入れたけれど最も遠い存在の二人。傷つく資格などないはずなのに。
フランシスが言った。自分はアーサーに恋をしているのだと。
これが恋だとすれば、なんと醜く、なんと面倒くさい感情なのだ。
肺の奥から息を吐けば、どす黒く重たい息が出てきた気がした。
今日も一日が終わった。
いつも通り出勤をして、仕事をこなして、退勤時間になった。仕事はしていただろうか。頭はぼんやりとして使い物にならなかった。記憶もあいまいだ。ただ、時計は退勤時間を差し示しており、さっさと帰宅支度をしている。その瞬間も頭を占めるのはアーサーが嗅ぎなれない女の匂いをさせながら帰宅した事実。
フランシスに話したせいで、菊が抱える想いは彩りを増して菊の心の中に住み着いている。言葉にして他人に打ち明けただけなのに、その想いからは逃げることができなくなってしまった。アーサーが気になって気になって仕方がない。だからこそ女の匂いを纏って帰宅したことが許せなかったのだ。そんなこと言う権利もなく、そういう立場でもないというのに。
これが本当の結婚相手なら。本当に愛し合った二人だったら、匂いの主を誰何することだってたやすいのに。
偽装の結婚というのは、近いようで最も遠い距離だと改めて知った。

大鍋が乗るコンロの火を弱めた。今日は仕事帰りに買い物に寄る元気もなかった。夕食はたまたま買っていたシチューのルーと家にある野菜を寄せ集めてクリームシチューを大量に作った。アーサーと顔を合わせづらいのだが、もう数週間作り続けた二人分の食事の量は体に染みついているようで、気が付けば大鍋を取り出しシチューのルーをひと箱入れていた。お互いの仕事で遅くなる以外はいつも二人で食べていた夕食だったが、待っていようかどうしようか菊は途方に暮れていた。今、正直アーサーの顔を見るのは辛い。朝も早い仕事があると嘘を言い、朝食を別に食べて先に家を出た。連絡はないがもう少し待ってみようか。19時になっても帰ってこないのなら先に食べてしまおう。そう思って、エプロンを外してダイニングの椅子に掛けた時だった。
そっと控えめな金属音が玄関のドアの方からした。鍵を開けられるのは家主のアーサーと鍵を受け取った菊だけ。アーサーが帰ってきた、そう思って玄関のドアを凝視しているとドアは開かれた。だが、そこから顔を出したのは、すでに見慣れていた金色の髪ではなかった。いや、人間の顔ではなかった。
「えっ…」
「…ただいま」
真っ先にドアに入ってきたのは、真っ赤なバラだった。しかも、一本や二本という本数ではなく、両手で抱えないと持てないような、数。白い包み紙に包まれたバラは、それを持ち帰ってきたアーサーの姿を隠すほどの大きさだった。
「アーサーさん、お帰りなさい。すごいですね」
どなたかから貰ったのだろうか。真っ先にそんなことが思い浮かんだ。アーサーは、菊から見てもとても美しかった。少しくすんだ金の髪に初夏のグリーンの瞳、多少存在感のある眉ではあるが、鼻筋もスッと通っていて、欧米人の美しい顔、というのはたぶん彼のような容姿をいうのだと思う。そんなアーサーがバラの花束を抱えてくるなんて、イヤミかというほど似合っているのだ。彼に花束を贈り持たせたのは誰だか知らないが、とても似合っている。
きゅん、と菊の胸はまた苦しさを訴える。
「これ、菊に」
ぶっきらぼうに、花束を菊に向けた。戸惑い、アーサーの顔を窺い見るとその頬は少し染まっていた。
「えっ、わ、わたしですか」
どうして人から貰った花束を自分に寄越すのかと理解できず、ムッとした。
「アーサーさんが頂いたもの、でしょう?」
「は?なんでだよ。買って来た」
「えっ、どうして」
もう一度、菊に向けて花束が差し出される。菊はそれをおそるおそる受け取った。ゆうに50本はあるだろう。掌だけではなく、腕全体で抱えないと持てないくらいの量の花束は受け取った瞬間にズシリ、と相当な重量を両腕に伝える。
どうしてこの量のバラを買ってきたのか、どうして自分に渡したのか、頭は混乱し続ける。
「どうしてって、菊に渡すために決まってんだろ」
「すみません、少し、待ってください」
「なに?」
「私に、どうして、なのかと」
アーサーは顔を天井に向けて、ふーー、と長く息を吐いた。
こっちに向いた顔はさっきの頬の染まった顔ではなく、いつにも増して真剣な表情だった。その真剣な眼差しにこちらも背筋が伸びる。
「昨日はごめん、嫌な思いさせた。そのお詫び」
「……いえ、こちらこそ、偽装結婚の相手のクセにアーサーさんの私生活踏み込むようなこと言ってすみません。そもそも、アーサーさんは自由になさりたいから私と結婚したんですもんね。私があれこれ言う筋合いありませんでした」
「ちがうんだ」
「はい、私は本物の結婚相手とは違うんです」
「そうじゃなくて。分かったんだ、菊と一緒に居られないのが苦しかったんだって。菊がフランシスのやつと出かけたのって、俺が、キスしたからだよな。そうしなけりゃ、ずっと一緒に居れたのに。他の相手と会ってもじゃだめだったんだ」
「他の相手、って、香水の」
知らず腕の力が入ったようで、ぎゅ、と腕の中の花束が軋んだ。アーサーの手前、自分は偽装結婚の相手だと言い切ったのに、その立ち位置が嫌で体は正直に強張った。
「……そう。ゴメン、俺が浅はかだった。もう、会わない」
「…いえ、アーサーさんがそうしたいなら」
「なあ、菊。俺たち、とっても相性がいいと思わないか。お互いに居心地がいい。俺は、確実にそう思う。否定しないで話を聞いてくれるやつなんて初めてだし、ずけずけ人のプライベートに踏み込まない。それに菊の料理はうまい、俺の紅茶をうまいって言ってくれる。菊が家に居てくれると落ち着くし嬉しい。菊は落ち着いていて俺はすぐにカッとなるから菊の顔を見ると冷静になれる。なのに美味いものに目が無くて、目をキラキラさせながら食べるところは見ていて気持ちがいい。それから」
「ちょ、ちょっと待ってください。頭がついていけなくて」
「菊はそう思わないか?俺はこのまま菊に嫌われたくない」
混乱で戸惑っていたが、目の前のアーサーの瞳が次第に涙で一杯になるのが見えるとすぐに菊は正気に戻った。周りで取り乱している人がいると、反対に自分のなかで渦巻く感情が一気に静まるものだ。菊は一つ大きく息を吐いて、ゆっくり吸った。そしてアーサーが落ち着くように穏やかに話しかけた。
「アーサーさん、ありがとうございます。お花、とてもきれいです」
「あっ、ああ!そうだろ?菊が喜んでくれればそれで」
「そうだ、今日はシチューを作ったんです。早く食べませんか。今日は寒かったでしょう」
アーサーはぐす、と鼻をすする。もう涙は落ち着いたようだった。
「早く着替えてきてください、ね」
優しく笑いかけながらアーサーに言うと、アーサーは幼子のように一つウン、と頷いた。


「どうぞ」
「ありがとう」
温めなおしたシチューをたっぷりシチュー皿によそってアーサーの目の前に置いた。
さっそくスプーンで掬ったシチューにふうふうと息をかけている。菊もいつもの場所、アーサーの目の前の椅子に腰を掛けた。いただきます、と手を合わせて両目を閉じる。目を開くと、目の前には目を輝かせてシチューを食べている男がいた。がっつく、という食べ方が正しいような、大きな口で何度も何度もスプーンを皿と口とを往復させている。菊が嬉しくなってアーサーを見つめているうちに、皿は空になった。
「お代わり、ありますよ」
「っ!いる!!くれないか」
「ふふ、急がなくても、たくさんありますから、ね」
コンロの上に置かれているシチューの鍋に向かう途中に、ふと、アーサーの言っていたことが頭をよぎる。
『とっても相性がいいと思わないか。お互いに居心地がいい。俺は、確実にそう思う。否定しないで話を聞いてくれるやつなんて初めてだし、ずけずけ人のプライベートに踏み込まない。それに菊の料理はうまい、俺の紅茶をうまいって言ってくれる。菊が家に居てくれると落ち着くし嬉しい。菊は落ち着いていて俺はすぐにカッとなるから菊の顔を見ると冷静になれる。なのに美味いものに目が無くて、目をキラキラさせながら食べるところは見ていて気持ちがいい』
そんなの、自分だってそう思ってた。
そんなの、まるまるアーサーにも当てはまる。
相性がいいとしか思えないし、居心地がいい。
菊の話を最後まで聞いてくれるしプライベートで別行動をしても踏み込まない(多少拗ねたりはするが)。
アーサーの紅茶は美味しいし、菊の料理を美味しいと言って食べてくれる。
アーサーが家に居てくれると一人で過ごしていた時とは違い、パッと家の中が華やぐし話かけても心地よく返事を返してくれる。
いつもはプライド高そうにスッと背筋を伸ばして自分が正しいのだと真正面を見て胸を張っていて(それが少し冷たさを印象付けるのだが)それがカッコいいのだが、今みたいに感情を表にして泣いたり菊のご飯を口いっぱいに頬張りながら食べてくれるのは作り甲斐がある。
「ねえ、アーサーさん」
シチュー鍋の蓋を開けるとふわり、と湯気が菊の顔に当たる。おたまで何度かぐるぐると鍋の中をかき混ぜてからアーサーの皿にシチューをよそう。視線は鍋と皿に集中させながら、背中をこちらに向けて座るアーサーに話しかける。
「うん?」
シャキシャキとサラダの野菜を咀嚼する音をさせてアーサーはもごもごと返事をした。
菊は自然と顔が笑みの形に変わるのを押さえることができなかった。
「結婚しませんか」
「……は?」
ぴたり、とアーサーの動きが止まって、ギギギという音がふさわしいようなゆっくりと、ぎこちない動きでこちらを見た。
「もう、手続きでは結婚してるんですけどね、それを、二人で本物にしませんか。アーサーさんとならできる気がします」
「なっ、なんで、菊が言うんだよ!俺に言わせろよ、ばかぁっ!!」
勢いよく立ち上がったアーサーが座っていた椅子はガタン!と大きな音を立てて床に倒れた。
そしてその勢いのまま、キッチンにいたままの菊の方へやってきた。
おや、と菊がアーサーを見上げると、さっきまでよりもずっとたくさんの涙を湛えた瞳のアーサーと目が合った。
目が合ったのを合図に、菊の体はアーサーにきつくきつく抱きしめられる。背中からすっぽりと覆われるように抱きしめられ、アーサーの両手は菊が持っていた皿を邪魔しないように、両の肩に回される。
「俺だって、今日っ、同じこと、言おうと!!だからバラも良いのを選んでっ…!」
「おや、あの花束はアーサーさんがお花を選んでくださった?」
「……、菊に、最初に贈る贈り物は、俺が選びたかった」
少しむすっとした声が、菊の耳の後ろで響く。
「いいのか、きっと、この前以上の事、したくなる」
「この前?」
きょとん、と菊が首をかしげると、アーサーが菊の持っていたシチュー皿をそっと受けとってキッチンに置いた。
そして菊の体をくるり、と回転させて正面を向かせた。何事か、と何度か目を瞬かせていると、アーサーの顔が近づいた。
そのまま止まることなく、アーサーの顔が菊に重なった。触れるのは唇だけ。びくっと体を震わせた菊にアーサーの唇は少しずつ動き始める。少し開けた唇で菊の唇を挟んだり、名残惜しそうに少し吸ったり。いつの間にか菊の後頭部はアーサーの手のひらによって固定されていて離すことはできない。しかし、菊はアーサーから離れることなく、アーサーのキスを受け入れた。正しくは、アーサーのキスに思考ごと溶かされ、離れることができなかったのだ。きもちいい。アーサーの唇の動きをまねて少し唇を開いてみると、その一瞬の出来事をアーサーは見逃さず、するりとアーサーの舌が忍び込んできた。アーサーの舌はあっという間に菊の舌の居場所を見つけて舌先を擦り合わせてくる。
だめだ、さっきから膝ががくがくと震えている。立っていられない。
そう菊が思った時、アーサーの唇が離れていった。
「……、こういう、こと。菊としたくなる」
必死にアーサーの唇に翻弄されまいと目を瞑って快感に耐えていた菊はそっと目を開く。眼前間近に、アーサーの顔があって、菊は息をのんだ。
アーサーの両目が、見たこともない色を湛えていたから。菊が今まで知りえることのなかった、色気に覆われた「男」としてのアーサー。菊の背中はぞくり、と震えた。
自分とのキスで、こんな顔をするなんて。
自分と、こういうことをしたくなるって。
アーサーに求められている、と菊の体は震えた。怖いのではなく、喜びに震えた。
重なる視線を逸らせないままにいると、アーサーの唇がまた菊に近づいてきた。
こういった経験がなかった菊も、どうすればいいのか、体の奥底が知っているようだった。
近づくアーサーの顔に少し顎を持ち上げて、唇同士が触れやすいように、迎え入れる。
しかし、アーサーの唇はほんの一瞬触れただけで、あっという間に離れていった。
「…、いいのか。何もいわねーと、しちまうぞ」
ほんの少しのキスはアーサーなりの、最終通告だったのだろうか。
「お…、察しください」
してほしい、と言うのも、望むところだ、と言うのも違う気がして、菊は結局アーサーに判断を委ねるような言い方をしてしまった。
「いいようにとっちまうぞ。いいのか。菊の嫌がることはしたくない」
眉根にしわを寄せて、苦しそうに何かに耐えるような表情で、アーサーは最後の最後まで菊のことを気遣う。
菊も男だ。アーサーが耐えるものの正体は分かっている。下腹部に集まる熱は放出先を求めてぐつぐつとマグマのように滾っている。
お互いの利益の一致というだけで結婚した偽装結婚の二人は、そんな関係になるなんて思ってもいなかったし、こういった行為はゆっくりと時間を掛けてお互いの意思を確認しないといけない。だが、さっきから太腿に触れるアーサーの熱と色気のある視線、なのに無理強いをしないと菊の気持ちを確認してくれる優しさ。
「い、いいです。アーサーさんと思ってることは、一緒です」
菊は目の前のアーサーの胸元に顔を埋めて、両手をアーサーの体に回した。
破裂しそうな心臓をなんとかなだめて、震える唇で菊は言葉を紡ぐ。
菊が耳を押し付けたアーサーの胸元からはアーサーの鼓動が聞こえる。アーサーの鼓動も自分のものと同じか、それ以上に激しく拍動を繰り返している。
自分がアーサーの事を乱している、その事実が嬉しくて、菊は自分よりも逞しいと知ったアーサーの胸元にすり寄った。
「っ、きく!」
「わっ!」
アーサーが力いっぱい菊を体から引きはがして、キッチンに押し倒す。
が、驚いた菊の腕が宙を掻いて、指先がシチュー鍋に入れっぱなしのおたまに触れた。おたまは鍋から飛び出しはしなかったものの、鍋とぶつかってガシャン!とけたたましい音を立てた。
その大きな音に、二人の熱に浮かされ切った頭は一気に現実に戻ってきた。
「あ……、すまない、まだ、夕食の途中だったな」
「そ、うですね。……温めなおしますから、少し待っててください」
「うん」
一度よそったお皿の中のシチューをもう一度鍋に戻して、コンロの火をつける。
焦がさぬようかき混ぜながら温めていると、また背中に体温を感じた。
待ってて、とはダイニングテーブルで待っててほしいと伝えたつもりだったが、アーサーはそちらに戻らずにまだ菊の近くにいる。さっきの様に激しく体を触れさせることはしないが、背中はすっかりアーサーによっておおわれているし、両手は菊の腹部にしっかりと回されている。菊は、初めてアーサーの体温が自分よりも少し高めで触れていると心が落ち着くということを知った。


菊は、何度目か分からないため息をついた。
何かが嫌で、とか不満で、というわけではない。
身体的に調子が悪いわけではない。あの後、アーサーとお腹いっぱい夕食を食べたし、今、お風呂も入ってきた。いつもよりも、丁寧に、時間を掛けて。
だが、菊は扉の前でずっと動けずにいた。ノックしようと右手を何度持ち上げたことか。
この扉の先に、アーサーがいる。アーサーの部屋がある。
菊よりも先にシャワーを済ませたアーサーは、「部屋に来て欲しい」と言って自分の部屋に入って行った。
それって、そういうことなんだろう。
菊は、お世辞にも、セックスをした経験が豊かとは言い切れないのだ。男同士で、なんて考えたこともなかった。
アーサーはどうなんだろう。夕食中にキッチンで交わしたキスはとてつもなく気持ちよかった。腰が抜けてしまうかと思ったほど。きっと自分とは違い、経験値が多いのだろう。
結婚を決める前は異性愛者だと言っていたはずだった。経験を積んだ相手は女性が多いんだろうか。
こういう時に、どうすればいいのかさっぱりわからない。経験値の差と言うのは恐ろしい。ゲームの中の経験値の様に、目に見えてくれればいいのに。敵がどんどん現れて、やっつければ経験値が溜まっていくような。
もう何分こうしていただろうか。ふう、ともう一度息を吐いて、手をまた持ち上げる。
えい、と勢いよく手を振りかざすとコツン、と握りしめた拳の指一本が扉に触れた。
思いのほか小さな音に、まずい、と思った瞬間、ドアが少し開いた。
少し開いた隙間から、眠そうな目が見えた。
「何時間、風呂に入ってるんだかと思ってた」
「す、すみません、お風呂はちょっと前にあがってたんですけど」
「入って」
大きく開かれた扉の向こうに、アーサーがさっきまでいたと思われるベッドのシーツにしわが寄っている。いつも見るコートもスーツも、彼が身に纏っているのは何度も見たことがある。だが、こうしてハンガーに掛かっているのを見るのは初めてだった。初めて立ち入るアーサーの部屋は、アーサーの匂いが充満していた。家の中の共有スペースで接する彼の存在感とはまた違う、独特な雰囲気が彼の部屋にはある。ここには彼の全てがあって、彼のテリトリーに足を踏み入れるということは、どういうことか、体中で感じる。彼の匂いが鼻を通り肺に入って酸素と一緒に血液にのって菊の体をめぐる。
「…あのさ、さっきはがっついたけど、今日はしないから。話をしよう」
「あっ、は、はい」
アーサーが先にベッドに歩み寄って、菊を手招きする。
しないんだ。菊は正直ホッとした。すみずみをきれいに洗った体もドキドキしたあの瞬間もすこしもったいない気もするが、今日アーサーが帰って来るまで重い気持ちと疑心で一杯だったのだ。そんな急に関係が変わるわけもない。
手をアーサーの手に重ねると、ベッドの縁に二人で並んで座った。ベッドに座っても、手は離してくれず、むしろ指と指を絡めたつなぎ方をして、アーサーの腿の上に置かれている。
「俺は、本当に菊と一緒にいられて嬉しい。菊と話せなかったこの一週間は、本当に生きた心地がしなかったよ」
「それは、……私もです。アーサーさんに、偽装結婚を約束されたのに、偽装じゃなくなってきた自分に気が付いてどうしようかと。ずっと。お見せできない感情を持ってしまった」
「そんな風に言わないでくれ。俺を思ってくれた菊の気持ちをないがしろにしないでほしい」
握りしめていた手をそっとアーサーの口元に持って行かれ、自然な仕草で菊の手の甲に口づけが落とされた。
「あっ、アーサーさん!!何もしないってさっき言った!」
「うん?今日はしないって言っただけ。何もしないなんて言ってない」
「うっ、嘘つきです!」
「嘘は言ってない」
手の甲に施されていた触れるだけの口づけが、いつの間にか湿度の籠った音を立てるものに変わっていた。
人差し指の第二関節が唇に挟まれ、ぬるりと舌で撫でられる。
「っん……!」
「は、すっご、菊の声、もっと聞きたい」
尖らせた舌が関節の皺を押し開くように舐めるものだから、菊の体は大きく震えた。そしてその震えがこらえきれなくなって呼吸と一緒に声が漏れた。
「そんなエロい声出すなんて知らなかった。今まで一緒に住んでたのに、ずっと」
関節を挟んでいた唇は、いつの間にか指先を飲み込んでいた。爪のつるりとした部分を舌先で撫でたかと思えば、その舌は敏感な指先を撫でる。敏感な指先はアーサーの舌の動きをダイレクトに伝えた。キッチンで交わしたキスのときも、こんな動きをしていたのだろうか。もっとキスをすれば、こんな艶めかしく動くのだろうか。
菊の喉は知らずにごくり、と上下した。それを目敏く見つけただろうアーサーは、嬉しそうに笑った。
「何想像した?言って。その通りにしてあげるから」
「あっ、そ、れは」
「いいよ、言いたくなければ。こうして菊の指舐めて菊の声聞いてるだけでイケそう」
アーサーの舌の動きが大胆になった。指先だけを舌で包んだかと思いきや、指の腹をべろりと舐めたり指と指の付け根を舌先でうっすらなぞったりとしている。
イケそう、とアーサーは言うけれど、それは菊だって一緒だ。あんなに整った唇が、舌がこんな性的な動きをするなんて煽られてばかりだ。アーサーが訴える熱は菊だって同じくらいに感じている。だが、これだけじゃ足らない。
「あ、アーサー、さん、お願い、キス、して」
そう菊がやっとの思いで言葉を紡いだその瞬間、アーサーの瞳の奥がギラリと光った。アーサーの舌の動きに、唇の動きに翻弄されて目が離せなくなっていた菊は、その妖しい瞳の光に、ゾッとした。
「ようやく言ったな。待ったんだぞ」
「んっ、む……っ!」
開かれたアーサーの唇に食べられるように菊の唇が覆われる。待った、と彼が言う通り、そのキスはキッチンで交わしたもののような触れるだけのキスではない。ちゅ、じゅる、くちゅ、と唇同士が起こす音とは思えないほどのキス。
「ああ、菊、きく」
キスを菊に施しながら、菊の体中をアーサーの両手は弄っていく。両手で大事そうに頬を包んだり、項から背中までを指先で辿ったり、菊のほっそりとした腰を支えて太腿を掌でそっと撫でる。
たったそれだけの手のひらの動きに、菊は体中を粟立たせる。
「ほら、冷えてる。どれだけ部屋の前で突っ立ってたんだよ」
くすくすと笑うアーサーの声が耳元で直接響く。いつの間にか、菊の体はアーサーの両腕に抱きしめられ、身動きが取れなくなっていた。
「もしかして、部屋に来たらなにかされると思ってた?」
「そっ、そうですよ!だって、さっきも、あんな、く、くちづけ……アーサーさんって、異性愛者だって言ってたじゃないですか。なんでこんなにノリノリなんですか。私、そんな急に」
「なんでだろう、ずっと不思議だったんだよ。俺も。菊が好ましく見えて、ずっと、違う、俺は異性愛者だって思ってたのに。お前のことは、前からこうして抱きしめたかったんだって、触れた瞬間に急に納得したんだ。菊、菊が良いって」
「わっ」
抱きしめられたままの菊の体は、アーサーがベッドに横になるのと一緒に倒れ込んだ。
アーサーの体を下敷きにするように、彼の体の上に俯せになった。
「菊のこと、もっともっと教えて。今まで知らずにいたこと、全部」
「はい。アーサーさんもですよ。ご家族の事とか、フランシスさんとのご関係とか」
「……なんでいい雰囲気のベッドの上で他の男の名前を出すんだよ、ばか」
少し拗ねたように尖らせた唇が可愛らしくて、菊はそっとその先端に唇を寄せた。


「も~~絶対そうなるって思ったんだよ~~!アーサーのやつと絶対本気で結婚するって!」
「ええっ?そうですか?私、あの時は本当に結婚するつもりはなかったんですよ?」
フランシスの操るアドリーヌがつい先日ようやく覚えたという究極魔法を放つ。あたりを爆発が満たし、敵という敵をなぎ倒していく。菊が素早いシーフを操って、ザコ敵を引き付けているうちにアドリーヌが呪文の詠唱をし、時を見計らって全体に超強力な魔法を放ちあたりを一掃するというのが最近の二人の戦闘スタイルだった。
今日はついにラスボスのいるであろうダンジョンを攻略し終えた。もうすぐそこにはラスボスの姿があるに違いない。アドリーヌの魔法力は直前にアイテムで回復するにして、戦闘を最低限にすることを目標にしていた。
「そうなったらさ、菊ちゃん、あの心の狭~~~~~い独占欲の塊の男に言われて、こうやってゲームすることもできなくなっちゃうじゃん?それが寂しくてさ…」
ラスボス直前特有のダンジョンの静けさがフランシスの言葉をもしんみりとさせる。
「フランシスさん…そんなことありませんよ。こうしてフランシスさんとゲームするの、私も楽しみなんですから。また都合合わせて、しましょう?フランシスさんのアドリーヌちゃんがどこまで強くなるのか見届けないと」
「き、きくちゃん~~~」
「おい髭、人の結婚相手の事まだ馴れ馴れしく呼んでるみたいじゃねえか」
「ぎゃっ!!!出てきた!狭量な男は嫌われるんだからな!」
「ふーーん、言葉じゃ分からねえなら、仕方ねえな。月曜を楽しみにしてるんだな」
「きき、きくちゃん!助けて!お兄さんアーサーに殺される!」
「アーサーさん、もう少し待っててください、ね?リビングでビールでもどうですか?私、冷やしておいたんですよ」
「…ここで飲む。菊と一緒がいい」
「もう…」
「あーー、女神像発見!菊ちゃん、今日はここまでにしよう!これ以上引っ張ると確実に月曜日に傷を作りそうだから!」
「えっ、あ!」
菊が有無を言う前にフランシスは禍々しくも巨大な扉の前の黄金の女神像に向かっていた。ボスの直前に置いてあるいかにも「どうぞここで全回復して整えてから来てください、この先?ラスボスですよ」と言わんばかりの貴重なセーブポイントだった。
「じゃあね!」
セーブが終了すると、フランシスはせわしなくマイクもオフにした。
「もう、アーサーさん、私のゲーム時間は邪魔しないって約束したじゃないですか」
「菊のゲーム時間は邪魔しない。だが髭との時間は邪魔しないとは言っていない」
菊もマイクをオフにして、ゲームの中からログアウトした。
「へりくつ」
「っな……!だって、お前、あれから最初の週末だぞ!?あの時クッソ理性総動員して我慢したのは何も準備してないとお前が嫌がるかと思って!いいか、今日は準備も万端だ。必要なものは買ってきた。お互い風呂にも入った。そうなると、じゃあベッドに行こうか、ってなると思うじゃねえか!それが『あ、今日はフランシスさんとのお約束が』とか言われてみろよ。今日の朝からこの時間の為に全てのコンディションを整えていった俺の気持ちはどうなるんだよ」
菊がヘッドセットを外し、アーサーの方を見ると、菊の部屋から出て行こうとしていた。
「アーサーさん!待ってください」
「なに」
アーサーの返事が聞こえる前にぐす、と鼻をすする音がした。
「ごめんなさい、私、どうしていいか分からなくて。今日だって絶対そんな雰囲気になるんじゃないかって思ってたんです。思ってたんですけど、それを前提に考えるのもなんだか恥ずかしくて、フランシスさんとの約束をしてしまいました。だって、私、ついこの前まで結婚なんかしないってずっと思ってたんですよ。なのに、結婚して、しかも、こんなかっこよくて目を見られないくらいの男の方だなんて、思わないじゃないですか。それなのに、これから準備万端で一緒にベッドに行きます、なんていう雰囲気、恥ずかしいじゃないですか」
「なんでだよ。俺たち結婚したんだろ」
「そう、ですけど」
「じゃあいいだろ」
「……いい、です」
普段でも光を押し込めたようなキラキラ輝く彼の瞳は、涙で潤むとより一層光を反射させるし、溶けてあの美しさが失われてしまうのではないかとドキリとしてしまう。
ん、と差し出されたアーサーの手に菊が自分の手をそっと重ねる。カチリ、と金属が触れ合う音がする。
つい先日お互いの左手の薬指にはめた、揃いのシルバーのリングだった。
今までなかった場所にあるリングの感触に、まだ慣れていない。互いのリングが触れ合うなんて思っても見なかった。あ、と菊が顔を上げると、アーサーも同じことを思ったようで、アーサーもこちらを見ていた。
絡む視線に、ふふ、と笑みがこぼれる。心配そうに、不安げにこちらを見ているものだから。
ぎゅっと強く手を握ると、同じだけ握り返される。
それだけで、とても嬉しかった。

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