回答受付終了まであと6日

作曲をするにあたって音楽理論というモノは必須なんですかね ジェネラル化というか 個性的な何かを失う気がするんです 皆さんはどう思いますか

作詞、作曲・292閲覧

2人が共感しています

回答(7件)

1

知恵袋をかれこれ3年くらいやってるのですが、音楽理論を固定観念で捉える人が多いってのがあるんですよ。 (私は訳あってそういうのを統計的に調べてます) で、そういう人の「音楽理論は学ばない方がいいのでは?」って言説にはあんまり価値がないです。 まずはそこからお話ししましょう。 よく「音階から外れる音は使ってはいけないのですか?」って質問があるんですよ。月に2回くらいです。 そういう固定観念を持っちゃってる人が変に音楽理論を学ぶと、音階から外れた音ってたぶん使わないでしょ。 でも、音楽理論というものを深く突き詰めると「音階から外れるならどう外れて戻るならどう戻るか」っていう無数のパターンが説明されてあることを知れるはずなんです。 我が国の国歌の「君が代」は思いっきり音階から外れてる箇所があります。 もちろん君が代みたいな曲を作りたいって人はいないと思うのですが、そういう種の固定観念があるまま曲を作っちゃった人の楽曲が君が代の再生回数を超えることは多分なさそうです。 ようするに音楽理論が悪いんじゃなくて固定観念が悪いんですよ。視野の狭さです。わかりますかね。 他にも、「セカンダリードミナントの後に借用元のトニックがこないのは変ではないですか?(III7のあとにIV△7とかそういうの)」とか、「なぜドミナントの後にサブドミナントが来てはいけないのですか?」とか、「アボイドはなんで使っちゃいけないんですか?」とかも絶対月に1回はある。 パッと出るのはこれくらい。 セカンダリードミナントの後に借用元トニック以外をおくのも、ドミナントのあとにサブドミナントを置くのも、アボイドを(特定の形で)使うのも、それ特有の表現のための手段として実際にあるんですよ。その表現が仮に奇妙奇天烈でもね。 その特有の表現をする手段として説明するのがそれであるならば、それは音楽理論以外の何かではないのは分かりますかね。 表現の奇妙奇天烈さをどう楽曲の価値として判断するかは置いといても、その奇妙奇天烈さを説明するために音楽理論はあるわけですよ。 なにがどうズレてりゃ奇妙奇天烈な音楽を作れるのかって再現性に繋がるわけでしょ。 奇妙奇天烈じゃなくても、味があるとか、マヌケとか、無機質だとか、そういう何か特有の印象があってこその区別があるわけなんですよ。 そういうのをうまく使うにはどうしたらいいか、良いパターンはないか、って成功の条件を論じるのが真の意味での音楽理論なのに、固定観念のある人は「あぁ、使ったらダメなやつなんだな」っていう考えから一歩も先に進めなくなるんです。それでは何も論じてないのと同じです。だからそういうのは音楽理論を学んだとは言いません。 それが分かってない人のいう「音楽理論学ばなくて良い」ってのは価値がないです。本当に。 *** 補足:おとう氏の回答より >国歌「君が代」のメロディのことなら、壱越調律旋(D律旋法)の原則(基本レミソラシの5音音階だけど、レに順次上行する時はシをドに上げること)通りに作られているので、「思いっきり音階から外れてる箇所」は無いはずです。 どの箇所をどのような理由から「思いっきり音階から外れてる」と指摘したのか、説明してもらった方が良いと思います。 →ご指摘どうもありがとうございます。 君が代を再生回数がどうのこうの、という話に君が代がメロディ単体で再生されることはほとんどないのと同じように、作曲をするというときにメロディ単体で発表する、ってことはなかろう(和声またはコード進行をつけるだろう)と考えるのが我々の共通認識と思います。 この回答を読んで君が代を音楽の形として鑑賞してみよう、と思った人が何を調べてどこに辿り着くのかを想像してみて下さい。 そんでもって、それらを聴いたとき、どこがどう音階から外れているのかはちゃんと確かめれば分かるはずです。言っちゃうと和声が音階から外れてるってことなんですが、有名な君が代のほとんど全ての編曲は、少なくともとある特定部分が音階から外れてるんですよ。 一応言っとくと、「調性から外れてる」と「音階から外れてる」ってのはまた違いますからね。 そういうのは確かめないと固定観念の元になりますよ。 ちょうど、そういう種類の固定観念が良くない、とは言ってます。これは書く側の責任もありますが、結局読む側の責任なわけですよ。読んだ者が誤解を生むような解釈を広めるようなケースも含めてね。 特にこういう場では、確かめることすらしない人、リテラシーがない人のためにまで懇切丁寧に文章を書く責任はないんです。 そんでもって、本回答では君が代のような思いっきり音階から外れる音楽について、「音階から外れるならどう外れて戻るならどう戻るか」と論じられる(考え方として扱える)術を身につけるべきだ、というようなことを言ってます。 で、ここで説明してるような固定観念に囚われてる人なら、 「基本レミソラシの5音音階だけど、レに順次上行する時はシをドに上げること」 の後半部分がちゃんと読んでてもすっぽり抜け落ちるのですよ。そういうことがあるから音楽理論を学んでも失敗するわけです。 それに、その文言も完全な説明という訳じゃないです。もちろんおとう氏にもその全てを書く義務があるわけでもないし、責任もありません。 何度も言うように、結局は解釈した結果を形にしようとする側の責任です。 「思いっきり」っていう言葉尻をわざわざ拾われたので言っときます。 「原則」とか「基本」と言ってるものから外れることが「あからさまに(わかりやすく)」起きるなら、こういう日常会話的な表現上のニュアンスとして「思いっきり」と表現してどこまでの問題がありますでしょうか。 もしこれがテキストや論文だったら問題アリでしょうが、それこそこういう場で言ってる言葉尻に観念を固定されすぎるのも読んでる人の問題ですよね。逆説的ですが。 メロディに限った話をしている"わけではない"のに、わざわざメロディに限った話として受け取るのは結構ヤバいと思います。 日常生活でそういう会話してたら人間関係に支障を来たすでしょ。それが固定観念の怖さです。 *** >メロディが或る条件(主音への順次上行)に当てはまれば音階の最後が「基本」から変わる(シ→レでなくド→レになる)ことが律旋法の「原則」なので「君が代のメロディなら原則から外れていない」が私の認識です。 「固定観念に囚われた人にありがちな認識の仕方の例」と「『君が代のメロディなら原則から外れていない』が私の認識です。」を同じレベルで論じると、それこそ意味がないですよね。 まともな認識ができてる人の話はここでは全く関係ないんですよ。わかりますよね。 「そのドが音階から外れてるから音楽理論は役に立たない!」といった種類の固定観念に(深く学べばそういう原則と例外があることが知れるのにも関わらず)囚われてる人がいることを私は本回答で問題にしてます。 そういう指摘をされちゃうってのがおとう氏の全てだと思いますよ。直した方がいいです。

1人がナイス!しています

確かにそうですね コモンな曲から奇妙奇天烈な曲まであらゆる分野の曲には音楽理論を突き詰めるコトで理解出来るんですね。 まあ自分は音楽理論に頼ってばっかで表現性に欠けちゃうのはネックであると思いますが... 先ずは"音を扱う" コトに意味を見出せるようにしてみます。音の良い悪いなんてそのヒトの価値観によって異なりますし

1

必須ではないです。そして失わないと思います。 失うとか言ったり思ったりしてる人はなんていうか、ぶっちゃけセンスがない人だと思います。 珍妙な曲を作る→なにかおかしいけど何がおかしいかわからない気がする→理論なんとなくかじる→個性(ただの珍妙さ)がなくなる みたいな感じじゃないすかね。 だいたい理論って説明であることがほとんどだし、まともなセンスの人が作った曲からの抽出物であり結果じゃないすかね。 ある程度のセンスがある人は、 まぁまぁな曲自然につくる→理論もかじってみる→もともとそんなに理論から外れてたわけではないので、まぁ…そこまで画期的に変わりはしないけどちょっとよくなったりする てことだと思います。 まぁ要するに理論ってとんでもなくセンスがない人が多少まともなもの作るためのものだと思ってます。

1人がナイス!しています

なるほどです 自分はこれまで"音を扱って曲を作る"という行為を自分なりの解釈で進めてきまして 何というか一般ウケしないような曲になっちゃったんですね でも自分が作曲する原動力は"自分が最もしっくりくる曲を聴いてみたい"という思いからくるものであって。自分はそれに満足してた訳ですよ でも後々一般ウケしない曲って良くないのかな...って考え出して... そんで音楽理論にちょっと触ってみたら なんというか自分を見失いそうで...学んだら感覚麻痺的な作用が起きて今までの曲が作れるか不安だったんですね。 でも音楽理論を学ぶ事によって自分にとってより良いモノが作れると言う事が分かりました まあ参考程度に取り入れてみようと思います 回答どうもです。