時刻は午前1時20分、夜の栗東寮。
夏虫達がメロディーを奏でている。
しかしよく耳を澄ますと、一室から呻き声と何かがが軋む音が聞こえてくる。
ベッドの上で折り重なるウマ娘が2人。
向き合う様な形、いわゆるウマ乗り。
どちらも葦毛だが体格差で判別がつく。
下敷きにされている小柄のほうは“白い稲妻”タマモクロス。彼女は睡眠中に突如襲撃を受けた被害者だ。
「なんやねんっ……ぅぐぐっ……いつ入ってきたんやオグリ…ぃ」
マウントを取っているのは“怪物”オグリキャップ。
2人は同級生であり、共にターフを駆けてきた仲間でもあり、ライバルでもある。
またここ栗東寮ではルームメイトとして寝食を共にしている。
オグリは多少抜けている所はあれど冷静沈着な性格だ。
しかし今夜は明らかに様子が異なる。
「ん……お腹が空いた…みんなどこだ…?」
瞼はピタリと閉じている。
にも関わらず、口はうわ言を吐いているし、腕は怪力を行使してタマモクロスを抑えつけている。
寝言の前半の内容から察するに、食べ物関連の夢を見ているのかもしれない。
ウマ娘きっての食いしん坊で知られる彼女は、夢の中でも食欲旺盛らしい。
しかし食欲が睡眠中の主人の身体を支配するなど、そんな事が起こりうるだろうか。
タマモクロスは細腕に目一杯力を込めて押し戻そうとするものの、抵抗力もいよいよ底が見え始め、2人の距離が近づいていく。
「おい……!何しとんっ……ウチは食いモンやないって!顔っ…近いって……ば…」
顔が近づくにつれ鼓動が高まる。
理由は分からないし、考る余裕もない。
ただ分かるのは、レースに出走した時やトレーニング後の鼓動とは全く異質なものであるということだ。
次の瞬間、激痛に矮躯が跳ね上がる。
オグリが首筋ーーヒトで言う所の左耳のやや下あたりかーーに咬み付いた為だ。
「っっ!!……痛っ!痛い痛い痛い!咬むなぁ…っ!」
思わず手足をじたばたさせる。オグリにも何度か当たるが、起きる様子は無く力を緩める様子も無い。
むしろオグリはより強く体躯を密着させてきて、その弾みで“ギッ…ギッ…”とベッドが強く軋む。
側から見れば情事に見えたかも知れない。
最後の抵抗も虚しく、マウントは覆らなかった。
肌に薄く血が滲む程度の咬合力で行為を続けられる。
しかしながら、タマモクロスの心中では嫌悪とは異なる感情が芽生えつつあった。
(…なんでや…!こんなに嫌やのに。こんなにも、嫌やのに。続きを求めてしまっとるのはっ……)
脳内で被虐感が多幸感へ自動変換される。
感情と思考のプログラムが書き変えられていく。
そして違和感に気づいた。
オグリの様子も変化している。
その体躯は小刻みに震え、顔には涙が幾筋も流れている。まるで何かに怯えている様だ。震え泣きながら“捕食”を行う、自己矛盾の獣。それが今の彼女であった。
始まってどれほど経っただろうか。
マーキングは唐突に終わりを迎えた。
ぬちゃり、と粘着質な音を立て首筋から歯牙が抜き取られる。
血混じりの粘液が2人の間に糸を引く。
名残惜しげに、まだ繋がっていたいとでも言いたげに。
傷口からは薄らと血が滲み出ている。
完全にノン・レム睡眠に入ったオグリは電池が切れた様に力無く倒れ込んだ。
覆い被さるオグリをまじまじと観察すると、
その顔は苦痛に歪み、やはり涙の跡が残っていた。
それは彼女の凶行が、単なる寝惚けだとか、空腹感だとかに依るものではなかったことを示唆している。
倒れ込む間際、最後に彼女が発した寝言を反芻し、疑念は確信へと変わる。
「“私を独りにしないでくれ”……?」
タマモクロスは凶行の意図を理解した。
オグリを脅かしている正体は孤独感だ。
強者故の孤独だ。
何かに依存しなければ、縋り付かなければと本能が働いた結果、私をマーキングし独占しようとしたに違いない。
ならば私は応えよう。
オグリのことは“仲間として”好きだった。
しかし行為の最中で“恋愛対象”として好きになってしまった。
たとえ傷ついてでも、孤独な彼女に寄り添って、生きてやる。生きてやるとも。
オグリの身体を押しのけて脱出を果たす。身体がまだ火照っている。鼓動は少し落ち着いたが、汗で寝間着が肌にべっとり張り付いてしまっている。
首に手をやると、歯型の凹凸が感じられる。傷口がジリジリとした痛みを発している。
起き上がり、鏡を見るべく洗面所へと向かう。
顔面が紅潮している。
首筋にははっきりと歯型のスタンプが押されており、暫くは消える様子がないと分かる。
オグリに付けられた“被所有”の証。
被虐感にぞわりと身震いする。
自分はどうなってしまったのだろう。
先程タマモクロスはオグリへの愛情を理解した。
しかし理解度は中途半端なものであった。
歪まされてしまった感受性。
即ちそれは強者に服従することへの羨望と、被虐の悦び。
冷水で顔を濯ぎ、気持ちにリセットをかけて、洗面所を出る。
戻ると、オグリは胎児の様に身体を縮こませて眠っていた。表情は少し和らいでいる。
自分のベッドから退かそうと思えば退かすことはできるが、寝顔を見ただけで鼓動が早さを取り戻してしまう。
八方塞がりのため仕方なくオグリのベッドを拝借し床に着いた。入眠した頃には午前2時30分を回っていた。
結局熟睡はできず、眠るオグリをそのままに朝5時に寮を出た。
同日、トレセン学園内カフェテリア。
時刻は午後12時30分。
オグリは食事の手を止め、“眠いな…”とおもむろに呟いた。
「それはこっちのセリフやっちゅうねん。いきなりベッドに入って来られたお陰で寝不足や!!」
タマモクロスのツッコミが入る。
寝不足が祟り、目の下には深いクマが出来ている。
“すまない…”と返すオグリは、
本当に反省している様子だったため、
“まぁ今回は多めに見たるけど”とフォローを入れる。
食事を再開するオグリ。
口を大きく開け、ラージサイズのハンバーガーに食らいつく。
その際チラリと牙が覗く。
ーーーあぁ、その牙でまた私に咬みついてくれたなら。 癒えない傷でマーキングしてくれたならーーー
傷が疼き出して、思考に不純物質が混ざる。
ごくりと生唾を呑む。
「ところでタマ、その首は?」
オグリの声でふと我に帰る。
タマモクロスの首にはガーゼが貼られている。歯型を隠蔽するための工夫だ。
平時の彼女であれば“アンタのせいや!”とツッコんでいただろうが、オグリを気遣ってやめた。
「…虫さされを放っといたら広がってしもたんや。……練習あるから、ほなな」
思い付いた適当な理由で素っ気なく返す。
ぬるくなってしまった水を一息に飲み干し、
足速にカフェテリアを去った。
トレーニングでは調子が奮わず、
夜は傷がジンジンと疼いて眠れなかった。
向かいで眠っている相手に昨日の行為を期待してしまう。
オグリへの想いは徐々に昂まっていき、
感情を抑えることにも限界を覚え始める。
盛夏がすぐそこまで迫って来ていた。
1週間後。
トレセン学園恒例の夏合宿で2人は同班になった。
「なぁ、ウチと屋台行こや」
平時よりハードな練習を終えた後、夜の自由時間にタマモクロスはオグリにこう提案した。
地域で恒例の夏祭り。そこそこ規模が大きいので、合宿前から話題になっていた。
“夏祭り”あるいは“縁日”という表現でも良かったが、あえて彼女は“屋台”と表現した。
食べ物に目がないオグリの興味を少しでも惹くには、と考えた結果だ。
そうまでして誘った理由は、告白をして己の気持ちに踏ん切りをつけるためだ。
オグリを騙すようで罪悪感を憶えるが、己の決意に比べれば些細なものだったし、何より悶々とする日々から直ちに解き放たれたかったのである。
彼女はこの提案を快諾し、2人の本当の夏が幕を開けた。
たこ焼き、焼きそば、烏賊焼き、ベビーカステラ、かき氷、りんご飴。
お祭りだけで味わえるフルコースを堪能したーーたこ焼きは不評だったがーー後は射的やヨーヨー釣りなどに興じた。
いつまでもこの時間を共有していたい。
双方がそう感じていたに違いない。
しかし楽しい時間は一瞬にして過ぎるものだ。
次第に会場から姿を消すカップルや、撤収を始める屋台が目立ち始める。
引いていく潮の様に。或いは夢の世界から現実へと帰還する様に、祭りの喧騒が遠のいていく。
“私たちも帰ろうか”と帰り道を手で指し示すオグリだったが、タマモクロスはその手を握って駆け出した。
困惑する彼女を気にも留めずに、人並みをかき分けて高台を目指す。
もう止まれない。
止まってはいけない。
タマモクロスの大一番の賭け。
暫く走り、見晴らしの良い丘に着いた。
先程までいた会場がミニチュア模型の様に見える。
夏風は爽やかに吹き、森は生き物の如く蠢いている。
月明かりだけが2人を照らしている。
お互い見つめ合い、意を決して静寂を切り開いた。
「オグリ。急やけど、ごめん。
ウチ、オグリのことが好きや。
今までずっと好きやった。
一緒にいるときはずっと幸せやった。
話すのも、遊ぶのも、競走するのも。
これからもずっと一緒にいたい。
一生孤独にはさせへん。
やから……愛しとる。」
直後、夏の夜空に大輪が咲いた。
轟音と共に7色の火花が散る。
恋愛対象としての好意。想いの丈を相手にぶつけた。じっと反応を伺う。
告白と轟音の2重の衝撃に動揺し、上手く喋り出せないでいるオグリ。だがその瞳は決意に満ち、真っ直ぐにタマモクロスを見つめていた。
束の間の沈黙を挟み、こう返す。
「あぁ…私もタマのことが好きだ。
私とずっと一緒にいてくれ。
私を独りにしないでくれ。
私と一緒に駆けてくれ。
…愛している。」
心の奥から湧き出る感情が、心の器の淵を越え、そして涙となって溢れ出る。
気づけば2人は抱き合っていた。
本能のままに、強い力で、互いの意思を確かめ合うように。
今は花火だけが2人を鮮やかに照らしていた。
同日、午後11時、合宿所204号室。
背中合わせで窓際に座る。
風呂上がりの牛乳を楽しむタマモクロス。
備え付けの古いブラウン管テレビには恰幅の良い女性とスーツ姿の男性が映され、他愛もないトークをしている。
タマモクロスは時折“ケタケタ”と笑っては、牛乳瓶をあおる。
一方オグリは、窓の外に眼差しを向け、遠くの灯台の灯りをぼんやりと見つめている。
無意識だろうが、尻尾はタマモクロスの腕に巻き付いている。
「タマ、体はそのままで良いから聞いてくれ。」
プツりとトーク番組が途切れる。
「私は走って勝つことが好きだ。当然に思うかもしれないけれど、それが私が生きる最大の理由だったんだ。」
一呼吸置いて続ける。
「自慢では無いがレースでは殆ど勝ち続きだった。でも勝ち続ける内に気づいてしまったんだ。私のせいで不幸になるウマ娘が居るってことに。」
「私を忌み嫌って距離を置く者も居たし、ターフから永遠に去る者も居た。最近まで一緒に走っていた仲間が、突然私の…私の前から居なくなるんだ。これほど…辛いことなんてないだろう…?」
声が震えて、嗚咽が混ざる。“そのまま聞け”と言ったのは情けない姿を見られたくなかったからか。
「でも、タマは違った。日常でもターフでも常に私の横にいてくれた。知り合いの中で、タマは特別輝いてみえたんだ。そして私と生きる事を誓ってくれた。生きる理由がもう1つ出来たんだよ。だから…ありがとう。」
じっと話を聞いていたタマモクロスは“うんうん”と照れ臭そうに頷いて、こう切り出した。
「オグリ、こっち向いてくれるか。」
オグリはタマモクロスの方へ向き直ると、その綺麗さに思わず息を呑んだ。
手入れされた髪は腰の辺りまで伸び、さらさら揺れる度に銀色の光を反射させている。
Tシャツの隙間からは白磁の肌が覗いていて、華奢な身体は触れれば壊れてしまいそうだ。
それらは窓から差し込む月明かりに照らされて、儚気な雰囲気を纏っていた。
タマモクロスはシャツの襟を伸ばして、首筋の痕を見せつけた。彼女を狂わせた、あの夜の傷だ。
それが歯型であると理解した瞬間、オグリは怒りの余り前のめりになる。
「……っ!…タマ、それは虫刺されなんかじゃ無いぞ……誰にやられたんだ!」
彼女は“ふふん”と何故か得意気に鼻を鳴らす。ゆっくりと身を寄せ、顔の間近まで傷痕を近づける。白くか細い指で“被所有”の証を愛おし気に撫でて、耳元で囁く。
「本当はもう分かっとるんやろ、オグリ」
全身が粟立つ。罪悪感と焦燥と絶望が混ざったどす黒い感情が思考を染め上げる。
なぜなら思い当たる節があったからだ。数日前、なぜ私はタマモクロスのベッドで目覚めたのか。なぜ起きた時に血の味がしていたのか。
耳は萎びた葉の如く垂れ、顔面は相手と目を合わすまいと俯く。
“すまない、すまない”と念仏のように唱える事しか出来ない。
再び涙が込み上げて来て、頬をつたい、ぽたりぽたりと落ちてジャージに染みを作る。
「顔上げてや、オグリ。」
頬が小さな手に包まれて、ぐいと顔を上げさせられる。
唇が重なった。慈愛と熱の籠ったキスをされる。舌で牙をなぞり、互いに絡ませて、唾液を交換する。舌を抜き取ると、僅かに水音が漏れた。
「この傷を貰って、やっとウチはオグリへの気持ちに気づけたんや。……少し、狂ってもうたけど。」
続けて言う。
「オグリにウマ乗りされて、咬みつかれた時な、最初はむっちゃ嫌やった。せやけど段々、もっと愛して欲しい、もっとめちゃくちゃにして欲しい…って感じるようになったんや。」
タマモクロスの歪んだ愛情と感受性は、もう2度と元に戻ることはない。
ならば。
「毎晩毎晩、傷が疼くんや。ウチ、もう元には戻れへん。…せやから責任、取ってや。」
ーーー純粋な彼女をも、歪めてしまおう。
「ウチをオグリだけの“モノ”にして」
欲情を煽る声色でとどめを刺す。
タマモクロスは布団に仰向けに寝転がると
わざとシャツをはだけさせ、傷痕を主張する。目はオグリをじっと見つめている。
誘う様に、挑発する様に、あるいは捕食されるのを待ち焦がれる様に。
「タマっ……!」
理性が消失し、野性が顕現する。
タマモクロスに覆い被さる。
力をかければ壊れてしまいそうな矮躯を、圧倒的な力で蹂躙する。
愛情を表現するために。彼女に真心を伝えるために。
彼女もそれを望んでいるのだから。
マーキングの痕を確かめるように首筋を舐め上げると、ぬらつく光の筋ができて行く。
獲物の嬌声に背徳感を憶え、野性が更に奮い立つ。
シャツの隙間から手を入れ、穢れを知らない柔肌を撫で上げる。
獲物を品定めする様な冒涜的な手つきで。
また、割物を扱う時の様な優しい手つきで。
舌を引っ込めて、次は唇を滑らせる。
狙いを定めたところに軽くキスをして、
ゆっくり優しく、牙を当てがった。
片手間で照明の紐を引っ張り、光源は僅かに注ぐ月光のみとなる。
2人の姿は夜の闇へと溶け込んでいった。
了