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暑い夏にぞくっと楽しむ 国宝「餓鬼草紙」鑑賞入門
いま、本館2階国宝室では国宝「餓鬼草紙」を展示しています(8月21日(日)まで)。
国宝 餓鬼草紙(部分) 平安時代・12世紀 東京国立博物館蔵
この絵巻は、仏教の教えの説くところの六道の一つ、餓鬼道を描いた絵巻です。六道とは、天道(てんどう)、人道(じんどう)、阿修羅道(あしゅらどう)、畜生道(ちくしょうどう)、餓鬼道(がきどう)、地獄道(じごくどう)、の六つの世界。死後の私たちが転生する世界のことです。臨終を迎えた私たちは、閻魔王(えんまおう)はじめとする冥界(めいかい)の十王により生前の罪が裁かれ、その罪業、そして善行によりこれら六つの世界に転生することになります。
いずれの世界も苦しみや迷いに満ちています。最も苦の少ない天道でさえ、天人たちは死の間際には「天人五衰」と呼ばれる衰えがおとずれ、仲間には草のように捨てられ、地獄よりも苦しい絶望感を味合わなくてはなりません。私たちのいる人道もまた苦に満ちた世界であることは仏典を説くまでもないでしょう。
こうした六道世界を巡ることを「六道輪廻(りんね)」と言い、この六道から逃れ(厭離穢土、おんりえど)、極楽へと往生することを人びとは願ったのです(欣求浄土、ごんぐじょうど)。「人は死後、どこへ行くのか?」という、誰もが持つ切実かつ素朴な疑問への仏教側の回答が六道思想だったと言えます。こうした考えは平安時代の半ば頃、比叡山に住した恵心僧都源信(えしんそうずげんしん)の『往生要集(おうじょうようしゅう)』によって広く流布していくことになり、これらの世界観を描いた六道絵も制作されることになりました。
往生要集 江戸時代・寛文11(1671)年 東京国立博物館蔵 ※この作品は展示されていません。
江戸時代に刊行された絵入りの『往生要集』。左側のページに閻魔王の裁判の様子が描かれます。
平安時代後期には、「地獄草紙」や「病草紙(やまいのそうし)」といった、六道での苦しみを迫真の画技で表わした絵巻が制作されました。この「餓鬼草紙」もまた、六道絵のなかの一つとして、絵巻を愛好した後白河院(ごしらかわいん)周辺において制作されたと考えられる絵巻です。
国宝 地獄草紙(部分) 平安時代・12世紀 東京国立博物館蔵 ※この作品は展示されていません。
「餓鬼草紙」の描く餓鬼道は六道のなかでも苦しみの多い「三悪道」の一つ。生前に強欲で物惜しみをした者や嫉妬深い者が堕ちる所で、常に飢えと渇きに苦しみ、決して満たされることはありません。『往生要集』に拠れば、その住処は二つあり、閻魔王管轄の「地の下五百由旬(約7200km)」にある世界、あるいは人道・天道に住むとされ、「餓鬼草紙」でもこの二つの世界の餓鬼たちが描かれています。また、この世界の刑期は「人間の一月を以て一日夜となして、月・年を成し、寿五百歳なり」とあり、おそよ1万5千年。気の遠くなるような年月ですが、地獄の中でも最も刑期が短く責めも軽い「等活地獄」の刑期が1兆6653億1250万年なので、それに比べたらまだまだましかもしれません。
さて、『往生要集』が典拠とした、餓鬼道の様子を詳しく記す『正法念処経(しょうぼうねんじょきょう)』に拠れば、餓鬼には36の相があるとされ、そのうちこの絵巻では十の餓鬼の姿が残されています。
前半は私たちの生活のなかで、人知れず跋扈(ばっこ)する餓鬼の姿が描かれます。例えば巻頭の一図。ぱっと見れば、邸内で管絃のあそびをする貴族の男女の姿に見えます。ただ、細部に目をこらすと彼らの身体には小さな餓鬼たちが。享楽にふけり、不信心な人の精気を食らうという食人精気(じきにんしょうき)餓鬼を描くと考えられています。人間たちは餓鬼たちの姿に全く気づいていません。もし、私たちの身の回りにこうした餓鬼が居たとしたら…考えるだにぞっとします。
(左)管絃のあそびをする貴族たちが描かれた場面には、食人精気(じきにんしょうき)餓鬼の姿が。
(右:拡大)男性に小さな餓鬼がへばりついてます。
絵巻後半に目を移すと、獄卒たちに責めを受ける餓鬼の姿が描かれます。鳥たちに目や身体をついばまれているのは曠野(こうや)餓鬼。広野で池などを壊し、旅人を苦しめた者がなるもので、水を求めても池にありつけません。熱い鉄の塊を呑まされる餓鬼は、人に媚びへつらって悪事を働いた者がなる殺身(せっしん)餓鬼。食べ物も飲み物も口にすることができず、ひたすら熱い鉄の塊によってお腹いっぱいにさせられます。
続いて仏前に供えられた花を盗んだ者がなる住塚間食熱灰土(じゅうちょうかんじきねつかいど)餓鬼。食べ物を食べようとすると燃えさかる刀で獄卒に打たれ続けます。
このような責め苦が1万5千年間も続くわけです。
こうした苦を受けないためにはどうしたらよいのか?このブログを最後までお読みの方にその秘策をお知らせします。『往生要集』では「慳貪と嫉妬の者、飢餓道に堕つ」とあり、要するに「欲深い者、嫉妬深い者」が餓鬼道に堕ちるとあります。つまりはその逆、隣人に優しく、慎み深く日々を暮らせばこの餓鬼道に堕ちることはないと言うことなのです。
この「餓鬼草紙」の本館での展示は実に6年ぶりになります。お盆の季節。ご自身の来し方行く末、さらには日々の行ないを振り返りつつ、グロテスクかつユーモラスな表現に満ちた平安絵巻の傑作を展示室でとくとご堪能ください。本館3室仏教の美術でも関連の作品を展示していますので、こちらもお見逃しなく。
カテゴリ:研究員のイチオシ
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posted by 土屋貴裕(平常展調整室主任研究員) at 2016年08月06日 (土)
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