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カテゴリ:高3英語 (スマホは右のV印をタップ→ > CROWN 3

CROWN3 Lesson1: Life as a Journey (1)

旅は、単に景色を見る以上のものである。
それは、生き方を考える中で深くいつまでも続く変化のことである。

人生は旅であると言うとき、
普通私たちは比喩的な意味に理解します。
しかし、本当に旅人として人生を過ごした詩人がいました。
実際、彼は人生において何度も長い旅をしました。
そのような旅で、彼は合計143日をかけて、
1767kmの距離をたどりました。
彼はどのように旅をしたのでしょうか?
車を運転したのでしょうか? 
電車かバスを利用したのでしょうか?

いいえ、彼の時代には公共交通機関はありませんでした。
代わりに、大部分を彼は歩きました。
このような旅は、若者にとっても、
言うまでもなく中年男性にとっては
大きな挑戦でした。
では、なぜ彼は休まず旅に出たのでしょうか?
その理由は何だったのでしょうか?
その詩人は松尾芭蕉(1644-1694)でした。

Section1

人はさまざまな目的のため、旅行にでかけます。
娯楽のためもあれば、仕事のためもあります。
目的が何であっても、
今日では、あらゆる公共交通機関や
快適なホテルで旅行をするのはとても簡単です。
しかし、自分が300年ほど前、
江戸時代に旅をしていると想像してください。
自分が長い距離を徒歩または馬に乗って進んでいると想像してください。
その当時、旅をすることは私たちが思うよりも大変でした。

彼が旅を書き留めたスケッチの1つに、こう記しています。
彼は、身軽に旅することが正しいと思っていましたが、
背中に背負っていなければならないものがありました
それは、上着、硯、筆、筆記用紙、そして薬です。
あなたがこれらのものをずっと背負って
歩かなければならないことを想像してみてください。
あなたの足は痛み、とても疲れるでしょう。
次の俳句は、長旅が続いた後の芭蕉の疲れを示しています。

草臥(くたび)れて 宿かる比(ころ)や 藤の花

歩きくたびれて、そろそろ宿を借りなければと思っていたところ、
ある家の門辺に、夕暮れの色にまぎれず紫色の藤の花が咲いている。
それが旅にあるもののわびしい心に沁みいるばかりであった。

いつも快適な宿を見つけることができるわけではありませんでした。
芭蕉は、日本北部への旅で、出羽の国に入るために
尿前の関を通過しなければなりませんでした。
しかし門番は疑い深く、芭蕉を長時間待たせたあとで、
ようやく通行を許したのでした。
彼は大きな山に登り始めると、すぐに暗くなりました。
一晩を過ごす場所を見つけねばなりませんでした。
幸いなことに彼は門番の家を見つけ、
その夜はそこに泊まることができました。
そこは、泊まるのに適した場所だったでしょうか?
決してそうではありませんでした。

蚤虱(のみしらみ) 馬の尿(ばり)する 枕もと

この辺鄙(へんぴ)な山家では、一晩中蚤や虱に責められ、
おまけに寝ている枕元に馬の小便の音まで聞こえるという、
散々な目にあったことだ。

今日、このような旅に出たいと思う人はほとんどいません。
では、なぜ芭蕉は、待ちうけるすべての困難を知ったうえで
旅に出たのでしょうか?

CROWN3 Lesson1: Life as a Journey (2)


Section 2

芭蕉にとって、旅は人生の重要な部分でした。
彼は詩人として、詩的なひらめき(着想)を見つけるために
旅に出なければならないと感じました。
困難で不便であったとしても、
旅を経験しなければなりませんでした。
彼は自然であることの重要性を確信していました。
なぜなら、それが詩的なひらめきのもとであると信じていたからです。
たぶん芭蕉は、自然の美しさが
自分への褒美(ほうび)だと感じていました。
山や平野で、海岸や海で、大きな喜びに気づきました。
あらゆる新しい道や、あらゆる日の出が、
彼に新鮮な考えをもたらしました。
彼の作品である遠く離れた北への旅、奥の細道で、
芭蕉は多くのひらめきの瞬間を経験しました。

平泉では、芭蕉は藤原三代が夢のように過ぎ去ったことを見ました。
秀平の宮殿は草原に過ぎませんでした。
次の俳句を読むと、
芭蕉の詩的想像力がどのように働いたかについて
少し理解できるかもしれません。

夏草や 兵(つはもの)どもが 夢の跡

高館(たかだち)にのぼってあたりを見渡すと、
藤原氏の栄華の痕跡はあとかたもなく、
ただ夏草が茂る風景が広がるばかりだ

ある午後、芭蕉は山形の立石寺を訪れました。

古木で覆われた巨大な岩山がありました。
それは完全な静けさでした。
芭蕉は岩から岩へと手足を伝わせ這って行くにつれて、
静寂に圧倒されました。
彼の精神もまた静まりました。
その光景は、下記の有名な俳句につながりました。

閑(しづ)かさや 岩にしみ入る 蝉の声

夕暮れの立石寺の全山は、物音一つせず静まりかえっている。
そのむなしいような静寂の中で、ただ蝉の鳴声だけが、
一枚岩にしみ透るように聞こえる。

芭蕉は、酒田町の海辺で数日過ごした後、
約500km離れた現在の金沢の加賀へ向かいました。
彼は目の前の長い道のりを考えると、
心が折れそうになりました。
田から200km離れた新潟に着いたとき、
彼は次の俳句を書きました。

荒海や 佐渡に横たふ 天の河

荒れ狂う日本海の荒波の向こうには
佐渡ケ島がある。
空を見上げると、白く美しい天の川が、
佐渡の方までのびて横たわっている。


Section3

芭蕉には永住の地がありませんでした。
彼は絶えず旅の途中でした。
遠く離れた北への旅に加えて、
滋賀、三重、そして京都へも、同様に長旅をしました。
彼は、お金や財産には全く興味がありませんでした
価値のあるものは何も持っておらず、
彼は自分の旅を奪われること以外恐れていませんでした。

旅で、芭蕉は大きな自由の感覚を経験しました。
彼は、次のように言っています。

「計画も道筋も決まっていません。
 どこでも好きなところに行けます。
 私の唯一の関心事は、夜に泊まる場所と
 足に合う草履を見つけることができるかどうかでした。」

生活の必需品だけで旅を始めることは、
おそらく芭蕉の詩的な想像力にとって重要だったのでしょう。

芭蕉は、この世界が本質的に、変転していく(過渡的である)ことを
よく知っていました。

「山は崩れ、川は向きを変え、古い道が消え、新しい道が作られ、
 岩が泥の中に沈み、木は芽吹き、新しい木が湧き上がる」

芭蕉は、富がたやすく自然の美しさを見失わせるだろうと
思ったかもしれません。
だから、本当の自分が自然と一体になれるように、
所有物を捨て去ることを選びました。
そして実際に、そのことが彼の詩的な想像力の源でした。

奥の細道は、確かに芭蕉が行った旅の一つですが、
それ以上に、人生そのものでした。

芭蕉にとって、現世の人生は無限の光景を追い求める旅でした。
芭蕉は彼なりの光景を自然の中に見出しました。
それは常に変化していますが、
無限の循環の中でそれ自体を繰り返しています。
俳句の中の一瞬をとらえることで、
芭蕉は自分なりの永遠の光景を見つけたのでした。

CROWN3 L1 OR: Ise Pilgrimage (お伊勢参り)

江戸時代の旅は気楽なものではありませんでした。
ほとんどの人は旅する自由をまったく持っていなかったし、
関所を通過する特別な許可証である通行手形が
必要でした。
もちろん、どのような公共交通機関もありませんでした。
ですから、すべての旅行は起伏の多い曲がりくねった道を
徒歩または馬に乗って進みました。
しかし、そんな困難にもかかわらず、
江戸時代は旅の時代でありました。

1600年代初めに徳川家康が政権を握ると、
全国的に街道が整備され、
宿場町が現れ始めました。
大名とその家臣は、
一年おきに江戸に住むことが義務付けられていたため、
領地と江戸の間を往来していました。
彼らはその道筋で、宿舎、食物、労働力の人夫、
そして馬が必要だったので
そのことが宿場町を繁栄させました。

普通の人々による旅行は厳しく制限されていましたが
例外もありました。
目的が神社仏閣の参詣である場合は、
簡単に通行手形が手に入り、
かなり自由に旅行することが許されていました。

日本中のすべての有名な神社仏閣の中で、
伊勢神宮はずば抜けて人気のある目的地でした。
実際、芭蕉は一生のうち
6回もこの神社を訪れたと言われています。

変動はありますが、
江戸時代には毎年およそ20万から40万人が
何度もこの神社に参詣しました。
例えば1705年には、
300万人以上の人が神社を訪れたと言われています。

江戸から伊勢への往復は少なくとも40日かかりました。
中には奈良・京都の観光を追加した人もいました。
みなさんは、貧しい農家が
どのように長旅ができたのだろうかと
不思議に思うかもしれません。
その答えは、多くの村や地域にあった伊勢講にあります。
講の構成員は一定の金額を納入し、
講がその資金を保管しました。
講の当選者はくじによって決まり、
集めた基金で彼らの旅費をまかないました。
一度選ばれた人は、通常次のくじから除外されたので、
ほとんどすべての人が
一生のうちに少なくとも一度は
巡礼に行く機会がありました。

CROWN 3 Lesson 2 God's Hands (1)

天野篤医師は日本で最も有名な心臓外科医の一人です。
1983年日本大学医学部を卒業後
2002年に順天堂大学医学部に入るまでに、
いろいろな病院で働きました。
天野医師はこれまでに6000件以上の手術を、
成功率98%で成し遂げてきています。
天野医師の優れた技術のおかげで、
「神の手を持つ外科医」と呼ぶ人もいます。
天野医師はこれは大きな誇張だと考えています。
自分の成功は、熱心な努力と、不断の練習と、
患者さんに対して抱く共感のおかげだと考えています。
このインタビューでは、
天野医師はいろいろな経験について語っています。
ご自身の入試での失敗、
心臓手術の後でお父様を亡くされたこと、
外科医としての技術を向上させるための努力、
患者さんといい関係を築くことについてです。

Part 1

いつ医師になるとご決心なさったのですか?

子供の頃、お腹をこわしたり熱を出すといつも必ず、
母親はたまたま親戚の1人だった小児科医の所へ
連れて行ってくれたものでした。
どういうわけか、
その方が書いた医学関係の本と聴診器に惹かれていました。
しかし将来の職業として医師になることを
最初に考えたのは高校にいた時でした。

医師になるのは簡単なことではないのは、みんなわかっています。
先生の場合はどうだったのでしょうか?

はい、私もその例外ではなかったと言わざるを得ません。
高校の時は、部活には一切入らず、
しかも入試に備えて塾に行ってさえいました。
でも、3年続けて失敗しました。
最終的に受け入れられたときには、もう21歳になっていました。
そのことを考えると、
入試に何度も落ちたことは、いろいろありはしましたが、
私にとっては悪いことではなかったと思います。
浪人したことで、
医師になる決意を固めるいい機会を与えてもらったのですから。
医学部で教育を受けた後で、医師になられました。
ご卒業後のお仕事はいかがでしたか?

たくさんの友達が大学病院の医療スタッフとして仕事を始めました。
でも私は違った経歴を選びました。
患者さんともっとたくさん触れ合える総合病院で働きたいと思っていました。
そうすれば、外科医としての技術を向上できると考えました。
そんなわけで、総合病院での仕事を探し始め、
数回断られた後でやっと何とか働き口を見つけることができました。

心臓手術の後でお父様を亡くされたそうですが、
このことで外科医として何らかの形で影響を受けていらっしゃるのでしょうか?

はい、確実に影響しています。父はずっと心臓病に苦しんでいて、
2回手術を受けました。
私が31歳の時、
父の病状が人工弁を取り換えなければいけないほどに悪くなっていました。
私は父の手術を最初から最後まで見守りました。
しかし、手術中に、難しいことが次から次へと起こりました。
1週間後に、父は亡くなりました。66歳でした。

CROWN 3 Lesson 2 God's Hands (2)

Part 2

お父様をなくされたのは、
さぞかしショックだったでしょう。

ええ、本当にこたえました。
私が手術を行ったわけではないんですが、
父の死には責任を感じざるをえませんでした。
と同時に、自分の人生を犠牲にして、
外科医としてやってはいけないことを私に教えていると感じました。
私の手助けを必要とするたくさんの患者さんの命を救えるように、
腕の立つ外科医になるために、
出来ることは何でもする決心をしました。
病院での1日の仕事が終わった後で、
夜通しずっと縫合の練習をしたものでした。
優れた外科医のことを聞くといつでも、
その方の手術を見学するために会いに行きました。
十分に納得するまで、あらゆる種類の質問をしました。
そうした日々からずっと、外科医としての自分の技術を磨こうと、
絶え間なくひたむきに努力してきました。

では、お父様の死から多くのことを学ばれたわけですね。

まさにその通りです。
ご存知の通り、ほんのささいなミスでさえも
患者さんを危険にさらすことがあります。
これはたぶん、父から学んだ一番大切な教訓のうちの1つです。
お会いする患者さん一人ひとりの命に対して
責任があることはわかっていますから、
患者さんの命を救うために最善の努力を尽くします。
「手を抜こうとしてはいけない。仕事をこなすだけだ」
と心の中で思っています。
「妥協」という言葉は、私の辞書にはありません。

「神の手を持つ外科医」と呼ぶ人もいますが、
これについてはどのようにお感じでしょうか?

そうですね、このたとえが私に当てはまるとは考えていません。
本当に必要なものは、神の手ではなく、
手術前の入念な計画立案と、事態を計算し予測する能力です。
これまでに6000例を超える手術を行ってきていますが、
この経験は、重大な時にどんな措置をとるべきなのかを
私が予測するのに役立っています。
手術では、起こりうるどんな事態に対しても素早く正確に対応できるように、
五感を十分に使うことが大切です。

Part 3

毎日、深刻な心臓の状態の患者さんにお会いになっていて、
お時間のうちほとんどを病院でお過ごしです。
患者さんといい関係を築くために何かなさっていることがおありでしょうか?

患者さんたちといい関係を確立し、
そして、その結果として信頼をえることは、
医師にとってとても大切です。
個人的には、患者さんの心音を聞くときには、
聴診器を患者さんの胸に押し当てる前に
自分自身の手で温めておくようにしています。
そしてそれから、患者さんに違いを分かっていただけるように、
私自身の心音をお聞かせしています。
医師としての自分と患者さんとの間の距離を縮めるために、こうしています。
手術のせいで命を落とすかもしれないとわかったうえで、
患者さんは来てくださっているんだということを
理解しなければいけません。
ですからこのような困難な決断をなさった方々を
尊敬する気持ちになる必要があります。

「出る杭は打たれる」とよく言われます。
世界でトップの心臓外科医のお一人として、
今までに「打たれ」たことはおありでしょうか?

そうですね、今おっしゃたことわざは、
ほんの一部分だけ真実だと言えるでしょう。
杭が打たれる場合も確かにあるでしょうが、
それはほんの少ししか出ていない場合だけです。
杭が他の残りの杭よりもはるかに大きく出ている場合には、
絶対に打たれないものです。
そのようにして若い意欲あふれる外科医たちを
励ますことができればと思っています。

ライバルはいらっしゃるのでしょうか? 
もしかしてブラック・ジャックとか?

大鐘稔彦の描いた漫画の主人公・当麻鉄彦の名前を挙げておきましょう。
当麻はなぜだか、
かつて若く意欲に燃えていた外科医だった私を思い出させてくれます。
最良の手術を行うことによって、患者さんとご家族を幸せにするために、
当麻はベストを尽くします。
ライバルというよりむしろ、おそらく当麻は、
私がそうありたいと願うような種類の外科医の理想的なイメージです。

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