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週に2回、トレーナーがトレーニングメニューに組み込んでくれた模擬レース。 今日は芝2000m右回り。6人で走る、その第4コーナー手前。 2番手につけたボクは前を走る子、そして隣を走る子の様子を伺った。 二人ともまだ仕掛けてこない。ちょっとつついてやろうか……少し悩んだ。 わずかに視線を上げてゴールポスト近くに立つトレーナーに目をやる。 僕の視線に気づいたのか、彼はわずかに顎を上げた。 あれは「自分で考えてやってみろ」かな? それとも「俺の方なんか見てないでレースに集中しなさい」かな? どっちだろう。 ま、どっちでもいいけどねー……。それを考えるくらい余裕がある。 帝王たるものドシンと構えて受けて立つくらいの度量がないと。
でも……やっぱりもどかしい。我慢できなくなって、わずかに歩幅を変えてみる。 踊るように、軽やかに。 それに釣られたのか、後ろの子が仕掛けるのが分かった。 一人がボクを抜きにかかる。それに釣られて隣で走っている子も慌てるようにペースを上げた。 あーあ。そこで行っちゃっていいの? 二人の後ろに陣取って、逃げている子との距離を詰めていく。 夏合宿が終わったばかりでまだグラウンドは暑い。前を走る子たちから汗がキラキラと溢れるのが見えた。キレイだ。 ま、でも……一番キレイなのはこのテイオー様だけどね! 最高のタイミングで仕掛ける。前にいる3人をスイっとかき分けるように追い抜いて。 3バ身差。今日もボクは1着で模擬レースを終えた。
「ニッシッシ。どうだった僕の仕掛けのタイミング? サイコーだったでしょ?」 トレーナーに駆け寄って、ぴょんとその腕に抱きついてみた。 「おいおい。そんなにくっつくなよ……。とにかく離れなさい」 彼は至って冷静なまま、ボクをたしなめる。でも、ボクを引き剥がそうとしたりはしない。 「褒めてくれないと離れてあげないよーだ」 そう言って彼の前に回り込んで頭をグリグリと胸に押し付けてやった。 彼はしょうがないなといったふうにボクの頭を撫でてくれる。 その隙にトレーナーの匂いをいっぱい吸い込んだ。 落ち着くような、ドキドキするような匂いにちょっぴり頭がぼんやりする。 そしてパッと身を翻して彼から離れた。 「余裕があるのは良いけれど、誘いを入れるような走り方は良くないな。故障や怪我にもつながるし。あのままどっしり構えて同じタイミングで仕掛けても勝てたはずだぞ」 ボクが離れた後でも、トレーナーの態度は変わらなかった。それどころか説教が始まる。 ちぇー。マヤノが貸してくれた漫画だと、これで男の人はドキドキするはずなのになー。 「まあ冷静なレース運びができたのは偉い。周囲を伺うところとか、ちょっとシンボリルドルフを思わせるところがあった」 「ホント!? カイチョーっぽかった!?」 思わず彼の周りでステップを踏んでしまう。嬉しい。 これでもうちょっと我慢できれば、会長みたいにもっと強く速く走れるようになれるかな? ボクが感激している最中に。 「……走った後だからか、テイオーの匂いが濃いな……」 彼が小さなつぶやきが、僕のウマ耳に入ってきた。 思わずトレーナーから距離を取ってしまう。 「ん? どうかしたか?」 「な、なんだもないよ!」 思わずそう答えてしまった。彼に抱きついた時よりも、匂いを嗅いだときよりもドキドキしてしまう。 恥ずかしい。ボクの匂いがトレーナーに嗅がれてることが嫌……というよりもなんだか胸がソワソワしてしまう。 よく見ると彼のシャツにボクの汗の跡がついているのがわかった。 ボクの匂いが……トレーナーについてる。それが妙に心臓をドキドキさせる。 「じゃあ、あとはクールダウンで学園の外周を2周して終了……って、そんなに急いで走るなよ!」 顔が赤くなっていくのが見られるのが嫌で。ボクは慌てて駆け出していた。
今日はトレーニング後のミーティングがなかったから、外周の後ちょっとトレーナーと話をしてすぐに寮に帰った。 かばんを置いてお風呂に直行する。 「あら、珍しいですわね。いつもは夕食を食べた後にのんびりと入っていると思っていましたわ」 ちょっと混み合っている脱衣所には、メジロマックイーンがいた。 「もう……砂だらけですわ……ゴールドシップさんの後ろを走るといつもこれですわね……」 そう言いながらジャージを脱ぐ彼女はあちこち汚れて汗もかいていたけれど。いい匂いがした。 「ねえ、マックイーン。ボク、臭い?」 不安になって、尋ねてしまう。 「なんですの急に……汗の匂いがするだけで、別に臭くはありませんわ」 マックイーンはわずかに僕に鼻先を近づけてからそう言った。 「良かったー。なんかトレーナーに抱きついてみたらさー『テイオーの匂いがする』とか言われちゃってさ。臭いかどうか不安になっちゃったんだよー」 彼女が顔を少し強張らせる。 「何をやってるんですの、あなた……。まあ、この季節はどうやっても汗をかきますし、匂いは気になるものですわね……」 マックイーンは自分の肩に鼻を寄せた。 「マックイーンはいい匂いしてるよ。ねえ、どうやってその匂いになってるの?」 ボクは彼女に詰め寄って匂いを嗅ぐ。 「ちょ、ちょっと!止めてくださいまし!周りが見てますわ!」 確かに。周囲からジロジロ見られている感じがする。 「マックイーンが騒ぐからだよ。いい匂いしてる。これ、なんか使ってるの?」 「あぁもう!嗅がないでくださいまし!」 彼女の小さな悲鳴が脱衣所の中に広がった。
その後ボクはマックイーンから「メジロ家のグループ会社で取り扱っている最高級品ですわ」というボディーソープとシャンプーを使わせてもらった。 確かにそれからはすごくいい匂いがした。 値段を聞いて、ちょっとびっくりしたけれど……うーん……買おうか悩むなー。
次の日。お昼ごはんを食べ終わった後、ボクは意気揚々とトレーナー室に向かった。 「おっ、今日は早いな。少し早いけどトレーニング始めるか?」 そう言ってデスクから立ち上がるトレーナーの周りをクルッと一周回ってみる。 「……テイオー?」 彼が不思議そうにボクを見る。 「ニッシッシ。今日のワガハイは、一味違うのだ! トレーナー君。何が違うか、当ててみなよ!」 絶対わからないでしょー。そう思いながら彼の前で仁王立ちをした。 トレーナーがボクに近づく。……近い、近いって、もー。 自分で近づくのは全然ヘーキなのに、トレーナーに近寄られるとこうなっちゃうの、何でなんだろう。 「……わかった。シャンプー変えたろ。匂いが違う」 「!!」 まさか、わかるなんて思ってなかった。 その瞬間、自分の首筋から額まで血が上るのが分かった。尻尾の毛が逆立つ。 やっぱり恥ずかしい。臭いかどうかなんて関係ない。 トレーナーに、自分の匂いが理解されているのが……ものすごく恥ずかしい。 「俺は結構鼻がいいほうなんだよ。まあ、ウマ娘ほどじゃないけど……でも、いい匂いだな」 汗が吹き出す気がした。 「テイオー、緊張してる?」 不意に彼がそんなことを聞いてきた。 「ど、どうして?」 トレーナーが少し笑う。 「そういう感じの匂いをしてる気がしたから」 「っ!!……トレーナーのバカ!エッチ!」 ボクは思わず彼の腰あたりを叩いた。 「痛っ!!」 大げさに痛がるトレーナーをそのままに、ボクはトレーナー室を飛び出した。
……どうにも失敗したらしい。 一昨日テイオーに叩かれて痣になった部分を触りながら、グラウンドを走るテイオーを眺める。 相変わらずパフォーマンスは良い。 時々調子に乗るところを除けば彼女の目標である皇帝を超える成果を残せるかもしれない。 そんなテイオーだったが……。 「お疲れ様」 3000mを軽めに走り終わったテイオーに声を掛ける。 「うん……」 いつもなら尻尾を振りながら走り寄ってきてくれたのに、全然近くに来てくれなくなってしまった。 制汗剤などもいつもより使っているのがわかる。 やっぱり匂いのことを話したのがマズかったのか。 いや、自分でもキモいしちょっとないなーってことは分かっていたけれど……。 テイオーの普段からの距離の近さと親密さに、胡座をかいてしまったのかもしれない。 「なあ、もうちょっと近寄らないか? 別に匂いを嗅いだりなんてしないし。話がしにくいだろ」 5mほど距離を開けて休む彼女に声を掛けた。 「やだっ! ボクからトレーナーの匂いは十分わかるし。それに声だって聞こえるよ」 テイオーが即座に首を振る。 警戒するようにウマ耳がピンと立っているのが見える。 やれやれ……どうしたものか。 俺は途方に暮れた。
週末までにテイオーとの距離は3mくらいまで縮まったものの……前と同じ距離には戻らなかった。
……今日もトレーナーと仲直りできなかった。 トレーニング後、中庭のベンチに座ってボクは思わずため息をついてしまう。 って、ダメダメ!無敵のテイオー様にため息なんか似合わない。 「意気消沈した様子だが……どうしたんだ?」 聞き慣れた憧れの声を聞いてボクは顔を上げた。 「カイチョー!」 「そんな下を向いていては上を目指すことなどできない。帝王として私の前に立ちたいのであればもっと顔を上げたほうがいい」 会長が柔らかい眼差しでボクに声を掛けてくれる。 いつも忙しそうなのに、こういうタイミングを逃さず構ってくれるのはスゴいし……ちょっとズルいなーって思ってしまった。 「最近担当トレーナーから物理的に距離をとっているとエアグルーヴから聞いた。トレーナーとの絆が私達を速くする。くっつき過ぎるも良くないが……適切な距離というものは大切だよ」 会長がボクの隣りに座って話しかけてくる。 トレーナーに自分の匂いが把握されてるなんてこと何か恥ずかしくて、あれから誰にも相談できてなかったけど……でも、カイチョーになら。
「……カイチョーは、自分の担当トレーナーに自分の匂いを嗅がれたことってある?」 「え?」 会長が動揺する素振りを見せた。珍しい。 「トレーナーがさ、ボクの汗の匂いとかわかってるみたいなんだよね……ウマ娘はトレーナーの匂いわかるのはトーゼンだけど……その逆ってスゴく恥ずかしくて……」 上手く言えなくてしどろもどろになってしまう。 カイチョーを見ると何か戸惑ったように自分の髪を触っていた。 「それで、距離を取っていた、と?」 会長の言葉なボクは頷いた。 「……まあ、私達がトレーナーの匂いを一方的に把握していることが、ややズルいとも言える」 親密な相手になれば、匂いから大雑把な喜怒哀楽や体調くらいわかるようになる。 それはもうアタリマエなことだから気にしてなかったけど。 男の人からそれをやられるのがこんなに恥ずかしいなんて思ってなかった。 「カイチョーなら、こんな時どうする?」 思い切って聞いてみると、カイチョーはなぜか小さく苦笑いをした。 「テイオーのトレーナーは、テイオーの匂いを知って不快そうにしていたかな?」 ボクは首を振る。そんな様子はなかった。 「ならば、受け入れられていると考えればいいんじゃないか? 今まで一方的で不均衡だったものが平等になったんだ。お互いに匂いがわかるのなら、前向きに考えれば今まで以上の絆が生まれるはずだ」 カイチョーの言うことはもっともだけど。 「わかるけどさー……それでもやっぱり恥ずかしいよー」 ボクは唸った。それを見てカイチョーが微笑む。 「まあ、すぐには乗り越えられないかもしれない。拒否はせず少しずつ歩み寄ればいい」 その時、遠くからボクが区別できる足音と匂いがした。ウマ耳だけをそっちに向ける。 そんなボクの様子を見て、カイチョーが顔をその方向に向けた。 「テイオーのことが心配なんだろう。まずは恥ずかしいなら恥ずかしいと言ってみたらどうだ?」 まだ気づかれていないと思っているのか、慌ててボク達から身を隠したのがわかった。 そんなトレーナーの態度が面白くて。 「わかった。ありがとう、カイチョー!」 ボクはベンチから立ち上がった。
迷える子羊が生徒会室から見えたので休憩がてらに少し話をして……可能であれば励ますだけのつもりだったのだが。 最初は距離を取って話し始めたテイオーが一気に距離を縮めるのを見て、私、シンボリルドルフの口元に思わず笑みが浮かんでしまう。 一件落着。まさしくそう言えるようなシーンだった。
心が温まったついでに私は生徒会室に戻らず、校舎の隅を目指した。 小さくノックをしてトレーナー室に入ると、私の担当トレーナーがデスクに肩肘をついて居眠りをしていた。 今日中に書類仕事を片付けて明日のトレーニングに備えると言っていたのに……こんな調子で大丈夫なのだろうか。 起こす前に彼の近くに寄って顔を覗き込んでみた。 「……ルドルフ?」 気配で気づかれたのか。トレーナー君がつぶやいてゆっくりと目を開ける。 「すまない、勝手に入ってしまって。一応ノックはしたのだけど」 私の謝罪に彼は「別に構わないよ」と答えた。 トレーナー君が伸びをして、深呼吸をする。 私よりも一回り近く年上の彼だが、片頬が赤くなっているのが可愛く見えてしまう。 「……ルドルフ、なにか良いことでもあった?」 不意にトレーナー君が尋ねてくる。 「ああ、その通りだが……なぜ分かったんだ?」 彼は自分の鼻の頭を掻いた。 「変なことを言うかもしれないけれど……そんな感じの匂いがしたから」 「!!」 衝動的に距離を取ることだけは、何とか抑える。 そんなこと、皇帝の威厳が許さない。テイオーですら向き合ったというのに。 ただ、頬が紅潮することだけは止められなかった。 「……確かに、恥ずかしいものだな……」 トレーナー君が不思議そうに私を見る。 さっきテイオーはなんて言っていただろうか。真似をするつもりはないが……参考にはしたい。 私はそれを思い出しながら、まだ寝ぼけ気味の彼の匂いを堪能した。