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34代斎院 範子内親王


名前の読み(音) 名前の読み(訓) 品位
はんし のりこ 准三宮
両親 生年月日 没年月日
父:高倉天皇(1161-1181)
母:藤原成範女[小督局]
治承元年(1177)11月6日 承元4年(1210)4月12日
斎院在任時天皇 在任期間 退下理由
高倉(1168~1180,父)
安徳(1180~1185,異母弟)
卜定:治承2年(1178)6月27日
   (中御門南京極西前
    中宮権大夫藤原重頼宅)
初斎院:治承3年(1179)4月9日
   (左近衛府)
本院:治承4年(1180)4月12日
退下:養和元年(1181)1月14日
父上皇崩御
斎院在任時斎宮 斎宮在任期間 斎宮退下理由
功子(1176生,異母姉)
 父:高倉天皇
 母:藤原公重女
卜定:治承元年(1177)10月28日
   (押小路万里小路僕家)
初斎院:不明(一本御書所)
野宮:治承2年(1178)9月14日
群行:なし
退下:治承3年(1179)1月11日
母死去

略歴:
 治承元年(1177)(1歳)11月4日、誕生。
 治承2年(1178)(2歳)6月27日、内親王宣下、斎院に卜定。
 治承3年(1179)(3歳)3月26日、卜定所が火災で焼亡。源有房宅に還御。


4月9日、初斎院(左近衛府)に入る。


12月21日、袴着。この頃母小督出家。
 治承4年(1180)(4歳)2月21日、父高倉天皇譲位、弟安徳天皇践祚。


4月12日、本院に入る。


4月22日、安徳天皇即位。


6月2日、福原遷都。(11月23日、平安京へ遷幸)
 養和元年(1181)(5歳)1月14日、父高倉上皇崩御。同月斎院退下。
 建久6年(1195)(19歳)10月22日、准三宮。
 建久9年(1198)(22歳)3月3日、土御門天皇即位に際し、准母として皇后宮に冊立。
 建永元年(1206)(30歳)9月2日、院号宣下。坊門院と号する。
 承元4年(1210)(34歳)4月12日、胸病のため崩御。

号:猫間斎院、六角宮、土用宮
院号:坊門院
土御門天皇准母、皇后宮

斎院勅別当:藤原雅隆(治承2年(1178)6月27日~同3年(1179)2月?)
      藤原経家(治承3年(1179)2月24日~?)
斎院長官 :藤原実教(治承4年(1180)4月1日~養和元年(1181)1月14日)

高倉天皇第二皇女。中宮平徳子(建礼門院)の猶子となる。
 斎院勅別当藤原雅隆は、範子の後見となった猫間中納言光隆の子。
 また斎院長官藤原実教は、のち立后した範子の皇后宮権大夫から大夫となり、元久3年(1206)に院号宣下を受けて坊門院となるまで奉仕した。

 生母は『平家物語』で有名な桜町中納言藤原成範女・小督局(範子内親王を出産後、治承3年冬に出家)。卜定以前は前治部卿藤原光隆の七条坊門亭で養育されていた。
 父高倉天皇の斎院に卜定され、卜定所となった藤原重頼の中御門京極第(中御門大路南、東京極大路西)に遷御。しかし火災に遭い、典侍平瑞子(源有房の妹)の邸宅(冷泉小路北・室町小路西)に遷徒している。その後初斎院として入った左近衛府で着袴、腰結は父高倉天皇ではなく典侍が務めた(『玉葉』『百錬抄』)。
 治承4年(1180)の異母弟安徳天皇即位後も引き続き斎院の任にあり、福原遷都の際にも紫野本院に留まったと見られるが、翌養和元年(1181)父高倉上皇の崩御により退下した。
 退下後は再び藤原光隆の後見を受け、光隆の邸宅・猫間第を御所としていたらしいが、この頃の消息は殆ど不明である。後に甥の土御門天皇即位に際し准母として立后、その後院号宣下にあたって修明門院・春華門院なども候補に挙がったが、坊門院で確定した。

『平安時代史事典』では、前斎院範子は寿永2年(1183)の法住寺合戦で大叔母にあたる33代頌子内親王の五辻第に避難、後に五辻第を相続したとする。しかし近年の研究で、法住寺合戦で五辻第に上西門院・皇后亮子内親王と共に避難した「前斎院」は、亮子の同母妹である式子内親王であろうとされ、範子ではなかった可能性が高い。また後鳥羽天皇や土御門天皇が方違行幸した五辻第の「前斎院」は、元々五辻第を御所とし「五辻斎院」と号した頌子内親王(承元2年(1208)没)であろう(※『猪隈関白記(大日本古記録)』の注では範子としているが、範子は建久9年の土御門天皇即位に際して立后しており、『猪隈関白記』正治2年(1200)11月17日条にも「皇后宮」と記載がある。従って、同年12月23日条の土御門天皇行幸記事にある「前斎院五辻第」の前斎院は範子ではなく頌子であり、これ以前の『猪隈関白記』『仲資王記』に登場する「五辻前斎院」も同様と思われる)

参考リンク:
『天皇皇族実113.高倉天皇 巻4』宮内庁書陵部所蔵資料目録・画像公開システム
 ※範子内親王については35~42コマにあり


【範子内親王の名前のこと】
『玉葉』(建久2年(1190)1月11日条)の女叙位記事に、「押筆申云、則子与範子<前斎院云々、>雖字異訓同如何、余(九条兼実)云、於女名者不憚同訓歟」とある。ここでは「則子」と「範子」の訓読みが同じであることが問題ではないかとされており、九条兼実は「女性名については同訓は問題ないのではないか」と答えている。この時範子内親王は15歳、斎院卜定からは既に12年が経過していたが、兼実や関係者は正しい訓を知っていたのであろう。これにより、「範子」の訓は「のりこ」でほぼ間違いないと思われる。
 なおこの時叙位された「則子」については『玉葉』に姓の記述はないが、7年後の建久9年(1197)土御門天皇践祚において、『三長記』(同年1月11日条)に記された女官の一覧に「命婦 正六位上・藤原則子」の名がある。後鳥羽天皇の乳母は斎院範子と字もまったく同じ典侍「藤原範子」(卿局藤原兼子の姉)だが、他に「則子」という名の女官は見られないので、建久9年の「命婦藤原則子」が建久2年の叙位で問題とされたのと同一人物であろう。

 ところで角田文衛氏の研究によると、当時女性の名は親の偏諱(かたいみな/親などの名前から一字を取って命名すること)をつけることが多かったという。よって小督も父藤原成範(しげのり)の偏諱をつけるとすれば「成子(しげこ)」か「範子(のりこ)」の可能性が高いが、娘の名が「範子」であることから、小督の本名は「成子」であろうとする(ちなみに上記の藤原範子・兼子姉妹の名も、父藤原範兼の偏諱である)。
 また小督の父成範も始めは「成憲」と表記し、父藤原通憲(信西入道)の偏諱であったが、平治の乱以降「成範」に改めたという。この場合も「憲」「範」の訓が同じであり、この点からもやはり「範」を「のり」と読んだ可能性が高いと思われる。
 なお参考までに、西行法師の俗名は「佐藤義清」(これも父康清の偏諱)だが、「憲清」「則清」「範清」とも表記し、「義」「憲」「則」「範」に共通する訓が「のり」であることから「のりきよ」であろうとされる。

参考図書:
・奥野陽子『式子内親王:たえだえかかる雪の玉水』(ミネルヴァ日本評伝選, 2018)
・角田文衛『日本の女性名』(教育社, 1980)※※2006年国書刊行会から復刊
・宮内庁書陵部編『九条家本玉葉(12)』(明治書院, 2009)
参考論文:
・角田文衛「小督局と坊門院」(『王朝の明暗』p559-568, 東京堂出版, 1977)


【高倉・安徳朝の斎院卜定事情について】
 範子内親王の父・高倉天皇が8歳で即位した1168年、当時の高倉のオバ(鳥羽皇女)や姉妹・姪(後白河天皇・二条天皇の皇女たち)で斎王候補に該当したのは、叔母の頌子内親王(鳥羽皇女、27歳)、異母姉の惇子内親王(後白河皇女、11歳)、姪の僐子内親王(二条皇女、11歳)の3人だった。このうち惇子と僐子は当時まだ内親王宣下は受けておらず、結局惇子が伊勢斎宮となったが、慌ただしく宣下と同日に卜定されている。
 一方、賀茂斎院は先代六条天皇から引き続いて高倉の異母姉・式子内親王が留任となったが、その後1169年に病で退下。代わって同年僐子内親王が、続いて1171年に頌子内親王が相次いで交替したが、二人とも病のため短期間で退下(僐子内親王は退下直後に薨去)、さらに1172年には斎宮惇子内親王も伊勢で薨去してしまい、この結果1172~1175年まで斎王候補の皇女はまったくいなくなってしまった(しかも当時は高倉天皇本人も幼少のため、まだ自身の皇子女を望める年齢ではなかった)

◆1168年生存の内親王一覧
 鳥羽皇女
  ・統子内親王[上西門院](1126生,43歳) 前斎院
  ・暲子内親王[八条院](1137生,32歳) 二条准母
  ・姝子内親王[高松院](1141生,28歳) 二条中宮
  ・頌子内親王(1145生,24歳) →1171年に斎院卜定
 後白河皇女
  ・亮子内親王[殷富門院](1147生,22歳) 前斎宮
  ・好子内親王(1148?生,21歳?) 前斎宮
  ・式子内親王(1149生,20歳) 斎院
  ・休子内親王(1157生,12歳) 前斎宮
  ・惇子内親王(1158生,11歳) →斎宮卜定
     ※覲子内親王[宣陽門院]は1181生。
  二条皇女
  ・僐子内親王(1159生,10歳) →1169年に斎院卜定

≪斎宮・斎院ならびに候補者系図≫ ●は斎宮、◆は斎院

  鳥羽天皇
   |
   ├─────┬──────┬──────┐
   |     |      |      |
 後白河天皇  ◆禧子    ◆統子    ◆頌子
   |           [上西門院]
   ├─────┬─────┬────┬─────┐
   |     |     |    |     |
  二条天皇  高倉天皇  ◆式子  ●惇子    覲子
   |     |               [宣陽門院]
   |     ├─────┬────┬──────┐
   |     |     |    |      |
  ◆僐子   安徳天皇  ●功子  ◆範子    ●潔子
                   [坊門院]

 1176年にようやく高倉の長女(第一子)功子内親王が誕生。続いて1177年に次女範子内親王、1179年に三女潔子内親王が生まれる。この結果、まず功子が1177年伊勢斎宮に、続いて範子が1178年賀茂斎院に卜定された(この卜定はかなり急いだものと見られ、範子は数え2歳とはいえ満7ヶ月での卜定だった)。これでひとまず伊勢・賀茂両斎王の不在は回避され、1180年の高倉譲位・安徳即位と福原遷都に際して斎宮功子は退下したが、斎院範子は引き続き斎院に在任している。しかし当時の皇女の人員不足、さらには源平合戦の混乱も影響して、その後安徳天皇・後鳥羽天皇の代に再び斎院不在の危機に陥ることとなった。





高倉天皇
史料 月日 記述
玉葉
顕広王記
仲資王記
治承元年
(1177)
11月4日 【皇女(範子)誕生】
『玉葉』
 或人云、(藤原)成範卿女<祇候内裏、年来通御云々、>此一両日之間有産事、皇子皇女之間、其説縦横、後聞、皇女云々、

『顕広王記』
(11月6日条)
 左兵衛督(藤原成範)女子内女房香局(小督)、皇女(範子)有降誕事、二条京極南西角家、主家藤右衛門佐也、

『仲資王記』
(未入力)
玉葉 治承2年
(1178)
3月1日 【斎院卜定について検討】
<「賀茂斎王卜定事光能来仰、」>(右頭書)
 終日雨降、申刻頭権大夫光能朝臣来、余依疾不出逢、以職事信光申云、今上(高倉天皇)皇女(範子)可被卜定賀茂斎王、而今年二歳、被問例之処、二歳三歳共有例、可就何例哉、可計奏者、下官奏云、二三歳各有其例、吉凶之間又以同前者、年来不被置斎王、叡情無聊、適皇女誕生、縱雖無例、只以早速可為先、何況於有先規哉、就二歳例、今年可被卜定、不可及異議、大相・左相・下官被問三人云々、
今日光能持来例、
 斎王[齋院イ]卜定年歯例、
二歳例、
恭子、<延喜(醍醐天皇)第三皇女、斎院、>
延喜三年二月十九日卜定、同十五年五月五日、依母氏事退出、
恂子、<上西門院[也イ]、斎院、>
大治四年四月六日卜定、天承三年六月九日、依病退出、
功子、<今上皇女、斎宮、>
治承元年十月廿日卜定、
三歳例、
尊子、<冷泉院第二皇女、母女御懷子、斎院、>
康保五年七月一日卜定、天延三年四月三日、依母氏事退出、
恭子、<為平子、斎宮、>
寛和二年八月八日卜定、寛弘七年七月一日、依父親王事退出、
馨子、<後一条院皇女、斎院、>
長元々[四イ]年十二月十六日卜定、同九年四月十七日、依後一条院御事退出、
媞子、<都[郁]芳門院、斎宮、>
承暦二年八月二日卜定、応徳元年九月廿二日、依中宮御事退出、
山槐記 治承2年
(1178)
6月17日 【第二皇女(範子)参内】
(前略)今夜今上(高倉天皇)第二姫宮<母左兵衞督(藤原)成範女、内女房小督局、前治部卿(藤原)光隆卿奉養、御二歳、>■[參?]内給、●密儀也、閑院東西北門被作出車寄、自彼所令參御云云、先日參給之時、自西洞院面遣入御車可被寄之由、治部卿被申、而先例不分明、京宮參給之時敷筵道、自小門令下給之由、自中宮(平徳子)御方被仰、仍不參入、自陣令歸給了、今度猶無遣入之儀、被寄後門車寄也、此宮中宮有御猶子之儀也、

●=㝡(ウ冠+取。最の異体字。こちらを参照(字源)。)
山槐記
顕広王記
賀茂斎院記
ほか
治承2年
(1178)
6月27日 【第二皇女範子、内親王宣下、並びに斎院卜定】
『山槐記』
 天晴、頭權大夫<光能、>奉院宣來臨、予着烏帽直衣謁之、有齋院卜定事、今上第二皇女(範子)<母左兵衞督(藤原)成範卿女、内女房、號小督殿、御歳二才、前治部卿(藤原)光隆卿奉養、日來坐彼卿七條坊門亭、>今夜渡卜定所<中御門南、京極西、前中宮權大夫(藤原)重頼宅、>路次掃除橋事可下知之由、一昨日頭權大夫<光能、>示遂、仍仰志朝基者也、今夜卜定之間可參陣之由、先日召使催、依故障不參内、後聞、秉燭人々參陣、左大臣(藤原経宗)、藤大納言實國、中御門中納言、<(藤原)宗家、>左兵衞督、<成範、齋王外祖父、>右宰相中將<(藤原)實守、>等也、頭權大夫出陣、仰左大臣以範子可爲内親王、左府召藏人右少辨(藤原)光雅仰之、次頭權大夫出陣、仰可令勘申卜定賀茂齋王日時之由、左府仰光雅令勘申之、仰外記令進筥、納勘文付頭權大夫奏聞、返給下辨、召外記令撤筥、頭權大夫又仰云、以範子内親王可爲賀茂齋王、宜令卜申、左府召外記令進硯、左府書齋王名、令外記封之、左府書封字、召外記令敷神祇官座、令外記召神祇官、仰外記令進筥、入卜串賜官人、令卜申、卜了、返上之、官人退出、彼座左府令持外記、就御所奏之、頭權大夫奏之、卜串留御所、返給空筥、即於弓場殿仰云、任卜串以範子内親王可爲賀茂齋王、上卿權大納言藤原朝臣、辨左少辨光雅、史■■■勅別當(藤原)雅隆朝臣、左府復陣、令外記召中臣官人、以範子内親王定賀茂齋王、予任例可奉行之由被仰之、召寄又仰之、外記撤硯、左府退出、次頭權大夫仰上卿藤大納言、卜定之由賀茂奉幣并大祓日時可令勘申者、藤大納言持着端座行此事云々、右少將(源)有房朝臣爲勅使參卜定所云々、後日中御門中納言曰、存古儀雖參卜定所、齋王未渡御、經數剋、仍退出了、
近年依無其人、無齋宮斎院、爲未曾有例、而皇女連々誕生、共爲齋王、有神威歟、(後略)

『顕広王記』
 斎院卜定、今上第二皇女(範子)ー、母左兵衛督成範卿女(小督)、卜定所中御門京極<内宮少輔(藤原)重頼家、>御渡用上白御車、女房車々、上卿三条大納言(藤原)実房卿、弁右少弁(藤原)光雅、勅使源少将有房、勅別当越後守(藤原雅隆)ー、宮主神祇少史伊岐致頼<本官差文>、御麻中臣為定、参官人権大副(卜部)兼友・(忌部)明友・(卜部)兼衡・(中臣)為定成、史(忌部)明茂・致頼・(忌部)致貞・(忌部)友平、

『賀茂斎院記』
範子内親王
高倉院之皇女也。母成範之女。
治承二年卜定。(後略)
玉葉 治承2年
(1178)
8月14日 【斎院(範子)著袴以前、帛御装束著御の可否を右大臣兼実に諮詢】
<「斎院着袴以前可着御帛御装束哉否事、」>(右頭書)  天晴、巳剋蔵人弁(藤原)光雅以消息伝綸言云、来十六日斎院可入御神殿、而為御着袴以前、可着御帛御装束哉否如何、可令計奏者、令申云、入御神殿之時、争不着御帛御衣哉、不可依御着袴之前後、御衣躰縦有斟酌、不可不服帛御衣、抑上西門院(統子内親王)、大治三年卜定、其次年着袴、可被尋彼年例、

大治4年統子内親王例は『中右記』(4月19日条)を参照。
山槐記 治承3年
(1179)
1月10日 【東宮帯刀給所を宣下】
(前略)今日被仰下帶刀給所等云々、(中略)
帶刀給所、
(後白河)
上西門院
八條院
中宮(平徳子)
本宮(言仁親王)
關白(松殿基房)
太政大臣(藤原師長)
左大臣(藤原経宗)
右大臣(九条兼実)
内大臣(平重盛)
大夫(平宗盛)
權大夫(藤原兼雅)
二位(平時子)
  二位者中宮母儀也、
大宮(藤原多子)<近衛院后、(徳大寺)公能公女、>
皇太后宮(藤原忻子)<法皇(後白河)后、同居儀久絶、公能公女、>
女御(藤原琮子)<同然、(三条)公教公女、>
斎宮(功子)<當今(高倉)宮、故公重朝臣孫、>
齋院(範子)<當今宮、左兵衛督成範孫、>
前齋院(式子)<法皇宮、高倉三位腹、>
前齋院(頌子)<鳥羽院宮、春日殿腹、>
 已上不被給之、皇后宮不御座也、(後略)
玉葉 治承3年
(1179)
1月19日 【除目。初斎院御禊功のこと】
「除目入眼、(頭書)」
 晴、除目入眼也、(中略)
(右兵衞)少尉正六位上惟宗朝臣兼定、<初斎院御禊功、>(後略)
玉葉 治承3年
(1179)
2月24日 【藤原経家、斎院勅別当に任命】
(前略)今日経家朝臣来語云、被補斎院勅別当了、甚以難堪云々、
玉葉
山槐記
百錬抄
治承3年
(1179)
3月26日 【斎院卜定所焼亡】
『玉葉』
(前略)
<「斎院卜定所焼亡事、」>(右傍書)
今日酉刻、大炊御門河原西辺有火、巽風忽吹、斎院(範子)卜定所焼亡、<中御門南京極西、宮内権大輔重頼宅、>即渡御左少将(源)有房朝臣宅、<冷泉北室町西、>修祓立榊云々、

『山槐記』
(前略)後參内、晩頭退出之間、東北方有火、下人云、■[河?]東云云、仍歸亭之處、又下人云、大炊御門南、河原西、自彼處火起、已及京極云々、關白殿(松殿基房)、前太政大臣<花山院(忠雅)、>爲風下、仍忽着直衣馳參松殿、辨亦仍參花山院、女房皆參申、大相國被仰、殿下今度御參給云々、早參也、我雖可參入、風吹發之間不參之由可申者、仍■參之由、已令還御給云々、仍還昇申此旨之召、齋院(範子)卜定所、<中御門南、京極西、前中宮權大夫進景頼宅、>焼亡云々、此間南風殊烈、(中略)
齋院來月三日可令入諸司給、而忽有此災、尤可恐、初齋宮(功子)依母重喪、去正月自一品[本]御書所退出、今又有此災、朝家大事也、
齋院御所火付之間、越後守雅隆朝臣、<父光隆卿奉養也、彼卿重喪、母服也、仍又雅隆朝臣輕服由也、>中務權大輔經家朝臣、<勅別當、>左中辨重方朝臣、<行事辨、>左少將實教朝臣、<光隆卿聟、此人又輕服、>藏人右少辨光雅<衣冠上括、>參彼御所、雅隆實教等朝臣依輕服參入、出御之間猶不近不候云々、今間齋院御車<檳榔、依近隣忽召中御門中納言宗家車、牛童遣之、渡御卜定之時、令乘中宮御車給、即被返上、其後被立、上卿檳榔度々改定之間、今般源中納言雅頼雖爲上卿不獻云々、>被立中御門東洞院、<關白殿北築垣外也、>出御後火覆重方朝臣宅、<勘解由小路北、京極西、>仍馳向、光雅馳參内申事由、爲御使參殿下、被申御所事、殿下令申給云、卜定之時、二条以南無例之由沙汰了、<先例二條以南定所多歟、不審事歟、可尋、>此御所雖極狹、依無可然之所、日來御坐之、土御門大納言亭<土御門北、東洞院東>先々有行幸之所、可被召歟、但可在敕定、雖何様、乍御車及數剋、甚不便、早可被定仰也者、光雅又歸參内、齋宮齋院卜定所諸司本宮本院燒亡一切無先例、今度始也、前齋院<法皇御女(式子内親王)>四條東洞院爲卜定之時、近邊燒亡、三法皆爲灰燼、彼御所免彼難、今有此事、可恐悲、左大辨<(藤原)俊經、直衣、>參殿下、予退出、後聞、齋院御被召左少將有房朝臣妹典侍(平瑞子)宅、<冷泉北、室町西、>於彼朝臣令參八幡、留守者申云、件所有穢者、敕定云、件穢無實之由、内々所聞食也、但申穢之由、推不可仰事也、然者可奉有房朝臣之由可遣仰、於有房者爲親昵、可罷渡彼穢所、過穢日數之由、暫不出仕何事歟有哉、光雅參進、仰此旨之處、穢條承誤所申也、早可被召者、仍光雅相具出納小舎人、向彼所、近日家主不在、留守者忽運出雜物、其間不開門、光雅令放取所押門之佛像、開門之後、齋院渡御、鋪設今間■本家御簾益等、頃之河内守光遠獻疊十帖、來月可入御諸司、件鋪設分遷任歸可調進、件料調設疊等進上云々、抑件所南隣隔垣有喪家、七々内、故高松院女房、甚無便事歟、
神殿具皆以燒亡、今夜無神殿沙汰、後日爲本院沙汰更勘日時、始神殿行事、辨重方朝臣沙汰云々、(後略)

『百錬抄』
 祇陀林寺并初斎院卜定所<中御門南。京極西。>焼亡。
玉葉
山槐記
治承3年
(1179)
3月27日 【斎院卜定所の焼亡を軒廊に卜する】
『玉葉』
 雨下、今日被行軒廊御卜云々、斎院(範子)卜定所焼亡并平野社枯木折落事也云々、
斎院卜定所焼亡事、官・外記勘申准拠例、又卜定所雖焼亡、火●未付之間、不可為失火穢之由、明法博士勘申云々、

『山槐記』
 雨下、齋院(範子)卜定所燒亡事、被行晩日云々、
陰陽寮
 占、今月廿六日戌時賀茂齋内親王卜定祈燒失若有咎祟所致歟、
今月廿六日甲申、時加戌、<四月節、>勝先臨申爲用、將▲▼、中天皇、時古今、終功曹、將青龍、卦過傍少如◆★ 、
推之、依神事不浄所致之上、公家可愼御藥事歟、又禁中火事動揺事歟、期恠日以後四十五日内、及五月七日節中、并庚辛日也、何以言之、日上見神居、大歳上帶大陰、是主不浄、又日上帶白序、御年上見▲▼、是以主御藥事、又用起火神、日見旬天火神、卦過[遇?]◆★、是主火事動揺之故也、兼被誡、至期愼御、其咎自消乎、
 治承三年三月廿七日 大屬菅野朝臣季長
          權暦博士賀茂朝臣兼定
            權助賀茂朝臣濟憲

●=焰(炎・焔の異体字。こちらを参照(字源))
▲=螣(架空の蛇。こちらを参照(字源))
▼=虵(虫偏+也。蛇の異体字。こちらを参照(字源))
螣虵=騰蛇(とうだ)。中国の伝説上の蛇。
◆=跅(足偏+斥。こちらを参照(字源))
★=足偏+㐌(施のつくり)
玉葉
山槐記
治承3年
(1179)
3月29日 【斎院卜定所焼亡のこと】
『玉葉』
 晴、今日列見也、先着官庁聴政、先有申文、次列見、(中山)忠親、実綱・家通・長方等参勤云々、無宴・穏座等、斎院卜定所焼亡之故也、康和四年八月十一日定考、依伊勢離宮院属候舎焼亡例也、(後略)

『山槐記』
(前略)於造曹所東垣外、令召仕結付之、於此所招、右大辨(藤原重方)曰、齋院卜定所燒亡、<去廿六日燒亡、>可有宴穩哉否、大辨曰、康和伊勢離宮院屬候屋燒、被止之、可准歟、示合權中納言、此事稀代事也、可奉御計、予又示大辨、此事朝家大事也、伊勢事雖異他、彼者屬屋也、是者卜定所、已有寝殿、何不相准哉者、人々有承諾氣、仍可被止宴穩座之由、示大辨、入造曹所門、(後略)
玉葉
山槐記
治承3年
(1179)
4月3日 【賀茂社に奉幣。入御卜定、御禊定ほか】
『玉葉』
(前略)
「奉幣賀茂事、」(右頭書)
今日有奉幣賀茂、先被定日時・使等、上卿源大納言、<雅頼、>参議(藤原)実宗、是被謝斎院卜定所焼亡事也、次被卜定斎院入御諸司、<仰官先令勘日時、>(卜部)兼友以下着小庭座、令卜申之、<左近府・兵甲、不卜他司、>次被定御禊日時、<来九日、>并御前次第使、<依参議不参、令弁(藤原)重方書定文、>又覧御禊点地日時、今日未刻、中納言(藤原)宗家・参議(藤原)定能等<昇進之後初着庁、>着庁聴政、依史人数不足、無申文、<史三人参入、無座頭之故也、>有出立云々、今夕斎院入給寝殿云々、上卿参斎院、被定出車事云々、

『山槐記』
 陰晴不定、有政云々、新宰相中將<(藤原)定能、>初着之、上卿中御門中納言、<(藤原)宗家、>
初齋院御禊前駈定云々、<來九日可入御諸司也、>
女官除目云々、
玉葉
山槐記
治承3年
(1179)
4月9日 【斎院(範子)、初斎院(左近衛府)に入る】
『玉葉』
(前略)
「斎院入御左近府、」(右頭書)
今夕賀茂斎院(範子)、自里第<冷泉北室町西、左少将(源)有房朝臣宅、>入御左近府、上卿(源)雅頼卿、弁朝[重]方朝臣等参入、行事宰相中将定能為勅使、<即供奉、是例也、>
前駆、
左衛門権佐光長、 右衛門権佐(藤原)親雅、
左兵衛佐範能、  右兵衛佐(藤原)基輔、
左衛門尉平宗貞、 右衛門尉大江範信、
左兵衛尉藤為成、 右兵衛尉宮道清定、
  已上御前、
左馬権助源国行、 右馬允平季久、
  已上次第使、
左右京職・陰陽寮等供奉、

『山槐記』
 今日初斎院(範子)<當今(高倉天皇)内親王、母右衛門督(藤原)成範卿女、内女房、號小督局、>自冷泉室町西亭<左少將(源)有房妹典侍(平瑞子)宅也、本卜定所中御門南京極西、去月廿六日燒亡後、令渡此所給也、>禊東河、令入左近府給<有可入御一本御書所之議、而前齋王至于去年御坐彼所、今年正月自野宮退出、被憚彼例云々>云云、傳聞、秉燈之後出御、別當<(平)時忠>被候御車寄、上卿源中納言<雅頼>、弁左中弁(藤原)重方朝臣參入入行事云々、
 敕使參議左中將(藤原)定能朝臣、
螺鈿劔、巡方、不付魚袋、淺履、
和鞍、不付杏葉、用泥障、不結唐尾、
蠻繪隨身二人、差鞭、今二人略歟、
馬副四人、<不具四五人在路傍不具共、先々六人蒙絶、俄出立不相具、蠻繪隨身如何之由被示合予、答曰、顯雅卿爲敕使之時、隨身只令着褐衣、可被相計之者、>
 左衞門權佐光長、
闕腋袍、螺鈿細劔、巡方、<淺沓、>和鞍、<不付杏葉、>用泥障、不結唐尾、
舎人二人、<青仁、>
隨身二人、<蠻繪、>負平胡●、縹無文懸緒、
看督長四人、<藁脛巾、>
火長二人、<冠藁巾、>
雜色五人、<衣裝惟楚々、>
府隨身不召具、後聞、所出來其體見苦、仍■且夜陰存省略云々、
 右衞門權佐親雅、
同左佐、
相違事、
隨身懸緒有紙薄文、是右佐例也、
府隨身二人相具之、<可召府也、然而夜陰存省略、用雜色云々、>
雜色六人、<平禮、>
舎人二人、<香、>
 左兵衞佐範能、
隨身蠻繪、差鞭、懸緒無文紅打、舎人二人、
相具雜色、
 右兵衞佐基範、
隨身着褐衣、朽葉袴、壺脛巾、差鞭、後日相問變同右衞門督成範卿之文、答曰、舊以了仍不令着蠻繪二藍二倍織物御奴袴、<地文鳥多須岐、二倍織物文、白伏蝶丸腹白括、>
若鶏冠木生御衣二領、 紅生御單、
同御張袴、      御單、
御扇、        赤色織物御平裏、
蒔繪衣筥蓋、
 一具御法衣、
顯文紗御衣、<兩面灑之、> 同御裳、
同御袈裟、      鈍色生御衣二領、
同御單、       御帷、
薄色浮文織物御奴袴、<鳥多須岐、>同色御括、
白御張袴、      御單、
紫御扇、<無薄、>    鈍色織物御平裏、
蒔繪衣筥蓋、
  治承三年四月十二日(後略)

●=籙(竹冠に禄または録。こちらを参照(字源))
「胡籙(やなぐい)」=矢を入れて携帯する武具。武官や随身が身に着けた。
山槐記
玉葉
治承3年
(1179)
4月21日 【賀茂祭】
『玉葉』
「賀茂祭事、」(右頭書)
 晴、賀茂祭也、使右少将顕家朝臣云々、過差之至、不拘新制、時人莫不傾奇、天気不快、雖参内不被渡北陣云々、又右馬助為保、頗有不拘制事云々、中宮(平徳子)使大進基親、雜色令着打衣、人以不為可云々、春宮権亮(平)惟盛朝臣、雖存守制之由、猶有過差之咎云々、於近衛使毎事過法、因●関白天気不快、是依為彼殿之結構也、

『山槐記』
(未入力)

●=玆(玄+玄。滋の異体字。こちらを参照(字源)。
玉葉
百錬抄
治承3年
(1179)
12月21日 【斎院(範子)著袴】
『玉葉』
(前略)
「斎院着袴之事、(頭書)」
又斎院(範子)着袴、<典侍(平瑞子?)結腰云々、>

『百錬抄』
 賀茂斎内親王(範子)著袴<于時御坐左近府>
山槐記 治承3年
(1179)
【母小督出家】
(未入力)
安徳天皇
史料 月日 記述
山槐記 治承4年
(1180)
3月23日 【紫野本院造営中】
『山槐記』
(前略)今日過本院前、寢殿西對東南子午屋立柱許造營、是來月十二日初齋院可入御也、近年齋王久不御坐、仍舎屋皆悉頓倒無實也、(後略)
山槐記 治承4年
(1180)
3月29日 【初斎院御禊雑事】
『山槐記』
(前略)來月十二日初齋院禊造營本院於此所木作也、隨作運之、往返車馬不輙云々、
吉記
公卿補任
治承4年
(1180)
4月1日 【初斎院御禊定。藤原実教を斎院長官に任命】
『吉記』
 晝間天晴、入夜雨降、齋院(範子)年預資忠持來
<院司望名簿三通到來事、>(右傍書)
院司望名簿三通、<先例多勅別當參陣時辨歟、今用使者、雖不審、必不可守株歟、仍請取了、>
 其書様、
從五位下藤原朝臣兼隆、
正六位上藤原朝臣忠光、
 已上望次官、
  治承四年四月一日、
正六位上監物源朝臣忠業、
正六位上紀朝臣忠兼、
 已上望判官、
  治承四年四月一日、
正六位上大中臣朝臣有弘、
 望主典
  治承四年四月一日、
今度齋院事、用寛治例云々、仍予注其書様、内々授前納言了、天仁記注請奏之由、<戴一通云々、>然而件書様不載家記、又不尋得、雖尋申状況不分明云々、若以望名簿注請奏之由歟、
<參殿下(近衛基通)申條々事、>(右頭書)
申剋參殿下、<著白重如例、但有文冠并織物表袴著之、此又近例也、>付藏人大夫信清申條々事、<仰詞見宣旨目録、>
御即位間諸司書衞申請成功事、
同諸國召物未濟事、
禊祭間諸國召物未濟事、
齋院司并祭任官等事、
 仰、今日可任、
遷幸御祈事、<神祇官、天仁三ヶ日、仁安儀御即位以前無佛事御祈、>
 仰、可依先例、(中略)
<賀茂初齋院定事、>(右頭書)
今日賀茂初齋院、禊東河可入紫野院定事、<依近邊火事、禁中物●也、若可延引否之由、先申殿下、仰云、不至陣、不及沙汰者、>仍上卿新大納言、<宗(藤原宗家)、>大宮宰相中將<(藤原)實宗、>等着仗座、次藏人宮内權少輔親經進出、
<被仰賀茂初齋院御禊事可定申之由事、>(右傍書)
仰可定賀茂初齋院御禊事之由、<別雖不蒙仰、存可被定申歟之由不仰之、而依經程進出也、但仰詞委可尋注、>次上卿移着外座、先令着膝突、次召予、
<上卿召辨被仰日時事、>(右傍書)
被仰可令勘申御禊并點地日時之由、即仰行事史(大江)盛景、令陰陽寮勘申也、即取勘文二通、<御禊日一通、點地日一通、雖式日先例勘日時也、但頼業云、不可勘歟、>  陰陽寮
  擇申、可被行賀茂齋内親王御禊日時、
   今月十二日甲午、 時未二點
    治承四年四月一日大屬菅野朝臣季親
權漏刻博士<伯耆權介>菅野朝臣ゝ親
權暦博士賀茂朝臣憲定
圖書頭<兼權陰陽博士阿波介>賀茂朝臣在定
權助賀茂朝臣濟憲
縫殿頭兼助賀茂朝臣宣憲
主計頭兼頭賀茂朝臣在憲
 陰陽寮
  擇申、可被點定賀茂齋内親王御禊地日時、
   今月七日己丑、  時申三點、
    治承四年四月一日、連署同前、
<就日時上卿條々不審事、付先例、>(右頭書)
予進上卿、被見勘文、被示云、來十二日公家御衰日、往亡日道虚日忌夜行也、有如此難、可何様哉、強令擇申不快日之條如何、可問陰陽寮、兼又九日日次不惡歟、若延引、若被縮歟之間歟宜歟、予申云、不顧日次、式日入御、度々吉例也、右中辨奉行之時、來十二日式日可入御之由、申定先了、上宣之趣雖可然、若被縮行者、本院并神館作事不可相叶、雖一日有其煩歟、若延引者、爲作事并用途雖大切、祭日彌迫、又爲事煩歟、<日次事、一日之比、以行事史雖被示此旨、答申子細之後無音、猶以被鬱積、>(賀茂)在憲朝臣相尋之處、被難仰日時先例皆存、全不被憚事也、於公家御衰日者雖有齋宮例、於齋院者不覺悟、但自餘惡日不被憚之、況於御衰日哉、以此旨申上卿之處、猶雖有不甘心氣、被留勘文了、
後日在憲朝臣注申云、
 徃亡日事、
婉子  承平三年四月十二日戊午、<式日、>
馨子、  長元六年四月九日甲辰、
禎子、  康和三年四月十日庚子、
 公家御衰日事、
斎宮恬子 貞觀元年十二月廿五日甲午入御諸司、
敬子   永承七年九月廿九日辛未入御野宮、
俊子   延久三年九月廿三日甲辰群行、
以此例准齋院例、全不可有難候、自餘例未勘候、
 道虚日事、
先例多存不可勝計、是恭子婉子尊子禖子正子齋子宮等也、他又有之、
 凶會日事、
先例同以不可勝計、是恭子婉子選子怡子式子也、仍被准御衰日、不可有難、諸事被用式日之時、不依日次之善惡歟、
 忌夜行日事、
四月午日皆忌夜行、仍其例又以不可勝計、是恭子婉子尊子正子也、
 四月一日  陰陽頭賀茂在憲、
<上卿召外記、依火事各退出、纔一人相殘事、>(右頭書)
次上卿召外記、而依火事大外記頼業行事、外記貞親等逐電、纔所候也外記俊清一人也、必不可待行事、且可參之由諷諫之、仍參進、召例文硯、即進之、
<不具前駈交名、祇候外記稱不知之由、仍不可有前後之難、先可有齋院司除目之由上卿被命事、>(右傍書)
令宰相中將定申前駈之處、不具前駈交名、祇候外記稱不知之由、此間再三遣使遣召兩外史、空及深更之間強不可有前後之難、先可有齋院司除目歟之由有上宣、仍予先宣下辭書二通、<左馬助源經業、山城介大中臣季隆、>次下申文、<齋院司望名簿三通下之、如天仁記者、本院付辨、々覽上卿、々々以職事被奏之、家記初見如此、而上卿被示云、先不可覽、直忠可奏下者、彼祖父中右記、先覽上卿之由不見也、兩記相違之條尤不審事也、當日公事、以隨上宣爲先、仍無覽申之儀、又山城介申文一通下之、馬助不進申文、右近將監依爲雲客不進之、院司之外加任之輩不知申文有無、書折紙奉上卿、>又以詞仰長官事、<其詞云、以(藤原)實教朝臣、可爲齋院長官、寛治以少將實隆被補之時以詞仰之、仍遂彼例也、四位以上人難載望名簿之故也、>次上卿欲被行除目、無折堺、是又行事外記不候之故也、
<藏人少輔書前駈交名事、>(右傍書)
彼是遲々之間、藏人少輔忽書前駈交名、給外記俊清、此間兩外記史又參入、先被定前駈、
 四月十二日賀茂齋内親王御禊陪從、
大納言正二位源朝臣定房、
權中納言正三位藤原朝臣成範、
參議正三位藤原朝臣實守、
參議正三位藤原朝臣頼定
正四位下源朝臣顯信、
正四位下平朝臣信基、
正四位下源朝臣有房、
從四位下源朝臣師兼、
正五位下藤原朝臣親雅、
正五位下藤原朝臣實宗、
正五位下藤原朝臣成定、
從五位下藤原朝臣雅隆、
 治承四年四月一日、
 四月十二日賀茂齋内親王御次第使、
右馬權助藤原朝臣季高、
左馬允藤原朝臣俊定、
 治承四年四月一日
次被行除目、
 四月一日齋院除目、
 太政官謹奏、
長官從四位上藤原朝臣實教、<兼、>
次官從五位下藤原朝臣兼隆、
次官正六位上藤原朝臣忠光、
判官正六位上源朝臣忠業、、<兼、>
判官正六位上紀朝臣忠兼、
主典正六位上大中臣朝臣有弘、
 山城國、
介從五位下大江朝臣盛光、
 治承四年四月一日、
 太政官謹奏
右近衞府、
 將監正六位上高階朝臣親家、
左馬寮、
 權助從五位下源朝臣政綱、
  治承四年四月一日
<前駈定文除書等各別被下外記事、>(右頭書)
前駈定文并除書名地、兩度召外記、各別被下給之、然而一度可内覽之由有命云々、是殿下御里亭之故歟、
<外記未歸參之先進陣申行事所間事々、>(右頭書)
外記未歸參之間、予進膝突、申行事所間事、其次被下點地日時勘文、事了之後可被下之由雖被存、依事次下給歟、且是遲々難堪、粗申出者也、予結申如例、次下史(大江)盛景、予不堪窮屈、事未終以前退出了、于時子剋也、

『公卿補任』
(文治4年)
正四位下 同(藤原)實教(中略)
<同(治承)四四一兼齋院長官。壽永二正八正四位下。十四日止長官。(後略)>

●=忩(公+心。こちらを参照(字源)。
山槐記
吉記
治承4年
(1180)
4月6日 【賀茂社に奉幣、斎王(範子)不替を奉告】
『山槐記』
 天晴、今日奉幣賀茂社、不改齋王<來十二日可入御紫野院、當時御坐左近府、>之由被申也、<上卿新大納言(藤原)宗家、此人禊祭事被奉行也、先例多伊勢同日被申歟、而皇居爲五條亭、上卿往反兩度難叶之由申云々、藏人方事藏人宮内權少>輔(藤原)親經申沙汰云々、

『吉記』
(4月7日条)
<「齋院不替之由被告申賀茂社事、」>(右頭書)
 天晴、午斜參内、<瀧口一人召具之、可向點地之所故也、>今旦齋院(範子)不替給之由、可被告申賀茂社也、先是上卿新大納言、<(藤原)宗家、>藤宰相<定能、>參着仗座、上卿<上卿先奥、次移着外座、承職事仰、>以官人召辨、予參上、被仰云、斎院不替給之由、可被告(後略)
玉葉
吉記
治承4年
(1180)
4月7日 【賀茂社に奉幣。斎院御禊点地、御禊及び祭日を勘申】
『玉葉』
(4月7日条)
(前略)今日奉幣、賀茂斎院(範子)不替之由也、
(4月8日条)
<「定能卿注送昨日奉幣間事、」>(右頭書)
 晴、(藤原)定能卿注送云、昨日奉幣、上卿中御門大納言(藤原宗家)、使定能卿、可有幣物哉否、雖有沙汰、依摂政(近衛基通)被申、有幣帛云々者、余案之、長和・治暦・応徳無幣帛、天慶有云々、不被追近代吉例、如何々々、(後略)

『吉記』
<日時定事、>(右傍書)
申賀茂社日時、例勘申<ヨ、>仰行事史(大江) 盛景、令陰陽勘申之、予取件勘文進上卿、次召例文硯、次令藤宰相書定文、次召大内記業實、被仰宣命事、即草進之、
<宣命事、>(右傍書)
次召予賜日時并定文、可内覽物、逐電參殿下、付信清覽之、于時内記持參宣命、予便申雜事、御即位并禊祭間事等也、
次歸參内、返奉日次定文於上卿、次使藤宰相給宣命、相率次官發遣、今度被獻幣帛、依天慶九年并仁安三年例也、仁安外近例毎度如此之由隆職宿禰示之、神事有増[無]減故歟、於寛治者無幣帛、是又安和以後度々例也、(中略)
次退出向一條末、<川合社以南、一條以北也、>
<御禊點地事、>(右傍書)
依初齋院御禊點地也、着幄座、<大藏立幄、主殿引幔、掃部敷座、>予着北第一間、<南面、>陰陽頭賀茂在憲朝臣、助同(賀茂)宣憲朝臣、及允屬陰陽師等着座、<第二間以南、北上東面、>行事史盛景同着座、<西面、在憲朝臣云、陰陽寮西面、行事官可爲東面、先々如此、然而隨使、陰陽無左右着東面了云々、>拒否捍使檢非違使大江經弘參候、<衣冠、自行事所令相催之處、先例稱不參之由、以不知事、稱知由、於事致如泥者也、可謂奇怪、山城國司不參、雜掌爲其代、近代之例也、>木工寮官人代打丈尺、四角立杭、陰陽寮立賢木、史并史生盛泰検臨之、<官掌盛兼不參、行事所事可及懈怠之由、依令申、不召具也、稱前々御所跡所爲川跡、當時雖無水、令築壇有煩之上、若雨降者、無疑可爲川流、仍頗寄南令點也、>事了之後、予召仰經廣云、今日以後掃治守護、不可令置汚穢物者、申云、先例定檢非違使之役也、申状依奇怪、加勘發了、次予參齋院、<左近府、>木工山城檢非違使等不參着、衣冠騎馬者在車前、是左京職歟、不見度々記、尤不審也、行事官陰陽寮等相次參入、以侍廊爲其所、兼居饌、盃酌有三獻云々、予着客殿、先是上卿新大納言被參候、
<客殿裝束事、>(右頭書)
客殿裝束儀、<予兼注差圖、給資忠了、> 殿上廊敷滿弘筵、南西二面懸翠簾、東第一間引軟障、其前敷高麗疊一枚、其上施龍鬢地鋪、其上敷東京錦茵爲上卿座、<南北行、西面、>座前居饌、<折敷高坏六本、兼居粉熟、>其西間敷紫端疊一枚、<東西行、>爲行事辨座、<北面、>座前居饗宴以前、其西間迫西妻度敷紫帖一枚、<南北行、>爲長官座、<東面、>座前居机饗一前、次官并史座依所狹不敷之、
<長官座一獻事、酒部所不見、可尋、>(右頭書)
長官(藤原)實教朝臣着座、次一獻、藏人大夫高階泰信持參盃、隼人正清定取瓶子、但上卿役藏人五位尤可勤歟、仍以泰信更令取瓶子、上卿被擬予、々起座賜盃、<座揖如常、>復座飮之、次置盃、史着座之時、辨擬史、々留盃、而今日史依不儲座、予尤可擬長官歟、然而管見不詳、依不擬之、但先伺上卿氣色也、[次]上卿被仰可持參例文硯之由、次次官藤原忠光持參例文、<寛治例文也、予書出之、兼賜年預資忠了、置柳筥、>置上卿前、<五位次官(藤原)兼隆不參、仍六位役也、天仁家記、次官役之、同中御門右府記、判官役之、兩記相違不審、不可然、上卿前次官役也、有其謂歟、仍如此、>判官持參紙筆、<盛柳筥置予前、>次隨上卿與奪、予書定文、<次出車、次出馬、>
可被出禊祭兩日檳榔毛車六兩事、
太宰帥家、
三條大納言家、
花山院中納言家、
平中納言家、
平宰相家、
新宰相中將家、
 車副各六人、<可着冠、>
  褐衣袴布帶等、從院可受、
  治承四年四月七日
可被出禊祭兩日童女騎馬四疋事、
 新中將朝臣、 
 内藏頭朝臣、
 但馬守朝臣、
 權右中辨朝臣、
  陪從各二人、 口付各二人、
   可副菅笠雨衣深沓、
  治承四年四月七日
<轡定文事、>(右頭書)
次予書了、取定文二通起座、參進奉上卿、了復座、次二獻如初、次居汁物、<諸大夫役之、>次立箸、次三獻、長官勸盃、
<産藏人不入門内事、>(右傍書)
諸大夫泰信取瓶子、<役諸大夫人數少間、一身數反役之、範實雖參入、稱産穢由、不入門内、>次上卿召長官、被下定文二通、<先例或二獻以前被下歟、>次令撤例文硯、此間及衝黑、供掌燈、<次官判官等役之、>次行事史持來
<行事史持來御禊點地勘文事、>(右傍書)
御禊點地勘文、同日時勘文、祭日時勘文等、<各勘文二通持來、於點地勘文者一通、以史可付辨、是奏聞料也、一通可付本院司、可啓御所料也、自餘勘文等令成二通之條、陰陽寮忘失也、仍擇取返史、>
<立御禊日時勘文不見事、>(右傍書)
取之覽上卿、又本院御裝束始并立御帳日時勘文不見、又奉幣諸社日時同可勘申之由、下知先了、是又不見、仍仰此旨、史退歸、又持來件勘文、御裝束始、立御帳日時載一紙、予取之奉上卿、々々被示云、兩事可爲別紙歟、愚案又如此、然而依有煩、不令直之也、奉幣日時、今度又取落、追又持來奉上卿、見了、爲下長官、被相尋之處、退出了云々、仍賜予、件奉幣、先例或本院偏沙汰、行事官不尋知歟、次上卿退出、予謁前納言、奉幣日時賜年預資忠、自餘賜史盛景、但於點地勘文者、爲奏聞留了、件勘文事、可用意之由、仰(賀茂)在憲朝臣了、而相違、若是老耄令然歟、又牛事一車料可申殿下(摂政近衛基通)、二三車料可申左右兩府之由、上卿被下知長官、是又予所申出也、先是給祿於陰陽寮、并史官掌、頭助史、<各單重一領、>允屬陰陽師生官掌、<各疋絹、>祿法頗不審也、任近例令沙汰歟、可勘今度之例、予亥終許歸家、
<種々勘文事、>(右頭書)
陰陽寮
 點定、齋院   御禊地事、
  鴨河西邊、<小社以南、北邊大路以北、>
   從公家御所東行六町、 北行廿四町、
   從齋院御所東行十四町、  北行六町、
右地從 公家御所當亥方、從 齋院御所當申方、共無御忌、仍以點定如件、
 治承四年四月七日  陰陽師清科盛季
            少屬清科重宗
            少允中原吉光
       縫殿頭兼助賀茂朝臣宣憲
       主計頭兼頭賀茂朝臣在憲
      院司
            主典大中臣有弘
             判官紀忠兼、
           左大史大江盛景、
陰陽寮
 擇申齋院、  御禊日時、
  今月十二日甲午、
   御出門、 時未二點、
   御禊、  時申二點、
  治承四年四月七日   陰陽師清科盛季、
              少屬清科重宗、
              少允中原吉光、
         縫殿頭兼助賀茂朝臣宣憲、
         主計頭兼頭賀茂朝臣在憲、
陰陽寮
 擇申賀茂祭日時、
  今月十五日丁酉、
  御出門、  時午二點、
   治承四年四月七日 陰陽師清科盛季、
             少屬清科重宗、
             少允中原吉光、
        縫殿頭兼助賀茂朝臣宣憲、
        主計頭兼頭賀茂朝臣在憲、
陰陽寮
 擇申、可被始齋院御裝束并渡立御帳日時、
  始御裝束日時、
   今月九日辛卯、  時申二點、
  渡立御帳日時、
   十二日甲午、   時巳二點、
    治承四年四月七日  陰陽師盛季
              少屬清科重宗
              [少允中原吉光]
         縫殿頭兼助賀茂朝臣宣憲、
         主計頭兼頭賀茂朝臣在憲、
<於禁裏召宮主、仰御祈事、>(右頭書)
今日於禁裏、召宮主雅楽助卜部兼濟、仰云、自今日參籠神祇官、來九日遷幸大内、無風雨難可被遂行之由、
<遷幸御裝束始事、>(右頭書)
可被祈請申者、是依天仁例也、今日遷幸御裝束始也、宮方行事權辨光雅朝臣、藏人時房參會行之、
玉葉
山槐記
治承4年
(1180)
4月8日 【斎院入御のため灌仏会なし】
『玉葉』
(前略)
<「灌仏事、」>(右頭書)
内裏無灌仏、出家所々有灌仏、(後略)

『山槐記』
(前略)今日無灌仏、御即位以前并初齋院入御紫野院之故也、大嘗會年無云々、
玉葉
山槐記
明月記
治承4年
(1180)
4月12日 【斎院(範子)初斎院御禊】
『玉葉』
<「斎院御禊事、」>(右頭書)
 陰晴不足、時々小雨、此日初斎院御禊也、余依先日召献牛、<第三車料、>牛童不給装束、本所被設之故也、進車之時車副・牛飼等賜褐衣・藁等、相副令進者、今度御禊無六府之前駆、例也、自明年可有件等前駆云々、(中略)
<「自七日至祭日神事、」>(右傍書)
自七日至祭日神斎、有御禊年如此、伝聞、今日禊、典侍不渡大路参会河原、違例云々、奉行職事(藤原)親経、只仰可渡祭之由、不催御禊事、親経陳云、令催禊斎之由、典侍蓋存哉云々、大略彼是未練事●、

『山槐記』
 今日初斎院<御年四歳、新院第一[二]御内親王也、母権中納言(藤原)成範卿女、號小督殿、即新院(高倉上皇)女房也、生此宮之後不参、去年冬為尼、生年廿三也、有子細歟、不知其由、前治部卿(藤原)光隆卿奉養之、中御門南京極西前中宮権大進(藤原)重頼宅為卜定所、去年三月廿六日焼亡、仍遷御冷泉北室町西、左少将有房妹室[宅]、其後入御左近府、今日禊東河令入本院給也、今上受禅之後不改之、近年絶斎王不御坐、或雖卜定不入紫野宮退出、今日已無障入御、神感炳焉物歟>禊東河入御紫野院、<近年紫野舎屋皆無實、近日俄造営寝殿、阿波遷任功、自餘又成功等云々>上卿新大納言<(藤原)宗家、卜定以後雅頼實家實綱等卿不遂奉行>宰相右中将<(藤原)實守、卜定以後無宰相、今度御禊歟>弁蔵人頭左中弁(吉田)経房朝臣、<卜定以後重方兼光等朝臣不遂奉行>外記少外記中原貞親、史左大夫大江盛直等也、蔵■方[人?]事蔵人宮内権少輔親経、蔵人平時房等奉行之、予自去五日宿東山、今日及晩<於近江河原近邊日入>帰三條之間、便立車於一條西洞院、密々見物、及亥剋行事官渡大路、先々儀白晝事也、後陵遅之甚、<先儀今度禊行、或不渡>
 先辨、
車、<袖鶴丸三所居之、各三疋、補藏人頭之後用此文也、立布知内小八葉、切物見、牛黄、牛童薄色上下、白衣、不出、>
小舎人二人、<布袴、相並追前、>
辨侍一人、<着藁沓追前、>
雜色八人<平禮白張、下臈一人取松明在車前、第一列四人、第二列三人、>
 追前、<キヤサキニアラス、>
笠持、
次外記、
次史、<已上車不切物見、牛童白張、使部一人、雜色四人、無小舎人童、>
次左右京職、
次御祓物、<宮主相具歟、慥不見、>
次前駈、
五位四人、
右衞門權佐親雅、<闕腋袍、青朽葉下重、螺鈿劔、不付魚袋、>
看督長二人、<在前、>蠻繪隨身二人、<負胡▲在後、>
 已上取松明在馬前、
府隨身二人、<一人遲來走付、>火長二人、<冠、>
雜色兩三人、
侍從成定、
民部少輔定宗、
右衞門佐隆雅、<隨身着蠻繪着靴、一人取松明在馬前、一人在後、>
四位四人、
治部卿顯信朝臣、
左少將(源)有房朝臣、
修理權大夫信基朝臣、
木工頭師兼朝臣、
 已上小總鞦、付杏葉和鞍、雜色不着當
 色、先儀着之、或申請▼隨身事也、
 公卿四人、
源大納言、<定房、>
 馬副八人、<二人取松明在馬前、四人取松明在馬後、>二人▼、
 雜色四五人、
藤中納言、<成範、馬副六人、> 雜色四五人、
右宰相中將、<(藤原)實守、>
 馬副四人、<取松明在馬後、>蠻繪隨身四人、<負胡▲取松明在馬前、>
 無雜色、
堀川宰相、<(藤原)頼定、>
馬副四人、 雜色五六人、
宰相中將隨身追前、自餘不追、依不可具雜色之儀歟、
已上和鞍着付杏葉、前駈下臈可爲前也、而或在公卿前、或在後、又馳過、狼藉不可者、
次々第使左馬助季高、<隨身二人在馬後、雜色 人取松明在馬前、>
次長官左近少將實教朝臣、<蠻繪隨身着靴取松明在馬前後、>
次六府歩陣漏剋等可列歟、狼藉之間慥不見、
次御輿、<毎年御禊用御車、>
廳官下仕着靴手振取物等列、又狼藉不具注、駕輿丁着褐衣、准后之時着退紅也、而先々雖非准后令退紅、慣彼儀歟、非也、
次腰輿、<舊儀今日不相具、近代具之、>
次御膳辛◆[櫃]臺盤水樽荷飯膳部等不具注、
次女騎、<女藏人八人、如童女等各四人也、不具見、>
次次官二人、<此内一人前治部卿(藤原)光隆卿二男兼隆、>
次判官二人、
次祿辛◆、
次所雜色、<源行時(木工權頭時盛二男、生年八才云々、騎葦毛小馬、侍一人付馬口)、同通時、>
次衆四人、<先例多雜色四人、衆二人也、而天仁如此云々、毎年御禊雜色二人衆四人也、>
次一御車、<糸毛庇、齋王御車也、空車也、用攝政御牛恒儀也、在手振取物等、>
次女別當車、<糸毛庇、屐子、手振取物等各八人也、但有遲來輩、追走、>
次宣旨車、<屐子手振各六人、取物八人歟慥不見、>
次々第使馬允、
次女房車五輛、
次童女車一輛、
次馬寮車四輛可列歟、二輛前行了、
次敕使典侍可渡也、或又判官次渡歟、而不見、後聞大納言典侍(藤原輔子)<御乳母也、藏人頭(平)重衡朝臣妻、前大納言邦綱卿女、>不存其旨、今朝沙汰出來、俄奉仕云々、仍遲參歟、藏人宮内權少輔親經奉行此事、親經禊祭兩日同人可渡之由存之、女房不致其沙汰、又大納言典侍存各別使之由、不出立之間、懈怠出來、遂大納言典侍參向云々、此敕使不相具出車云々、而親經催送之、空歸云々、先例初齋院敕使典侍祭供奉典侍各別★也、

『明月記』
 初斎院御禊、入御紫野云々

●=欤(歟の異体字。こちらを参照(字源))
▲=籙(竹冠に禄または録。こちらを参照(字源))
「胡籙(やなぐい)」=矢を入れて携帯する武具。武官や随身が身に着けた。
▼=龓(有+龍。くちとり。こちらを参照(字源))
◆=樻(木+貴。櫃の異体字。こちらを参照(字源))
★=伇(人偏+几+又。役の異体字。こちらを参照(字源))
玉葉
山槐記
治承4年
(1180)
4月15日 【賀茂祭】
『玉葉』
(4月15日条)
<「賀茂祭、」>(右頭書)
 陰晴不定、賀茂祭也、近衞使右近少将(藤原)基宗<被許昇殿云々、>・中宮(平徳子)使亮(平)通盛朝臣・馬助源正綱・斎院長官左少将(藤原)実教朝臣云々、禊斎状況新大納言(藤原)宗家、并左中弁(吉田)経房朝臣、余不見物、
(4月16日条)
<「祭還事、」>(右頭書)
 朝間天陰雨下、午後天晴、祭還也、家中男女少々為見物行向、余不見物、
<「摂政密々見物、」>(右傍書)
摂政(近衛基通)密々見物者、(平)信基朝臣乗車後云々、太見苦事●、

『山槐記』
 朝間晴、午後陰、入夜雨下、今日賀茂祭也、<齋王(範子)今年始渡御、>午始刻密々立車於一條西洞院、又車三輛相從、未剋馬寮車渡、申刻檢非違使及供奉輩渡晴、秉燭以前事了、行列散々、任渡次第記之、
馬寮車三輛、<先々異體破損舊車也、今年中馴也、男遣之、>
刀自垂之、色々薄衣、或五、或二、白生單衣、生唐衣、各自簾下出袖口、
行事藏人頭左中辨(吉田)經房朝臣、
<雀丸、不出表袖衣、>  牛<黄斑、新院御牛也、>
牛童、<新院牛童三郎丸、赤色上下村濃括、濃款冬衣、引陪支、(○野本大本作引乃利出之、)>
御倉小舎人二人、<布袴、相竝、>
辨侍一人、<在小舎人次、>
雜色八人、<薄青白裏(練張絹)、村濃括、>
薄青衣不出、白生單衣、
無小舎人童并笠持、已上不懸葵、
少外記中原貞親、
<不切物見、>      牛、<黑斑、>
牛童、<白張、薄色衣、>  使部、
雜色四人、<白張、白衣、白練單衣、>
 無小舎人童笠持、
左大史大江盛景、
<不切物見、>      牛、<黑、>
牛童、<白張、白衣、>   使部、
雜色四人、<白張、白衣、>
 無小舎人童笠持、
看督長五十三人、<在北卅一人、右南廿二人、>
檢非違使左府生大江經廣、
馬、<仁毛、>       舎人、<槿黄衣、>
下部、<褐返以黄錦手下懸伏輪、>菊閇、
  赤字錦腰、赤帷、持桙、馬後立中央、
調度懸、<下部ノ次右、虫襖、>火長一人、<左相並調慶[度]懸、>
小舎人童、<濃香縹衣白單衣、>雜色四人、<白張、縹衣、>
左志清原季光、
馬、<仁毛、>       舎人、<槿黄衣、>
調度懸、<青仁黄衣、黄單衣、>火長、
小舎人童、<槿白衣、>   雜色、<白張、白衣、>
 不相具下部、依告囚被停廳事也、
右尉源光長、
馬、<黑駮、>       舎人、<香、白衣、>
下部、<虫襖、藍摺帷、>   調度懸、<虫襖、差都加利矢、>
火長二人、       小舎人童、<槿白衣、>
雜色、<白單、狩衣、縹引陪幾、>
左尉藤原景綱、
馬、<黑、>        舎人、<槿、白衣、>
下部、<虫襖、赤帷、>    調度懸、<青仁、黄衣、差都鴈矢、>
火長二人、<差都鴈矢、>   小舎人童、<香、縹引陪幾、>
雜色、<白張、縹引陪幾、>
左尉藤原忠綱、<内藏寮幣次渡之、>
馬、<黑、>        舎人、<香、縹、>
下部、<褐返以白糸括、>   調度懸、<虫襖、黄衣、差都鴈鴈矢、>
火長二人、       小舎人童、<槿、白衣、>
雜色、<白張、白衣、>
山城介盛光、
馬、          舎人、<薄色上下、白衣、>
馬副六人、       手振十二人、
雜色六人、<白張、白衣、>  取物舎人四人、<菅笠、>
内藏寮幣、
前掃二人着冠、<不着襷◆半臂、持▲>幣外居二人、<烏帽、>
小使六人、<三人蘇芳狩衣、三人束帶白重、皆騎馬、>
長官車、
袖、<前右、後左、唐墻牡丹、自外網代如例、>
簾、<如常、但有總、>
棟括、<有總、>
牛、<黄斑、>牛童、<虫襖上下、款冬衣、不出之、>
遣繩、<白、有總、>
所雜色源行時車、
袖物見透車文、<菱、>
網代、<鞆繪文與網代文各一相交、>
簾、<塗緑青、擧巻有總、透車文、>
棟括、<在蘇芳末濃總、>
牛、<黄、>
牛童、<赤色上下、拔布、款冬衣出之、狩衣、袴付網代文、>
遣繩、<白、無總、>
本院幣、
前掃二人、<冠着半比下重、>  外居二荷、
小使一人、
近衞使車、
袖、<前右後左立臨時祭舞人祖裼、前左後右透竹臺、>
物見、<透網代文牡丹唐草、>
簾、<前付銅薄葵、擧巻有總、後付左大屋、>
棟括、<有總、>       鞦、<總入蘂、>
牛、<黑、額足白、>
牛童、<新院牛飼地藏丸、二藍上下、濃款冬衣、黄單、狩衣、前方付人長輪、後方付柳、>
遣繩、<花田匂打交、有總、>
馬寮使左權助政總、
馬、<葦毛、黄櫨匂差縄、>    舎人、<萌木上下、款冬衣、>
馬副六人、<二人取口、>    隨身二人、<壺脛巾、指鞭、>
手振十三人、<蘇芳褐、>    雜色六人、<朽葉拔布上下、萌木衣、白生單、>
取物舎人四人、<菅笠、>
無引馬小舎人童、
近衞使、
和琴、<琴持付葵、>
舞人十二人、<冠付葵、>
使左少將基宗、<付葵、>
馬、<黑栗毛、蘇芳打交差縄、>
▼、
左府生秦兼平、<付葵御簾鈎總、新院御隨身、>
右府生下毛野敦重、<付藺笠切付、>
舎人、<新院御厩舎人、赤色上下、村濃括、款冬衣、狩衣、紐付葵、>
居飼、
馬副六人、<差村濃括、付葵、>
隨身二人、<蠻繪拔布、蘇芳末濃袴、指鞭、南隨身、右肩懸敕祿、>
手振十二人、<付葵、麹塵褐、黄櫨濃括、蘇芳末濃袴、>
引馬、<黑河原毛、萌木紗鞍覆、泥障懸伏輪、蘇芳淡差縄、有總、>
▼、
左府生佐伯近文、<冠、赤色上下、紅打衣、付獻物、>
右番長秦兼次、<新院御隨身、二藍紅衣、付直巻具、>
舎人、<新院御厩舎人、朽葉萌木衣、白生單、>
居飼、
小舎人童六人、<浮線綾裏款冬、以緑青畫青摺文、付櫻插頭、花葡萄染打衣、白生單、結髪付物忌、有傳人、>
雜色六人、二藍、<付款冬插頭花、濃款冬衣、差村濃括、>
取物舎人四人、<當色同雜色、笠張纐纈、有紫文、上立松藤、以青唐物爲帽額、付藤花、>
陪從八人、
共官人八人、
内藏寮使助倫仲、
馬、<鵜毛駮、>       舎人、<青丹上下、黄衣、>
馬副六人、        手振十二人、
雜色六人、<白張、白衣、>  取物舎人四人、<當色同、菅笠無帽額、>
中宮使車、
袖物見、<透網代文蝶丸、>
上物見下張萌木唐綾、畫網代文、
簾、<透文、付蝶、擧巻有總、蘇芳、>棟括、<有總、蘇芳、>
牛、<黑、>         牛童、<新院牛飼、七郎丸、赤色上下、款冬、白帷、狩衣付蝶、>
遣繩、<花田打交、>      鞦、<總入蘂、>
中宮職幣、<白妙、>
前掃二人、        幣持二人、
已上着襷◆、
小使二人、
使亮通盛朝臣、
馬、<黑、>
▼、
左府生中臣近武、<新院御隨身、付桙比禮冒、>
右府生下毛乃敦助、<編墨付之、>
舎人、<二藍上下、付蝶、紅衣、新院御厩舎人、>
居飼、
馬副八人、<着紫括、>
手振十二人、<麹塵褐、蘇芳>濃袴、
引馬、
▼、
左府生秦兼仲、<褐、付平緒、>與敦助相論之間、看之歟、
右番長播磨貞弘、<二藍款冬衣、付幅敷、>新院御隨身、
舎人、<朽葉上下、付蝶、款冬、白生單、>
居飼、
雜色八人、<萌木上下、付蝶、款冬、白生單、>
取物舎人四人、<當色同雜色、菅笠、以唐綺爲帽額、付蝶、>
 無小舎人童、
女使三人、
次第司右權助季高、
馬、<黑駮、>
舎人、<朽葉上下、薄色衣、白生單、>
小舎人童一人、<萌木、款冬衣、>隨身二人、<壺脛巾、差鞭、>
雜色六人、<濃蘇芳狩衣、萌木衣、不出之、白生單、>
 無取物、相具唐笠、
長官左少將(藤原)實教朝臣、
馬、<唐毛、黄櫨打交差縄、>   舎人、<萌木上下、款冬衣、>
居飼、          馬副八人、<二人取口、>
蠻繪隨身二人、<指鞭、>
手振十二人、<麹褐、蘇芳濃(○淡イ)袴、>
雜色八人、<薄色白張裏、萌木衣、不出之、>取物舎人四人、<當色同雜色、菅笠、>
漏剋具、
 前掃二人、
女使二人、
御輿、<駕輿丁褐衣、准后之時着退紅、>
腰輿、
御膳具、
女騎、
次官二人、
兼隆、
馬、<糠毛、>        舎人、<青丹、>
小舎人童一人、<朽葉、萌木衣、>雜色六人、<萌木、薄色衣、>
忠光、
馬、           舎人、
小舎人童、<赤色、>     雜色四人、<白張、>
判官一人、
藏人所雜色二人、
源行時、
馬、<黑駮、>
侍一人、<青丹襖袴、>一人<水干袴、>付口、生年八才、仍副之歟、
祖父入道木工權頭季時出立之、生年七十二云々、
舎人、<萌木薄色衣、>   小舎人童、<赤色拔布上下、款冬衣、>
雜色四人、<朽葉拔布、萌木衣、>
取物舎人四人、<當色同雜色、>
笠、<張萌木、唐綾赤地錦、帽額上立牡丹、>
 已上舎人以下皆付申文、
源道時、
馬、         舎人、
小舎人童、<赤色款冬衣、> 雜色四人、
取物舎人四人、
衆四人、<雜色皆着當色、>
屐子、<糸鞋>
一車、<糸毛、有庇、>
宣旨車、<同前、>
典侍車、<糸毛、無庇、>
女房車五輛、<前右後左出萌木匂紅單、紅打衣、款冬表着、生育朽葉唐衣、生白腰裳前左後右款冬匂青單、紅打衣、青朽葉表着、二藍唐衣、白腰裳、黄朽葉、加沙身(カサシ)、>
童女車一輛、
典侍從五下藤原輔子、<御乳母也、前大納言(藤原)邦綱卿女、藏人頭(平)重衡朝臣妻、>
前駈笠、
前駈六人、<右馬助邦業、散位定成、散位爲賢、前皇后宮少進仲盛、(已上藏人五位、)大膳亮源泰定(皇嘉門院非藏人)、所雜色源親定(忠光子)、>
<糸毛、有庇、>
屐子、<糸鞋>
出車五輛、<紫匂紅單、紅打衣、款冬表着、青朽葉唐衣、白腰裳、>
命婦、
前駈、<内豎等、>
車、<糸毛、無庇、>
出車三兩、<白衣、白單、二藍唐衣、自腰[裳]、>
藏人、
車、<檳榔、金作、>
出車二兩、<一兩二色、紅單、一兩若鶏冠紅單、白腰裳、>
後聞、近衞使自持明院、<嚴閣基家卿家、>出立、中御門大納言、<(藤原)宗家、>平中納言、<頼盛、>堀河宰相、<(藤原)頼定、>大宮宰相中將、<(藤原)實家、>行向、近衞司左中將清通朝臣、右少將實明、基範等行向云々、參内之時被召御前、垂晝御座御簾、使入仙花門、候長橋、藏人居衝重、藏人宮内少輔親經勸盃、藏人取瓶子、舞人入仙花門、於東庭舞求子退出、次藏人左衞門權助取敕祿賜使、使徒踐退出、次御覽餝馬、馬副手振引馬入瀧口戸、引馬▼番長着烏帽、仍餝馬引出之後、敦景更引々馬、中宮御禊陪膳左少將時實朝臣、<乍帶壺胡★取御贖物、>權大進光綱、宮使餝馬以下雜色取物等皆悉御覽、經承香殿外、渡弘徽殿細殿前、御覽之、笠不通、仍自登華殿北渡南、更相具行列渡北、宮御座似供細殿、此事先例不詳、宮司計行云々、敦佐兼仲論座次、敦佐申任官上臈之由、兼仲申祇候鳥羽院之由、此間及時剋推移云々、通盛朝臣自六波[羅脱?]門不出立、依遼遠借請宮内卿(藤原)永範卿家<一條大宮、>云々、

●=欤(歟の異体字。こちらを参照(字源))
◆=襅(衣偏+畢。ちはや。こちらを参照(字源))
▲=楉(木偏+若。ずはえ。若い小枝。こちらを参照(字源))
▼=龓(有+龍。くちとり。こちらを参照(字源))
★=籙(竹冠に禄または録。こちらを参照(字源))
「胡籙(やなぐい)」=矢を入れて携帯する武具。武官や随身が身に着けた。
吉記 治承4年
(1180)
11月16日 【斎院相嘗御神楽延引】
(未入力)
玉葉
山槐記
吉記
明月記
ほか
治承4年
(1180)
12月2日 【斎院相嘗御神楽】
『玉葉』
(未入力)

『山槐記』
(前略)齋院(範子)相嘗御神楽云々、今月延引、自新院被催上達部殿上人、殿上人可取拍子云々、依上皇御子有嚴重儀歟、後聞、中御門大納言、<宗家、>右兵衛督(家通、)參入云々、(後略)

『吉記』
(未入力)

『明月記』
(未入力)
玉葉
明月記
公卿補任
ほか
治承5年
[養和元年]
(1181)
1月14日 【父高倉上皇崩御。斎院(範子)退下】
『玉葉』
(未入力)

『明月記』
(未入力)

『公卿補任』
(文治4年)
正四位下 同(藤原)實教(中略)
<同(治承)四四一兼齋院長官。壽永二正八正四位下。十四日止長官。(後略)>
後鳥羽天皇
史料 月日 記述
玉葉 建久2年
(1191)
1月11日 【女叙位。前斎院(範子)の名前のこと】
 此日、女叙位也、(中略)
至于中宮(九条任子)御給之処、押筆申云、則子与範子<前斎院云々、>雖字異訓同如何、余(九条兼実)云、於女名者不憚同訓●、申后(藤原)安子者名人也国母、然而高陽院(藤原)泰子也、況於已下哉者、定長伏理叙之、(後略)

●=欤(歟の異体字。こちらを参照(字源))
三長記
女院記
建久6年
(1195)
10月22日 【前斎院(範子)、准三宮】
『三長記』
 前斎院(範子)准妃事被宣下云々、

『女院記』
<範子>
坊門院 高倉院御女。土御門院准母儀。
 治承元年誕生。同二年六月廿七日内親王。卜定。賀茂齋院。<年二。> 建久五年八月退下。同六年十月廿一日准三宮。<年十九。>(後略)
明月記 建久9年
(1198)
1月6日 【叙位。範子内親王年給】
(未入力)
明月記 建久9年
(1198)
1月8日 【範子内親王立后のこと】
(未入力)
土御門天皇
史料 月日 記述
明月記 建久9年
(1198)
1月25日 【範子内親王立后のこと】
(未入力)
三長記
明月記
三中記
師直記
建久9年
(1198)
2月14日 【前斎院(範子)、入内】
(未入力)
猪隈関白記
三長記
建久9年
(1198)
2月20日 【土御門天皇、内裏へ遷幸。前斎院(範子)同輿】
(未入力)
明月記 建久9年
(1198)
2月28日 【範子内親王立后のこと】
(未入力)
猪隅関白記
ほか
建久9年
(1198)
3月3日 【土御門天皇即位。範子内親王、皇后宮に冊立】
(未入力)
猪隅関白記 建久9年
(1198)
6月4日 【皇后宮(範子)入内】
(未入力)
猪隅関白記 建久9年
(1198)
11月17日 【三位中将兼基慶申。皇后宮(範子)へ参上】
(未入力)
玉葉 建久10年
[正治元年]
(1199)
1月4日 【皇后宮(範子)御給】
(未入力)
明月記 建久10年
[正治元年]
(1199)
1月9日 【叙位。皇后宮(範子)御給】
(未入力)
明月記 建久10年
[正治元年]
(1199)
2月22日 【春日祭。皇后宮(範子)使あり】
(未入力)
明月記 建久10年
[正治元年]
(1199)
4月24日 【賀茂祭。皇后宮(範子)使あり】
(未入力)
明月記 正治元年
(1199)
7月11日 【皇后宮(範子)行啓のこと】
(未入力)
明月記 正治2年
(1200)
11月11日 【皇后宮(範子)入内】
(未入力)
明月記 正治2年
(1200)
11月14日 【皇后宮(範子)帰参】
(未入力)
猪隈関白記 建仁元年
(1201)
3月7日 【土御門天皇、五辻第へ方違行幸。皇后宮(範子)同輿】
(未入力)
猪隈関白記 建仁元年
(1201)
4月8日 【灌仏会。皇后宮(範子)へ公卿参上】
(未入力)
猪隈関白記 建仁元年
(1201)
6月8日 【土御門天皇、内裏へ行幸。皇后宮(範子)同輿】
(未入力)
明月記 建仁3年
(1203)
1月6日 【叙位。皇后宮(範子)御給】
(未入力)
明月記 建仁3年
(1203)
7月17日 【皇后(範子)大進名前】
(未入力)
明月記 建仁3年
(1203)
11月18日 【皇后(範子)大進名前】
(未入力)
明月記 建仁4年
(1204)
1月6日 【叙位。皇后宮(範子)御給】
(未入力)
明月記 建仁4年
(1204)
2月23日 【仁王経法結願。皇后宮(範子)権大夫名前】
(未入力)
明月記 建仁4年
(1204)
4月13日 【春秋除目。皇后宮(範子)亮名前】
(未入力)
明月記 建仁4年
(1204)
4月16日 【賀茂祭。皇后宮(範子)大進名前】
(未入力)
明月記 元久2年
(1205)
4月10日 【祭除目。皇后宮(範子)当年二分代のこと】
(未入力)
明月記 元久2年
(1205)
4月20日 【賀茂祭。皇后宮(範子)使のこと】
(未入力)
明月記 元久2年
(1205)
閏7月21日 【皇后宮(範子)御母儀のこと】
「向高倉院督殿(小督)宿所<皇后宮(範子)御母儀>訪病事(頭書)」
 昏黒、行向高倉院督殿(小督)宿所<皇后宮(範子)御母儀>、月来病悩、被待時之由聞之、年来於此辺聞馴之人也、仍訪之、女房出逢、即帰宿所、
明月記 元久2年
(1205)
11月30日 【皇后宮(範子)御給】
(未入力)
猪隈関白記 元久3年
[建永元年]
(1206)
4月22日 【賀茂祭。皇后宮(範子)重服により使なし】
(未入力)
三長記
百錬抄
一代要記
公卿補任
建永元年
(1206)
9月2日 【皇后範子内親王、坊門院の院号宣下】
『三長記』
(未入力)

『百錬抄』
 有院号定。皇后宮(範子)●為坊門院。

『一代要記』
(土御門天皇)
 前后(中略)
坊門院<範子、 高倉院女、治承二ー 月 日爲齋院、號猫間齊院、■■[建久]九ー帝御母儀、建永元ー九月二日院號、元皇后宮、> (後略)

『公卿補任』
(未入力)

●=軄(身+音+戈。職の異体字。こちらを参照(字源))
猪隈関白記
明月記
吾妻鏡
承元2年
(1208)
閏4月15日 【京都大火。坊門院(範子)御所坊城殿焼失】
(未入力)
明月記 承元2年
(1208)
6月4日 【藤原定家、坊門院(範子)へ参向】
(未入力)
猪隅関白記
百錬抄
一代要記
ほか
承元4年
(1210)
4月12日 【坊門院範子内親王崩御】
『猪隈関白記』(4月13日条)
 早旦或人云、坊門院(範子)去夜半崩給了云〃、此一兩日雖悩胸給、非殊事、大略頓滅云〃、御年卅四云〃、高倉院御女、院(後鳥羽上皇)御姉、主上(土御門天皇)御養母也、件御在所一條南室町東也、(後略)

『百錬抄』
 坊門院(範子)崩御。<御年三十四。>

『一代要記』
(土御門天皇)
 前后(中略)
坊門院<範子、 高倉院女、治承二ー 月 日爲齋院、號猫間齊院、■■[建久]九ー帝御母儀、建永元ー九月二日院號、元皇后宮、承元四ー四月十三[二]日■[頓]滅、>
猪隈関白記 承元4年
(1210)
5月4日 【坊門院(範子)薨奏】
(未入力)
明月記 建暦元年
(1211)
11月8日 【坊門院(範子)頓滅夜のこと】
(未入力)
明月記 建暦3年
(1213)
7月21日 【坊門院(範子)頓滅の邸宅のこと】
(未入力)


史料 記述
一代要記
土御門院天皇
(前后)
 坊門院<範子、> <高倉院女、治承二ー 月 日爲齊院、號猫間齊院、■■[建久]九ー帝御母儀、/建永元ー九月二日院號、元皇后宮、承元四ー四月十三[二]日■[頓]滅、>
帝王編年記
高倉院
(皇女)
 範子〃〃〃[内親王]<母成範卿女/加茂齋院>
(齋院)
 範子内親王<帝第二皇女母式部卿成範卿女/治承二年六月廿七日卜定年二>

安徳天皇
(齋院)
 範子内親王<如故治承五年正月十四日退下/依太上皇御●也>

土御門天皇
(前后)
 坊門院<高倉院皇女母成範卿女/建永二年九月二日院号元皇后宮承元四年四月十二日崩>

●=㕝(古+又。事の異体字。こちらを参照(字源))
二中歴
(齋院)
 範子<高倉女 治承二年>

(女院歴)
 防門院<範子高倉院御女元久三九二院號卅同四四十三崩卅四 或建永九九二院號但或可依改元歟>
皇代暦
高倉天皇
(齋院)
 [範]子内ー 帝二女治承二年卜定

安徳天皇
(齋院)
 ■[範]子内親王<元> 新院女退

土御門天皇
(後宮)
 坊門院 範子内親王高倉皇女中納言成範女當今准母建久九年三月三日爲皇后<依准母>建永元年九月二日院號承元四年四月十一日崩
本朝皇胤紹運録
(高倉天皇子)
坊門院[範子内親王。齋院。號六角宮。又號土用宮。承元四四月十三日崩。<三十四。>母成範卿女]
本朝女后名字抄
(賀茂齋内親王)
範子内親王<號六角宮(右傍書)> 治承二年卜定。高倉院第五御女。母成範卿女。坊門院。
賀茂斎院記
範子内親王
高倉院之皇女也。母成範之女。
治承二年卜定。
号坊門院。又号六角宮。又号土用宮。
承元三年四月十二日薨。
女院記
<範子>
坊門院 高倉院御女。土御門院准母儀。
 治承元年誕生。同二年六月廿七日内親王。卜定。賀茂齋院。<年二。> 建久五年八月退下。同六年十月廿一日准三宮。<年十九。> 同九年三月三日皇后宮。<年廿二。> 此日天皇即位。准母儀。建永元年九月二日坊門院ト申。承元四年四月十二日御事アリ。<年卅四。>
女院小伝
坊門院<範子>。土御門准母。高倉第一女。母中納言成範女。治承二六廿七日爲内親王。<勅別當越前守藤雅隆。>同日賀茂齋院。養和元正十四退下。<依高倉崩也。>建久九三三爲皇后宮。<依准母也。二十一。>建永元九二<庚辰>院號。<卅。>承元四四十二御事。<年卅四。>


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