pixivは2021年5月31日付けでプライバシーポリシーを改定しました。
「これなんかは……ええと……少し違うかしら」 リビングで求人雑誌を持ちながら私、サイレンススズカは独り言をこぼしました。 トレセン学園から卒業して、URA公式レースからも引退して2年。私は今フリーター……もとい専業主婦の状態です。 トゥインクル・シリーズ、ドリームトロフィーリーグで十分走り。私はいくつかの重賞で勝利しました。そのおかげで成人後に受け取ることのできる賞金も十分な額がありました。 働かないと家計が苦しい、ということはありません。私の元トレーナーである夫は重賞を勝利するようなウマ娘を数人担当しており、そちらの収入も十分あります。 ただ……家でじっとしているのが私には性に合わないのです。
レース引退後に就職したシューズメーカーの開発・事務職ではどうにも自分にあっていないような感じがして、しばらくして辞めてしまいました。 それ以来はたまに来るURAからのレースに関する講演、講習の依頼や短期アルバイトなどを続けていますが……定職に就けていません。 トレセン学園入学前の子供に対する講習、その講師役などは好きなのですけれど……URA本部の教育部門に勤務していて、講習を斡旋してくれているエアグルーヴからは「スズカの講習は人気が高いが、講習後のアンケート結果が『楽しかったし凄かったけど、よくわからなかった』という内容が多いのは不思議だな」なんてことを言われたことがあります。 私には人を教える才能がないのかもしれません。
他にも……ああ、そういえばこれもありましたね。 私はスマホをポケットから取り出してウーマーイーツのアプリを起動しました。 時折依頼を受けて配達をこなしていますが、評価はまちまちです。『とんでもなく早かったけど、少しこぼれてた』というコメントが目立ちます。他には『この早さと粗さは配達員TTに並ぶ』といったコメントも。TTってどんな人なのでしょうか? 私の場合、走ることに夢中になって料理を丁寧に運ぶことがなおざりになってしまうのです。 それに最近は配達員に対する報酬が減って魅力がなくなってきました。これはしばらくお休みしましょう。 私はスマホをポケットしまって再び求人雑誌に目を通します。
「何か他に、一人で走る仕事ってないかしら……」 思わずそんなことをつぶやいてしまいます。そんな仕事あるはずもないのに。喉でも潤して落ち着きましょうか。 私はテーブルに置いてるはずのコップに手を伸ばそうとして……それに届かないことに気づきました。 部屋の中をグルグルと歩き回っていたからです。この間買い替えたばかりのカーペットにはさっそく円状の足形がついています。 ……前回のカーペットは1年しか保ちませんでした。今度はもっと長く保たせたいのに。ふぅ、とため息をついてソファに戻り、コップに入った飲み物で喉を潤します。 チラリと顔を上げて、時計を見ました。少し早いですけど……行きますか。 「時間だし……今日はこれまでにしておこうかな……」 一人つぶやいてジャージに着替えて。リュックを背負って私は家を出ました。
向かった先は市街から少し離れたところにある公営レース場です。 引退して就職しても、私はすぐに走る場を探してしまいました。 トレセン学園を卒業してOGとなった私は学園のコースは使用できません。しかし日本にはいくつものウマ娘用のレース場があります。そこを利用するためには、どこかの草レースチームなどに所属するのが一般的です。 夫に相談したり、友人に尋ねたりしていくつかのチームを紹介してもらった結果、私は元プロのレースウマ娘でも所属可能なチームに入りました。 「こんにちはスズカちゃん、今日は早いねえ」 公営レース場にはチームのサブリーダーのコメーテスさんがいらっしゃいました。他にも何人か。どの方も私より年上です。 私くらいの若いウマ娘はみなさんお仕事をされているようで、夜の部に参加されています。 水曜の昼の部。ここにいるのは結婚もして子育ても一段落して、パートの休みに少し体を動かそうという人ばかりです。 ……少し自分が恥ずかしくなってきます。 「こんにちは。コメーテスさん。今日もよろしくお願いします」 私は少し居場所のなさを感じて、丁寧に挨拶をしてしまいます。 「いつも言ってるけどそんなに硬くならなくていいんだよ。もうこのチームに来て1年になるんだし。それにいくらでも併走に付き合ってくれるスズカちゃんはありがたい子なんだからさ。あたしらだと一本走るとすぐ疲れちゃうからねえ」 そう言ってみなさんが笑います。つられて私も微笑みました。 「さ、スズカちゃんはいくら走っても走り足りないんだから。早くアップしてきてアタシの併走に付き合ってもらおうかねえ」 その言葉を聞いて少し元気が出ます。 「はい、わかりました」 私はさっそく柔軟を始めました。
夕方になれば小学生、中学生といったチームメンバーも揃ってきます。私は彼女たちの併走、模擬レースにとことん付き合います。 「スズカさん早すぎる~。ちょっと手加減してよ~」 「ふふ。先頭の景色は譲れませんから」 無邪気で懸命な彼女たちと走っていると悩みを忘れられます。 大したことを教えることもできず、ただ一緒に走るだけですが……それだけでも彼女たちは満足してくれます。それが嬉しい反面、ちょっとだけ申し訳ない気持ちにもなります。 「あ。もうこんな時間。わたしそろそろ帰ります」 「お疲れさまでーす」 彼女たち以上に夢中になって走っていれば、あっという間に時間が過ぎてしまいます。 私もそろそろ帰らないと……。 「あ……」 もう19時を回っていました。今日は私が夕食当番なのに。 「わ、私もこれで上がります! 失礼します!」 私は慌てて荷物をまとめてリュックに詰め込み、走って帰りました。
マンションの玄関に着いたのは、夫よりわずかに先でした。 「お、おかえりなさい、あなた……」 まだ息が荒いまま、汗だくのままで夫を迎え入れます。 「……大丈夫?」 彼は少し驚きながら私に声を掛けます。 「ごめんなさい……ご飯もできてないし、お風呂も沸いてないの……」 それとも、私?……というのも無理です。こんな汗だくな状態でベッドに入るわけにはいきません。 「とりあえずシャワーでも浴びてきたら? 今日は俺が夕食を作るよ」 彼が苦笑しながらリビングに向かいます。通り過ぎる瞬間、若いウマ娘の匂いがしました。夫のチームに所属しているウマ娘の匂いでしょう。 慣れたものではありますが……こういう心が不安定なときなどは過敏に反応してしまいます。 思わず、彼の服の裾を掴んでしまいました。 「……? どうかした?」 「久しぶりに、一緒に入りませんか?」 彼は目をパチクリとしたあと。少し笑って「いいよ、一緒に入ろうか」と言ってくれました。 ……わがままな自分に自己嫌悪しつつも、夫の優しさに甘えてしまいます。
お風呂では二人ではしゃぐこともなく、テキパキとお互いの体を洗って出ました。 そういった遊びは同居し始めてすぐの頃散々やったので少し飽きてしまったところがあります。 でも余力があれば、またやってもいいかもしれません。 夫婦二人で石鹸の香りに包まれて。夕食を作る時間も外食に出る気もなかったのでウーマーイーツに出前を依頼しました。 配達人はTTさん。……まさかトレセン学園の後輩だとは思いませんでした。
ちょっと崩れたりこぼれたりした中華料理を食べながら、私は今日の話をしました。 「ごめんなさい。まだ仕事は見つかってないの」 謝る私を夫は全く気にしていないように笑います。 「別に家計が厳しいわけでもないし。納得がいくまでゆっくり探せばいいよ」 それならせめて家事くらいしっかりしたいのに。それもすっぽかした自分が情けないです。 「そういや、再来週にあるトレセン学園の入試でOGの併走役を募集してるんだけど。スズカ、やってみないか? お金もちょっと出るよ」 夫は今年トレーナーの入試担当官の一人だそうです。いつもよりも忙しくて困ると言いつつも楽しそうです。 「入試での併走役? 確か学生がやってたんじゃ……」 私の頃の入試、実技試験では受験生の併走相手は在学生がやっていたと思います。 当時の実技試験は短距離、中距離、長距離のうちどれか2種類の距離で併走を2本。その後希望する距離での模擬レースがありました。 併走でフォームのチェックや適性を見て、模擬レースで本番の力を見る、といった内容です。 「理事長が言い出してね。レジェンドレベルの併走相手を用意して、それにひるまないような心の強い入学生を求む、とかなんとか。まあわからないでもないけれど……緊張している受験生相手に緊張するような併走相手をあてがってもなあ……」 確かに夫の言うとおりだと思います。私も入試の時は緊張……していたかあまり覚えていません。併走相手より前に出ることばかり考えていたような。 「まあ、そういうわけで今年の入試は有名どころのOGをそろえてやるんだよ。入試担当官の妻ということでスズカにも依頼が来てる。どうかな?」 「やってみたいかも」 私は即座にそう答えました。受験生と走るのも、楽しいかもしれません。 「そう言うと思ったよ。実はもう候補に含んでたんだよね……協力してくれるOGを探すのも一苦労で」 夫は私の答えがわかっていたのか、そんなことを言って笑いました。
「はじめまして、サイレンススズカです。今日はよろしくお願いします」 「よ、よろひっ! よろひくお願いしますっ!」 入試当日。最初に私が併走を担当する受験生はガチガチに緊張していました。 私は周囲を見回します。今年の受験者は500人くらいと聞いていました。 実技試験は3日間に渡って行われるので、ここにいるのはその1/3、150人ほどです。 私は15回分の併走を担当するよう依頼されています。受験生のほとんどが本格化を迎えていないため流す程度で十分とはいえ、そこそこハードな仕事です。 私みたいに毎日のように走っているウマ娘でないと大変でしょう。 さすがに併走役をすべてOGで揃えるのは難しかったのか、半分くらいは中等部の在学生も集まっています。
「あ……」 遠くのコースでエアグルーヴが走っているのが見えて、思わず声が出ました。 私の声、視線につられて受験生の子もそちらを見ます。 「すごい……綺麗……」 彼女がうわ言のような言葉を漏らしました。私も同感です。引退してなおエアグルーヴの走りは綺麗で、それでいて力強さを感じました。 「そうね。きっとあなたもあんな風に走れるようになれるわ」 私は少女に声をかけて、前に進みました。次のその次が私達の番です。 「なれます、かね?」 彼女は不安そうな声を出します。 「大丈夫よ。きっと」 そんなやり取りをしていてふと、スペちゃんのことを思い出しました。引退後は地元の牧場に帰った彼女とは未だに結構な頻度で電話をしていますが、最近顔を合わせていません。 スペちゃんみたいに明るく励ませたら良いのに、と思いましたが……私は私のできることを、できるだけやりましょう。 「ところで私は逃げるのが好きなんだけど……あなたはどう?」 「わた、私もです! スズカさんは私の憧れなんです!」 こんなキラキラした目を向けられるのには、少し慣れています。そのせいか気恥ずかしさよりもやる気が湧いてくるのがわかりました。 「ありがとう。じゃあ、しっかりとついてきてね?」 前の組が走り始めます。彼女たちに追いつくのは難しいけれど、というか、ダメだけれど。 それでもその先を目指すように、隣にいる子がさらにその先に進むのを導けるように。私はギュッと地面を踏みしめました。
「お疲れ様、スズカ。これで何本走った?」 グラウンドのベンチで休憩している途中、エアグルーヴが話しかけてきました。 「えーっと、何本だったかしら……忘れたわ」 私の答えを聞いて、彼女は苦笑します。そして私の隣に腰を下ろします。 「相変わらずだな。それに……相変わらず逃げてる姿から目を離せない走りだ。見ている者の心を掴むものがある」 彼女の褒め言葉がくすぐったいです。 「エアグルーヴだって、すごく力強い走りをしてたわよ。まだ現役で通用するんじゃないかしら」 彼女がドリンクを飲みながら苦笑するのがわかりました。 「……最初はまた理事長が面倒なことを言い出したな、と思ったが……これは悪くないかもしれないな」 エアグルーヴがそんなことを言います。少し前に電話口で話したときは、「入学試験の併走役、URA教育部門で若手の元重賞勝利経験者は全員強制参加だ。仕事が増えて困る」なんて言っていたのに。 「こうやってお前の走りを見せるだけで、いい影響がある。理事長はこれが狙いだったのかもしれんな」 遠くのコースでは私達と同じくOGとして参加したフクキタルやメジロドーベルさんの姿も見えます。久しぶりに見る二人の姿も、走りも魅力的です。 近くではさっき私が担当した受験生が、若い学生と併走を始めるのが見えました。一本目はOG相手、二本目は在学生相手に組むようになってるみたいです。 彼女の走りは一本目よりも弾んでいて、魅力的に感じます。
「ねぇ、エアグルーヴ。こういう仕事ってもっとないのかしら?」 それを聞いて彼女が微笑むのが見えました。 「URA本部に、近郊でのレース教室の開設許可願いが1件来ている。たぶんコーチ役のウマ娘を探しているだろうし、そこに応募してみたらどうだ?」 レース教室のコーチ……私に勤まるのでしょうか。自分が走ることばかり考えてる私に。 「この間言ったことは訂正する。スズカの走りは近くで見て、一緒に走ってやるだけでも十分な価値がある。それに教育者として頑張ってみるのも悪くないぞ」 感覚派なところは少し抑えてほしいが、とエアグルーヴは私に釘を差しつつも励ましてくれます。 「そろそろ休憩も終わりだな。受験生に恥ずかしいところは見せられん。残りも気合いを入れて取り組むとしよう」 「ええ」 先達として手本となる走りを彼女達の隣でできるよう、私達は気を引き締めて立ち上がりました。
今日の分の試験が終わって。着替えた後、学園の正門前で夫を待ちます。 「おつかれ、スズカ。今日はどうだった?」 少し時間が経ってから、目をしょぼしょぼとさせた夫がやってきました。 「あなたのほうが疲れてるんじゃないの?」 私の質問に彼は苦笑します。 「いや、手分けしてやっているとはいえあんなに何人ものウマ娘の走りを双眼鏡で見たりするのは……しかもそれが彼女たちの人生を決めると考えるとね、なかなか疲れる」 私は受験生たちと走るだけでしたが、試験官である夫はずっと彼女たちの様子を見ていたのでしょう。 「有望な子はいた?」 「何人もいたよ。一番目立つ走りをしてたのはスズカだったけど。君が走るところを久しぶりに見た気がするけど……やっぱり俺にとっての一番だな」 さすがに照れます。 「そういうこと、チームの子に言っちゃダメよ?」 私達は手をつないで家に帰りました。
「理事長の目論見は成功だったってことかな。引退した有名ウマ娘の走りを見せたり併走させることで刺激を与える。無茶なことばかり言う人だけど……さすが中央のトレセン学園を率い続けてるだけはあるよ」 そんな夫の話を聞きながら夕食をいただきました。 「そういえば、仕事探しが上手くいくかもしれないの。エアグルーヴが新しくレース教室を開くところを教えてくれて。コーチの募集があれば応募してみようと思うのだけど……どうかしら?」 私の話を聞いて、彼は頬を緩めます。 「いいんじゃないかな。スズカの講習は人気があるって聞いてたし。きっと君の走りを追いかけるだけでためになるよ」 エアグルーヴと同じようなことを言ってくれます。本当にそうなのでしょうか……。 でも、元気が出るのは事実です。明日、明後日とまだ実技試験は続きます。もっと自信をもって受験生の隣で走ったほうが良いのかもしれません。 そのためにも……。 「今晩、どうかしら?」 「……明日も大変だよ?」 彼は若干引きつった笑みを浮かべます。 「明日が大変だからこそやるのよ」 こうなったら止まらないことを知っているのでしょう。彼は諦めたように小さくため息を付いて、「お風呂入ってくる」と言いました。 「私も一緒に入るわ」 「え!? そこから!?」 「ダメかしら? この間は特に楽しむこともなかったし……いいでしょ?」 絶句したような彼の手を引いて、脱衣所に向かいます。
体がポカポカとして、自分の体に精気がめぐる感じを味わいながら。私はシーツに包まって目を閉じます。 結局頭に浮かぶのは明日誰と、どんな走りができるのか……そればかりです。 こんな私でも慕ってくれる子がいるのなら。これから先も精一杯走ってみましょう。 少し疲れたように小さくイビキをかく夫の体に、わずかに頭を預けて。 明日への期待を胸に眠りにつきました。