おひさです。死ぬほど忙しいのですが、それをおしてでも書かなければいけないことがありまして。女性研究者に対し誹謗中傷を繰り返していた呉座勇一氏の一件です。

 呉座氏を名乗る謎の人物によるブログが開設されたことで、またぞろ被害者への二次加害が酷くなっています。特にひどいのは同じ歴史学者の與那覇潤氏によるものでしょう。詳しくは呉座氏と同期の歴史学者である嶋理人氏がまとめていますが(『與那覇潤氏の呉座勇一さんに関する記事への反駁(1)』参照)、単純な事実すら歪曲する有様であり、裏を返せばそれほどのことをしなければ擁護できないくらい呉座氏の振る舞いが酷いことが浮かび上がってきます。

 さて、私も若手の研究者の端くれとして、こうした潮流を放置することはできません。とはいえ、事実関係に関してはすでに嶋氏をはじめとする方々が論じ切っているところですので、私はもう少し別方向から攻めることとします。それは、呉座氏が「優秀な」歴史学者であることを口実にハラスメントを軽視する、あるいは擁護するような議論です。

 呉座氏が「優秀な」歴史学者であるというのは周知の事実になっているようです。著書もあり著名で、彼のハラスメントを批判する嶋氏も『優れた筆力にはたいへん敬服しており』というほどですから、実際「優秀」なのでしょう。

 とはいえ、すでに「優秀」という単語に執拗なまでに鍵括弧が付されているところから察した読者もいるかもしれませんが、私は呉座氏が「優秀な」歴史学者であると聞くたびに「本当かぁ?」と思ってしまうところがあります。私は心理学者なので歴史学の業績を評価する術を持ってはいませんが、研究者一般の評価として、どうしてもこの点に疑問を抱かざるを得ないのです。

 なぜなら、ハラスメントをするということは、それ自体が研究者としての能力が欠如していることの証左であると思われるからです。
 今回は、この点を論じる記事とします。
 まぁ、この考えには、呉座氏と同様に不安定な雇用形態に置かれている私の個人的な感情として、誹謗中傷やハラスメントしてるような奴が数少ない任期なしポストを占有するようなことはとんでもないという思いが影響していることは否定しませんけど。

 ちなみに、言うまでもないことですが、ハラスメントは本来研究者としての能力云々以前の問題として、他者の権利を侵害する加害行為であるために否定されるべきものです。ですが、呉座氏をけしかけ現在も二次加害に勤しんでいる人々に人権という概念は難しすぎるでしょう。なので、人権という側面以外から、そもそも研究者の素質としてあり得ないということを論じることとしました。

研究者個人はたかが知れている

 まず、ハラスメントと研究者の能力を論じるために、前提として、研究者が個人としてはたかが知れていて矮小な存在であることを確認しなければなりません。言い換えれば、研究者が1人でできることなんて所詮は限られているということです。

 なぜそう言えるのかには、様々な理由がありますが、1番の理由は我々の時間は限られており、実際にできる研究も限られていることが挙げられます。現に、私には様々な研究のアイデアがありますが、実際には1つの研究でへいこら言っています。若手ですらこうなのですから、大学の雑務に時間をとられるベテランは猶更でしょう。また、心理学研究はそうはいっても割と時間をかけずにできるものも多いのですが、資料をちまちま読み込んで進めなければいけない歴史研究のようなものは、時間的制約の問題がさらに大きくなりそうです。

 こういう問題がありますから、仮に常人の100倍頭のいい人間がいたとしても、その人が常人の100倍の研究ができるわけではないのです。そのため、研究者一個人の素質がいくら優れていたとしても、学問に対する貢献が圧倒的に高くなるわけではありません。

 もう1つの理由は、残念ながら(?)、我々が解き明かす多くの知見は、なんだかんだ言って多分我々以外の別の研究者がいずれ解き明かす知見にすぎないということです。アインシュタインが存在しなかったからといって、じゃあ相対性理論が未だに唱えられていないかと言えばおそらくそんなことはないでしょう。アインシュタインがいなければ相対性理論の登場は遅れると思いますが、言い換えれば、遅れる程度の影響しかありません。

 知見が技術に直結する、いわゆる理系的な研究はその数年の遅れが社会に大きな影響を与えることもあるでしょう。iPS細胞の実用化が10年遅れれば、その10年の間に治療が間にあわずなくなってしまう患者も相当数いるはずです。しかし、いわゆる文系的な学問は、そこまで影響がありません。藤原道長に関する新資料や資料の新解釈の発見が10年遅れたとして、じゃあ誰が困るかと言えば、おそらくほとんどの人は困りません。というか、藤原道長を知らなくて困る人のほうが少数派とすら言えるでしょうね。

 優秀な研究者は、そうでない研究者に比べて画期的な研究を行うでしょう。それが画期的なのは、ひとえに誰よりも早くそのことを明らかにするからです。言い換えれば、早ささえ気にしなければ凡人でも優秀な研究者と同じような仕事をして、同じような知見を明らかにすることはできるでしょう。誰よりも早いことはすごいことですが、その程度でしかないということもできます。

 研究者に対して酷いことを言うじゃないかと思う人もいるかもしれませんが、現実問題としてこれが事実だったりします。私個人にできることもたかが知れています。そもそも、グーグルで簡単に論文を検索できる現代では、自分の専門分野の論文をすべて読むことすら1人では不可能な有様ですから。多すぎる……。

他者とかかわる研究者

 しかし、研究者には頼もしい味方がいます。それは、ほかの研究者、そして過去の研究者です。アイザック・ニュートンは間違いなく優秀な物理学者ですが、おそらく現代に来れば大学院生にも劣るでしょう。なぜなら、現代の大学院生は彼が死んでから積みあがった知見を把握しており、ニュートンよりも高い巨人の肩の上から遠くを見渡せるからです。

 研究者は個人としてはたかが知れていますが、ほかの研究者の力を借りれば、かつての偉人にも匹敵する能力を得ることが出来るのです。

 そもそも、研究というのは無数の人間がかかわることを前提とした仕組みです。というのも、研究で得られた知見というのはただ得られただけで事実とみなされるのではなく、無数の検証を経て初めて確からしいと認められるようになるからです。1人の大天才が画期的な研究をしたところで、実はそれだけは何の役にも立ちません。凡人を含む多くの人間がその研究を検証することで、初めて認められるようになるのです。

 こういう事情がある以上、研究というのは1人の天才がどうこうというより、無数の有象無象による仕事を積み重ねた数の勝負という側面のほうが強くなりがちです。

 また、研究者の時間が限られているという点に関連して、どんな天才でもいつか死ぬという身もふたもない事実にも目を向けなければいけません。優秀なベテランでもいずれ死にますし、死んだらそれ以上科学への貢献はできません。ですから、後進を育てる必要がありますし、自分の研究を誰かに託す必要も出てくるでしょう。

 さらに言えば、これは特に心理学での傾向ですが、研究の発展に伴い統計などの補助的な分野で必要とされる知識が高度になりすぎ、心理学者では手に負えない場合もあるという事情もあります。研究をするために統計を勉強した結果、俺は何をやっているんだという我に返ることもよくあります。限られた時間で統計をやっている場合ではありません。なので、心理学者はもともと統計に詳しい学者と協力して研究にあたるといった工夫も必要になってきています。

 こういうわけで、研究者はだんだん1人ではどうにもならなくなりつつあり、否応なく他者とのかかわりを持たざるを得なくなってきています。かつて私の先輩研究者が「人付き合いが苦手だから研究者になったのに……」と嘆いていましたが、世間のイメージとは違い、研究者は今やどんな職業よりも「コミュ力重視」な職場になりつつあります。大変。

ハラスメントが妨げる学問の発展

 さて、ようやく元の話題に戻ってこれました。すでに研究者が対人関係を必要としていることを論じましたから大体予想はついていると思いますが、ハラスメントはこうした対人関係を阻害します。つまり、ハラスメントをする研究者というのは、対人関係における問題を抱えており、この面で研究者に要求される様々な貢献をできないために、研究者としての能力を欠いていると評価することが出来ます。

 呉座氏の例でいえば、彼はインタビューを介してほかの研究者を誹謗中傷しました。これは、攻撃によって標的となった研究者が意見を表明する機会を奪う行為だということが出来ます。言うまでもなく、学問の発展は無数の研究者による自由闊達な議論に頼るものであり、こうした議論を阻害することは、学問の発展を妨げることに繋がります。

 標的となった研究者は、心理的なダメージや再び誹謗中傷される恐れから自らの主張を公言することを憚るでしょう。また、直接標的となっていなかったとしても、ある研究者から標的にされれば同じ目に合うと思えば、別の研究者も口をつぐまざる得なくなります。こういうことが繰り返されれば、彼らによって行われたはずの議論が「キャンセル」されることとなり、彼らによってもたらされる発展の恩恵を、その学問分野が得られなくなります。

 また、ハラスメントの典型例には、直接指導している大学院生に攻撃を加え、最終的にアカデミアからドロップアウトさせてしまうものがあります。そうなれば、被害者が研究者として大成していればなしえたであろう学問への貢献を全て「キャンセル」してしまうことになります。被害者がなしえたであろう貢献には、彼らが別の後進を育て、その後進がさらに後進を育て……という次世代の育成の連鎖も含まれます。つまり、ハラスメントによって後進を潰してしまうことは、その分野が得られたであろう、指数関数的に増大する発展を全て奪ってしまうということです。

 こうしたハラスメントによる損失は、1人の研究者で取り返すことのできないものです。仮に1人へ誹謗中傷したとしても、その1人がアカデミアから去ってしまった場合、その1人の損失を取り戻せるほど優秀な研究者というのはまず存在しません。先に論じたように、1人で人の2倍貢献できる研究者ですら稀だからです。呉座氏も例外ではないでしょう。

 そして、言うまでもなく、誰かを誹謗中傷する人というのは、1人だけ誹謗中傷するということはないのです。呉座氏もそうでしたね。

 ましてや、その1人が育てるはずだった後進がいなくなるという損失を考えれば、その損失は指数関数的に増大し、1人では到底どうにもならない規模にまで膨れ上がります。加害者が別の後進を育てるから問題ない? ハラスメントするような人がまともに後進を育てられるわけないでしょう。

 ハラスメントによる損失と研究者個人の貢献を差し引けば、必ずマイナスになります。ですから、ハラスメント行為を擁護してまでアカデミアに残すべき研究者など1人もいないのです。

 ですから、呉座氏はもうすっぱりと「研究者としては劣っていた」と断言してしまうべきでしょう。彼が今後いくら本を書いて素晴らしい知見を残そうが、実際その研究自体は素晴らし肩っとしても、彼自身の行為によって生じた損失を埋め合わせることは出来なさそうです。

 あと、ここまでこじらせてしまった人がネットを断ってまともになるってのも無理だと思います。それができるような人はそもそもネットに煽られたりしないので。