出渕裕。
1958年生まれ。アニメ・特撮研究家の氷川竜介氏等と共に、70年代から日本サンライズ(現・サンライズ)に、ファンとして出入りしていくうちに、長浜忠夫監督作品『闘将ダイモス』(1978年)の敵メカデザインでプロデビュー。
その後は『戦闘メカザブングル』(1982年)『聖戦士ダンバイン』(1983年)『機動戦士ガンダムZZ』(1986年)などの富野由悠季監督作品でサブメカデザイナーを務め、特撮の分野でも『科学戦隊ダイナマン』(1983年)から、戦隊シリーズで四年連続して敵役のデザインを務め高評価を得て、名実ともに80年代のアニメ・特撮のメカシーンを牽引した、筆頭格デザイナーとなった。
その後も、『機動戦士ガンダム 逆襲のシャア』(1988年)や『機動警察パトレイバー』シリーズ(1988年~)では劇場用映画のメインメカデザイナーにも就任し、水野良氏著の『ロードス島戦記』をはじめとして、ファンタジー小説の挿絵なども多く手掛けるようになる。
90年代以降も、メカデザイナー、イラスト担当の代表作は枚挙にいとまがなく、近年では『ラーゼフォン』(2002年)『宇宙戦艦ヤマト2199』(2012年)などのアニメ作品の監督としても手腕を発揮。80年代以降の日本のアニメ・特撮文化を語る上では欠かせない存在として、今もなお精力的に前進・発信を続けるクリエイターである。
今回は、そんな出渕氏をお迎えして、常にトップを走り続けてきた40年を振り返っていただくインタビューをさせて頂いた。
貴重な時代の証言として、ぜひともお読みいただきたい。
――『機動戦士ガンダムⅢ めぐりあい宇宙』(1982年)のころは、もう出渕さんはプロデビューされていたのですよね。
出渕 『最強ロボ ダイオージャ』(1981年)ぐらいまではセミプロの感覚でした。あのころ、富野さんが『伝説巨神イデオン』(1980年)(の劇場版)をやりながら『戦闘メカザブングル』をやっていたと思うんですけど、ただ『機動戦士ガンダム』(1979年)っていう作品そのものは、テレビでやる前から知っていたんですよ。『SFセントラルアート』(森田繁氏などによるSF同人誌)の人などから聞いていて。僕は安彦(良和)さんの絵が好きだったんです。『勇者ライディーン』(1975年)『超電磁ロボ コン・バトラーV』(1976年)のころから(安彦さんは)やってらっしゃいましたよね。あと『わんぱく大昔クムクム』(1975年)や『ろぼっ子ビートン』(1976年)なんかの、幅がある作品群をやっておられた。
――富野監督は安彦さんの絵に関しては「手塚治虫の延長線上にある」と言及されていましたね。
出渕 そうですね。柔らかい感じがありましたからね。エッジがきいているんじゃなくて、描かれる線が美しいという、本当にデザインセンスのある方だったんです。キャラクターもそうだったんですけど、衣装も、軍服みたいなものから、メカも描けるんですよねあの方。
――『ライディーン』『コン・バトラーV』などでは、ポピーから上がってくるメカデザインを、アニメ作画用に描き起こすクリンーンナップも担当されておられましたね。
出渕 そうなんですよ。村上(克司 当時のポピーの管理職にしてデザイナー。後のバンダイの専務取締役 存在感と功績から“村上天皇”の異名をもった)さんのやつ(元デザイン)をあんな格好よくさせて(笑) で、村上さんが「安彦はすごい! あいつにやらせろ!」と。それは当時、『宇宙戦艦ヤマト』(放映は1974年。劇場版は1977年)の西崎(義展 『ヤマト』シリーズのプロデューサー)さんも同じような感覚だったと思うんですけど、あの時は絵コンテだったんですが、『さらば宇宙戦艦ヤマト 愛の戦士たち』(1978年)の時に、ラスト近く、安彦さんに原画描かせて、それに湖川(友謙)さんが、総作監なのに手を加えちゃいかんって命令を(西崎氏に)言われて激怒して。それでも湖川さんは総作監なんで、鼻だけ修正いれたという(笑) でもその湖川さんがこのあいだの『宇宙戦艦ヤマト2202 愛の戦士たち』(2018年)で、「俺にズォーダー(劇中のキャラ)を描かせてくれるんだったら、作画監督(の修正)を入れないという条件で」って、言ってることが違うじゃん、おっさん!(笑) って思うんですけどねぇ!(笑) 自分で(作監の時)怒ったわけじゃないですか。それなのに自分じゃそれ(他の作監に修正させない)を要求するって(笑) それもね。『さらば』の時は安彦さんが要求したんじゃなくって、西崎さんがそうしろって言ったわけでしょ。本人が言っちゃダメだよそんなの(爆)
――言っちゃダメですよね(笑)
出渕 まぁそういう感じで安彦さんが(『ガンダム』を)やるというのは聞いていたんですよ。ぬえ(スタジオぬえ)は松崎(健一 ぬえのスタッフ)さん以外は絡まないけれども、『宇宙の戦士』(Starship Troopers)的な、ハードなロボット物というかSF的な物をやるって聞いていて、安彦さんの新作は期待はありました。あと、富野(由悠季)さんがやるっていうのが大きかったですよね。『ライディーン』やって、あと『無敵超人ザンボット3』(1977年)『無敵鋼人ダイターン3』(1978年)をやってましたから。『ザンボット』は、富野さん的なリアリズムを突き詰めて、まぁ富野さん的には、ロボットを使った『海のトリトン』(1972年)のやり直しだと思うんですけど。ちょうどそのころ、当時『アニメック』っていう雑誌があったんですけれども、その準備校雑誌で『MANIFIC』というのがありまして。それらの編集長の小牧(雅伸)さんとは、SF同人で知り合いだったんですよ。だから「ブッちゃん(出渕氏の愛称)なにか書いて」って言われて、『MANIFIC』の創刊号で『ダイモス』のデザインのことについてなんか書いていた気がするんですけど、その時に小牧さんに「今度『ガンダム』っていうのがあるんだけど。これは絶対くるから! 『アニメック』でこれを推すべきです!」って言って、そしたら小牧さんが「えーそうなの?」って(笑) 「(小牧さんに)そうなんです! これをやるんべきですよ! アニメックで、あんたが!」って話をした覚えがあります(笑) そういう経緯があって、『ガンダム』がテレビ放映されて。素晴らしかったんですけれども……途中で安彦さん、倒れちゃったじゃないですか。
――はい、3クール目あたりから、入院されてしまいましたよね。