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『キング』 その声を聞いただけであんなに胸がソワソワするなんて、どうかしています。 本当に、どうかしている。前はこんなことなかったと思うのに……。 夜、寮の自室にて。予習のために広げていた教科書の文字を目が追えなくなって、私は顔を上げます。 「ふー、さっぱりしたぁ~」 その声に振り向くと、同室のハルウララ、ウララさんが部屋に駆け込んで来るのが見えました。 お風呂から上がってきたところなのでしょう。振り返って彼女を見れば、髪も尻尾もしっとり濡れているのがわかります。 「お風呂上がりのアイス食べよーっと」 「ちょっと待って、ウララさん」 再び部屋から飛び出そうとする彼女の前に、私は手を伸ばしました。 「ちゃんと髪の毛も尻尾も拭いて、尻尾の手入れもしないとダメでしょ。また朝起きたときに尻尾の毛が癖だらけになって、遅刻しそうになるわよ」 私はドライヤーを手に彼女を椅子に座らせて、ピンク色の頭に風を当てていきます。何度もやっているので慣れたものです。 「尻尾の手入れは自分でしなさいね」 「えへへ、ありがとー。キングちゃん」 ウララさんがニッコリと笑います。その花が開くような笑みを見ると……どうしても怒る気になれません。これがスカイさんなら小言の一つでも言いたくなるのでしょうけど。 ウマ耳の毛に風を当てると、「くすぐったいよー」と彼女が背筋を震わせます。 普段はメンコ……赤いイヤーキャップで隠れている彼女の耳を、同室である私は見慣れています。 熱風に合わせてわずかに動く彼女のウマ耳を私はぼんやりと見つめました。
「ねえ、ウララさん。そういえばウララさんはどうしてメンコをしているのかしら?」 自分の抱えている悩みから、彼女に聞いてみます。 「うーんとね、ちっちゃな頃にね、お母さんが用意してくれたんだ~。わたし、昔は大きな音でびっくりすること多かったから。それからずっと着けてるよ」 そう言えば着けるの忘れてた! そういって彼女は尻尾の手入れを放り出して、ジャージのポケットから赤い布切れを取り出しました。 「まだ髪の毛を乾かしている最中だから、後でいいわ。……ウララさんは、メンコ着けなくても普通に生活のできるかしら?」 「できるよ。ちょーっと慣れないかもしれないけど、平気だよ?」 ウララさんが朗らかに返事をします。 「キングちゃんは? 大変なの?」 彼女が頭を上げて、私の顔を見ました。おそらく、その先にある青い生地に包まれた私のウマ耳を見ているのでしょう。 「問題ないわ。パーティーとか、レースの祝賀会に参加するときはメンコを外すのが一般的なマナーだし。問題ないのだけど……」 あれは、何だったのでしょうか。 先日のトレーナー室での出来事が頭をよぎります。 今後あんなことがあったら困ります。いざとなったらフォーマルな服装が求められる場所でもメンコを着けておかないと……。 「キングちゃん、くすぐったいよ~」 ウララさんに声を掛けられてハッと我に返りました。気づけばウララさんのウマ耳ばかりに風を当てていたみたいです。 「あら、ごめんなさい。……これで大丈夫よ」 「ありがと、キングちゃん! あとでアイス一口あげるね!」 尻尾の手入れも終わったのでしょう。私から見ればちょっと手抜きなところもありますが……再びメンコを着けたウララさんがスキップしながら部屋を飛び出ていきます。 そんな彼女を見送った後。私は自分のメンコを外しました。 私もウララさん同様に子供の頃は音に敏感で神経質で。母にこれを着けられたのです。 10歳くらいの頃から音があまり気にならなくなりましたが……習慣的に着け続けています。 メンコを外したことでいつもよりよく聞こえる耳を動かして調子を確かめます。トタトタという軽やかに弾む音。たぶんウララさんがアイスを手に戻ってきたのでしょう。 「アッイス~、アッイス~。今日はマスカット味だよ!」 元気な声もよく聞こえるだけで、特に違和感はありません。 「……本当に、あれは何だったのかしら」 私がつぶやいた言葉を聞いて、ウララさんは不思議そうに首を傾げました。
メンコを外したらトレーナーの声が妙にくすぐったく聞こえる。ソワソワして落ち着かなくなる。それに気づいたのは先日のトレーニングの後でした。 その日は午後に急な夕立があり、走っている最中の私はそのせいでずぶ濡れになってしまったのです。 「まったく。ひどい雨だなあ」 そんなことを言いながらトレーナー室に駆け込む彼に続いて私も部屋に入りました。 「ちゃんと天気予報は見てたのかしら? まったくもう……びしょびしょだわ」 トレーナーに手渡されたハンドタオルで濡れた髪と尻尾の水気を取ります。 「見てたよ。夕方にパラッと降るくらいって予報だったから気にしてなかったんだけど……」 「その程度のチェックでは一流のトレーナーとは言えないんじゃないかしら? 頼むわよ。一休みの時期とはいえ、まだまだ大変なレースがキングを待ってるんだから。風邪なんてひいてられないわ」 メンコまで水を吸ってベチャベチャです。私は耳からそれを取り外して、タオルで水を吸っていきます。運悪く換えは持ってきていないので、ひとまず我慢するしかありません。 「ごめんキング。俺が悪かったよ。これからは細かく雨雲レーダーとかも見ておく」 ……!? 彼の言葉を聞いた途端。自分の耳が勝手にピンと立つ感じがしました。それにつられて尻尾まで動いてしまいます。はしたない。一流のウマ娘とは言い難い振る舞いです。 でも、何が? どうして? 「キング? どうかした?」 キング。トレーナーが私の名前を呼ぶたびに耳の根本にピリッと緊張が走るような。そしてそこから体が熱くなるような感覚を覚えます。 「なん、でも……ないわ」 「今日は雨で濡れたし、ミーティングは後日にしよう。お疲れ様、キング」 まただ。名前を呼ばれるたびに、いえ、彼の声に私の体が反応を示しているような。 どこかの何かが落ち着かない。ネガティブな方向じゃなくて、どちらかと言えばポジティブな感じで。……そう、ある種の興奮に近い。ドキドキする。 自分の反応に気づいたとき、頬に血が上ることに気づきました。 「そ。じゃあ、失礼するわ」 私は逃げるように部屋から出ました。
それが、3日前のことです。
デビューから3年。一流のウマ娘になるべく、トレーナーと一緒にトゥインクル・シリーズを走ってきました。でもこれで終わりではありません。まだ私のレース活動は続きます。 彼と契約を解除する予定もありません。式典などで彼の前でメンコを外すことだってあるでしょう。 「いつもいつもドキドキなんてしてられないのよ」 そうつぶやきながら、私はある雑誌を片手にトレーナー室に向かいます。 「トレーナー。失礼するわよ」 ノックを2回。返答はなし。ドアを開けると彼は不在でした。 デスクに向かってみると、まだ湯気の出ている飲みかけのコーヒーが残っています。 「席を外しただけかしら?」 私は雑誌を机に置いて、メンコを外してポケットに仕舞います。 ウマ耳をフルフルと振ったり動かしたりしているうちに、聞き慣れた足音が近づいてくるのがわかりました。
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トイレから戻ってくると、担当ウマ娘のキングヘイローが部屋に来ていた。今日は予定はなかったはず。公私をしっかりと分けている彼女がこうやって連絡もなくトレーナー室にやってくるのは比較的珍しい。 「キング、何か用?」 腕を組んで黙って俺を見ている彼女に声をかけると、彼女のウマ耳がピクンと動くのが見えた。それと同時に尻尾もわずかに跳ねる。 『感情が尻尾に現れるなんて、一流のウマ娘として失格よ』なんてことを言って完璧な立ち振舞を目指していたキングにしては、珍しい気がした。 それに、なにか違うような……。 「今日はメンコをしていないんだな。イメチェン?」 そう声をかけると、彼女は少し驚いたような反応を見せた後、それを恥じるようにそっぽを向いた。 「みたいなものよ。ところでトレーナー。この記事を読んでみてもらえないかしら」 彼女が差し出してくる雑誌を俺は受け取る。先日、今月号が発売されたばかりのレースウマ娘を特集している月刊誌だ。 付箋がついているので、そのページを開く。そこはトゥインクル・シリーズではなくドリームトロフィーリーグの内容だった。 『今年度リーグデビュー予定のウマ娘、注目バ大特集!』と銘打たれたページにはキングヘイローの名前も上がっていた。すでにこの記事はチェック済みだ。 「ちょっと私のところを読んでみてくれないかしら?」 彼女に言われて、もう一度目を通す。 「声に出して」 ……? なにか気になるところがあるのかもしれない。特に断る必要もないので、俺はコラムを声に出して読み始めた。 「えーっと……今後はどうなる、キングヘイロー。短距離から長距離まで縦横無尽に走り抜け、トゥインクル・シリーズにおいて世代のキングとして名を馳せたキングヘイロー。彼女の出走レースは編集部も予想をしていなかったものが多く、今後どのような挑戦をしていくのかかなり検討が難しい。しかし彼女抜きに次世代のリーグウマ娘を語ることはできないだろう……」 俺はチラリとキングに視線をやった。腕を組んだまま話を聞いている彼女は、どこか満足そうだ。 ウマ耳がピクピクとせわしなく動き、尻尾も軽快に揺れている。 「……円熟の域に達した彼女の走りの強みは、やはり中距離で発揮されるだろう。順当に考えれば今後はその距離でのレースに出走するのではないかと思われる。ここで一つ、彼女の母親の出走レースを振り返って検討してみたい……」 再びキングの様子をうかがう。ウマ耳の動きは変わらないが、尻尾の揺れは止まっていた。3年間、トゥインクル・シリーズを走り抜けることで母親へのコンプレックスは解消されたはずだけど……やはりまだしこりが残っているらしい。 まあ簡単にすべてを振り切れるものではないだろう。俺は記事の内容を読み続けた。
「で、この記事がどうしたんだ?」 記事を音読し終えて、キングに尋ねる。反応がない。 「キング?」 名前を呼ぶと、ビクンと彼女が震えた。 「そ、そうね。これについてあなたの見解を聞いておこうと思って」 見解か……。 「特に真新しいことを書いてるわけでもないし、君の母親の成果は関係ない。当初の予定通り半年後の東京ドリームチャレンジに出走しよう。まだマスコミに漏らす段階じゃないから、公表するつもりはないけど」 俺の言葉を聞いてキングは頷いた。普段メンコに隠れて見えないウマ耳の先の動きがわかって、なかなか可愛く見える。 「わかったわ。失礼するわね」 それだけ言って、彼女は早足で部屋を出ていく。 「……何だったんだろう」 俺はつぶやいた。
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部屋を出てからしばらく歩いて。十分離れたところでメンコを着け直しました。 「前みたいにドキドキする感じも減ったし、慣れたのかしら? ただ、もう少し続ける必要がありそうね」 自分に言い聞かせるようにつぶやきます。 トレーナーの視線が何度も私のウマ耳や尻尾に向いたのは気づいていました。 「あんなにジロジロと見るなんて。無作法にもほどがあるわね。トレーナーにも慣れが必要なんじゃないかしら」 私達ウマ娘の耳や尻尾は感情の動きが出やすいため、それを会話中にジロジロと見つめるのはマナーにそぐわない行為だと言われています。 そんな基本的なことを自分のトレーナーが守れていないなんて。 「あの人もまだまだね。このキングが社交の場でも一流な立ち振舞を見せるトレーナーに仕上げてあげないと……将来困るわ」 将来何がどう困るのか。それを自分の中で曖昧にしたまま、私は尻尾を振りながら教室に戻りました。
それ以降、私は少し暇な時間があればトレーナー室に向かい、メンコを外して彼の声を聞くようになりました。 自分の特集の載った雑誌を持っていったり。webでの自分に関する話題を見せたり。 1ヶ月ほどそんなことを続けていれば、メンコなしの状態で彼から「キング」と呼ばれることも気にならなくなった……どころか、心地よく感じるようになりました。 「何か本末転倒なことをしている気がするわね」 別にはしたないことをしているわけではないです。まあ、問題ないでしょう。 このキングに読み聞かせるという貴重な機会を与えてあげているのだから、感謝されてもいいくらいだわ。 そんなことを考えながら、今日もトレーナー室に向かいます。
「キング、今日はどんな話を持ってきたんだ?」 デスクに座って事務仕事をしているトレーナーに、私の関する記事の切り抜きを渡してメンコを外します。 「これは……去年の記事か。俺が読んだことないやつだな。キングとスペシャルウィーク、セイウンスカイに関する比較ね」 慣れた様子で彼が記事を音読していきます。私はソファに座って、目を閉じて聞き続けました。 途中で、トレーナーが椅子から立ち上がる音、こちらに来る音が聞こえました。 なにかしら? コーヒーでも淹れに行くのでしょうか。まったく……読み上げに集中してもらわないと困るわ。 耳だけを彼の方に向けたまま、声を聞き続けていると不意に読み上げる声が止まりました。 トレーナー? そう声を掛ける前に。 「キング」 耳元で名前が囁かれます。その近さに思わずソファから跳ね起きました。尻尾がピンと立ってしまいます。 「なっ、な……あなた! なんなの!?」 そんな私の様子を見てトレーナーが少し申し訳無さそうに、でもわずかに笑いながら話しかけてきます。 「ごめん。でもこうした方が効果があるかなと思って。メンコなしの生活に慣れようと思ってるんだろう? なら近くで名前を呼んだほうが良いかなって」 思わず彼から距離を取ってしまいました。 「どうしてそれを……」 本当はちょっと違うのですけれど。 「これだけキングに関する記事を音読させられたら、まあ気づくよ。あとキングの名前を呼ぶと耳と尻尾が動くし。それを抑えるためのトレーニングなのかなって」 そんなに細かく見られてるなんて思いませんでした。顔が赤くなっていくのを止められません。 「そ、そうよ。トレーナーにしてはよく気づいたわね! 褒めてあげるわ!」 そう答えてみると、彼はわずかにホッとしたような笑みを浮かべました。 「なら良かった。じゃあもう一回耳元で名前を呼んでみようか?」 もう一度? もう一度やるの? さっきのを? 「そうね。じゃあお願いしようかしら? キングの名前を耳元で囁く権利をあげるわ!」 余裕を証明するように、腕を振ってみせます。 たぶん大丈夫でしょう。すでに一流のウマ娘である私からすれば、さっき程度の囁きで取り乱すなんてありえません。 再びソファに座った私の耳に、トレーナーの顔が近づきます。
彼が名前を呼ぶ前、わずかに息を吸う音を耳にした瞬間。 私は自分の敗北を悟りました。