待ってください、トレーナーさん
最近ウマ娘を始めたので初投稿です。
追記:友人から激しく続きを望まれたので書きます。しばしお待ちを。
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8月30日――。
強い日差しに輝く入道雲。
急な坂道の先でゆらゆらと揺れる陽炎。
うるさいくらいのセミの声。
通り雨の後の、切なくなるような風の匂い。
8月も終わるというのに、その日は夏を構成する要素を全て備えていた。
ただ蒸し暑いだけの――。
なんでもない、夏の1日だった。
その日。
私は明日なんて来なければいいのにと、心から願っていた。
明日が、私の大切な人を奪っていくだけのものだとしたら、そんな現実はいらないと。
心の底から思っていた。
…………。
「トレーナーさん、いませんか?」
ノックをする。
返答はない。
「すみません」
……トレーナーさんはまだ来てないようだった。
今日は本来、オフの日だからそれも当然か。
思わずため息をつく。
困った。
トレーナーさんがいなければ、鍵を開けることができない。
ため息をつきつつドアに手を掛けると、あっけなく開いた。
「あれ……開いてる……」
中に入ると、よく知っている人物が私を出迎えてくれた。
「トレーナーさん……」
なんとなく笑みが浮かぶ。
少しうれしい不意打ちだ。
長机にスチールパイプの椅子、ロッカーにコーヒーメーカー、大きな窓。
入り込んでくる強い日差し。
いつも通りのトレーナー室。
トレーナーさんはいつも通りに読書をしていた。
「スズカか……ずいぶん早いな。1時間後だろ、集合時間」
トレーナーさんはこちらに目も向けず言った。
「はい。今日は特別な日なので……でも、トレーナーさんは?」
昨日、合宿所からトレセン学園に帰ってきた時からずっとトレーナー室にいたのだろうか。
「特別な日……ね。まあ、今日で俺はトレーナーを辞めるわけだし、ここにだって早めに顔くらい出すさ」
ぺらり、と小説のページをめくる音がした。
「……誰もいないと静かだな、この学園。普段の喧騒が嘘みたいだ。ずっとこのままならいいのによ」
「……そうですね。私もそう思います」
「だよな」
そういう意味で同意したわけではないのですが。
喉元まで出かかった言葉を飲み込み、トレーナーさんの読んでいる本を覗き込む。
「……本、読んでらしたんですね」
「まあな。寮にいても、もう最低限の荷物しかないし。だから早めにここに来たんだ」
なるほど、と納得しながら私はじっと本を睨みつける。
「……よ、読めない……」
「ああ、フランス語だからな。でも覚えておいて損はないぞ。海外を目指すならな」
私は曖昧な笑みを浮かべて首を傾げた。
……他人ごとみたいに言わないでください。
「あれ、んん?」
「どうかしたんですか?」
「栞が無いんだ。桜の柄のやつ」
「ああ、いつも使ってるやつですね」
そんなことを言いながら、私もつられて机に目をやった。
今日で最後。
そう思うと、こんな意味のないような会話が、やけに大切なものに感じられた。
夏の日が差し込んで、散らかった室内を照らしている。
トレーナー棟の一角にある部屋。
コーヒーメーカーが湯気を立てている。
それ以外の音と言えば、セミの鳴く声だけだった。
つまり、トレーナー室は驚くくらいいつも通り。
明日になればトレーナーさんはここを出ていって、この部屋に足を運ぶこともなくなるなんて全く信じられないくらいに……いつも通り。
「……こりゃあ、失くしたかな」
「見つかりませんね」
困ったようにこちらを見る彼は、私のトレーナーさん。
日本ウマ娘トレーニングセンター学園に勤めて4年目。
私の担当トレーナーさんで、名家出身というわけではないのに1年目から中央に在籍している何気にすごいトレーナーさんである。
よれよれのワイシャツ、それからボサボサの髪の毛が目印だ。
無気力、無関心を合言葉に放任主義という教育的理念を貫き通している、と本人は言う。
3年前、前のトレーナーさんとの指導の方針の食い違いから1勝も出来ず、見限られた私をここまで導いてくれた人でもある。
いい加減そうに見えるけど、本当はすごく真面目な人だ。
私がここまで走ってこられたのは、トレーナーさんのおかげ。
でも――。
トレーナーさんは、この夏で学園を去ってしまう。
辞める理由は「他にやりたい事ができた」という至極簡単なもの。
私はそう聞いている。
トレーナーさんに直接事情は聞けても、問い詰めるほどの勇気は私には無かった。
今まで私を導いてくれた人の、これからの未来を邪魔できるほど、私は……。
ふと、気が付けば。
トレーナーさんがじっと私を見つめている。
夏の日差しを受けて輝く瞳が、不思議なほど澄んでいた。
わけのわからない罪悪感を覚えて、私は目を逸らす。
「あの……なにか?」
「いや、ずいぶん寂しそうだなって思ってさ」
誰のせいだと思ってるんですか?
「……気のせいですよ」
「そっか」
そう呟いた彼の目は、恐らく私よりよほど寂しそうに見えた。
小さく息をつく。
「コーヒー、入れましょうか」
気持ちを改めて、そう提案してみる。
トレーナーさんは頷いて、ありがとなと言ってくれる。
私は少しうれしくなって、コーヒーを入れる準備をした。
…………。
しばらくして、紙コップにコーヒーを注ぐ音が静かな部室の空気を揺らす。
「そう言えばスズカ。門限延長の申請書は出してきたか?」
「門限の申請ですか……? いえ、出してませんが……」
そう言いながら、トレーナーさんにコーヒーを渡す。
トレーナーさんはコーヒーを受け取りつつ、ため息をつく。
「じゃあなんだ、門限までに終わる用事なんだな」
…………あ。
「今すぐ出してきます」
今日は私もトレーナーさんもオフ。
それなのになぜトレーナー室に集まっているかというと、私が呼び出したからだ。
そもそも、トレーナーさんと一緒にいられる最後の日なのに何もしないなんて選択肢がまず存在しない。
――とは言うものの、現在の時刻は午後3時半。
本当のことを言えば、午前中から一緒にいたかったのだけれど……昨日に合宿から帰ってきた手前、休養を半ば強制的に言い渡されていた。
「ははっ、案外抜けてるところがあるよな。スズカは」
トレーナーさんはコーヒーを一口飲み、それから窓の外を見た。
「でもまあ……そこがスズカの良さだよな」
適当な褒め言葉に、耳がピンと立つ。
「で、結局特にやることもないんだろ?」
私は小さくうなずく。
「申請書は後でいいとして……だったらまあ、最後だしな。時間的にそう遠くまでは行けないがどこかに……」
「その……」
「なんだ? なにかあるのか?」
「あの……お話、したいです。トレーナーさんと……」
彼は驚いたように目をぱちくりとさせる。
そんなに変なことを言ってしまったのだろうか。
「や、やっぱりダメ、ですかね……」
「……ふふっ、あははっ!」
申し訳なくなって謝る私と、対照的に笑い出すトレーナーさん。
大丈夫かしら……情緒。
心配そうに見つめていると、トレーナーさんはこう言った。
「いやいや、ごめんごめん……そうだな。話をしよう、スズカ。それが一番俺たちらしい」
その言葉に安堵した私は、小さくうなずく。
そして、一息ついた後。
まずはトレーナーさんの本の栞について捜索を手伝った。
栞は結局、ロッカーの中で見つかった。
本を取り出した際、なにかの拍子に落ちてしまったのだろうという結論に至った。
トレーナーさんは「実は良い所だったんだ、すまないがもう少しだけ読んでもいいか?」と再び読書に没頭し、私はそんなトレーナーさんの姿をぼんやりと見つめた。
明日にはトレーナーさんがいなくなるというのに、いつもと変わらない、ゆっくりとした時間。
トレーナー室に集まって思い思いに過ごす時間が、私はたまらなく好きだった。
過去形で語らなければいけないことが悲しくなるくらいに、好きだった。
トレーナーさんも、そう思っているといいな……。
「こんなのも……もう終わりなのね……」
私がふと漏らした呟きに、応える人はいない。
それ以上、続く言葉は無かった。
――夕方。
外に出れば見事な夕焼けが私たちを迎えてくれた。
昼間に降った通り雨の湿気がわずかに残っていて、濡れた草の香りを風が運んでくる。
赤く染まった雲であったり、長く伸びた黒い影であったり、悠然と佇む校舎であったり。
それらは私を少しだけ切ない気分にさせた。
「すごい……空、綺麗……」
背伸びをしながら呟くと、トレーナーさんがくすりと笑う。
「どうしたんですか? トレーナーさん」
「別に。相変わらずなんでもないことに感動していると思ってな」
「なんでもないことじゃないです。こんなに綺麗なもの、中々ないですよ」
「……まあ、確かにな」
「それより……良いんですか? 本当に」
「なにがだ?」
「その……日が変わるまで、お話をすること、です」
トレーナーさんは呆れたと言わんばかりにため息をつく。
「な、なんでため息をつくんですか」
「結局俺が本を読んじまったせいで全然話ができなかっただろ。スズカが申し訳なくなる必要はないんだ」
「それは、はい」
「……即答されるとそれはそれで思う所が出てくるな」
「だって、事実ですから」
くすりと、笑みがこぼれる。
「じゃあ言わせてもらうけどな、なんで止めなかったんだ」
「私も読んでましたから、本」
「なんでお話しようって提案しておいて一緒に本を読むんだよ」
「手持無沙汰でしたので」
「これでも3年一緒にいる仲だろ? スズカが止めなければこうなることは分かったろうに」
「ええ、分かってました」
「じゃあなんで……」
「それは――」
それは、トレーナーさんと一緒にいられるだけで。
本を読んでいる姿を眺めるだけで。
そこにトレーナーさんがいるだけで。
それだけで、いいんです。
「……それは?」
「――なんででしょう?」
困ったように笑う私を、トレーナーさんは呆れた様子で見つめた。
本当のことを言ったら、どういう反応を返すのだろう。
今の表情と変わらないのか、違った反応を見せるのか。
……照れてくれたり、してくれるのだろうか。
門限延長申請書を出しに寮へと戻る道を、トレーナーさんと歩きながら私はそんな想像をして。
きっと曖昧な笑みを浮かべるのだろうなと、根拠もなく結論づけた。
…………。
トレーナーさんと別れ、夕暮れの道をひとり歩く。
再集合の時間は午後8時。
トレーナーさんも一旦トレーナー寮に戻り、出前を取ったり色々準備をするのだという。
私の方はと言えば、申請どころか外出準備まで終えてしまい、ただひとり部屋で待っている。
同室相手のスペシャルウィーク――スペちゃんは、まだ合宿から戻ってきていない。
夕方頃に戻る予定と聞いていたが、道でも混んでいるのだろうか。
または、トレーナーさんと過ごす最後の時間を邪魔しないように変な気を遣っているのか。
そんな考えてもどうしようもないことに思考を巡らせて、ただただ時間が経つのを待った。
その夜……。
私はトレーナー室の前でトレーナーさんを待っていた。
集合時間よりかなり早い。
この場には私1人しかいないけれど、寂しさや怖さは感じなかった。
窓の外を見れば月と星が輝いていて、周囲は閑散と静まり返っている。
うん。
走りたい。
けれど今、走ってしまったら着替えやシャワーの時間でトレーナーさんといる時間が少なくなってしまう。
いくら走るのが好きな私でも、これだけは……今日だけは、譲れなかった。
でも。
明日、トレーナーさんと離れ離れになる。
今までなるべく考えないようにしていたことが、急に頭の中を駆け巡る。
なんで、どうして。
私たちはこれからじゃなかったんですか。
いつまでも、どこまでも。
二人三脚で頑張ろうって言ってくれたあの言葉は、嘘だったんですか。
こうなるんだったら、一度捨てられた私のことなんて……。
「……ダメよ、スズカ。それ以上は思っちゃダメ」
今まで彼と過ごしてきた時間を私が否定しちゃいけない。
たとえそれがどんなに悲しくても、辛くても。
けれど、身体は思ったより正直みたいで。
「……え?」
涙が頬を伝う感覚。
……ああ。
やっぱり悲しいんだ、私。
「どうしよう……止まるかしら、これ」
ハンカチを取り出し、涙を拭ったとき――。
足音がして、顔を上げる。
多分トレーナーさんだろう。
「待たせたな、スズカ」
この問いかけを見るに、泣いてるのには気づいていないみたい。
暗がりで良かったと思う。
「はい……遅かったですね、トレーナーさん」
妙に満足な気持ちで言うと――。
「ってことはお前、また早く来て待ってたのか?」
悪いな、とトレーナーさんが申し訳なさそうに、そんなことを言ってくれた。
トレーナーさんが鍵を開け、部屋の中に招かれる。
涙はもう、大丈夫。
……まあ、それからは。
相変わらずのゆっくりとした時間。
トレーナーさんと二人きりで過ごす、最後の時間。
彼とお話している間は気分が良かった。
――けれど、時間というのには終わりがある。
「……もうこんな時間か」
「え……」
彼につられて時計を見ると、10時を過ぎている。
トレーナーさんは机に広げられた寿司桶を片付け始めていた。
「スズカも帰る準備を――って、そんなのないか」
「……手伝います」
「いいよいいよ、それよりスペシャルウィークが待ってるんじゃないのか? 帰ってくるの今夜だろ、あいつ」
……それより?
それよりって、なんですか。
そんなに早く、別れたいのですか。
「それは、そうですけど……大丈夫です。多分、もう、寝てるので」
「……そうか、ならいいけど。でも、もう夜も遅いし――」
「大丈夫です」
食い気味に否定する。
トレーナーさんはひと息つくと、困ったような目をして言った。
「分かったよ……ちょっと待ってな」
「……ですが」
「え?」
今日だけは、わがままを言っても許されるだろう。
「大丈夫ですけど、大丈夫じゃ、ないです」
「……つまり?」
「ですから、大丈夫ですけど、大丈夫では、ないんです」
「……要は?」
「私は、女の子です」
そう言うと、トレーナーさんは合点がいったのか、「あー……」と反応を示した。
ちょっと傷つきますよ、それは。
「……分かった。送っていくよ、寮まで」
「はい」
これはただの悪あがきかもしれない。
でも、それでもいい。
今日の私は、少しだけわがままになろう。
二度目となる帰り道。
今回はトレーナーさんと別れることなく、一緒に話しながら歩く。
虫の鳴く声を聴きながら歩いていくと、ふいにトレーナーさんが足を止めた。
「トレーナーさん……?」
彼の視線の先にあるのは、伝説の三女神様の像。
「……最後に、願い事でもしていこうかな」
「願い事……ですか?」
「ああ」
そう言って、彼はまた歩き出す。
「あ……待ってください」
彼の後をついていく。
像の前に着くと、トレーナーさんは深呼吸をした。
「……女神様が三人もいれば、俺の願い、叶えてくれるかな」
何かを諦めたように細められた目は、どこか寂しそうだった。
「叶えてくれますよ、絶対」
「はっ……何を根拠に」
くすりと、彼が笑う。
やっぱりあなたには、寂しそうな横顔よりも、笑った方がずっと似合ってます。
「私も願いますから。二人で願えば叶えてくれますよ」
「……そっか……スズカが言うなら、そうなんだろうな」
「それで、お願い事というのは?」
トレーナーさんが目を丸くして、私を見る。
「それが分からないと、一緒に願えません」
「それはそうだけど」
「……もうそろそろ門限の時間になっちゃいます」
しばらくの沈黙の後。
スズカが……とトレーナーさんの呟く声に、私は改めて耳を傾けた。
「スズカが、長く走れますように、だ」
「……分かりました」
トレーナーさんと二人並んで、女神様に拝む。
私の願い事は――。
私が……。
…………。
トレーナーさんと……。
あともう少しでもいい。
隣にいる、大切な人と……いっしょにいたい。
そう、願った。
――――。
「――スズカ?」
「……っ!? い、今のは一体……?」
「どうかしたのか?」
「あっ……い、いえ。別に、なにも……」
「まったく……いくら自分のことだからって熱心に願いすぎだろ」
それじゃあ帰るぞ、と踵を返す彼の後ろをついていく。
「……なんだったのかしら」
一瞬感じた神秘的な空間で、どうしてか同時に懐かしさを感じていた。
それから……。
私たちは寮に着いて、明日の予定の確認をする。
最後の日に、楽しい時間を過ごせてよかったと、私は別れ際に呟いた。
彼は返事をしなかったけれど、思う所はきっと一緒だろう。
「……それじゃあ、また明日な。スズカ」
「……はい」
これが彼から聞く最後の、「また明日」という言葉なのだろう。
結局三女神様への願掛けも空しく、無駄だったというわけだ。
それじゃあな、と歩き始めるトレーナーさんの背中は、だんだんと小さくなっていく。
…………。
……彼が、行ってしまう。
……………………。
…………待って……。
「……待ってください、トレーナーさん……」
私の呟きは、もう、彼には届かなかった。