現実から逃げた先に幸せは存在しない
17話です。
まあ、こうなりますよね。
最初で最後の告知ですが、次回で最終回となります。
2021/08/30㈪ 0時に投稿予定です。
宜しくお願い致します。
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翌日のお昼。
私はトレーナー室の入り口の前で硬直していた。
中では、トレーナーさんが本を読んでいる。
タイトルは――。
【Souvenirs quotidiens perdus】
また読んでるのね。
本当にお気に入りの本なのだろう。
私は小さく咳払いをして、声の調子を整える。
もうトレーナーさんと一緒に過ごすのは、当たり前と言っても過言ではないのだけれど……。
今は本を読んでいるトレーナーさんを見ているだけで、そわそわと落ち着かない気分になる。
昨日のことを思い出すと、何か緊張してしまって、こんな時どんな話題が適当なのか、全く分からなくなってしまう。
幸い、トレーナーさんは本に夢中で私には気付いていない。
必勝法には確か、【告白後の行動が生死を分ける】と書かれていた。
年若い多くの男女が、告白という一大イベントの後、最初の障害――実際どうやって付き合っていくのか、という壁に直面して戦場の華と散ったことか。
華と散るわけにはいかない。
私は一度だけ深呼吸し、覚悟を決めて……。
ドアを閉め、踵を返して逃げ出した。
階段を降りきったところで小さく息をつく。
無理なものは無理だ。
せっかく恋人同士になったというのに、もし変なことを言って嫌われたら……どうしたらいいのだろう。
私には一生立ち上がれない自信がある。
必勝法に書かれた心得が頭の中を巡る。
だけど……とか、でも私には……とか、そういう言い訳が何度も脳裏に浮上しては消えていく。
雨の中、小さくため息をつく。
……恋人同士なのに、以前より話しかけにくくなるとはどういうことなのだろう。
より親しくなるために、ずっと一緒にいるために、恋人同士になるのではないのか。
などと雨の中、手持無沙汰に傘を差していると、段々と気が滅入ってくる。
「……告白しなかったら、普通に話ができたのに……」
そんな気持ちで、雨模様の暗い空を見上げていると――。
スマートフォンの通知音が聞こえた。
手に取ってみれば、トレーナーさんからのメッセージ。
【雨のなか突っ立って何してるんだ。中に入れ】
続けて、またスマートフォンが音を立てる。
【このままスズカの体調が悪くなったら、俺の責任問題だ】
そんな言葉に少し微笑む。
トレーナーさんは何事もなかったかのように、いつも通りにしている。
なんだ……いつも通りにしていればいいんだ。
そう思うと、身体の力が少し抜ける。
さっきまでの【告白なんてしない方がよかったかな】なんて気持ちは消えていた。
特別なことをしなくたって、お互いが特別な存在であることは、きちんと確認したわけだし。
普通に、いつも通りで。
肩の力を抜いて、トレーナー室に戻る。
「お邪魔します」
「別に邪魔じゃないぞ」
トレーナーさんはそんなことを言いながら、タオルを差し出した。
「……これは?」
「……ずいぶん濡れてるからな」
だからこれで身体を拭けと言ってくれているようだ。
「はい……ありがとうございます」
「にしても……この通り雨だけは厄介だよな。8月30日の他の部分は割と嫌いじゃないんだが」
「はい……そうですね」
「なんで笑顔なんだ? 気味が悪いぞ?」
「いえ……なんでもありません」
そう言って私はクスクス笑い、トレーナーさんはますます怪訝そうな顔をした。
そんな感じで始まったトレーナーさんとの恋人同士の日々は、表面上は今までと同じような雰囲気で続いていく。
デートを重ねる日々。
トレーナーさんは優しい表情をすることが多くなって、それはきっと、トレーナーさんが私だけに見せる表情だと優越感に浸ったりもした。
あの日の……告白のことは話題に上がらない。
あの時のこと、トレーナーさんはどう思ってるんだろうと思うことはあるのだけれど……。
私からは恥ずかしくて、とても自分から切り出せるものではなかった。
「本当に……どう思ってるのかしら」
「……なにがだ?」
「え……あ……いいえ、なんでもありません」
今は散歩中。
トレーナーさんは隣を歩いて、色々なことを話していて……。
私は昨日読んだ小説のことを思い出していた。
恋人同士というものは手を繋ぐものだと、その小説には記されていた。
手を繋いでいるだけで、心のどこかが繋がっているような気持ちになるのだと。
昨夜は、登場人物を私とトレーナーさんに置き換えて、ひとりでじたばたとしていた。
ちらちらと、隣を歩くトレーナーさんを見る。
手を繋ぎたいな、と思う。
でも……そんなことをしたら迷惑だろうか。
人目を気にしたりしてしまうだろうか。
でも、今は人通りもないし……。
そんなことを考えていた。
すぐそばにあるトレーナーさんの手に、手を伸ばす。
少しの間だけためらい……やがて勇気を出して、その手を――。
「もうそろそろ、かな……」
「ご、ごめんなさい」
「……スズカ、どうかしたか?」
「え……あ……いいえ、なにも……」
変なヤツ、と笑うトレーナーさんに微笑み返す。
触れそうになっていた手を元に戻した。
これが……恋愛をしているという状態なんだろうか。
トレーナーさんの隣を歩きながら、少し不安になる。
トレーナーさんはなんだか本当に、前と同じ態度を取っているように見えた。
私だけが一方的に緊張して、空回りしているようで、なんだか彼と私は違う場所を歩いているような……そんな気がした。
翌日。
朝早くから【今日は用事がある】というトレーナーさんの申し出によって、暇を持て余していた。
今日は自主トレーニングをしよう――そう思って、神社に向かい、好きなだけ走っていた。
夕日が周りを赤く照らし始め、もうそろそろ帰ろうとしていた時。
スマートフォンに着信が来た。
画面の表示を見ると……そこにはトレーナーさんの名前。
「はい……もしもし」
『……スズカ、今どこにいる?』
彼の声は、どこか暗かった。
「えっと……学園近くの神社、ですが」
『そうか……じゃあ30分後に理事長室に来れるか?』
「理事長室、ですか……?」
『ああ』
「……分かりました、なるべく早く、向かいます」
頼む、というトレーナーさんの言葉を最後に、電話を切る。
私は足早に神社を後にして、理事長室に向かった。
理事長室の大きなドアの前で、3回深呼吸をする。
生徒会室には何度か足を踏み入れたことはあるが、ここは滅多にない。
無駄に緊張してしまうのは、当然の道理だろう。
ノックをする。
「サイレンススズカです」
「……開いています、どうぞ」
中からたづなさんの声が聞こえてきて、私はドアを開ける。
「失礼します」
「うむっ。待っていたぞ、サイレンススズカ君」
私を出迎えてくれたのは――予想通りの3人。
トレセン学園の理事長である、秋川やよい。
理事長秘書、駿川たづな。
そして、私のトレーナーさん。
3人揃ってどこか……苦い表情をしていた。
「着席ッ! こちらのソファに腰掛けたまえ」
理事長の扇子が指し示すソファに促され、私は座る。
対面のソファには理事長とトレーナーさん、そして一歩退いて理事長側に立つたづなさん。
契約更改のような、慣れない雰囲気に少し戸惑いを覚える。
そんな私の心中を察してか、理事長が軽く咳ばらいをして、いつもの調子で話し始めた。
「質問ッ! まあ、答えは分かりきっているが」
そんな前置きをして、理事長は言う。
「サイレンススズカ君。キミは今、ループ――8月30日を担当トレーナーと一緒に繰り返しているな?」
私は、彼女の質問に口をつぐんだ。
なんで知っているのか、というより、なぜトレーナーさんは話してしまったのだろうと、そちらの方が気になった。
「……図星ですね」
たづなさんが私の代わりと言わんばかりに答える。
「うむ……本当は本人の口から聞きたがったが、仕方あるまい……トレーナー」
理事長がトレーナーさんを見やる。
彼はこくりとうなずくと、私の方を見て、口を開いた。
「スズカ……ループの停止方法が分かった」
トレーナーさんはむしろ、少し悲しそうにそう言った。
「8月30日は……最長でもあと1週間で終わるだろう」
私はただ呆然とトレーナーさんを見つめることしかできなくて。
「……俺から言えることは、それだけだ」
「あの……」
頭の整理が追い付かないまま、言葉を紡ぐ。
紡がなければいけない。
そうしなければ、本当に終わってしまう。
それだけは……今だけは、阻止しなければいけない。
「どうしてですか……? どうして終わってしまうんですか?」
「それは私から説明しましょう」
たづなさんが詳しい説明を行う。
ループの原因となっているのは、三女神様の像である。
例としては少ないが、私たちのようにループをしたペアがいるらしい。
事例として見られるようになったのは、10年前。
それから3年に1組くらいのペースで起きるようになった。
そのペアの全てに共通すること、それは――。
三女神様の像の前で、明日を拒否するような願い事を、二人組でするということ。
根本的な原因は分からないが、とにかくこれがトリガーとなって起きるという現象。
それがループ。
このループを止めるためには……明日を願うこと。
そして――。
今までの例で言えば、願った片方が明日を望む場合でも、止められるらしい。
それがトレーナーさんが言っていた、最長1週間。
つまり。
近いうちに明日が来る。
今まで幻想のようだった夢物語が、急に現実味を帯びて襲ってきたような感覚。
私は、ただただ驚いていた。
ループする8月30日の日常に、私は親しみすぎていた。
終わらない夏休みのようなこの日々に。
明日の来ない今日に慣れすぎて、まさかこの日々に終わりが来るだなんて思っていなかった。
私にとって、ループが終わってしまうという事実そのものが悲しすぎて、それ以上の事を考えることができなかった。
「……スズカ、明日を願おう。そうしたら日常に戻れる。俺たちの夏は……それで終わりだ」
真っ白になった頭の中にトレーナーさんの言葉が響いた。
……理事長室には重たい沈黙が満ちた。
きっとトレーナーさんにも、繰り返す8月30日には特別な思い入れがあったのだろう。
だって、全く焦っていなかった。
どこかで8月30日を楽しんでいた。
私たちはきっと明日が来ることを怖がっていて……だからこそ、ずっとこのままでいたいと思って……。
多くても、7回ループしたら、終わり。
なんともあっけない。
このままずっと続くと思っていたのに。
こんなに唐突に終わるとは思わなかった。
……。
…………。
長い間、誰も何も言わなかった。
正確には、私の返答を待っているのだろう。
「……なんで」
「ん?」
「なんで……明日を、望むんですか」
私は黙っている間、トレーナーさんのことを考えた。
ループが起きている間は、症状も止まっていると言った彼の言葉を思い出していた。
トレーナーさんを真っすぐ見据える。
私の問いかけに対し、トレーナーさんは目を伏せて、何かに耐えているように見えた。
「一緒に、願いましょうよ」
「……スズカ」
「皆さんの仰ることが本当なら、一緒に願っている限り、続くってことですよね? だったら……」
「スズカ」
「今じゃなくても、いいじゃないですか! もう少し後でも……!」
トレーナーさんは静かに首を横に振った。
「スズカも感じてるだろ……明日が来ない今日という現象は、人の心を麻痺させる。このままだと俺たちはいずれ、明日を望まなくなる。それでは困るんだ」
「そんな……でも……」
私の言葉を遮り、トレーナーさんは続ける。
「本人の覚悟なんて関係ない。今日を過去にして、未来を連れてくる。明日っていうものは……そういうものだろ」
トレーナーさんが正しいのはわかる。
でも……。
まだ、全然足りなかった。
トレーナーさんと作りたい思い出が、まだたくさんあった。
「……もう、いいんだよ。スズカ」
先ほどまでの悲しい声とは打って変わって、静かな優しい声でトレーナーさんは告げた。
「で、でも……」
「俺のことなら、大丈夫だから」
トレーナーさんはそう言うと、ソファから立ち上がった。
「俺からの話は以上だ……俺は、明日を望む。だからスズカも……」
「いや……嫌です! そんなの! 私は……私は……!」
「スズカさん」
今まで黙っていたたづなさんが制止の声を上げる。
そして、それが合図だったかのように、トレーナーさんが理事長室の出入り口に歩き出した。
「後は任せました。理事長、たづなさん」
「ま……待って」
「……今、スズカが話す相手は……俺じゃない」
「っ……」
トレーナーさんはそう言い残して、理事長室を後にした。
私はその悲しそうな背中を黙って見つめた。
――俺のことなら、大丈夫だから。
そう言ったその声が、一番大丈夫そうではなかった。
「……謝罪っ。サイレンススズカ君には、申し訳ない事をしたと思っている」
「……なんで」
「…………」
「なんで、ループの解決方法を、教えちゃったんですか」
このまま終わってしまうことが悔しくて、私は思わず問い詰めた。
理事長は私の視線を受け止め、それから小さく呟く。
「……彼がそれを望んだからだ」
「嘘をつかないでください」
理事長とたづなさんは何も言わない。
真意を推し測るように、じっと私を見つめている。
「トレーナーさんのことを知れば、理事長はきっと教えなかったはずです」
私はトレーナーさんの事情を全て話した。
いつか思い出を記憶できなくなること。
その時、トレーナーさんの時間は止まってしまうこと。
ループが続いている間、症状は抑えられていたこと。
その間に2人でたくさんの思い出を作ろうとしたこと。
まだ、たくさん思い出を作りたいこと。
これまで起きたことを全て話した。
トレーナーさんの秘密を話してしまうことに、罪悪感がなかったわけじゃない。
誰にも言わないという、トレーナーさんとの約束を忘れてもいない。
でも……話さないわけにはいかなかった。
このままループを止めるわけには、いかなかった。
そして、止める方法を知っているなら……願う他に続ける方法も知っているだろうと思った。
「ひとりだけ今日に取り残されて……みんなは明日に行ってしまうんです。そんなの、悲しいじゃないですか……」
理事長は、何も言わない。
「お願いです」
必死で理事長にすがった。
「ループを続ける方法を教えてください……理事長」
理事長はただ悲しそうに、私を見つめるばかりだ。
「トレーナーさんに待っている明日は、とても残酷なんです! 明日を拒否しているわけじゃないんです! ただ、もう少し続けさせてほしいんです!」
反応のない理事長の態度に、頭に血が上った。
「トレーナーさんは私の大事な人なんです! 大事な人が辛かったら、なんとかしてあげようって思うのは当たり前じゃないですか! 何でそんな簡単なことが分からないんですか!!」
「……わかっているとも」
小さく、かすれた声がした。
私は思わず理事長を見やる。
「キミのトレーナーのこと、私たちが把握していないとでも思っていたのか」
「……じゃあどうして、ループを止める方法を……」
「当然っ。事実が君たちの考えの真逆にあるからだ」
理事長は感情を抑えた声で、事実のみを私に伝えようとしているようだった。
「推測……ループしている間も、トレーナー君の症状は悪化している」
「え……理事長、意味が……」
「説明っ。事実を言っているだけだ。彼の本質がどこにあるのか、なぜ我々や他のトレーナー、ウマ娘と一線を引こうとするのか……理由など決まっている。いずれ決定的な別れが来ると、分かっているからだ」
理事長の言葉は、そのままトレーナーさんの気持ちをなぞっているようで、私は何も反論できなかった。
「そして……彼の症状の進行がループの中にあって抑えられているのかと言えば、それは恐らく嘘だろう」
「……どうして……そんなこと……」
「証拠っ。キミも気づいているのだろう。彼はループが始まってから同じ本を読んでいるな? タイトルは――」
――Souvenirs quotidiens perdus――
「今日も彼はその本を片手に理事長室を訪れた。私たちからすれば違和感はない……だが、ずっとループを共にしてきたキミなら、この意味が分かるだろう」
「……いや……嫌っ……」
「結果……それは【本を読んだ】という記憶がないからだ」
理事長の言葉に息を呑む。
私だって、ずっと気付いていたはずだ。
トレーナーさんは、同じ本を読み続けている。
「推察っ。記憶の欠落が、本の内容のみに限定されているとは考えにくい。恐らく彼はループ中の出来事もかなり忘れているはずだ」
「そんな……でもトレーナーさんは言っていたんです……!」
微かな希望にすがるように、私は言った。
「何かを忘れたという感覚がなくなったって、そういう喪失感が消えたって言っていたんです! だから、ループがきっといい影響を与えてるって……!」
「応答っ……忘れたことさえ、忘れているとしたら……それこそが病状の進行の証に他ならない。喪失感が消えるというのは、そういうことではないのか?」
「……え?」
「着想っ。彼はよくメモ帳になにかを書き込んでいたな。あれは恐らく思い出を失くしても周囲と話を合わせられるように、身の回りの出来事を書き込んだものだろう」
トレーナーさんがトレーナー室に忘れていったメモ帳のことを、私は思い出した。
確かにあれは、トレーナーさんが思い出を書き込むために使っているものだ。
本人がそう言っていたのだから、間違いない。
理事長の推測の鋭さに驚きながらも、その推測が示す事実に、私は怯えた。
「ループによって持ち越されるのは、当人の記憶のみ。つまり……メモを取ることに意味はなくなった」
「……そんなことありません」
気が付けば、そう呟いていた。
薄々感じていて、けれど信じたくなかったことを言い当てられたような気がした。
ループが続いている間は、トレーナーさんは幸せでいられる。
だから、ずっとループが続けばいいと考えていた。
ループが続く限り私たちは幸せで、ずっとループが終わることはない。
そういう【これから】を思い描いていたのに……。
「結論っ。ループし続ける日常は、自分と周囲との記憶の差異を気付きにくくするだろう。そして、彼は自分の思い出を記録することもできなかった」
「そんなことありません……」
「彼の症状が進行していないという根拠はどこにもない。ループが続いていても、続いていなくても、彼の行く先に待つものは同じなのだ」
ただ、首を横に振る。
「ループは終わりません。これからも続きます。願う力が足りないのなら、私が2人分願います。そうすればトレーナーさんも思い出を失うことはなくて、私たちはずっと幸せな思い出を作っていけます。そう思うことの、一体なにがいけないんですか……!」
「否定ッ! 現実から逃げた先に幸せは存在しない。問題を先送りにするのはやめたまえ!」
理事長の力強い言葉が、胸に重くのしかかる。
何も言えなかった。
深く考えることを意図的に避けていた。
そんな問題を、突きつけられたような気がした。
「……信じません。信じたく……ありません」
「私案っ。ならば本人に聞いてみるといい。ループに入って起きたこと、キミとの思い出。なんでもいい……聞いてみたまえ」
私は理事長に反論しようとして……。
反論できなくて、理事長室を後にした。
何を考えればいいのか、よく分からなかった。
少し歩いて、トレーナーさんにメッセージを送った。
トレーナーさんは【砂浜にいるから、そこで】と返してくれた。
それから砂浜に向かうまでずっと――。
理事長の推測が、間違っていることを祈った。
嘘であってほしいと、心から願っていた。
車道から砂浜に降りると、潮の香りは途端に強くなった。
昼間の暑さはまだ残っていたけれど、海から吹く風は涼しげだ。
砂浜に人影はなく、トレーナーさんだけが立っていた。
「今までのことを、考えていたんだ」
そばに行くとトレーナーさんは穏やかな声で言った。
「正直、油断してたよ。このループはずっと続くような気がしていたから」
「……でしたら、なぜ……」
「それは理事長室で話した通りだ」
「…………」
「……俺もさ、驚いてるんだ。急に現実が目の前に迫ってきたみたいで」
「……え?」
「なんとなく思い立って、理事長に相談したらさ……ループの停止方法とか原因まで知ってたんだぞ。そりゃ驚くだろ」
それはつまり。
理事長に相談しない限り、続いていたということで。
「あっけないよな。タイムリープなんていう大仰な現象なのに……本当にあっけない」
「…………」
「……ま、停止方法が分かった以上、繰り返す必要もない」
「……嫌です」
「なあ、スズカ。俺のことなら大丈夫だって―――」
「トレーナーさん」
私は遮るように、口を開いた。
声が震えないようにと注意を払って続ける。
「遊園地、楽しかったですよね。お化け屋敷で2人して騒いで……」
トレーナーさんは少し驚いたように私を見た。
その表情が何よりも雄弁に、理事長の推測を裏付けていた。
私は息をのみ、それでも続ける。
「動物園、覚えてますか? 一緒にウサギを触って……可愛かったですよね」
トレーナーさんの顔から驚きが消えた。
代わりに浮かんだのは、諦めや悲しみ――そんな感情だったのだと思う。
もう答えは出ているはずなのに、私は言葉をやめなかった。
嘘だと、心の中で呟き続けていた。
「図書館からの帰りに、詩の話をしてくださいましたよね。あの時のトレーナーさん、すごく機嫌が良かったですよね」
表面だけは明るく装って、私は続けた。
トレーナーさんは何も答えない。
「あ、それでは……これはどうですか? ほら、ちょうどここでイルカの話を聞かせてくれましたよね」
…………。
何か、言ってほしかった。
覚えてるの一言だけでいい。
相槌だけでもいい。
なんでもいいから、声を聞きたかった。
いくつもいくつも思い出を取り出して話してみるけれど、トレーナーさんはただ首を横に振るだけだ。
「それでは……あれは? ほら、2人でパフェを食べて……」
明るく話しているはずなのに、なぜか言葉が続かない。
声が震える。
これ以上、トレーナーさんの悲しそうな顔を見たくなかった。
「そしたら……トレーナーさんが……意地悪で……わたし……は……」
最後はもう、何も言えなかった。
「……俺が覚えているのは……生徒会からスズカと仲良くなる話が出たことと、2人で思い出を作ることになった経緯くらいだ」
トレーナーさんが静かに言った。
あえて感情を外に出さないような、小さな弱々しい声だった。
「他にも、あるか? 俺が忘れていること……」
忘れていた……。
私たちはお互いに告白して、気持ちを確かめ合って、恋人同士になった。
そのはずなのに……。
トレーナーさんは悲しそうに、私を見ている。
「……なにも……」
無かったことにした方がいいと思った。
だって、トレーナーさんは忘れてしまっているから。
今からそんなことを持ち出しても、トレーナーさんを混乱させるだけだとわかっていたから。
「何も……忘れていませんよ、トレーナーさん」
震える声で、私はそう呟いた。
「……スズカは優しいな」
トレーナーさんはその指で私の髪をゆっくりとすきながら、悲しそうに言った。
「覚えていることもあるんだ」
穏やかに、慰めるようにトレーナーさんは言う。
「スズカが思い出を作ろうって、言ってくれた時。少し怖くて、すごくうれしかった」
「怖い……?」
「そうだ。誰にも頼らないで独りで生きようって思っていたのに……スズカは一緒に寄り添ってくれた」
「それが、怖いんですか?」
「大切なものほど、失った時の悲しみは大きいからな」
「……ごめんなさい」
「……いいんだ。怖いのと同じくらい嬉しかったから」
「え……」
「スズカは、俺と一緒に歩くと言ってくれた。それが……すごくすごく、嬉しかったんだよ。スズカ」
トレーナーさんは困ったように笑う。
「仲間ができたみたいで、独りじゃないみたいで、本当に嬉しかった」
トレーナーさんは【みたい】という。
仲間ができたみたい。
独りじゃないみたい。
私は首を横に振る。
「……【みたい】じゃありません。本当に仲間なんです。本当に、独りじゃないんです」
必死でそう言った。
けれどトレーナーさんは、決してうなずいてはくれなかった。
「本当はトレーナーになんかなるべきじゃなかった。スズカの担当になんて、なるんじゃなかった……」
「それは……!」
「その証拠に……俺はこんなにも、失うことを怖がっている」
「……失ったりなんか、しません。ずっと一緒です」
「きっと、そうはならない」
「そんなことありません!」
「症状が悪化すれば、俺の時間はそこで止まる。最初の数日は大丈夫だろう。周囲との差はそれほど大きくはない」
トレーナーさんは淡々と話す。
きっとそのことは何度も何度も、自分で考えてきたことなのだろうと、私は思った。
「でも1ヶ月経ったら? 1年後、10年後、20年後はどうだ? 俺はずっとトレーナーを辞めた直後に留まっていて、スズカたちはずっと大人になっている」
「やめてください……」
聞きたくなかった。
「俺は多分、スズカを見て、スズカだと判断することさえ出来なくなる。俺の頭にはトレーナーの頃のスズカの思い出しか無いから……」
「聞きたくないです」
「朝が来るたびに、記憶と食い違っている世界に俺は混乱するだろう。周囲に当たり散らすことだってあると思う。それが毎日続くんだ。ずっと……ずっとずっと、俺が死ぬまで」
苦しくて、辛くて、呼吸さえままならない。
「だから俺は独りの方がいいんだ。あの時のイルカみたいに……独りで死ぬのが、きっと一番良い」
どうすればいいのか分からない。
何を言えばいいのか分からない。
「……こんな話、やめよう。本の話をしないか? 最近、面白い本を読んでるんだ。もうすぐ読み終わるんだけどさ」
そう言った彼が見せてくれた本のタイトルは――。
【Souvenirs quotidiens perdus】
咄嗟に、何も言えなかった。
トレーナーさんは私の表情を見て、小さくため息をつき、本を鞄にしまう。
「……そろそろ暗くなる。スズカも早く帰った方がいい」
トレーナーさんは帰ろうとする素振りを見せる。
とにかくトレーナーさんを引き留めておきたくて、私は口を開く。
「待ってください、トレーナーさん」
口にしたら、私もトレーナーさんも傷つくと分かっているのに、尋ねないわけにはいかなかった。
絆を確かめたかった。
ひょっとしたらという気持ちがあった。
口に出せば、トレーナーさんは思い出してくれるかもしれないと、そう思った。
「トレーナーさんはここで、私に告白してくれました」
――口にするだけでそれは。
「私のことを好きだと言ってくれました」
――どこか遠くの出来事のように思えた。
「私も、好きだって答えました」
――それは全て、現実で起きたことではなく。
「私たち、恋人同士になったんですよ」
――私の見た夢のような気さえした。
「……ごめんな」
その一言に涙がこみ上げる。
いつかの、トレーナーさんの友達の苦しそうな言葉が、初めて実感として感じられた。
【――ずっと、友達でいられると思ってたんです――】
その言葉の意味が、重さが。
初めて分かった。
「もうやめよう。お互いにこれ以上傷ついてしまう前に……やめた方がいいんだ」
衝動的に口を開く。
トレーナーさんに行ってほしくなくて、必死で言葉を探した。
――でも、何も言葉は出てこなかった。
悲しさと、自分に対する歯がゆさに足元を見つめた。
トレーナーさんは歩いていってしまって、私はただひらすらその場で泣くことしかできなかった。