pixivは2021年5月31日付けでプライバシーポリシーを改定しました。
蝉の声が日陰の傍にも降って来る。 バイザーを上げて空を見れば、澄み渡る青色が何処までも広がっていた。 その時、視界の外でワッと歓声が上がる。
どうやらここ新潟で初の重賞制覇をウマ娘が成し遂げたみたい。 額に汗を、そして感極まって泣きながらも、満面の笑みを浮かべている。 微笑ましく思いながら、どこか羨望の目で見てしまう自分を恥じた。
そっとバイザーの端を摘まんで顔を伏せると、足元に影が差す。
「ほいアイネス、昼飯」 「トレーナー、いいって言ったはずなの!」 「遠慮せず食えよ、どうせ経費だ」
しかめっ面でトレーナーはお弁当を突き出した。もう皺になるぞ。 呆れつつプラスチック製の弁当箱を受け取り、蓋を開ける。
中から出てきたのは熱々の牛丼、しかもお肉も山盛り。 こ、こんな贅沢をしてもいいのかと、あたしの心が不安になる。 家に持ち帰っちゃ駄目だろうか……?
不埒な思考を読み取ったのだろう、トレーナーがジト目を向ける。
「それはアイネス用の分だ。しっかり食って……早く治そう」 「……うん、確かにそうなの! よしっ、いただきます!」
腕捲りをして割り箸で牛丼に口をつける。うんイケる! パクパク食べるあたしを見てちょっとだけトレーナーが笑う。 そして隣でトレーナーもちょっと遅めの昼食を始めた。
ゆっくりと雲が流れ、蝉と応援の声をBGMに食事を楽しむ。
「肉足りないんじゃないか? ほら分けてやるよ」 「いやいや! いいって!」 「一々気にするな、短い付き合いじゃないんだから」
押し付けるようにお肉を足して、トレーナーはまた箸を進める。 少しだけ申し訳なく思うけど、向こうはそう思ってないみたい。 変に遠慮するのも悪いし、それにと脚へ視線を落とす。
今あたしの脚は異常がある。
ダービーで勝った後に見つかり、夏を迎えても治っていない。 今日こうして新潟に居るのも遊びじゃなかった。
本来の目的は夏休みを利用した湯治。 療養とはいえ学生だから、色々と面倒臭い手続きがあったらしい。
けれどすぐ隣にいるトレーナーは苦労した風を見せない。 きっとあたしに気を遣ってくれてるんだろう。 新人なのにここまでしてくれるのは頼もしいけど、少し寂しい。
心の迷いを振り払うように、牛丼を口へと運ぶ。 お弁当を食べ終えて脇に置くと、お茶が差し出された。
夏の暑さか、ぼうっとした目でトレーナーが見ている。 受け取って口にすれば、冷たい爽やかさでスッキリした。 と、隣で彼がクスクスと笑う。
「美味そうに飲むな」 「いいでしょ、美味しかったんだから」
そいつは良かったと、また楽しげにトレーナーが笑う。 ……最近は根を詰めてたみたいだから、笑顔は珍しい。 だからか、あたしも突き出した唇を引っ込め、つられて笑う。
ひとしきり笑った後、また空を見上げた。 ゆっくりと白い雲が流れて、時間の流れがゆるやかに感じる。 蝉の声や周囲の歓声も遠くなり、満腹感で思考も鈍っていく。
だからか、ぽつりとずっと抱えていた事が口から洩れた。
「……あたしにここまでしてくれるのは、ダービーを獲ったから?」
言ってから失言だと気付いたが、遅い。 ぱたりと箸とお弁当を置く音をウマ耳が拾う。 気まずい沈黙を蝉の声が埋めようとするけど、何の足しにもならない。
アイネス、短く呼びかけられ、ギギギとトレーナーに顔を向ける。
呆れられるかなと思ったけど、彼はそんな顔をしてなかった。 怒っているような戸惑っているような、そんな表情。 じっとあたしの目を見たまま、口を開く。
「結論から言うと――――分からない」 「えー……何なの、それー……」 「だって君は俺の初めての担当だし比べようがないよ」
初担当をダービー制覇に導いた、それがトレーナーの評価。 ……まぐれとか悪い声もあるけど、あたしはそうとは思わない。 きっと彼と一緒だったから、ここまで頑張れたんだと思う。 代償に脚を捧げても悔いがない程度には。
「だから他の子相手に同じ事が出来るかは分からないかな」 「……んん? それって」
今、遠回しに凄い事を言われたような……? 疑問を解くよりも早く、バイザーに衝撃が走る。 伸ばされたトレーナーの指で弾かれたらしい。
「それより、その事でずっと悩んでたのか?」 「ええっとぉ……えへへへ、バカな事言っちゃったの」 「いいや全然。むしろ嬉しい」
くしゃくしゃと髪が乱れるのを構わずあたしの頭を撫でる。 あー! 折角おめかししたのに!? 抗議の視線を向けるけど、トレーナーは気にした素振りもない。
なんだか、嫌われてもいい、そう思ってるみたい。
少し疲れた彼の目に、あたしは変な不安を覚えた。 こちらの気も知らない様子で、向こうは話を続ける。
「アイネス、気なんて遣うな。どうしたいのか何を考えてるのか言え」 「別に気なんて遣ってないの……」 「現にさっきまで黙ってただろ。遠慮するな、俺達の仲だろ」
ポンポンとあたしの頭を叩くと、トレーナーは背伸びをした。 横顔には先程の陰りはなく、青空に笑みが映える。 ぼんやりと見上げるあたしに、横目を向けて続けた。
「今の俺達には口がついてるんだ。だから言いたい事を言ってくれ」 「……うん、分かったの」 「よし、それじゃあそろそろ宿に行って、今後のこと考えるか」
言いながら立ち上がるトレーナーの腕を、あたしは掴んで引き留めた。 不思議そうな顔をする彼の顔を、じっと見つめる。
最近は忙しいとばかり言って、少し隈の残る疲れた男の人の目。
離れようとするトレーナーを逆に引き寄せた。 鼻先が触れそうな距離で、あたしはそっと口を開く。
「アナタも、言って欲しいの」 「え、何を?」 「思ってる事とか悩んでる事を。今度はちゃんと」
……あたしの脚の事で、トレーナーが批判されているのは知ってる。 だから批判をどうにかしようと頑張ってるんだって思おうとしてた。 けど本当にあたしだから色々してくれていると言うのなら、
「あたしはアナタとじゃなきゃ、もう頑張れないよ……?」 「アイネス、お前」
その時のあたしはどんな顔をしていたのか。 結局一生分からないままだった。 驚くトレーナーの腕を絶対に離さないと強く握りしめる。
家族の為にアルバイトを掛け持ちしていたあたしにアナタは声を掛けた。 同情とかレースに出たい熱意とかじゃなく、才能を見込んでって。
才能といった素質は、確かにあったのかもしれない。 けど同時に元々脚に不安もあった。 だからあたしの心を見抜いて声を掛けてくれたのはアナタだけ。
『日本一になってみないか?』
有名になって、稼いで……走る楽しさと夢を思い出して。 友達のライアンちゃんやタイセイちゃんとの日々も面白くて。
だから今のあたしを形作った責任を、途中で投げ出せたりしない。
ただ呆然としていたトレーナーの顔に、少しだけ生気が戻る。 にやりと笑って、あたしの手を引いてくれた。
「牛丼と……君の言葉でちょっと元気が出たかな。まだやれる」 「その言葉、信じるの――――嘘だったら許さないから」 「こっわ!? そんなキャラじゃないだろ、ったく……」
苦笑気味に頭を掻くと、トレーナーは顔を空へと向けた。 つられてあたしも彼の視線の先を追う。
「ちゃんと言うよ。口がついてるんだから」
行こうと呟くトレーナーの掌に、あたしはしっかりと手を絡める。 はぐれないように、何処へも行ってしまわないように。 汗ばむ手でしっかりと握りしめて、二人で歩き出した。
・ ・ ⏰ ・ ・
湯治期間中あたしとトレーナーの部屋は勿論別々だったの。
……初日の夕方まではね。
・ ・ ⏰ ・ ・
――――結局、あたしの脚は戻らなかった。
長期療養も虚しく昔のようにどころか、走るのも難しい状態。 いつ爆発するか分からない不発弾、医師はそう表現した。
『ごめん、全部俺のせいだ』
あのトレーナーが泣きながら、あたしに縋りつきながら謝った。 けど全責任って事はないと思う。 だってあの時のあたし達は一心同体だったのだから。
それに湯治も無駄だったわけじゃない。 足の痛みや違和感は消えて、日常生活を送るに困らなくなったし。
そのまま引退式もせず、黙ってターフを去った。
そしてあたし達は
まだ明るい夕刻の空の下、ホイッスルを鳴らした。 グラウンドに散っていたウマ娘達があたし達の傍へと集まる。
「よーし、お前ら今日の練習はここまでだ。じゃサブトレ」 「はーいなの! 皆、ちゃんとストレッチして解散!」
集合させたウマ娘達にあたし達二人で声をかける。 皆はーいと元気な返事をして、指示に従って動き出す。
引退した後、あたしは中央のトレーナーを目指し出した。
お給料はいいし、傍には都合よく現役の人も居る。 何よりトレーナーとも一緒だ。
それなら目指さない理由なんて、何処にもない。 結果としてあたしはまたトレセン学園に舞い戻った。 今は元トレーナー現チームトレーナーの下で働ている。
あたし達二人で数々のG1制覇の夢は終わってしまったけど。
生徒達にバレないように、そっと尻尾で彼の手をなぞる。 二人だけの秘密の会話法。
「今年は調子のいい子が一杯で豊作なのアナタ」 「ま、ほどほどに頑張りますかオマエ」
だね、とトレーナーの肩にもたれる。 全てが終わった訳じゃない。
あたし達の夢は、今もここで続いているよ。
・ ・ ⏰ ・ ・
照明が消え、星明りだけが頼りになった宿の一室。 本来男の一人部屋に、艶やかな女の声が響く。
「ほらっ! 今更恥ずかしがらないのっ!♥」
布団の中でがっちりと男の腕に絡まる。 クーラーをかけているとはいえ、男も女も互いに汗だくだった。 流れる汗を感じながら、アイネスフウジンは腕をそっと伸ばす。
暗闇の中で顔を歪めるトレーナーの頬を、小さな少女の手が撫でた。 深夜の男部屋で二人は布団を共有し、女はくすくすと微笑む。
「ほらほらもっと近寄るの♥」
狭い一人用の布団。 もっと傍に寄れとアイネスが童女のように催促する。
「アイネス、お前なぁ……」
顔を顰めるトレーナーだが、布団から抜け出す気配はない。 正しくは布団を出ようと抵抗自体はしたし、説得も重ねた。 だが本気を出したウマ娘に敵う筈もない。
今この場にあるのはアイネスフウジンとトレーナーだけだ。
狭い宿の布団だけが二人の世界。 担当バから顔を背けようとするトレーナーの腕が、アイネスの胸に埋まる。 柔らかな感触に抗議しよう振り返ると、にやりと笑う少女と目が合った。
「これって大問題なの、お嫁に行けないの」 「……別に黙ってりゃバレないだろ」
苦し紛れにトレーナーが言葉を吐き出す。 だがそういう問題でない事は自覚していた。
視線の先で今も平然とニマニマ笑うアイネスを見やる。
彼女と担当になってから同じ時を過ごしてきた。 だからこんな問題行動をするようなウマ娘ではないと知っている。 何故こんな暴挙をと眉間にしわを寄せ、男は苦しげに呻いた。
しかしアイネスを眺めていて気付く。
確かに暗闇の中で少女が艶やかに笑っていた。 だが左右のウマ耳が忙しなく旋回を続けている。 それは、一体いつからだったか?
押し倒された時? 部屋に遊びに来た時? それとも……今までずっと?
呆然とアイネスの頭頂から顔を下げ、目が合った。 動揺する男と微笑む女が視線を絡ませ、時が過ぎる。
ごくりと唾を飲みトレーナーが何かを言おうとした。 だが先にアイネスは男の腕を更に胸の谷間へと誘導する。 ゆっくりと、だが逆らえない力でしっかりと挟んだ。
そしてパシャリ、と。 スマホのフラッシュが乱れた男女の姿を写し取る。
「ふふふ、もしネットに流れたら……これで一蓮托生なの♥」 「おい、バカ。変な事するな」
慌ててトレーナーが腕を伸ばすも、抵抗は虚しく終わる。 あっさりとスマホは放り出され、その上アイネスに拘束されたまま。 迂闊な自分の行動で彼女の経歴に傷をつけたと自責の念に目を閉じる。
だが知らぬ存ぜぬとアイネスはトレーナーの頬を指で突き、口を開く。
「変な事をするかはトレーナー次第なの~」 「なんだ俺を脅すのか?」 「うん、これでアナタに生きる理由が出来たでしょう?」
熱っぽい調子でありながら、冷めた鋭いアイネスの声。 ぞっとしつつ目を開ければ、見えたのは笑いながら涙を浮かべる少女だった。 何を怖れているのか、唇が震え、瞳も滲んでいる。
「今まで一杯支えて貰ったの。だから今度は、あたしの番」 「けど、お前の脚は、俺のせいで……」 「どうでもいいの、世間の言う事なんて。あたし達は、知らない」
布団で手を繋いだままアイネスは断言した。
ドロリとした執着を湛える、輝きのくすむ翡翠の瞳。
夜の闇の中でもなお暗く輝く彼女の瞳にトレーナーは怖気が走る。 だが同時にウマ娘の細い腕が震えているのも分かっていた。 震える唇で抑揚もなく、しかしアイネスが怯えるように囁く。
「責任を、取って欲しいの。今更あたしを、一人にしないで」 「……分かってる、分かってるから」
……この療養が終わり、アイネスの面倒を見た後は消えるつもりだった。 才能豊かなウマ娘を潰して、どの面を下げてトレーナーを続けられる? 世間からの評価に心を削られ、大事な彼女の未来も摘んだ。
そんな自分にこの後を生きる価値なんて、あるのか?
そう思っていたのに、寒気立つ少女の手が男の腕を抱きしめる。 もし自分が居なくなればアイネスがどうなるのか。 危うい心の均衡を感じ取ったトレーナーは奥歯を噛み締め、ハッキリと頷いた。
すると安堵の吐息をアイネスは漏らし、何かを待つように瞳を閉じる。 それはさながら誓いを求めるかのような仕草だ。 そして今更彼女の心意に気付かぬほど、男は鈍感でもない。 溜息を吐きながら、アイネスの小さな掌を握り返す。
「ったく、ワガママなお姫様だ」 「いいから早くするの! ん……っ♥」
唇を重ね舌を絡ませる。 暗い夜の静寂を裂くように漏れる男女の声。
窓の外にの夜空は輝きに欠けていた。 満天の星空はなく、所々に雲がかかる。
だが星の全てが見えない訳ではなかった。
星々の天の川は見えずとも。 奇跡のような景色はなくとも。
手を伸ばせば掴めそうなところに。
幾つもの綺羅星と月が、確かに暗い夜闇を払っていた。
何気ない事が嫌に記憶に残る事もある。
健全です。
※2021/7/26
分かり難かったと思われるので追記しました。
文章の繋がりが悪いのは原文から健全に改稿したためです、つまり健全。
一人で生きていければ偉いのか?