←前

戻る

次→ 



33代斎院 頌子内親王


名前の読み(音) 名前の読み(訓) 品位
しょうし のぶこ 不明
両親 生年月日 没年月日
父:鳥羽天皇(1103-1156)
母:藤原実能女(1180没)
  [春日局]
天養2年(1145)3月13日 承元2年(1208)9月18日
斎院在任時天皇 在任期間 退下理由
高倉(1168~1180,甥) 卜定:承安元年(1171)6月28日
   (中御門京極)
初斎院:なし
本院:なし
退下:承安元年(1171)8月14日
斎院在任時斎宮 斎宮在任期間 斎宮退下理由
惇子(1158-1172,姪)
 [堀川斎宮]
 父:後白河天皇
 母:藤原公能女
  [春日局]
卜定:仁安3年(1168)8月27日
   (綾小路猪熊家)
初斎院:嘉応元年(1169)5月9日
   (一本御書所)
野宮:嘉応元年(1169)9月27日
群行:嘉応2年(1170)9月10日
退下:承安2年(1172)5月3日
薨去

略歴:
 天養2年(1145)(1歳)3月13日、誕生。
 保元元年(1156)(12歳)7月2日、父鳥羽法皇崩御。
 承安元年(1171)(27歳)6月28日、甥高倉天皇の賀茂斎院に卜定。


8月14日、病のため退下。
 承安5年(1175)(31歳)6月24日、高野山蓮華乗院に紀伊国南部荘の田10町を寄進。
 治承4年(1180)?(36歳)6月6日、母春日局死去。
 寿永元年(1182)(38歳)6月27日、甥の静恵法親王(後白河天皇皇子)を猶子とする。
 寿永3年/
 元暦元年(1184)
(40歳)9月20日、落飾。
 承元2年(1208)(64歳)9月18日、薨去。

号:春日殿姫宮、冷泉姫宮、五辻斎院
猶子:静恵法親王

斎院勅別当:平時盛(承安元年(1171)6月28日~8月14日?)

鳥羽天皇第七皇女。
 母方の祖父実能は待賢門院璋子の兄で、鳥羽天皇の従兄弟。
 (※実能の父公実と、鳥羽天皇の母苡子が兄妹)
 母春日局は、31代式子内親王の母成子(高倉三位)の従姉妹にあたる。

         ┌───────┐
         │       │
 堀河天皇===藤原苡子    藤原公実
      │          │
      │          ├───────┬───────┐
      │          │       │       │
      │          実能   璋子[待賢門院]    季成
      │          │     (鳥羽中宮)     │
      │          ├────┬────┐     │
      │          │    │    │     │
     鳥羽天皇=======春日局   公能   育子    成子
      │     │         │    (二条中宮) (式子母)
      │     │         │
      │    ◆頌子     ┌──┴───┬──────┐
      │            │      │      │
    後白河天皇==========忻子     多子    坊門局
      │          (後白河中宮) (近衛・二条后) (惇子母)
      │
  ┌───┴┬────┬───┐
  │    │    │   │
 二条天皇 高倉天皇  惇子  式子
  │         (斎宮)
  │
  僐子


 嘉応元年(1169)の32代僐子内親王(二条皇女、11歳)卜定の際、僐子と共に頌子内親王(25歳)も候補に挙げられていたが、頌子は父鳥羽院の出家後に誕生した皇女であったことから、仏事を忌む斎院には憚りありとして卜定されなかった。その後承安元年(1171)に僐子が病のため退下(その後間もなく薨去)すると、当時斎王候補となりうる未婚・非女院の内親王は頌子一人しか残っていなかったため、結局頌子が33代斎院として卜定された。
 しかし頌子も病のため、わずか二ヶ月足らずで退下(なお翌年、斎宮惇子内親王も伊勢で薨去)。この結果、治承元年(1177)の34代範子内親王卜定まで、賀茂斎院は約6年間に渡り不在となった。なおあまりに短期であったためか、『本朝女后名字抄』『賀茂斎院記』の歴代斎院に頌子の名前は記載されていない。

 承安5年(1175)、31歳の頌子内親王は父鳥羽院の菩提を弔うため建立した高野山蓮華乗院に、紀伊国南部荘(みなべのしょう)の田地十町を寄進した。これには歌人として著名な西行法師が勧進に携わっており、現存する西行の自筆文書「円位書状」(国宝、金剛峯寺所蔵)の中にも「蓮華乗院柱絵沙汰」のことが記されている。西行は在俗の頃に頌子の外祖父・徳大寺実能に仕えており、その縁もあって旧主の娘である春日局とその所生の頌子の寄進に尽力したと思われる。
 ところで上記の西行との関わりから、従来『山家集』1224の詞書にある「斎院」は頌子内親王とされてきた。しかし近年高柳祐子氏が、この斎院は本院入りを遂げなかった頌子と見るには不適当で、西行の若き日に26年の長きに渡って在任した怡子内親王である可能性が高いと指摘しており(「『山家集』の斎院」)、妥当な見解と思われる。
 また頌子内親王領としては、南部荘の他にも同じく紀伊国相楽荘、山城国伏見荘、越後国大神荘等が知られる(『日本荘園史大辞典』p231)。このうち山城国伏見荘は元々源有仁(後三条天皇孫)から相伝されたとされるが(八代国治「伏見御領の研究」p119, 『講座日本荘園史7』p51)、高橋昌明氏は有仁から同母妹の前斎宮守子内親王(輔仁親王女、号伏見斎宮。1156没)を経て頌子に伝わった可能性もあるとする(「西行と南部荘・蓮華乗院」)

 母春日局の没年は不明とされるが(『平安時代史事典』『日本女性人名辞典』)、『吉記』(治承5年(1181)6月6日条)に「前斎院母儀春日殿周忌僧事々」の記事があり、また『高野山文書』「蓮華乗院仏事相折帳」にも「六月六日御母儀御忌日」の記載があることから、治承4年(1180)以前の6月6日に死去したことがわかる。さらに安元3年(1177)6月22日付の春日殿書状の存在から、春日局が亡くなったはこれ以後で、治承2年(1178)~同4年(1180)の間と見てほぼ間違いない(※高橋昌明氏は治承2年死去かとするが(「西行と南部荘・蓮華乗院」)、「周忌」という用語から見て、1年前の治承4年没か?)
 このただ一人の身内であった母の死もきっかけとなってか、頌子は寿永3年(1184)に40歳で出家を遂げた。幸運にも頌子の五辻第は治承・寿永の乱の中でも戦火に襲われずに済んだようで、頌子は都の片隅で戦乱の世を見つめつつ、いっそう深く仏に帰依する余生を送っていたのであろう。

 ところで『玉葉』(建久5年(1194)1月6日条)によると、吉田経房が頌子の後見であったらしい。また横山尚恵氏は、勧修寺流吉田家系とその親族が五辻斎院庁の役職を占めていたことを指摘しており、経房の子定経も「前斎院庁下文」に名を連ねていることから、経房とその一族が頌子と近い関係にあったことが伺える。
 いつ頃から経房が頌子の後見となったかは不明だが、経房の日記『吉記』には承安3年(1173)から寿永2年(1183)にかけて頌子の記事が散見される。このことから、『玉葉』記事よりかなり以前から経房が頌子の元に出入りしていたことが伺えるが、経房は31代斎院式子内親王の後見でもあったことがよく知られており、このため「前斎院」が式子・頌子のどちらを指すのか判別しにくい記事も見受けられる。

関連論文:
八代国治「伏見御領の研究」
 (『国史叢説』吉川弘文館, 1925)[国会図書館デジタルコレクション閲覧可]
横山尚恵「五辻斎院頌子内親王:五辻斎院領とその周辺にいた者たち」
 (『中世探訪紀伊国南部荘と高田土居:検注を拒否した人々(現地調査報告書2)』p88-100, 和歌山中世荘園調査会, 2001)
・高柳祐子「『山家集』の斎院」
 (『西行学(4)』, p96-107, 2013)
高橋昌明「西行と南部荘・蓮華乗院」
 (『西行学(5)』, p4-17, 2014)

参考資料:
・西井芳子「春日(1)」(『平安時代史事典』角川書店, 1994)

参考図書:
角田文衛『椒庭秘抄:待賢門院璋子の生涯
 (朝日新聞社, 1975)※1985年朝日選書から改題復刊
・網野善彦ほか編『講座日本荘園史7/近畿地方の荘園II』
 (吉川弘文館, 1995)
・瀬野精一郎編『日本荘園史大辞典』
 (吉川弘文館, 2003)

参考リンク:
『天皇皇族実録97.鳥羽天皇 巻8』宮内庁書陵部所蔵資料目録・画像公開システム
 ※頌子内親王については114~117コマにあり


【五辻殿のこと】
 頌子はその生母春日局(または春日殿)の邸宅であった(『玉葉』建久5年1月4日条)五辻殿(または五辻宮、五辻第)を御所としたことから、五辻斎院と号した。この五辻殿には二条天皇、六条天皇、後鳥羽天皇、土御門天皇等、歴代天皇が方違行幸に赴いており、また寿永2年(1183)の法住寺合戦の際には上西門院・皇后亮子内親王らも一時避難していることから、相当な規模の邸宅であったことが伺える。
 また『兵範記』によると、保元2年(1157)同3年(1158)に後白河天皇が一条北辺の「春日殿」に方違行幸しており、特に保元2年3月13日条には双行注に「右府女、春日殿堂」とある(ただしこの時の右大臣は藤原宗輔だが、宗輔に該当する女子はいないので、左大臣実能の誤りであろう)。また『山槐記』では、保元3年の行幸先は「姫宮御所」となっている。後に『兵範記』(仁安3年(1168)1月19日条)で「姫宮御所一條北邊五辻」とあるところから見て、恐らくこの「春日殿」は後に「五辻殿」と呼ばれた邸宅と同一のものであり、保元3年行幸の「姫宮」も後白河の異母妹である頌子を指すと思われる(五島邦治「五辻宮」)。あるいは頌子の母「春日局」の呼称も、元はこの邸宅名に由来していたのかもしれないが、記事の記述から見て「春日殿(人名)の堂」とも解釈でき、そもそもこの邸宅に特別な名称はなかった可能性も考えられる。
 なお「春日殿」の呼称が「五辻殿」に変わった理由は不明だが、そもそも史料上での「五辻」の地名の初見は保元3年9月7日の二条天皇行幸(『山槐記』)で、先述のとおりこの頃既に頌子内親王は春日殿(五辻殿)を御所としていたと見られる。「五辻」という名称は元々二本の道路(朱雀末路と北野中大路)が交差した辻に南西からもう一本の道路が侵入して「オ」字形になったことに由来するが、「五辻殿」が始め「春日殿」と称していたらしいことから見て、この「オ」字形の辻が出来たのがちょうど頌子誕生の頃かその少し後のことだったのではないか。よってその後「春日殿」は洛中にも同名の邸宅があること等から、条坊制による碁盤の目状の平安京では特異な景観である「五辻」が新たな地名として定着し、さらに邸宅の呼称にもなった可能性が考えられる。

 春日局は始め、父徳大寺実能(待賢門院の同母兄)からは認知されていなかったらしい(『台記』天養2年3月13日条)。また母方についても、角田文衛氏が輔仁親王女(待賢門院女房冷泉殿)が生母であろうと推測しているが(『待賢門院璋子の生涯』)、『尊卑分脉』には実能の女子の中に春日殿の名はなく、確かな記録は殆どない。いずれにせよ、春日局が叔母待賢門院と対立する美福門院に女房として仕えていたことからも、父実能とは疎遠であっただろうことが伺える(『本朝皇胤紹運録』は春日局を実能の養女とするが、『台記』の記述から見て、存在は知りつつも認知されなかった実子と思われる)
 ところが春日局が思いがけず鳥羽院に寵愛され、正式な妃にはならなかったものの皇女までも産んだことにより、当時待賢門院の出家等で逼塞していた実能から親子として認められることになった。実能は保元2年(1157)頌子が13歳の時に他界したが、春日局が頌子を産んだことで実能が五辻殿(当時は春日殿か?)を「姫宮御所」として娘に譲渡したか、もしくは鳥羽院が皇女の養育のために賜り、その後頌子へ伝領されたものであろうか。いずれにせよ、頌子自身は准母立后や院号宣下等の特別待遇にあずかることはなかったが、既に触れたように五辻斎院領は南部荘以外にも複数の荘園が知られており、また長年五辻殿を行幸先にふさわしい状態で維持管理していたと見られる点からも、頌子内親王家が財政的に恵まれた状況であったことが伺える。
 なお仁安3年(1168)頌子24歳の時、「姫宮(頌子)御所一條北邊五辻」は主上(六条天皇)の御本所として「彼宮御券契」を献上されたが、本券には及ばなかったらしい(『兵範記』仁安3年1月19日条)。その3年後、承安元年(1171)に賀茂斎院に卜定されるも二月足らずで病により退下した頌子は、いつからか「五辻斎院」の名で呼ばれるようになり、恐らく母春日局の死没により正式に五辻第を伝領して、その後も晩年まで住み続けていたのであろう。

 なお『自暦記』によると、建久9年(1198)10月25日に醍醐において「五辻斎院御所」が焼亡したことが知られる。この時記主藤原資経は久留栖野(山科の栗栖野であろう)で「五辻斎院」と会い、五辻家経や聖護院宮らと共に「五辻殿」に参上したらしいが、この「聖護院宮」は寿永元年(1182)に頌子の猶子となった静恵法親王(当時は園城寺長吏)で間違いなかろう。よってこの「五辻斎院」は頌子であり、当時醍醐に滞在していたと思われることから、五辻殿はこれ以前に範子内親王に譲られたとされる。
 その後『猪隈関白記』(正治2年(1200)12月23日条)に「前斎院五辻第」とあり、『大日本古記録』注はこの「前斎院」を範子とするが、範子は建久9年3月に土御門天皇准母として立后、皇后宮となっている。よってこの「前斎院」は頌子と考えられ、少なくとも正治2年末までは、頌子が五辻第を所有しまた実際に住んでいたと思われる。

 ところで元久元年(1204)に後鳥羽上皇が坊門信清(七条院の弟、後鳥羽の叔父)の造進した「五辻殿」を新御所としている。この時頌子はいまだ存命であったが、この五辻殿は頌子の五辻殿と同じ場所にあった可能性が高いとされ、後鳥羽が大叔母にあたる頌子から伝領した可能性も考えられる(角田文衛「五辻」。なお角田氏は建仁3年(1203)に「五辻斎院」が後鳥羽上皇に五辻宮を献上したとするが、典拠不明)。ただし、『三長記』(『仙洞御移徙部類記』所収『三中記』元久元年7月17日条)には「先御所号事有定、五辻無難之由、有其沙汰、左大弁申云、於五字者、数字皆生五、辻字無字書、本朝之人作之歟、自作不分明之上、不及字釈、一条殿可宜歟、又以件辺号五辻、其証不分明<云々>、然而猶被用五辻之号<云々>、」と、元々長く「五辻殿」と呼ばれていた邸宅にしては名称を定めるのに回りくどい経緯が記録されている(※『三長記』同年8月8日条には「件御所、五辻南、大宮西、当櫛笥末也」とあるが、『中古京師内外地図』では五辻斎院(頌子内親王邸)・五辻殿(後鳥羽御所)のいずれも一致しない)
 頌子の晩年の消息を伝える史料は殆どなく、管見の限りでは上に挙げた『猪隈関白記』(正治2年(1200)12月23日条)の土御門天皇行幸記事が最後である。また同記事は頌子の存命中に「前斎院五辻第」と明記した最後の記録でもあるが、のち『玉蘂』(文暦2年(1235)1月9日条)で、四条天皇の方違行幸先が「五辻斎院御所」とあり、頌子の没後30年近くが経過した頃になってもなお、五辻殿が「斎院御所」と呼ばれていたことがわかる(当時賀茂斎院制度自体が既に廃絶していた)。こうした点から見ても、高橋康夫氏が頌子内親王の「五辻斎院御所」と後鳥羽上皇の「五辻殿」は同一のものではない(「北辺の地域変容――十二世紀以降――」)としたのは正しく、恐らく頌子が生前に五辻殿を手放すことはなかったと思われる。
 なお高橋康夫氏は『兵範記』(保元2年8月3日・9日条)で後白河天皇が方違行幸した「世尊寺堂」を「春日殿」と同一であろうと見なして、頌子の五辻斎院御所は元々世尊寺であったと推測している。
 ただし『兵範記』の同年3~7月の行幸記事ではすべて「春日殿」とあるにもかかわらず、8月だけが「世尊寺堂」と記載している。加えて道程についても、3月13日の春日殿行幸では「自二條西行、自大宮北行、北邊自三町許西行、着御彼所」とするが、8月3日の世尊寺堂行幸では「自二條西行、自宮城東大路(=大宮大路)北行、着世尊寺堂」とあるので、世尊寺堂は大宮大路沿いにあったようだが、春日殿は大宮大路から西に入った場所であったことがわかる(もっとも同じ区画内に隣接していた可能性も考えられるが、明らかに入口は別と見てよかろう)。さらに翌年7月にも再び方違行幸があったが、この時の『兵範記』記事もやはり「春日殿」としていることから、記主の平信範は「春日殿」と「世尊寺堂」を明確に区別していたと思われる(なお『百錬抄』(養和元年11月15日条)に「前齋院世尊寺亭炎上」とあるのが、世尊寺に関する最後の記録である)
 ともあれ、『百錬抄』(承元2年9月18日条)の頌子薨伝は「五辻前斎院薨。<御年六十四。鳥羽院皇女。>」と記すのみで、亡くなった場所には触れていない。ただしこの場合は「五辻前斎院」という呼称から住居も五辻であることがわかるため、わざわざ追記する必要がなかった可能性もあり、また頌子が存命中五辻第を所有し続けていたのであれば、五十年以上の長きに渡って住み慣れた愛着ある邸宅で命を終えたものと考えられる。何より、最後までその名に「五辻」を冠して呼ばれたことからも、頌子内親王にとって五辻第が生涯に渡って切っても切れないものであったことが伺えよう。

参考論文:
・高橋康夫「北辺の地域変容――十二世紀以降――」
 (『京都中世都市史研究』p120-146, 思文閣出版, 1983)
参考資料:
・角田文衛「五辻」(『平安時代史事典』角川書店, 1994)
・五島邦治「五辻宮」(『平安時代史事典』角川書店, 1994)
参考図書:
・角田文衛『椒庭秘抄:待賢門院璋子の生涯』(同上)
参考リンク:
・『中古京師内外地図』(吉川弘文館, 1901)[国会図書館デジタルコレクション]
 ※五辻界隈は4コマ目にあり


【紀伊国南部荘の伝領について】
 頌子が承安5年(1175)に紀伊南部荘の田地十町を蓮華乗院に寄進したことは既に述べたが、その後建久5年(1194)に至り、自らの死後南部荘全体を相楽荘共々寄進すると定めている。時に頌子は50歳、亡き父鳥羽院が54歳で崩じたことを思い、己の余命も残り少ないことを予測しての寄進だったのであろうか(ただし実際にはさらに10年以上長生きし、歴代斎院の中でも高齢に入る64歳の長寿を全うした)。

 ところでこの南部荘は、元々は前斎宮守子内親王の所有であったらしい(『高野山文書(又続宝簡集)』内「関東下知状案」「南部庄官年貢米起請求文案」等)。守子がどのような経緯で南部荘を所有したかは不明だが、「蓮華乗院仏事用途相折帳(承元2年)」(『高野山文書(又続宝簡集)』)によると、比丘尼妙恵(2/7)・花園左府(源有仁,輔仁親王子,2/13)・伏見斎宮(守子内親王,源有仁同母妹,3/29)・御母儀(春日局,6/6)・鳥羽法皇(7/2)・西御方(源有仁女,8/16)の各忌日について記載があり、この6名は領家またはその親族と見られる。このことから、相田二郎氏は妙恵→源有仁→守子内親王を経て頌子へ南部庄が伝領された可能性を想定したが(「高野山領紀伊国南部荘の研究」)、守子と鳥羽院(共に1156没)の間に春日局(1180没)の名があることから、この記述は忌日順によるものと思われる。たまたま有仁→守子→鳥羽院は没年月日もこの順序のため、伝領順に記しているように見えるが、実際の伝領の順序は不明と見るべきであろう。
 また、八代国治氏は「左大臣有仁は(中略)子なきを以て鳥羽院の皇女頌子内親王を養うて子となし、所領を傳へたり」(「伏見御領の研究」)としているが、頌子が有仁の養子または猶子であったとする記録は見当たらない。そもそも八代氏は上記の蓮華乗院仏事史料により「この當時にありては、後世を祈らしめんが為に、子なきものは近親を養うて子となし、所領を傳領すると共に、後の佛事を行はしむる例なれば、この文書によりて所領が、有仁及び守子内親王より傳りしことを一層明かにするを得べし」と推測しているが、仏事の内容を見る限り、有仁は鳥羽院はともかく妹守子や春日局と比較しても、明らかに一段落ちる扱いである。よって有仁自身が(伏見荘は別としても)南部荘を所領としていた可能性は低く、これのみをもって有仁または守子と頌子の間に養親・養子関係があったと断定するには至らないと思われる。
 なお「五辻斎院御寄文(前斎院寄進状)」(『高野宝簡』)には「みなべ(南部)の庄ながくまいらせつ。つたはりきたるふみども、みなとりぐしてまいらす。すゑのよ(末の世)まで、つゆのわづらひあるべからず。とば(鳥羽)の院、又この庄(南部荘)つたへさせたまひたる、こ(故)宮の御れう(料)にも、かならず御くどく(功徳)になるべし(後略)」とあり、寄進者五辻斎院の父というだけでなく、南部荘の伝領に鳥羽院が関わっていたらしいことが伺える。さらに頌子生前の書状であるから、ここでの「故宮」は頌子ではなく、従って仏事の対象となる人物の中で鳥羽院以外に唯一の皇族である守子内親王を指す可能性が考えられる。
 ただし守子と鳥羽院は、同じ保元元年にわずか3ケ月差で相次いで死去している。このため、守子の死によって鳥羽院が南部荘を入手し、さらにそれを死の間際に頌子へ伝領したとは(ありえなくはないが)考えにくい。あるいは守子が生前に何らかの理由で南部荘を手放すことになり、それを鳥羽院が高齢になってからもうけた娘頌子の将来を思って与えた可能性もあるが、確かな時期は不明である。
なお高橋昌明氏は、白河院から有仁が伏見荘、守子が南部荘を賜与された可能性ありとし、のち両者が頌子の時に統合されたとも理解できるとする(「西行と南部荘・蓮華乗院」)。また同氏は、八条院が父祖の追善仏事のために安楽寿院領を伝領したとされるのと同様に、頌子も父母や有仁・守子ら親族の供養の権限を獲得し、それ故に伏見荘や南部荘を伝領したと推測している。

 ところで、角田文衛氏は「比丘尼妙恵」について、輔仁親王の娘の仁子女王(崇徳天皇褰帳女王)であり、待賢門院女房の「冷泉殿」と同一人物で、春日局の母ではないかと想定している(『椒庭秘抄:待賢門院璋子の生涯』)。頌子の号に「冷泉の姫宮」(『今鏡』)があるが、その由来が「三宮姫」とも号した(『長秋記』元永2年(1119)7月21日条)冷泉殿で、春日局の母(つまり頌子の外祖母)だったとすれば、南部荘も冷泉殿から春日殿を経て頌子に伝えられた可能性も考えられる。
 ただし『長秋記』(元永2年12月5日条)の輔仁葬送の記事において、遺族の名の中に守子内親王(姫宮・姫君)や怡子内親王(今御前)は登場するが、仁子女王または冷泉殿と思しき人物は見られないので、仁子女王はこれ以前に死去していた可能性が高い。またその後、『永昌記』の通仁親王誕生記事(天治元年(1124)5月29日条)に奉仕した女房の一人として冷泉殿が登場しており、『長秋記』と『永昌記』の「冷泉殿」が同一人物ならば、少なくとも有仁や守子と同母姉妹ではないだろう。そもそも女房として出仕していることや、各史料の輔仁子女の中に記録が見られないことから、恐らく冷泉殿の生母は怡子の母(源行宗女)よりも身分の低い女房等で、それ故(春日殿と同様に)輔仁からは正式な認知をされていない娘だったのかもしれない。

関連論文:
・八代国治「伏見御領の研究」(同上)
・相田二郎「高野山領紀伊国南部荘の研究(上)」
 (『歴史地理』46(2), p35-40, 1925)
 ※『相田二郎著作集(3)古文書と郷土史研究』(名著出版, 1978)収録
・横山尚恵「五辻斎院頌子内親王:五辻斎院領とその周辺にいた者たち」(同上)
・山村孝一「西行の高野離山・伊勢移住について」[J-STAGE全文あり]
 (『中世文学』(36), p47-60, 1991)
・高橋昌明「西行と南部荘・蓮華乗院」(同上)

参考図書:
・角田文衛『椒庭秘抄:待賢門院璋子の生涯』(同上)
・久曾神昇『平安時代仮名書状の研究』(風間書房, 1976)
・目崎徳衛『西行の思想史的研究』(吉川弘文館, 1978)

※『高野山文書』は東京大学史料編纂所提供の「古文書フルテキストデータベース」による。





近衛天皇
史料 月日 記述
台記 天養2年
[久安元年]
(1145)
3月13日 【頌子内親王誕生】
 今日生皇女(頌子)云々、件人號右大將(徳大寺)實能卿女、然而彼卿年來不爲子、蒙法皇之寵之後、有父子之儀、
台記 天養2年
[久安元年]
(1145)
3月14日 【頌子内親王、御湯殿始】
 皇女(頌子)湯殿始云々、有鳴弦云々、(後略)
後白河天皇
史料 月日 記述
兵範記 保元2年
(1167)
3月13日 【後白河天皇、一条北辺春日殿に御方違行幸】
(前略)今夕、天皇(後白河)爲御方違臨幸一条北邊、<右府女、春日殿堂、>依催參勤、(中略)
天皇乘輿出御、無●司并鈴奏、公卿前行於陣下騎馬、下官供奉、公卿前、自西洞院北行、自二條西行、自大宮北行、北邊自三町許西行、着御彼所、◆御輿於堂廊、此間下官副鈴等列中門邊、同無奏、入御之後、鈴等安中門廊、下官退去、寄宿頭辨宿所、藏人次官、判官範保等會合、(後略)

●=闈(門がまえ+韋。こちらを参照(字源))
◆=䡨(さしよせる。こちらを参照(字源))
兵範記 保元2年
(1167)
6月22日 【後白河天皇、春日殿に御方違行幸】
(前略)今夕爲御方違行幸、春日殿堂依催參勤、(中略)
次右大將參着仗座、藏人次官宣下行幸、召仰事下日時勘文、仰道并留守事、此間公卿以下供奉、諸司皆以參集、亥剋天皇(後白河)出御、行幸儀如去月、下官供奉同前、
兵範記 保元2年
(1167)
7月5日 【後白河天皇、一条北辺春日殿に御方違行幸】
(前略)今夕、天皇(後白河)爲御方違、行幸一条北邊春日殿堂、依諒闇以後、儀式如尋常、有●司奏、
少納言通能奏鈴、左右大將供奉、殿下依御悩不令參仕給、
於北邊堂、无鈴奏、依堂儀也、<但可範實説、>
下官等相待暁臨幸、祇候東三條殿、
深更内侍女房等自内裏參入此殿、朝餉、大盤所、常御所等令檢知了、
留守藏人主殿司等祇候殿上、

●=闈(門がまえ+韋。こちらを参照(字源))
兵範記
山槐記
保元3年
(1158)
7月22日 【後白河天皇、春日殿に御方違行幸】
『兵範記』
(前略)今夕爲御方違、行幸春日殿一條北邊堂、
源少納言通能奏鈴供奉云々、

『山槐記』
 依御方違行幸于上姫宮(頌子?)御所、明曉可有還御高松殿云々、自相撲節御大内也、
二条天皇
史料 月日 記述
山槐記 保元3年
(1158)
9月7日 【二条天皇、五辻に御方違行幸】
 今夜御方違行幸在五辻云々、依朱雀院造営歟、
六条天皇
史料 月日 記述
兵範記 仁安3年
(1168)
1月19日 【頌子内親王、一条北辺五辻宮の券契を内に奉献】
(裏書)
 姫宮(頌子)御所一條北邊五辻可爲主上御本所由、自院(後白河)有御沙汰、彼宮御券契被献内了、但不及本券、以女房書札被書献之、下官依院宣内覽了、(後略)
兵範記 仁安3年
(1168)
1月28日 【六条天皇、五辻姫宮御所に方違行幸】
(1月28日条)
(前略)今夕爲御方違、行幸五辻姫宮(頌子)御所、明曉可遷幸高倉殿由、兼有沙汰、而於殿下詩歌御遊等之間、天曙令參内給、仍卯剋許直[亘?]幸高倉殿云々、(後略)
(1月29日条)
卯剋遷幸高倉殿云々、
兵範記 仁安3年
(1168)
2月11日 【六条天皇、五辻御所に方違行幸】
(前略)今夜爲御方違、行幸五辻御所、今夜以後彼殿爲御所云々、
高倉天皇
史料 月日 記述
兵範記 仁安3年
(1168)
6月21日 【春日殿姫宮(頌子)五辻御所を本所となすこと】
 參院條々奉仰之中、眞言院并大内修造、中和院新造事、主上御本所并御方違行幸事、金神四殺方事、
次參殿下(摂政松殿基房)、次參左内兩府(藤原経宗、藤原忠雅)、被問件條々也、次詣皇后宮大夫(源雅通)亭、春日殿姫宮(頌子)五辻御所可爲御本所事也、(後略)
兵範記 嘉応元年
(1169)
8月21日 【斎院卜定について協議。頌子内親王は除外】
 依召相構参院、為御使参摂政殿(松殿基房)、奏斎院卜定事也、仰云、鳥羽院姫宮(頌子)<徳大寺左大臣(実能)女春日殿腹>、二条院姫宮(僐子)<大博士(中原)師元朝臣女腹>、此両宮問可在卜定、而春日殿姫宮者、鳥羽院御存日有斎王議之時、出家以後令誕生給之宮也、可有卜定憚由令自称給。
至于二条院姫宮者已無憚、当時上西門院(統子)為御猶子、何様可有沙汰哉者、殿下(松殿基房)御報云、上皇御出家後、姫宮依法體子息可有其憚者、春日殿姫宮(頌子)不可及沙汰、但被尋先例、可在御定歟者、帰参奏此旨、次依仰問大外記頼業眞人、無例之由所令申也、又奏院申殿下了
玉葉
帝王編年記
皇帝紀抄
ほか
承安元年
(1171)
6月28日 【頌子内親王、賀茂斎院卜定】
『玉葉』
 此日賀茂斎王卜定也、(中略)
次蔵人右衛門権佐光雅来就軾、仰云、賀茂斎院卜定日時、仰陰陽寮令択申<与>、与揖之、光雅退帰、次余以官人召左少弁、則経房参軾、余仰云、賀茂斎院卜定日時勘申せ、(藤原)経房微唯退了、頃持来日時勘文、余披見之後、経房退了、<件日時、今月廿八日、時戌二点云々、>
次余召官人、伝仰外記筥可持参之由、則六位外記持筥参上、余入勘文於件筥、
「摂政依物忌不可内覧之由有仰旨光雅示之事、」
以官人召光雅付之、<光雅申云、摂政殿依御物忌、不可持参由有仰、>小時奏聞了、帰来返給筥、余結申如恒、光雅仰云、依勘申行之、余微唯、巻文入筥、光雅退了後、召経房下之、<余誤乍入筥欲給之、経房示気色、更覚悟、取出下之、先年又如此、重愚其上也、>経房結申之、余仰同職事、経房唯、巻文退了、次召外記返給筥了、
次光雅来軾、仰云、頌子内親王可為賀茂斎院哉之由令卜申<与>、余揖之、光雅退下、
次余以官人召経房、則参軾、余仰可敷神司官人座之由、経房退下、仰掃部寮令敷之、先敷筵、其上」敷畳、陣北砌也、<柱外也、>次置水火如恒、次余召外記、仰神司官人可罷寄座之由、
(頭書、墨書)「神官着座後、持来覧筥一合置座末、納卜具也、」
外記唯退下、則神祇権大副卜部兼康以下、神官四人参上着座、<自西方参也、>
次余以官人召外記、々々参候小庭、余仰硯紙可持参之由、外記唯退下、則持硯筥、置余前、<入紙二枚、>
次余摺墨、取紙、先巻取礼紙、置硯筥、<硯下方也、>次巻返紙、取筆書之、<頌子内親王五字、紙端四寸許、上二寸許置之、不書年号月日、>了如本巻之、更加礼紙置前、以官人召外記、々々参入、余給名簿、仰可封之由、(見せ消し)外記乍候軾挿笏、自懐中取出封紙、<不襪如何、>以小刀封之了返上、外記退出了、余取之、其上書封字、<封目上也、>取副名簿於笏、召云、神司(カムツカサ)ノ権大副ノ朝臣、
「卜時召第一者子細事、」
<被聞程微音召之、四位召官朝臣、五位召名朝臣、恒例也、或説、雖他社事尚召中臣云々、普通之説、伊勢事、不依位階召中臣、他社事、召第一座者也、而旧記、斎院卜定、度々召中臣也、但其時参入神官座次不載、仍尚不審、問申摂政之処、召中臣例、自然中臣為第一之故欤、忽雖勘得云々、今度付普通例、召第一座者也、守一説之輩、定致疑難欤、>
則兼康経座後并末、<東也、>参軾、余給名簿、<先例、或召筥入之下給、長元九年、天仁元年等例也、然而治暦五年斎宮卜定、故大殿(藤原師実)以手給之、准彼儀不召筥也、加之申摂政之処、以手給之由、覚悟云々、>兼康取之」
復座、次第取下、卜申了、封上(カミ)書卜乙下合之由、<或封下書之云々、>入板筥蓋、兼康持参、余取之置前、返筥蓋了、
次召外記、仰神祇官可起座之由、則聞之、神祇官等起退了、仍外記不能仰、則掃部寮出来撤座、次余以官人、外記可持参筥之由仰之、則外記持参筥、余入卜形於件筥、給外記、々々取之立小庭、
次余起座、相具件外記進中門、<経小庭并立蔀西頭等如恒、>
「光雅返賜筥於上卿子細事、」
付光雅奏之、頃之光雅帰来、返給筥、<卜形留御所、>余云、先例或自御所直返給者也、
「斎院卜定之由帰陣可被仰之由子細事、」
或又有給上卿之度、光雅無所申、余取之給外記了、<外記取之退下了、>余又云、斎院卜定之由、帰陣之後可被仰欤、然者待其仰、可仰中臣并弁等也、此次被仰、又先例欤如何、光雅云、同事也、此次令申、又先例也、然者只可令仰御云々、余帰陣、以官人召外記、々々参小庭、余仰可召定隆之由、<中臣也、>外記唯退下、小時定隆参軾、余仰云、以頌子内親王卜定賀茂斎院了、任例可令行者、定隆退了、次召弁、経房来、余仰、大略同仰中臣之詞、」
「仰初斎院行事官事、」
但仰可成官符之由也、経房微唯退出了、次光雅来仰云、令権大納言藤原朝臣・左少弁藤原朝臣・右大史中原長倫等、行初斎院事<与>、散位平朝臣時盛可為勅別当者、余揖之、光雅退了、次余以官人召経房、仰此旨了、<延久五年斎宮卜定、上卿大殿、召他弁被仰之、仍欲召他弁之処不候、依不可黙止、則仰行事弁了、>
「召光雅問子細事、」
次余召光雅、密々問云、於今者無被仰事欤、光雅云、不可候、
「退出之次参院事、」
奉幣・大祓日時、斎院上卿可被勘下云々、<先例或卜定上勘之、或斎院上勘之、仍密々所為也、斎院上勘之、恒例也、>(中略)
卜定所中御門京極云々、

『帝王編年記』
(高倉院)
齋院 頌子内親王<鳥羽院皇女母左大臣實能公女/承安元年六月廿八日卜定同八月十四日依病退下>

『皇帝紀抄』
(高倉院)
 斎院(中略)頌子内親王<鳥羽院皇女。母左大臣實能公女。承安元年六月廿八日卜定。同八月十四日依病退下。>
皇帝紀抄
ほか
承安元年
(1171)
8月14日 【斎院(頌子)、病により退下】
『皇帝紀抄』
(高倉院)
 斎院(中略)頌子内親王<鳥羽院皇女。母左大臣實能公女。承安元年六月廿八日卜定。同八月十四日依病退下。>
吉記 承安3年
(1173)
6月19日 【前斎院(頌子)女房・故宣旨五七日のこと】
(前略)
「前齋院宣旨五七日佛事」
今日齋院(頌子)故宣旨五七日也、前齋院密々有御沙汰、被供養三尺釋迦像一躰、素紙法花經三部、以刑部卿判官饗覺爲導師、布施、<被物五重、生衣一領、其外色々包物相并十種許云々、>
吉記 承安3年
(1173)
6月28日 【斎院(頌子)女房・故宣旨の中陰法事のこと】
(前略)
「前齋院宣旨中陰法事々」
今日故齋院宣旨中陰法事也、少將女房修之、仍未刻行向四條亭、予一向所致沙汰也、奉爲供養兩界曼陀羅并素紙法花經六部、如形爲曼陀羅供、以權少僧都兼亮導師、讃衆六口、其中二口導師率之、四口者龍僧也、<已上法服、>願文内藏權頭長光朝臣草之、日向守清書之、布施導師料綾被物六重、單重二領、絹裏二、鈍色裝束一具、童水干裝束二具、色々布二十段、色革皮子二合、牛鞦一積、讀衆口別被物一重、裏物一、牛鞦一具、布施取日向守定長、宮内少輔、淡路大進、安房前司定經等也、他爲密儀、不招外人、又大宮大夫盛業依近隣來訪、此他侍等也、●時事了、歸勘解由小路亭、

●=晡(日偏+甫。こちらを参照(字源))
宝簡集 承安4年?
(1174)
3月15日 【円位(西行)書状】
『宝簡集』
日前宮事。自入道殿(平清盛)頭中将(藤原実宗)
許。如此遣仰了。返〃神妙
候。頭中将御返事書うつして
令進候。入道殿安芸一宮
より御下向之後。可進之由。沙汰
人申候ヘバ。本をば留候了。
彼役他庄ニハふき被切べき
よし。以外沙汰候歟。是
大師明神令相構御事候
歟。入道殿御料ニ百万
反尊勝ダラ尼一山ニ可令
誦御。何事又又申候べし。
蓮華乗院柱絵沙汰。能〃可
候。住京聊存事候て。干今
御山へ遅〃仕候也。能〃可御
祈請候。長日談義能〃
可被入御心候也。謹言。
 三月十五日     円位

翻刻ならびに年紀は田村悦子「西行の筆跡資料の検討―御物本円位仮名消息をめぐって―」による(機関リポジトリあり)。なお、高橋昌明氏は治承2年(1178)とする(「西行と南部荘・蓮華乗院」2014)。
宝簡集
高野春秋編年輯録
承安5年
[安元元年]
(1175)
6月24日 【前斎院(頌子)、田拾町を高野山蓮華乗院に寄進】
『宝簡集』(『平安遺文』3694)
前齋院(頌子)廳下、南部御庄政所、
 可早寄進於高野山蓮華乗院當御庄内山内村田拾町事、
右件御堂為 故鳥羽院御菩提所令建立給也
仍以件村所當地利、為被宛彼佛性燈油人供等令寄進者也、(中略)
  承安五年六月廿四日宮内録中原(花押)
別當少納言兼侍従藤原朝臣(花押)
                 河内権守紀朝臣(花押)

『高野春秋編年輯録』
 五辻斎院<是則鳥羽女閑院二君春日局腹也、>下賜 院宣、創造蓮花乗院、而為長不断之談義所、奉追薦 鳥羽仙院之御菩提、是以新割施斎院御領紀州南部庄内百斛米地、為仏餉灯油人供之依怙、(後略)
宝簡集 安元3年?
(1177)
6月22日? 【前斎院(頌子)寄進状】(『平安遺文』3695)
 かうやのれん花乗院(蓮華乗院)に、みなべ(南部)の庄ながくまいらせつ。
つたはりきたるふみども、みなとりぐしてまいらす。すゑのよ(末の世)まで、つゆのわづらひあるべからず。
とば(鳥羽)の院、又この庄(南部荘)つたへさせたまひたる、こ(故)宮の御れう(料)にも、かならず御くどく(功徳)になるべし。
こまかなることは、あの御かたに、「かきてぐせさせ給へ」と申す。そのまゝに、たがはずあるべきなり。

翻字は久曾神昇『平安時代仮名書状の研究』(風間書房, 1976)を参照。
宝簡集 安元3年
(1177)
6月22日 【前斎院(頌子)母・春日局書状】(『平安遺文』3797)
 すへのよ(末の世)まで、たぢろき候まじく候。又とかうさまたげ、わづらひなど候まじく候。大本ばうの日じりの御ばう(大本房の聖の御房=西行)、よくよくはからひおほせられをかせ給べし。(以上袖書)

みなへ(南部)の本さう(本荘)・新さう(新荘)、かうや(高野)のれん花ぜう院(蓮華乗院)に、まいらせさせおハします。御ふみ御券とりぐして、まいらせさせおハします。「大師(=弘法大師空海)いかにあはれと、おもひまいらせさせおハしますらん」とおほえ候。大本ばうのひじりの、おほせられをきたらん定にたがハず、「ゝへのよ(末の世)まであるべきなり」と、おぼしめして候なり。
あまりことなるやうなれど、よにはさることのミ、いでき候めれば、心づきて申をき候なり。ねうばうの御こゝろは、人のし<の>まゝにおハしますことの、こゝろよりほかに候へバ、すへにもおもひかけぬ心したる御うしろミ(後見)いできて、あらぬやうにさた(沙汰)しなして、「ねんぐばかりこそまいるべけれ、みさう(御荘)をまいらせ、はなたせおハしますこと候べからず」と申すこといでこば、それをはまたく(全く)もちゐられ候まじきことなり。人にとらせつる物をだに、とりかへすをやハ候。ましてほとけ(仏)にまいらせさせおハしましなんところに、さるさた(沙汰)あるべうも候はねども、「あまりしたゝめんれうに、かくかき候はん」と申て、かき候なり。このうへは、つゆのゆるぎ候へからず。
それにとり候て、よにおハしまさむほどは、だうしまいらせはなたせ給ふことは、え候まじきなり。このみさう(御荘)など候はでも、あしく候ひぬべけれは、もしことみさう(御荘)など、したゝまりて候はゞ、だうしもまいらせはなたせ候なん。又おハしまさゞ覧つぎの日ハ、いかにもいかにも、てらのさた(寺の沙汰)にて候べきなり。わがみは候まじきよのことなれば、候をりに、よくよく申て、かきをきさふらふなり。
又申をくべきこと候ひけり。くまのゝ權べたう(別当)たんぞう(湛増)、しもづかさ(下司)になり候ことは、ゐん(院)より申させおはしましたりしかバ、しもづかさ(下司)にはなしたびて候なり。てらへまいりなんのちは、たれになさんとも、てらの御こゝろなり。たんぞう(湛増)、なるべきゆへありてなりたるには候はぬなり。「をや(親)のべたう(別當)なりたりしかば」とて、それをゆへにて、ゐん(院)にも申してさふらひしかバ、ゆへありなしによるべからず。ゐん(院)より申させおハしましたりしことなれバ、なしたびて候なり。ほどへ候ひぬれば、あないしらぬ人にあひては、「わがつたへしるべきだうりにて、院にも申てなりて候ひしぞ」など申なして、思ひかけぬ券めかしきもの、もとめいだして、うたへ(訴え)するをも候なり。しだいはこの定なれば、よくよくてらにも、「心えさせ給へ」とて申をき候なり。あづかりぞ(預所)、しもづかさ(下司)につけても、むづかしきこと、いかにも候べからず。
とば(鳥羽)院の御れう(料)に、よくしをかせおハしましぬれば、だいだいのみかども、だいじにおぼしめさむずることなり。をのづから、すへのよにみだらごといできて、てらのかたにも、又ことごとにも、わづらハしきこと、もしあらんをりにハ、てらよりかみにうたへ(訴え)申させ給べきなり。
おまへ(御前)にてごらん(御覧)ぜさせつゝ、かきて候なり。
     安元三年六月廿二日
(奥裏書)
「春日殿御文」

翻字は久曾神昇『平安時代仮名書状の研究』(風間書房, 1976)、目崎徳衛『西行の思想史的研究』p305-307(吉川弘文館, 1978)を参照。
宝簡集 不明
【三位局書状】(『平安遺文』3798)
(安元3年(1177)7月以降?)
 ひさしくおほせられねば、おぼつかなく候ほどに、うれしくこそ候へ。
いつかのぼらせおはしますべく候。けざん(見参)にぞ、かやうのことも申候べきに、まづ申候なり。
みなべ(南部)のことは、れん花ぜうゐん(蓮華乗院)に、まいらせおはしましにしかば、なにしにかたがへおぼしめさん。御よせぶみは、まいらせさせおはしましてき。御券はさた(沙汰)有しに、みさう(御荘)にて候へば、もんぞ(文書)の京に候はぬも、あしく候ひぬべければ、みくら(御蔵)におかれて候なり。
かうや(高野)のものさはがしくのみきこえ候へは、しづま(見せ消ち)しづまり候なんには、申させ給はんにこそはより候はんずらめ。「みせん(御前)のしおかせおはしましたらんにてだに、よもたがひ候はじ。まして御みづからの御ふみなど候へば、さうゐ(相違)候まじ」とこそはおほせごと候へ。
なにごとも、のぼらせ給ひて候はんに、こまかには申候べし。

翻字は久曾神昇『平安時代仮名書状の研究』(風間書房, 1976)を参照。
山槐記 治承3年
(1179)
1月10日 【東宮帯刀給所を宣下】
(前略)今日被仰下帶刀給所等云々、(中略)
帶刀給所、
 院(後白河)
 上西門院
 八條院
 中宮(平徳子)
 本宮(言仁親王)
 關白(松殿基房)
 太政大臣(藤原師長)
 左大臣(藤原経宗)
 右大臣(九条兼実)
 内大臣(平重盛)
 大夫(平宗盛)
 權大夫(藤原兼雅)
 二位(平時子)
   二位者中宮母儀也、
  大宮(藤原多子)<近衛院后、(徳大寺)公能公娘、>
  皇太后宮(藤原忻子)<法皇(後白河)后、同居儀久絶、公能公女、>
  女御(藤原琮子)<同然、(三条)公教公女、>
  斎宮(功子)<當今(高倉)宮、故公重朝臣孫、>
  齋院(範子)<當今宮、左兵衛督成範孫、>
  前齋院(式子)<法皇宮、高倉三位腹、>
  前齋院(頌子)<鳥羽院宮、春日殿腹、>
   已上不被給之、皇后宮不御座也、(後略)
安徳天皇
史料 月日 記述
吉記 治承5年
[養和元年]
(1181)
6月6日 【前斎院(頌子)母春日殿周忌のこと】
(前略)
<前齋院(頌子)母儀春日殿周忌僧事々、(右傍書)>
今日母儀春日殿周忌終也、先是已被始講演、公卿右宰相中將、<(徳大寺)實守、布衣、>源宰相中將、<通親、直衣、>左京大夫<(藤原)脩範、布衣、>參上、<予着公卿座末事、(右傍書)>予着公卿座末、御導師權大僧都澄憲、<宿裝束、>題名僧三口、<籠僧、>御願文前式部權少輔敦周朝臣草之、右衞門<願文草事、(右傍書)>權佐親雅清書之、説法之妙不奈富樓歟、導師布施廿、被物八重、<織物唐綾生綾相交、>單重二領、●物三、<加色々布、法服一具、布施色々裝束一具、錦横披一、童裝束四具、>題名僧口別五種、<被物一重、●物一、童裝束一具、色革皮古一合、牛鞦一具、>公卿<源羽林稱有憚之由不取布施事、(右傍書)>已下取之、<源羽林不取之、稱有憚之由、何事哉、故院(高倉院)御服未除事歟、>藏人五位<予語進之、>奉仕公卿手長、殿上人公守朝臣、實保、院殿上人棟範、定經等、其外生公達諸大夫相并十餘輩祇候、近來公家事人數毎度闕如、今日之儀殆過分歟、御佛經見御願文、但有自筆御經、予暫謁女房退出、(後略)

●=裹(こちらを参照(字源))
百錬抄 養和元年
(1181)
11月15日 【前斎院の世尊寺亭炎上】
(安徳天皇)
 前齋院(※)世尊寺亭炎上。

当時存命で非皇后・女院の前斎院は、式子・頌子・範子の三人で、いずれも世尊寺に邸宅を持っていた記録はなく、特定できる明確な根拠がない。また高橋康夫氏はこの「世尊寺亭」を五辻斎院御所のこととするが、【五辻殿のこと】で触れたように、世尊寺亭と五辻第(春日殿)は別々の邸宅であったと思われる。
 なお30年以上昔のことだが、25代禎子が久安6年(1150)に「世尊寺辺」に住んでいたとの記録があり(『台記』)、「前斎院」は禎子の可能性もある。

吉記 寿永元年
(1182)
3月15日 【吉田経房、五辻斎院(頌子)に参向】
 午上參吉田賀茂、昇進以後連々相障、今日始所參也、仍着束帶、網代車差綱、車副遣之、侍三人具之、歸路參五辻斎院(頌子)、(後略)
吉記 寿永元年
(1182)
6月27日 【前斎院(頌子)、園城寺宮静恵法親王を猶子とする】
『吉記』
 未剋参五辻斎院(頌子)<直衣>、今日院(後白河法皇)寺宮(静恵法親王)<母儀丹波局也、是無品法親王弟子也、故斎院宣旨局奉養、其後無乳母>為斎院御猶子令渡給
安徳天皇・後鳥羽天皇
史料 月日 記述
吉記 寿永2年
(1183)
2月1日 【白河宮、五辻斎院(頌子)に渡御】
(前略)
「白河宮渡御五辻齋院事、」
白河宮渡御五辻齋院(頌子)、有御一宿、御經筥一合<納兼行手跡御經一部、>被奉之云々、
吉記 寿永2年
(1183)
6月27日 【吉田経房、前斎院(頌子?)に参向】
 早旦參新日吉社、可參本社之由相存之處、江州物●云々、仍所參詣也、次參北野社、殿舎破壊、驚眼摧肝、宮寺僧歎息無極、如此違例無其沙汰、朝家凋◆尤可然歟、次參前齋院(※)、未剋歸畢、

北野社からの帰りにつき、頌子の五辻御所か。

●=忩(公+心。怱の異体字。こちらを参照(字源))
◆=獘(弊の異体字。こちらを参照(字源))
吉記 寿永2年
(1183)
11月20日 【法住寺合戦。上西門院(統子)・皇后(亮子)・前斎院(式子)、五辻御所に渡御】
 上西門院(統子内親王)可有臨幸五辻御所之由、自前斎院(頌子)有其仰、仍逐電参上、申尅、女院、皇后宮(亮子内親王)、前斎院(式子内親王)等、御同車渡御、偏略儀也、宮大夫、<御車寄、>右京大夫光雅朝臣、基宗朝臣等扈従、以御堂御所為御所、予加検知、謁人々之後、晩頭退出、于時別當宮権大夫等参入、
吉記 寿永2年
(1183)
11月26日 【女院(上西門院)と両宮(亮子・式子)、五辻御所に渡御】
(11月26日条)
 午時許参院、<五條殿、>(中略)
次參五辻宮、今日女院(上西門院)両宮(亮子・式子)令同宿斎院(頌子)御方給、<日来御坐御堂御所、>鋪設雑事御菓子等類、
<「鋪設已下奔筥事、」>
予一向奔營、予遅参之間、先令催参子息令行之、折節如大宮、人以嗟嘆云々、院宮以御輿渡御、予入夜退出、
(11月27日条)
 次官自斎院退出、<去夜宿侍、>御所事末[来?]談[等?]也、三方男女房各稱美云々、
山槐記 寿永3年/
元暦元年
(1184)
9月20日 【五辻前斎院(頌子)出家】
(前略)後聞、五辻前齋院(頌子)<鳥羽院御女、母美福門院女房春日局、件人號徳大寺左府(実能)女、此齋院自卜定所依病退出人也、>有御出家事、於御堂有此事、戒師阿證房聖人(印西)、兼唄又奉剃始頂、其後聖護院宮(静恵法親王)<院(後白河)御子、>被奉剃、其後又阿闍梨澄眞奉剃終戒、布施御衣一具、<朽葉綾單重、二重織物、女郎花表着、紅生袴、無小褂>新中納言<(吉田)経房、>取之、蒔繪手箱<菊、>一合少將範能取之、次自今日被始行七ヶ日逆修、三尺阿彌陀如来<御身不押薄、被奉塗金泥、臨終御祈云々、>一躰、御自筆法華經一部、導師法印澄憲、題名僧三口、布施導師織物被物一重、被物二重、單重二領、絹裏一鈍色裝束一具、童裝束二具、錦横皮一、題僧二重一裏云々、
山槐記 寿永3年/
元暦元年
(1184)
9月28日 【五辻前斎院(頌子)記事】
(前略)秉燭參院、申次定經、内藏人(源)仲國、攝政殿右馬助爲成、皇后宮定經、<兼權大進也、>五辻前齋院(頌子)同者、先日示曰、可申請攝政御下襲下簾者、
吉記 元暦2年
[文治元年]
(1185)
1月3日 【吉田経房、後白河上皇・八条院・前斎院(式子)・上西門院・五辻斎院(頌子)に拝賀】
(前略)午斜先參院(後白河)、八條院前齋院(式子)等御同宿云々、入女房見参、(中略)
次參上西門院、次參五辻斎院(頌子)、次參内、(後略)
後鳥羽天皇
史料 月日 記述
宝簡集(高野山文書) 文治2年
(1186)
8月21日 【前斎院(頌子)丁、紀伊南部荘を蓮華乗院の仏聖灯油及び談義僧供料に充てる】
前齋院(頌子)廳下  南部庄官等
 可早如舊奉免水田拾町令宛高野山蓮花乘院佛聖燈油并談議僧供●事右、件●田奉免先畢、而天下違亂、庄内損亡之間、空無沙汰、年序漸積、嚴重御願、不可點[黙]止、早任先例、切渡水田拾町、隨彼寺家使下知、弁濟所當、可令宛其用途之状、所仰如件、庄官等宜承知、敢不可違失、故下、
    文治二年八月廿一日      散位紀朝臣(花押)
 別當右衞門權佐平朝臣(時盛?)
 左京權大輔藤原朝臣(光綱)
 勘解由次官兼皇后宮權大進藤原朝臣(定経)(花押)
 前安房守藤原朝臣(有経)(花押)
 因幡權守源朝臣(行経)(花押)

●=䉼(米+斤。料の異体字。こちらを参照(字源))
宝簡集(高野山文書) 文治2年
(1186)
9月9日 【斎院(頌子)丁の下文により、仏聖灯油を供える】
下 南部御庄下司公文定使等所、
 可早令任 齋院(頌子)廳御下文致沙汰高野御塔(蓮華乗院)佛聖燈油●田拾肆町所當米事
 副下
  廳御下文一枚
右、件田所當米、被定置彼御塔用途訖云云、子細具見于御下文、任被 仰下之旨、無懈怠、可令致沙汰之状、所仰如件、下司代公文定使等、宜承知勿違失、故下、
    文治二年九月九日
 散位藤原朝臣(判)

●=䉼(米+斤。料の異体字。こちらを参照(字源))
玉葉
仲資王記
建久5年
(1194)
1月6日 【後鳥羽天皇、五辻斎院御所に御方違行幸】
『玉葉』
(1月4日条)
 召親経朝臣、仰静春事、宗頼召具陰陽師等参入、問公家御方違事、五辻之外一切無其所云々、件所本主春日局、於彼堂卒去云々、然而年序多隔了、又其屋各別云々、(後略)
(1月6日条)
(前略)
「御方違行幸事、」
子一刻行幸、夜行日、亥刻可被避之由、(安倍)晴光申之故也、但(賀茂)宣憲申不可然之由、此評定之間、自然及子一刻也、余改着剣、随身同葈脛巾・狩胡●也、大将又申出、同■■[改装]束等参内也、余自閑路参会五辻斎院(頌子)御所、中門廊■[構]御輿寄、其外無便宜之故云々、経房卿豫祇候彼宮、御後見也、(後略)

『仲資王記』
(※『大日本史料』による)
 御方違行幸五辻前齋院(頌子)御所云々、

●=籙(竹冠に禄または録。こちらを参照(字源))
「胡籙(やなぐい)」=矢を入れて携帯する武具。武官や随身が身に着けた。
仲資王記 建久5年
(1194)
2月19日 【後鳥羽天皇、五辻前斎院御所に御方違行幸】
(※『大日本史料』による)
 御方違行幸五辻前齋院(頌子)御所、予供奉、私方違今日滿十五日也、仍立入妙覺寺也、及月午還幸、同供奉也、
(裏書)
今夜御方違行幸五辻殿、<前齋院(頌子)御所也、>左大將殿(良ー、)左兵衛督<實教、>新宰相中將<忠經、>源宰相<兼良、>予修理大夫<定輔、>等列立、少納言親家奏鈴、近衞將多供奉、諸衞官人同之、五辻殿次第、寄御輿於中門廊、<南庇子午屋也、門者南向也、>諸卿列立門内、<中門外也、北上西面也、>無鈴奏、予退下宿所、<妙覺寺廊也、>(後略)
宝簡集(高野山文書) 建久5年
(1194)
4月 【前斎院(頌子)、紀伊国相楽荘・南部荘を高野山蓮華乗院に寄進】
前齋院(頌子)
 寄附高野蓮華乘院領壹處事
  在紀伊國字相樂南部庄<四至見御券>
右、件堂宇物、去安元之比、故禪定大夫人所令草創也、充置佛聖、被定人供畢、而其後時世不靜、香火殆斷、事之陵夷、莫不驚歎、是以爲答本願尊靈之素意、爲増當時向後之精勤、以上件庄、永寄附于彼堂、但毎年割分所當佰斛、可歴寺用、至于御萬歳後者、一庄併爲寺家之進止、人用不可相交、且是本願之遺命、中懇不可忤之故也、抑寺家別當職、所補乘雅阿闍梨也、以預所得分佰斛、爲其依怙、廣作佛事、爲令奉訪本願之菩提也者、爲備後代之證驗、依 令旨寄附如件、
    建久五年四月 日   散位紀朝臣(花押)
別當左京大夫藤原朝臣(顕家)(花押)
權右中辨藤原朝臣(定経)(花押)
散位源朝臣(宗仲?)(花押)
又続宝簡集(高野山文書) 建久5年
(1194)
4月 【蓮華乗院仏事用途相折帳】
前齋院廰
 定置蓮華乘院御佛事用途事
  合米佰斛内<南部御床本斗定>
二月七日比丘尼妙惠忌日
 阿彌●行法一座   同經一巻
 同大咒廿一遍     尊勝●羅尼七遍
  御佛供并燈油◆米一斗五升
  僧衆三口内<一人導師一石/余僧二口各伍斗>
        已上二石一斗五升
同(二月)十三日花薗左府(源有仁)忌日
 佛事僧衆并用途如先
三月廿九日伏見齋宮(守子内親王)御忌日
 一晝夜尊勝●羅尼并供養法時別一座
  御佛供并燈油◆米五斗
  僧衆十二人内<一人導師一石/余僧十一人各五斗>
  承仕三人各一斗
          已上七石三斗
七月二日 鳥羽法皇御國忌
 一晝夜理趣三昧并供養法
  御佛供并燈<油>◆米五斗
  僧衆十六人内<一人導師一石/余僧十五人各五斗>
  承仕三人各一斗
          已上九石三斗
八月十六日西御方忌日
 阿彌●行法一座   同經一巻
 同大咒廿一遍    尊勝●羅尼七遍
  御佛供并燈油◆米一斗
  僧衆三口内<一人導師一石/余僧二口各五斗>
          已上二石一斗
   已上五箇度御佛事用途◆二十三石也、於七十七石者、可爲長日兩界供養法并談義衆供◆、
右、以南部庄所當米佰斛、支配于御■[佛]事等畢、宜守此旨、勿令違失矣、依令旨記祿如件、
    建久五年四月  日

●=陁(陀の異体字。こちらを参照(字源))
◆=䉼(米+斤。料の異体字。こちらを参照(字源))
仲資王記
玉葉
建久5年
(1194)
7月12日 【後鳥羽天皇、五辻殿に御方違行幸】
『仲資王記』
(※『大日本史料』による)
 行幸五辻殿、予依所勞不供奉、

『玉葉』
(前略)此夜、御方違行幸、<五辻、>左大将供奉、余依所労不参入、
仲資王記 建久5年
(1194)
7月26日 【後鳥羽天皇、五辻殿に御方違行幸】
(※『大日本史料』による)
 御方違行幸五辻殿云々、予依所勞不供奉、
仲資王記 建久5年
(1194)
8月11日 【後鳥羽天皇、五辻殿に御方違行幸】
(※『大日本史料』による)
 御方違行幸五辻殿、依物忌不供奉也、
仲資王記 建久5年
(1194)
10月18日 【後鳥羽天皇、五辻殿に御方違行幸】
(※『大日本史料』による)
 御方違行幸五辻殿、爲藏人右少辨長房奉行有御教書、申灸治之由了、
三長記 建久6年
(1195)
12月28日 【後鳥羽天皇、五辻前斎院御所に御方違行幸】
 今夜有御方違行幸、<五辻殿、>南殿御帳懸帷、南庇柱左右擧燈、御殿額間<北第一間也、>左右擧燈、自額間至南殿御後妻下敷筵道、亥剋出御、頭亮獻御草鞋、即取御裾、内侍一人歩行、<持璽、中將公經朝臣扶持、>一人在御後、<持劔、少將成家朝臣扶持、>殿上人候指燭、令立御帳前給、内侍立左右、<璽右、劔左、>陰陽頭宣憲參進反閇、<自西方參、即歸也、>次右次將渡階前副御輿、<在東中門也、次將可渡之由、職事相催例也、今夜無音也、>次公卿列立、<北上西面、高倉中納言、左兵衛督、大藏卿三人也、>●司奏了鈴奏、<少納言親家奏之、>次寄御輿、中將公經朝臣參進開御輿戸、次取璽置之、<内侍次將跪共取之也、>次乘御々輿、次置劔、<公經朝臣同役之、>次内侍等歸入、<自御帳左右間出入也、璽内侍先歸入也、>先是公卿以下騎馬、御輿出門已後、頭亮予於東門邊騎馬、亥終許著御五辻前齋院(頌子)御所、<日來儀押小路殿也、今夜儀幸此御所■等用本所疊云々、>入御自南門、<有兩門、用東門也、中門廊東面構御輿寄也、>寄御輿於中門廊、入御簾中、<頭亮◆御簾、乍立◆之、頭亮曰、殿下◆給之時乍立役之、藏人頭勤仕之時跪可◆之也、然而无便宜、仍忘禮云々、公定取御草鞋、>公經朝臣取璽劔進簾中、女房取之、御輿舁退之後名謁、但無鈴奏、次人々休息便宜所、鳬鐘報之後歸出、又無鈴奏、公卿高倉納言一人供奉、未明還御于内裏、(後略)

●=闈(門がまえ+韋。こちらを参照(字源))
◆=褰(こちらを参照(字源))
猪隈関白記 建久8年
(1197)
7月10日 【後鳥羽天皇、前斎院五辻殿へ方違行幸】
 今夜天皇(後鳥羽)行幸於前齋院(頌子)五辻、依御方違也、秉燭殿下御共參台、中納言泰通卿下日時勘文、又仰召仰事、天皇出御、右近次將渡左、次公卿列立南庭、右將軍渡西、●司奏・少納言鈴奏如恆、寄御輿、余揖離列立階下如例、天皇乘御、下官候璽劔如例、於五辻内侍二人候簾中、取璽劔、余就簾下付内侍也、殿下御共退出、

●=闈(門がまえ+韋。こちらを参照(字源))

『大日本古記録』は本項ならびに8月22日条の「前斎院」を範子内親王とするが、この場合は五辻斎院と号した頌子内親王であろう(正治2年12月23日条でも同様に「前斎院五辻第」とあるが、範子は建久9年に土御門天皇准母として立后、皇后宮となっており、「前斎院」とするのは適当でない)。
猪隈関白記 建久8年
(1197)
8月22日 【後鳥羽天皇、前斎院五辻殿へ方違行幸】
 晴陰不同、入夜雨降、有御方違行幸、<前齋■[院](頌子)五辻也、>殿下參給、下官供奉、三位中將(藤原)公房卿候璽劔、依余示也、
猪隅関白記 建久8年
(1197)
11月20日 【後鳥羽天皇、五辻へ方違行幸】
 晴陰不定、入夜雪降、今夜五辻行幸也、<御方違也、>入夜殿下御共參内、余着陣、藏人木工頭(源)兼定」來、下日勘文、(中略)
次出御南殿、右將左渡、次源大納言通親卿以下列立南庭、次●司奏、次少納言(源)重定鈴奏、次寄御輿、余離列進立階下如例、余於階下脱靴垂裾、候璽劔如例、出御東門、余於西門騎馬、依便宜也、此間白雪飛散、到五辻門下馬、寄御輿、余取璽劔付簾中内侍如例、余依有勞事不可供奉還御之由、示頭中將通宗了、殿下御共退出、

●=闈(門がまえ+韋。こちらを参照(字源))
土御門天皇
史料 月日 記述
自暦記 建久9年
(1198)
10月25日 【五辻斎院(頌子)の醍醐第焼亡】
(※『大日本史料』による)
 聞醍醐火事、相具出車雅女馬馬等參醍醐、依五辻齋院(頌子)御所炎上也、而斎院奉逢久留栖野、中將(五辻)家經朝臣在御茶[共?]仍爲御共參五辻殿、聖護院宮(静恵法親王)卿殿等有御共、
猪隅関白記 正治2年
(1200)
12月23日 【土御門天皇、前斎院(頌子)五辻第へ方違行幸】
(前略)早旦殿下依節分御方違、渡御宇治、余不參、
此夜天皇(土御門)行幸於前齋院(頌子)五辻第、依御方違也、余不參仕、
百錬抄
系図纂要
ほか
承元2年
(1208)
9月18日 【前斎院頌子内親王薨去】
『百錬抄』
 五辻前斎院(頌子)薨。<御年六十四。鳥羽院皇女。>
又続宝簡集(高野山文書) 承元2年
(1208)
9月 【蓮華乗院仏事用途相折帳】
(押紙)「御佛事相折帳」
前齋内親王廰
 記置蓮華乘院御佛事用途事
 合
二月七日比丘尼妙惠忌日
 阿彌●行法一座  同經一巻
 同大咒廿一遍   尊勝●羅尼七遍
  御佛供并燈油 ◆米一斗
  僧衆三口内<一人導師 一石/余僧二口 各五斗>
   已上二石一斗
同(二月)十三日花薗左府(源有仁)忌日
 佛事僧衆并用途如先
   已上二石一斗
三月廿九日伏見齋宮(守子内親王)御忌日
 一晝夜尊勝●羅尼并供養法時別一座
  御佛供并燈油 ◆米五斗
  僧衆十二人内<一人導師 一石/余僧十一人各五斗>
  承仕三人<各一斗>
   已上七石三斗
 三重塔用途◆二十石内
六月六日御母儀(春日局)御忌日
 一晝夜阿彌●羅大咒并供養法時別一座
  僧衆并用途同前
   已上七石三斗
    用殘十二石七斗<御塔修理料可宛置之>
七月二日  鳥羽院御忌日
 一晝夜理趣三昧自七月二日始之
  御佛供并燈油 ◆米五斗
  僧衆六人内<一人導師 一石/余僧五人各五斗>
  承仕三人<各一斗>
   已上四石三斗
八月十六日西御方忌日
 阿彌●行法一座   同經一巻
 同大咒廿一遍    尊勝●羅尼七遍
  御佛供并燈油 ◆米一斗
  僧衆三口内<一人導師 一石/余僧二口各五斗>
    已上二石一斗
御万歳之後御遠忌事
 七箇日夜尊勝●羅尼 同供養法時別一座
  御佛供并燈油◆米二石一斗<日別三斗>
  僧衆十二人内<一人導師<日別一石各次第可勤之>/余僧重一口日別五斗>
    已上四十七石六斗
 一晝夜阿彌●大咒
  僧六口<日別五斗>
  承仕三人<各一斗>
    已上三石三斗
 長日護摩用途◆七十五石六斗
南部御年貢貮佰斛<御庄本斗/除雜用定 炭參拾尨>
 七箇御佛事并長日護摩◆佰陸拾肆斗
  用殘參拾伍石陸斗<御堂修理并潤月護摩用途等可宛置之>
右用途支配、大概如斯、夫以過去聖靈、浮生不繋、弟子比▲▼尼、餘命少馮、因★專爲自他、宛置用途、限未來際、勿忤此状者、依 令旨記録如件、
    承元二年九月  日

●=陁(陀の異体字。こちらを参照(字源))
◆=䉼(米+斤。料の異体字。こちらを参照(字源))
▲=苾(草冠+必。必の異体字。こちらを参照(字源))
▼=蒭(こちらを参照(字源))
★=玆(玄+玄。こちらを参照(字源))
後堀河天皇
史料 月日 記述
宝簡集(高野山文書) 承久3年
(1221)
9月20日 【後高倉院院宣】
 紀伊國相樂南部庄者、故前齋院(頌子)領也、而爲訪本願之菩提、被寄附當山蓮花乘院先了、早任彼寄文状、院家宜令進退領掌者、
院宣如此、悉之謹状、
    承久三年九月廿日      参議(源雅清)(花押)
   高野檢校覺海法橋房
宝簡集(高野山文書) 承久3年
(1221)
9月21日 【東寺長者御教書】
 高野山蓮華乘院領南部庄事、任 齋院(頌子)寄文、一向可領掌之由、所被下 院宜也、抑長日密談、希代事也、今當聖道之初、被止邪論了、歡悦尤深、此畏此恐、彌勸百廿口之學衆、可被奉祈百廿年 仙算者、内々 御氣色如此、仍執啓如件、
    「承久三年<■[辛]巳>」九月廿一日    心圓<奉>
   檢校法橋(覚海)
(奥書)「承久三年<■[辛]巳>九月廿六日到來」
又続宝簡集(高野山文書) 貞応元年
(1222)
7月10日 【南部庄官年貢米起請求文案】
南部御庄
  注進 御年貢代々請所次第事
 合
一 臥[伏]見宮(守子)御時、湛快僧都三百斛申請、令知行候畢、
一 五辻斎院(頌子)御時、湛増別當與湛盛[政]別當、兄弟相論之間、五百石進上仕候者可給之由、依仰下候、二百斛加増五百斛、請見米三百斛、色代二百斛進上濟畢、(中略)
    貞應元年七月十日       紀貞守<在判>
又続宝簡集(高野山文書) 貞応元年
(1222)
9月21日 【関東下知状案】
(別紙)「地頭承伏状<貞應御下知案文>
  可令早任紀伊國南部庄官百姓注文弁濟高野山蓮華乘院御年貢事
 右、如去年十二月廿四日寺訴者、齋院(頌子)御時、且被分進米百石、而重又云庄務云所殘、所當米一向被寄附云々、
 爰地頭家(佐原)連取進當庄百姓注文云、
一 臥[伏]見宮(守子)御時、湛快僧都三百石進濟之、
一 五辻斎院宮御時、湛増別當、與湛政幡[播]磨別當、兄弟相論之間、何方<仁毛>五百石令進濟之方可賜之由、依仰下湛増別當、二百石<於>増加<天>、見米如本數三百石、加色代二百石<於、>令請進畢、(中略)
    貞應元年九月十三日     前陸奥守平(義時)<在御判>
四条天皇
史料 月日 記述
玉蘂 文暦2年
(嘉禎元年)
(1235)
1月9日 【四条天皇、五辻御所へ行幸】
(1月3日条)
 三日、公家御方違本所事有沙汰、五辻女御代被申破損、北白川有法華堂、四辻安嘉門院頗有凶、<号院御所也、>此第并今出川雖可貴、官庁修理不可叶、切以高嗣見遣五辻処、無殊破損云々、仍可為彼所之由化、 下了、(後略)
(1月9日条)
 「御方違行幸」
 九日、癸卯、御方違行幸也、五辻美[斎]院御所、実治女御代伝而居住也、今日所召借也、此所自高松院女御、代々御方違御所也、摂政参入、母后同輿、予向太政大臣入道今出川第、御方違也、(後略)
その他
史料 月日 記述
宝簡集(高野山文書) 不明 11月3日 【前齋院令旨】(『鎌倉遺文』723)
(別筆)「齋院令旨<宗仲奉>
 南部御庄、御万歳之後、可被不蓮華乘院事、全無異儀、然者下司職、其時可爲進止御山也、且聖靈御意趣候歟、而只今遮被進覽證文之條、物●爲沙汰之由、依
令旨執達如件、
      十一月三日      源宗仲
 逐申
  油器 水瓶下遣之、
  香呂 仏器事、先日不令申、然者此御使不被付也、逐猶可有御沙汰候也、庄事沙汰者、可相尋候也、御年貢、庄猶以之外候歟、

●=忩(公+心。こちらを参照(字源))

『鎌倉遺文』は建久5年4月の前に納めるが、目崎徳衛氏は蓮華乗院創建当時(安元・治承年間)のものかとし(『西行の思想史的研究』吉川弘文館, 1978)、高橋昌明氏は治承元年(1987)の移建にともなう措置とする(「西行と南部荘・蓮華乗院」2014)。


史料 記述
一代要記
高倉院天皇
(賀茂)
 頌子内ヽヽ[親王]<鳥羽七女、承安元ー月日卜定、>
帝王編年記
鳥羽院
(皇女)
 頌子〃〃〃[内親王]<賀茂齋院/号五辻齋院>

高倉院
(齋院)
 頌子内親王<鳥羽院皇女母左大臣實能公女/承安元年六月廿八日卜定同八月十四日依病退下>
二中歴
(齋院)
 頌子<鳥羽女母左大臣實純[能]女承安元年>
本朝皇胤紹運録
(鳥羽天皇子)
頌子内親王[齋院。母左大臣實能公養女。]
今鏡
(8・腹々の御子)
 また徳大寺の左の大臣の御娘とて、鳥羽の院に候ひ給ひけるが、女御子(頌子)生み給ひて、春日の姫宮と聞え給ふ。冷泉の姫宮と申すにや。その母を春日殿と申すなるべし。
山家集
  • (雑)北祭の頃、賀茂にまゐりたりけるに、折嬉しくて、待たるゝほどぞ使まゐりたり。橋殿に着きてついふし拝まるゝまではさる事にて、まひ人の氣色振舞見し世の事ともおぼえず、東遊に琴うつ陪從もなかりけり。さこそ末の世ならめ、神如何に見給ふらむと、恥づかしき心地して、詠み侍ける
(1221)神の代も變りにけりと見ゆるかなそのことわざのあらず成にも

  • 更けるるまゝに御手洗のおと神さびて聞こえければ
(1222)御手洗の流れは何時も變らじを末にしなればあさましの世や

高柳祐子氏は上記の二首について「末の世」「あさましの世」等の語句から、かつての30代怡子内親王の時代から遠く隔たった頌子内親王退下後の詠かとする(「『山家集』の斎院」2013)。


 ←前

戻る

次→