嫌な思い出なんて、あるわけないじゃないか
表紙が期間限定ではあるものの、いい感じに夏を感じられるので変えてみました。
1話から全部変えようと思います。
あと、8月中には完結させますので、よろしくお願いします。
- 41
- 57
- 978
ある8月30日の夕方。
私はぼんやりと夕空を見つめている。
ふと見上げた空の赤の美しさに、目を奪われたのだ。
毎日同じ風景を、毎日同じ場所から眺めている。
それなのに、飽きは来なかった。
ループは変わらず、終わる気配がない。
もう、数えることさえしなくなって久しい。
昨日があって、今日があって、明日がある。
そんな当たり前の日常は、累積する今日に埋もれて、遠い昔の彼方にいってしまった。
そしてそんな毎日を私は密かに歓迎さえしている。
終わりがなくても別に構わないのではないかとさえ、考え始めている。
永遠に続く8月30日――。
明日のない今日。
未来のない今。
ぬるま湯につかるような日々。
出来れば終わりなんて来ないでほしい。
手元で何か音が鳴って、ふと我に返った。
甘い香り。
紙コップに注がれたカフェオレがあった。
「今日はずいぶん考え事に集中してたな」
顔を上げると、トレーナーさんが笑っている。
「トレーナーさん……」
「なにか発見でもあったのか?」
……あれは発見と言っていいのだろうか。
思い出すのは、たづなさんの呟き。
『……可哀想に』
私の聞き間違いの可能性も否定できないが、おそらく彼女はそう言ったと思う。
「いえ……このループはいつ終わるんだろうなって、考えてて」
しかし私は、何故かそれをトレーナーさんに打ち明けようとは思わなかった。
この言葉の意味を知ってしまうと、後戻りができないような気がしたから。
一旦そんな考えを振り払おうとして、スティックシュガーと、それをかき混ぜるためのマドラーを取ろうと立ち上がろうとすると――。
「あぁ、砂糖ならたっぷり入れておいた。ミルクも普段よりひとつ多めだ」
「……ありがとうございます」
いやいや、とトレーナーさんは手を横に振った。
カフェオレを見つめて、少し考え込む。
トレーナーさんは今まで、私のために色々と頑張ってくれていた。
しかし、トレーナーさんが学園を去ることで、この関係も終わってしまう。
それなのに……どうしてこの学園を去ろうなんて考えたのだろうと、疑問に思った。
「元気ないな」
トレーナーさんの声で、顔を上げた。
トレーナーさんの心配そうな表情に、私は少し申し訳ない気持ちになる。
きっとトレーナーさんにはトレーナーさんの事情がある。
だから仕方のない事だ。
ああ、そうだ……とトレーナーさんは何の気なしに口を開いた。
「知ってるか。カフェオレってフランス語なんだ。カフェがコーヒー。オが前置詞とかの繋ぎの言葉で、レが牛乳だ」
ちなみに、とトレーナーさんは人差し指を立てた。
どこか楽しそうな口調に、私も自然と微笑んでしまう。
「カフェオレって呼ぶのは朝食の時に飲むやつだけだ。普通の時はカフェクレーム、って言うらしい」
へえ、と思わず感嘆していた。
「そうだったんですか。知りませんでした」
「俺もたまたま知ったんだけど、へーって思ったよ。好きだったり親しんだりしてるものでも、案外知らないことって多いよな」
「そうですね。ちょっとびっくりしました」
トレーナーさんとこんな話をするのは好きだ。
話すことが苦手な私は相槌を打っていることが多いが、そんなことを改めて思う。
私はカフェオレを一口飲んだ。
「温かいです――トレーナーさん」
私はトレーナーさんに笑顔を向けた。
トレーナーさんと別れ、ひとり夕暮れの道を歩く。
時おり見かける道行く人とウマ娘たち。
例えば、友達と談笑するウマ娘。
例えば、トレーニングにいそしんでいるウマ娘。
全て見覚えがあった。
「今日も楽しかったなぁ……」
大切な人と過ごす、いつもと変わらない楽しい日々。
トレーナーさんがいなくなるなんて嘘みたいだ。
私は小さくため息をつく。
時おり、わずかな胸の疼きと共に考える。
これは本当に、世界の正しい在り方なのかと。
何度か考えて、結論が出なかった疑問だけれど……。
その疑問を抱くことも、最近ではあまりなくなった。
積み重なる今日の重みで、思考が沈んでいくようだ。
まるで、心が痺れていくような日々。
この先、永遠にこのままでいいような。
けれど、それはよくないような。
何かきっかけがあればとも思うけれど。
でも……変わりたくない。
矛盾した気持ちをループさせながら、私はぶらぶらと道を歩き続ける。
「まだこんな所にいるのか」
不意に隣から声をかけられた。
驚いて振り向くと、そこにトレーナーさんがいる。
「……トレーナーさん」
「さっきぶりだな」
「もう帰ったのかと思ってました……」
「ちょっと図書室に寄ろうと思ってさ」
「なにか借りるんですか?」
「小説とエッセイを1冊ずつ借りようと思ってる。うちの図書室、結構品ぞろえが良いからな」
「そうなんですか」
「まあ、それはそれとして……また考え込んでたな」
トレーナーさんが心配そうにこちらを見つめる。
「いえ……」
「何もないわけがないと思うが」
「……ひとりで寂しいな、と思ってました」
そんな私の一言に、彼は小さく息をついて。
「こんなこと言いたくないが……もう少し自立心を持った方がいいぞ、スズカ」
「……はい。そうですね。私もそう思います」
「こんなんじゃ俺がいなくなったら……いや、原因は俺だから言えた立場じゃないか。まあ、なんだ……このループで気楽にやっていけばいいさ」
トレーナーさんの言葉には気遣いが感じられて、私は思わず微笑んだ。
「……何か面白いことでもあったか?」
「トレーナーさんは優しいなあって思いまして」
「スズカは変なところでポジティブだよな。スペシャルウィーク並みだ」
「そんな、スペちゃんのポジティブさにはとても……」
「……だから、褒めてないんだって」
トレーナーさんは小さく息をついた後、改めて私を見る。
「これから帰るんだよな?」
「はい」
「せっかくだから、付き合うよ」
「え……いいんですか?」
「さっき、ひとりで寂しかったって言ってただろ。嫌なら別にいいけどな」
「い、いえ。そんなことありません」
私は慌てて首を横に振った。
「ただ少し驚いたんです。トレーナーさんが私と一緒にいたい、なんて言ってくれたのが」
「それは語弊が」
「ありません。女の子って、そういう細かいことは覚えてるものなんですよ?」
「……いいや、語弊はある。【一緒にいたい】じゃなくて、【一緒にいてあげる】って言ってるんだ」
……。
…………さすがに傷つきました。
「でも、トレーナーさんはいつも、私のことを避けてるような気がして……」
「……あのさ、ひとつ聞いてもいいか?」
「なんですか?」
「俺って、スズカの中ではそんなイメージなのか?」
「……はい。スペちゃんのトレーナーさんに限らずですけど、他のトレーナーの方々を見てると……」
「……俺はそんなにスズカを邪険にしてるか?」
「邪険とまでは言いませんけど……」
「ある程度は思っているってことか」
「え……えぇ……? いえ、そう言われてみるとそんな気も……」
トレーナーさんはゆっくりと頷いた。
「俺も……スズカのイメージがあるぞ」
「……イメージ、ですか?」
何か、嫌な予感がする。
「例えば、いつもぼんやりしているとか、考え始めると左回りするからすぐわかるとか、嘘が下手とか」
「そ、それは……」
「常識人のように振る舞ってるけど、実は常識がないし。天然ボケのポジションになると手が付けられないし、なんでもよく食べて、押しに弱くて流されやすくて……」
トレーナーさんはうーん、と小さくうなった。
「まあ、総じて【真面目に見えても実は間が抜けているウマ娘】というイメージかな」
「あ、あの……それぐらいに……」
段々胸が痛くなってきた。
「それに――」
トレーナーさんは何かを言い淀み、結局何も言わずに口を閉じて歩き始めた。
「寄る所はあるのか?」
「い、いえ。とくには」
トレーナーさんが頷き、私は隣をゆっくりと歩く。
それから話したのは、主に本のことだ。
あとは、最近の各々に起こった出来事なんかを話したりした。
そんなことをしているうちに。
ふとした拍子に手と手が触れあった。
「あ……」
思わずそう呟いて、手を引っ込める。
「どうかしたか?」
黙って首を横に振る。
トレーナーさんの触れた箇所が、とても熱く感じられた。
そっと、彼の触れた部分を撫でていた。
手が触れ合う。
ただそれだけのことが恥ずかしく感じられて、顔が熱くなるのが分かった。
「さっきの話だけどさ」
「はい?」
「スズカのイメージ。もうひとつ言い忘れてた」
「……否定的な特徴ならもう聞きたくありませんよ」
「とても温かい」
そう言う彼は、柔らかい笑みを私に向けている。
思わず私は、呼吸をするのも忘れてしまい――。
「まあ、夏だと少し暑苦しいけどな」
そう言って彼はクスクスと笑った。
全体的に、トレーナーさんは上機嫌で。
だから私も上機嫌だった。
その日の私たちは、普段よりも2人の時間を楽しく過ごせた。
……それからループを数回重ねた夕方。
調査が終わった後のこと。
今日はトレーナーさんに用事があるらしく、早々に出て行ってしまった。
私はまだ、夕暮れのトレーナー室の雰囲気を味わっていたくて、ひとり残って本を読んでいた。
時おり顔を上げて、夕暮れの赤い空を見る。
東の彼方にはもう夜の紺色が顔を見せ、西に向かってグラデーションを描いている。
何度も見慣れた空だ。
繰り返す8月30日。
とても楽しい日々。
終わりのない無限の時間。
本を閉じ、ため息をつく。
ずっとこの、ぬるま湯のような平穏に身を浸したくなる。
ここにいると、寮に帰りたくなくなる。
スペちゃんが帰ってくるのは夜になってからだし、フクキタルやタイキも明日実家から帰ってくる。
そう言えば私は、ループが始まってからずっと、彼女たちに会っていない。
テレビ電話で話したことはあったが、ループが繰り返されるたび、段々と彼女たちと疎遠になっていっているような気がする。
それは……正直言えば寂しい。
しかし、それと天秤にかけられるのは、トレーナーさんと過ごす日々。
【本当にこのままでいいの?】
私の脳裏に浮かぶ自問自答。
ループが始まってから度々考えているが、未だに答えは出てこない。
「……読み終わっちゃった」
私は本を閉じ、ひと息つく。
「トレーナーさん……なにしてるのかしら」
無性に、トレーナーさんと話をしたい。
用事って何だろう。
今から連絡をすれば、彼は来てくれるだろうか。
「……いや、ダメよ、スズカ。トレーナーさんの邪魔をしちゃ」
私は我慢の意志を固めて、トレーナー室を後にした。
図書室で本を借りようとして、学園を歩く。
具体的にどんな本を借りようか決めていないけど、まあ何とかなると思う。
学園内に人の気配はない。
学校が始まるとこの光景がしばらくなくなってしまうと考えると、どこか寂しい。
そんなことを考えて、教室をふと見やると――。
「トレーナーさん……?」
誰もいない教室の机に腰掛けているトレーナーさんを見つけた。
彼は優しい表情で、手元の何かを見つめていた。
どこか寂しさの残る笑顔だ。
教室のドアが開いているのをいいことに、静かに彼に近づく。
「何を見ているんですか?」
「――!?」
声をかけると、トレーナーさんは慌ててそれを隠そうとして――。
手からこぼれ落ちた小さな機械は、床に落ちた。
今や誰もが持ち歩いている、スマートフォン。
なにか動画が再生されているようで、画面がめまぐるしく動く。
そこには、私の姿があった。
「え……?」
トレーナーさんは息をのんで私を見た。
「トレーナーさん……あの、えーと……これは――」
「違うぞ」
「え?」
「そういう意味じゃない」
「え……えーと……そういう意味じゃないとは、どういう意味でしょう……?」
こういうシーンを私は恋愛小説で読んだことがある。
ある少女に、密かに恋をする少年。
けれど、少年は想いの丈を伝える勇気が出ない。
日々、少年の気持ちは大きくなっていく。
少年はいつもひとりで、机に飾った少女の写真を見て切なさに胸を痛める。
推理小説で鍛えた頭脳が、点と点を線で結び付ける。
少年=トレーナーさん、憧れの少女=私。
「違うぞ」
「な、なにも言ってないのに否定しないでください」
「違う。とにかく違う。スズカの考えているようなこととは、絶対に関係ない」
う、う~ん……。
こ、こういう時はどう反応すべきなのかしら。
「あの……私も見ていいですか?」
「……そうだな。それが一番早い。百聞は一見にしかずだな」
手渡されたスマートフォンを見つめ、耳のカバーを外してイヤホンをつけた。
そして――。
トレーナーさんの見ていたものがすぐに、私にもわかった。
これは、天皇賞(秋)の映像だ。
トレーナーさんに資料として配られるテレビ映像のものだろう。
レースはもう終盤で、後続を大きく突き放してゴール板を駆け抜ける私の姿がそこにあった。
「……懐かしいですね」
「分かってくれたか?」
小さくうなずく。
画面の中で、観衆に向かって手を振る私が映し出されている。
少し気恥ずかしい。
「ふふっ……」
私は思わず笑った。
「どうかしたか?」
「い……いいえ、なんでもありません」
手を振る私に沸く観衆。
けれど、当時の私の目線の先にはトレーナーさんしかいなくて。
なんてファンを蔑ろにしているウマ娘なんだろう、と他人ごとのように思ってしまったのだ。
「……この時の歓声、こんなにすごかったんですね」
話を変えようとして、トレーナーさんに問いかける。
「……イヤホンなんだから、俺に聞こえるわけないだろ」
「あ……すみません」
私はイヤホンの片方をトレーナーさんに差し出す。
「……なんだよ? これ」
「せっかくですし、一緒に見ましょう。トレーナーさん」
「一緒にって……いや……でも……」
「どうかしたんですか?」
「……いや、なんでもない」
トレーナーさんは、しょうがないという感じのため息と共にイヤホンを受け取った。
「……このレースも懐かしいですね。あ、出遅れてますよ、私」
私は動画を指さして言う。
「そ、そうだな……」
気のせいか、トレーナーさんの声が固い。
でもそんな風に思えたのも、一瞬のこと。
トレーナーさんが音量を下げた。
耳が良いウマ娘に対する配慮なのだろうけど……。
「トレーナーさん。ちゃんと音、聞こえてますか?」
「ああ、大丈夫だ」
トレーナーさんがそう言うなら構いませんけど……。
画面に視線を戻すと、第4コーナーから追い上げている私の姿が。
「このレース、出遅れたのもあって先行に近い走り方をしましたね。我ながら上手く機転を利かせられた気がします」
本当に懐かしい。
どの場面もよく覚えている。
もう手が届かなくなった過去は、見ているだけで楽しかった。
今度のシーンは、URAファイナルズ決勝。
他の追随を許さない、最初から最後まで完璧な逃げのレースを展開できた。
「これももう半年前になるんですね……」
「体感的にはもっと前に思えるけどな」
「ふふっ、日付では半年前でも、私たちにとってはもう……どれくらい前なんでしょうかね」
数えなくなって久しくなる日々の重なりを、指折り数えてみる。
結局覚えていないので、振りにしかならないけれど。
そして、動画はまた次のデータに移って。
私は少し息をのむ。
レースの動画とは打って変わって、とても綺麗な湖が画面に映っていた。
恐らく、学園近くにある湖を訪れた際にトレーナーさんがスマホで撮影したものだろう。
「トレーナーさん、見てください……この湖、綺麗でしたよね」
懐かしい気持ちで、トレーナーさんに問いかける。
「……これ、アヒルボートで競争したって言う湖だよな」
「はい、そうです。それでその後、スペちゃんたちとみんなで湖岸のお茶屋さんでお団子を食べながら、夕方の湖を見ましたね」
「……確かに、そうだな。きっと綺麗だったんだろうな」
「ほら……スペちゃんがトレーナーさんのお団子を取っちゃって、トレーナーさんが珍しく怒っちゃって……」
「……そうか、そんなことが……」
「ふふっ。トレーナーさん、他人ごとみたいですよ?」
「ああ、案外覚えてないもんだな。でもみんな楽しそうで、見ているこっちも楽しくなる」
「はい……本当に、とても楽しかったです」
私たちはしばらくの間、映像を見て昔話に花を咲かせた。
学園での生活や合宿はとても楽しくて、トレーナーさんもとても楽しそうに過ごしていた。
日が暮れるまで、私とトレーナーさんは顔を突き合わせて映像を見つめ、そのレースの前後にあった思い出とか、色々なことを語り続け――。
でも……なぜだろう。
トレーナーさんと私では、その映像の見方が少し違っているように思えた。
上手くは言えない。
トレーナーさんも、その映像を楽しそうに見ていたのは確かなのに――。
何か、うまく言えない違和感があったように思えた。
「あの、トレーナーさん……ひょっとして、合宿とか楽しくなかった、とか……」
「そんなことないぞ」
トレーナーさんは首を振った。
「嫌な思い出なんて、あるわけないじゃないか」
笑顔でそう言ってくれたけれど。
どうしてだろう。
その笑顔は少し、無理をしているように見えた。