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国歌「君が代」の和声は「少なくともとある特定部分が音階から外れてる」そうですが、どの箇所のどのような和声が「音階から外れてる」のか、ご説明いただけると幸いです。よろしくお願いいたします。

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回答(1件)

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最初に言っとくと、非常に面倒です。 「音階から外れる」という言葉がそこで何を意味しているか、っていう文脈を無視されてるんですよね。 私がわざわざそこから説明しなきゃいけないならこの議論はナシです。音楽理論ならいざ知らず、国語能力向上のために労力を割く気はありません。 何を言っても「それは音階から外れたことにはならんだろ」みたいなツッコミがたぶんくるんだけど、おとうさんがご自身の知識として持ってる「音階から外れた」と、誤った固定観念を持ってる人が言う「音階から外れた」にはものすごく大きな隔たりがあるんですよ。 その「音階から外れた」をどう私が扱ってるかってのはちゃんと読めば分かると思うんですが、そうじゃなきゃアホな議論にしかならんのですよね。 そこをどうおとう氏が理解されてるのかを確かめられない限り、とてもじゃないですが面倒でやってらんないですね。 *** 全然確かめられてないけど、いいや。 >君が代の和声は「少なくともとある特定部分が音階から外れてる」という点は、(ドッペルドミナントが使われている部分はわざわざ「音階から外れてる」とは言わないので他の部分だと思いますが、ちょっと思い当たらないので)気付けずに恥ずかしいです。 気付けずに、というかその括弧部分ですね。すっとぼけてるつもりなら勘弁してください。 「まさかドッペルドミナントのことをわざわざ音階から外れてると言ってるなら恥ずかしいことだよ」みたいな意味でそういう文章を書く人とは議論できるかどうかは別として面倒臭くて付き合いきれんのですね。 他意がないにせよそう取れる書き方かくらいはわかると思うんですよ。じゃなきゃヤバいですね。意図しててもヤバくて、もしそうなら永久に飲んだくれて寝てご自愛下さい、と思います。 あくまで誤った固定観念を持ってる人の考え方の枠組み(知見)を基点に説明します。くれぐれも頭を柔らかくしてもらいたい。 たとえばひとつの例として、君が代についての表面的な情報を調べて、「ハ調で和声付けされている」というところに行き着いたとします。すると和声において臨時記号が使われている箇所があることに「アレ?」と思うことになるでしょう。それって音階から外れてるってことなんではないの?と。 万が一、エッケルト以外の有名な編曲の楽譜あるいは音源に行き着いたとしても、ほとんどの場合、特定の箇所で同じような反応がなされることになるでしょう。 ハ調で和声づけされてる、って話にしても、音階の話にしても、その調べて行き着く先ってのをちゃんと取捨選択できるか、ってところにリテラシーの問題はあります。 しかし、いろんな側面から見て、どのように行き着いても「音階から外れる」という話が通じる可能性を確保するために我が国の国歌「君が代」を例として選んだつもりです。 かといって、あの文面を読んだ人が結局どこに行き着くかにまで責任は持ちません。わたしが取り上げた論点はそこではなく、「音階から外れる」というような現象に対して固定観念を持ってしまうことで、正しい音楽理論的理解が得られないことだからです。 もしエッケルトの編曲の和声のことだけを取り上げるとするなら、「ドッペルドミナントが使われている部分はわざわざ『音階から外れてる』とは言わない」という指摘をするのは結構なんですけど、そういうのをひっくるめて「音階(最初に挙げた例でいうなら調号通りの音階)から外れる音」として表現してしまう、ってのが今問題にしている知見から言えることなんですね。 (ところでその箇所がドッペルドミナントとして扱われるべきかどうかについては、私はおとう氏の今の解釈で結構ですがツッコミ待ちならマジで勘弁してくださいね) 「音階から外れてる音は使ってはいけないんですか?」って言ってるような人の言うことが何を意味しているか、って文脈の上での話なので、この「音階から外れてる」って言ってることにアカデミックな定義を当てはめて話をすると話がこじれてきます。 論文やテキストなら別にいいですが、この場ではむしろ適切じゃないと思ってください。 「音階から外れる」という文言について、真にアカデミックな定義がもし仮にあったとして、それを持ち込むならまだしも、おとう氏の「音階から外れてる」の認識をわざわざそこに当てはめようとするとアホな議論になるのですね。 同じように、私の知見でいうところの「音階から外れる」を持ち込むのも、話の流れを狂わすことになるわけですよ。 あと、私が「思いっきり音階から外れている」の「思いっきり」って部分に込めているニュアンスをどう取るか、ってのは読んだ人次第ってことで別にいいです。どう取るかはその人の責任ってことでいいですよ。文脈からすれば瑣末な問題ってのはわかってもらったと信じてます。 ともかく、思いっきり音階から外れている場所があるのになんで「ハ調」と説明されているんだ!?と立ち止まってしまうような瞬間が来たとき、そこにどう向き合うかってので、音楽理論を学ばなくていい、っていう選択をするのは勿体ないことだと思います。 ちゃんと音楽理論を学んでいくことによって、 「確かに音階からは外れてるように見えるけど、調性から外れてるとはいえない(そもそもそれがどのような意味でどの程度調性的な和声づけかどうかも説明できればより良いですが)」というように、そういう人が納得がいけば問題ないんです。 そこでようやくその人にとって得体の知れない大きな問題に見えていたことがだんだんと小さな問題として片付くようになっていくわけですね。 めちゃめちゃもっのすごく音階から外れてるように見えてたけど、そういう話なら俺も使えそうだね、と。 それはそうと、そういう場面でそうした納得ができないまま「音楽理論はあてにならない」となっちゃうのは問題ですよね。音楽理論の問題でなくて、その人がどこまで突き詰めて学ぶかっていう問題であるはずなのに。 そこで、私に対する当てつけみたいな言い方でなくて、そこでおとう氏なりに正しく説明を補足してやればよかったんではないですかね。 私に向かって言うことならあのように断片的な文言でいいと思うんですが、質問者さんに向かって補足するなら、おとう氏なりの「音階から外れる」の定義から最後まで一通り説明した方がいいとは思いますが、どこまでのことを書くかは書く側の裁量でいいと思います。 私の場合は、君が代の和声についての音楽理論的側面の詳細が今の状況の質問者さんに役に立つとは限らないと判断したから端折ったっていう経緯があります。もちろん追加の質問があれば面倒じゃなきゃ付き合いますけど。 当該質問への回答ではそういう種の固定観念、あるいは表面的な部分のみに止まってしまった知見:「音階から外れている」ことしかわからない状態では扱えない楽曲の例として「君が代」を例に挙げてみたに過ぎません。 単に「音階から外れる」ではなくて、「外れるならどう外れるのか、戻るならどう戻るのか」というより詳しい洞察によって「扱えない」という状況は解決されるべきです。 その洞察が、ある言説においては原則と説明されてあることなら洞察というより知識になります。 もうちょっと深く音楽理論を学べばそういう種類の納得がいかない音遣いにもいつか答えが出て、自分が曲を作るときの考え方として扱えるようになるんでないの?っていうことを示すための例ですね。 と、ここまでのことを理解してもらった上でなら回答します。

回答有り難うございます。 今朝通勤中にレスを拝見して返信を作りかけ、昼休みに出来て返信しようとしたら回答が追記されていたので、作った返信を破棄しました。そして帰りの電車の中で追記に対してお礼を述べて解決しようと思っていたところ、更に追記されていたので、返信は保留します。 「と、ここまでのことを理解してもらった上でなら回答します」とのことですが、私の読解力ではイマイチよく分かりません。 ですが、追記で記されたドッペルドミナントの件が回答(該当箇所)であるなら、所期の目的は一応達せられたので、これ以上の説明は不要です。 一方、ドッペルの件が回答でないのなら、説明はとりあえず結構ですから、結論だけ教えてください。その結果、理解できたら解決です。よく分からなければ、「ここまでのこと」を理解できたらまた知らせますので、説明を披露しください。