いい思い出になるんだろうな
10話です。
プロット段階の私「週一更新でいけるね」
コンスタントに出していかないと間に合わないのではという危惧を抱き始めました。
一ヶ月くらい前の私に発破をかけたいです。
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雨が降る中を急ぎ足で歩く。
降りが強く、傘を差しても足元は濡れてしまう。
今日はこの時間にトレーナー室でトレーナーさんと待ち合わせ。
生徒会からの提案は今日もしっかりと実行される。
トレーナーさんの態度が徐々に冷たくなるのは感じていたし、そういう意味ではいい機会なのかもしれない。
エアグルーヴたちに感謝しなきゃ。
靴下は濡れても気持ちは軽い。
スキップでもしそうな勢いでトレーナー室に向かう。
傘を閉じて、階段を上り、長い廊下を歩いたうえでトレーナー室の前に立つ。
鍵は……かかってない。
トレーナーさんはもう来ているのだろう。
「お邪魔します」
中に入ると、トレーナーさんが古そうなメモ帳を見つめていた。
なんだか少し、懐かしそうな表情。
よほど集中しているのか、私に気づいた様子もない。
「トレーナーさん?」
彼は驚いたように私を見て硬直し……。
それから、何気ない動作でメモ帳をしまい込んだ。
「なにを見ていたんですか? トレーナーさん」
「スズカのそのやじウマ根性、どうにかした方がいいぞ」
「やじウマ……ち、違います。熱心に見てらしたので、少し気になっただけです」
「そういうのを、やじウマ根性って言うんだぞー」
トレーナーさんはそんなことを言いながら、机に置いてあった本を手に取った。
【Souvenirs quotidiens perdus】
昨日と同じ本だ。
「……いつも読んでますね、その本」
「ああ……これ、気に入ってるからな。ミステリーなのに、人間ドラマとして見てもすごく優秀なんだ」
「具体的に、どんな本なんですか?」
「……スズカには難しすぎるから、説明を聞いても理解できないと思うぞ」
「ば、バカにしないでください」
そんなことを言い合いながら、一緒にご飯を食べた。
考えてみたら、ループが起こる前はトレーナーさんとあれこれ世間話……というか、レース以外で言い合う機会は、それほどなくて――。
ケンカのようなやりとりでも、トレーナーさんが相手だと結構楽しいな、なんて考えていた。
その日の夕方頃、2人揃ってトレーナー室を後にする。
夕日に照らされた坂道を、私たちは今日も一緒に歩いている。
トレーナーさんと話しながらの散歩は、少なくとも私は嬉しい。
まあ……彼がどう思っているのかは、気になるところだけれど。
「トレーナーさん、行く当てはあるんですか?」
「そうだな……どうしようか……たまにはスズカの好きなところでいいよ。付き合うよ」
「私が決めてもいいんですか?」
彼は小さくうなずいた。
トレーナーさんと散歩……。
「海はどうでしょうか、トレーナーさん」
「へえ、普段は割と微妙なスズカの案にしてはそれなりにいい選択じゃないか」
「は、はい……」
なんだろう、この素直に喜べない感じは……。
「海はいいよな。特に、夕暮れの海は少し寂しい雰囲気に趣を感じられる。夜が訪れる瞬間なんて、世の中の虚しさみたいなのも感じられて」
……わけは知らないけれど、ものすごく乗り気だ。
合宿でテンションが少し高かったのも、海に行けたからなのだろうか。
まあ、トレーナーさんの意見には私も賛成だ。
「私は夜も捨てがたいです。夏は夜、月の頃はさらなり、です」
「……そういうところだけは気が合うな」
トレーナーさんは少し笑ってそう言った。
坂道を降り、海岸沿いの道路を横断すると、そこはもう砂浜だ。
昼間の通り雨により、海水浴は中止になっている関係で、海はまるでオフシーズンの静けさ。
さざ波は、寄せては返して耳をくすぐる音を作り、夕暮れの赤い光を背景に、遠くを船が横切っている。
この時間は、慣れているはずの潮の香りも、何か特別なものに感じるから不思議だ。
「……波の音って、落ち着きますよね」
ぼそりと言うと、トレーナーさんは小さくうなずく。
しばらくの間、私たちは互いに黙って砂浜を見つめた。
間断ない波の音がそういう気持ちにさせるのだろうか、昨日とは違って沈黙さえも心地よかった。
日が暮れるまでこのまま黙っているのも悪くない。
そう思っていたとき。
「そう言えば昔……中学生の時かな。俺はここでイルカを見たんだ」
何気ない口調で、トレーナーさんはそんなことを言った。
「イルカ……? イルカって、あのイルカですか?」
私のあやふやな問いかけに、トレーナーさんは懐かしそうにうなずいた。
「そうだ。打ち上げられた小さなイルカでさ。少し悲しいことがあって、ひとりで砂浜を歩いていたときに見かけたんだ」
ここで……。
トレーナーさんは何かを思い出すように、目を細めた。
「イルカの子供が、横たわったまま微動だにしなくて、俺を見てたんだ。俺はそれをただ見つめていた。あまりに衝撃的で、なにも考えられなかったんだ」
「…………」
「目がとても寂しそうだった。もうすぐ死ぬんだなって思った。群れからはぐれて、こんなところでたったひとりで……」
「……それで、どうなったんですか?」
「それから……そのイルカがどうなったのか、全然覚えてない」
「え……覚えてないんですか?」
それだけ印象的なことなら、その先のことも覚えていそうなものなのに。
「……ニュースになったとしても聞かないし……多分、死んで波にさらわれていったんじゃないかな」
トレーナーさんはどこか寂しそうにそう言った。
どう反応していいのか、困った。
話自体は不思議で興味を引かれたのは確かだけれど、その話に対してトレーナーさんがどんな気持ちを抱いているのかよくわからない。
だからそれを、単純に物語として受け取ればいいのか、トレーナーさんの思い出として受け取ればいいのか、よく分からなかった。
「まあ……ちょっと珍しい話、程度のことだよ」
そう言って、トレーナーさんは別の話題を持ち出した。
私たちはその後も、水平線の向こうに沈む夕日を見ながら、話をしていた。
けれど、私はずっとトレーナーさんの昔話が引っかかっていた。
日が暮れる頃、トレーナーさんに送ってもらって寮に帰ることになり、空には零れ落ちてきそうな程の満天の星が見えた。
星と月は辺りを白い光で明るく照らしている。
「しかし……スズカの周りの連中はどうしてこう、世話焼きが多いんだろうな」
不意に漏らしたトレーナーさんの呟きに、私は口を開く。
「優しいんですよ、みなさん」
「お節介とも言わないか?」
「そ、そんな言い方……あまり感心しません」
「……分かってるよ。俺だって別に、あいつらが嫌いって言うわけじゃないんだ」
「そ、そうだったんですか?」
「……怒っていいか?」
「ふふっ……今のは冗談です。いつもやりこめられてますから、たまにはお返し、です」
トレーナーさんは返事の代わりに大きなため息をついた。
「俺はトレセン学園の雰囲気、好きだよ。居心地良いし、みんないい人だし。一緒に仕事できて良かったよ。忘れなければきっと……いい思い出になるんだろうな」
「……どこか一歩引いてるみたいな言い方ですね」
「今だから言うけど、トレーナーは元々長く続けるつもりが無かったんだ。だから深く付き合って情が移っちゃいけないって……ちょっと思っててさ」
考え考え言うトレーナーさんの言葉に、私は言葉を失った。
「……どうかしたか?」
「いえ……その、トレーナーさんから思わぬ言葉が出てきたな、と思って」
好きな場所なのに、どうしてそれをわざわざ自分から手放してしまおうとするのだろう。
好きなものだからこそ、遠ざけていたい。
そう言っているように感じる。
……もしそうだとしたら、その気持ちは分からなくない。
大切なものほど失うのが怖い。
だから、大切なものなど手にしない方がいい。
――私は走ることが大切だ。
しかし、競走バとして走る以上、勝たなければ意味がない。
前のトレーナーさんからの叱責される日々を思い出す。
なんでこんなに辛い思いをしなきゃいけないんだろう。
走ることが、なんでこんなに辛いんだろう。
もう、走りたくない。
走ることをやめた私に何が残るの?
――こうなるなら、走る喜びを知らなければよかった。
そこまで思い詰めた私を救ってくれたのが、隣で一緒に歩く彼。
だから彼のそういう気持ちは少し分かって、分かるからこそ、悲しい。
なんとかして、助けてあげたい。
「……昨日さ、スズカが俺に寂しがり屋って言っただろ」
「え……」
「それさ、当たってるよ。本当は臆病で寂しい奴なんだ。ひとりじゃとても生きていけないと思ったから、人との交流が多いトレーナーになったんだけど」
……。
…………。
「……そうだったんですね」
そう言う割には、他のトレーナーさんとの交流が皆無だったり、ウマ娘と極力話そうとしなかったりしているけれど。
これが本心だとしたら、なにか理由があるのだろう。
「でも……」
「なんだ?」
「そんなの、みんな同じですよ。ひとりでなんて、誰も生きていけません」
トレーナーさんは少し笑った。
「それでも、俺は生きていくよ」
「……え?」
「やりたいことがあるって言っただろ? それは俺ひとりでするんだ」
「…………」
大丈夫、だろうか。
自分は臆病だと、寂しがり屋だと自覚している人が。
「大丈夫だよ。今の俺は、強いから」
言葉の意味が分からずに、私はただトレーナーさんを見た。
あまり見ることのないトレーナーさんの笑顔は、少しだけ遠くにあるように感じた。
「今日はなかなか楽しかったよ」
トレーナーさんは立ち止って私を見た。
「……また明日。スズカ」
「は、はい」
気を取り直してうなずいた。
いつも通りの8月30日。
いつも通りの夜空。
何気ない会話だったはずなのに、この時の会話は不思議と印象に残っていた。