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23代斎院 斉子女王


名前の読み(音) 名前の読み(訓) 品位
せいし ただこ 不明
両親 生年月日 没年月日
父:敦明親王[小一条院]
  (994-1051)
母:源政隆女[瑠璃女御]
  (1089没)
未詳(1045-1051?) 未詳(1089以後)
斎院在任時天皇 在任期間 退下理由
白河(1072~1086,いとこ甥)
堀河(1086~1107,いとこ孫)
卜定:承保元年(1074)12月8日
初斎院:不明
本院:不明
退下:寛治3年(1089)4月12日
母死去
斎院在任時斎宮 斎宮在任期間 斎宮退下理由
淳子女王(姪)
 父:敦賢親王
 母:源親方女
卜定:延久5年(1073)2月16日
初斎院:不明
野宮:承保元年(1074)?
群行:承保2年(1075)9月20日
退下:承暦元年(1077)8月17日
父薨去
媞子(1076-1096,いとこ孫)
 [郁芳門院]
 父:白河天皇
 母:中宮藤原賢子
卜定:承暦2年(1078)8月2日
初斎院:承暦2年(1078)9月1日
   (大膳職)
野宮:承暦3年(1079)9月8日
群行:承暦4年(1080)9月15日
退下:応徳元年(1084)9月22日
母后崩御
善子(1077-1132,いとこ孫)
 [六角斎宮]
 父:白河天皇
 母:女御藤原道子
卜定:寛治元年(1087)2月11日
   (加賀守藤原家道
    三条烏丸宅)
初斎院:寛治元年(1087)9月21日
   (左近衛府)
野宮:寛治2年(1088)9月13日
群行:寛治3年(1089)9月15日
   (長奉送使:藤原公実)
退下:嘉承2年(1107)7月19日
天皇崩御

略歴:
 承保元年(1074)12月8日、斎院に卜定。
 応徳3年(1086)11月26日、白河天皇譲位、堀河天皇践祚。

12月19日、堀河天皇即位。
 寛治3年(1089)4月12日、母の喪により退下。

同母兄弟:源信宗(1030以前?-1097没)
     信子(宣子)女王?

 母源政隆女(瑠璃女御)は清和源氏(清和皇子貞真親王の玄孫)。母の姉妹に歌人四条宮下野(後冷泉天皇皇后藤原寛子の女房)がいる。
曽祖父源孝道は源満仲の甥で養子。

『栄花物語』(39・布引の滝)によれば、小一条院には妾・瑠璃女御に産ませた男子信宗と、他に女宮二人がおり、その内の二宮(斉子)が斎院になったという。また同じく『栄花』(40・紫野)で、斉子が斎院であった当時の御禊の華やかな有様が「后腹の内親王が斎院でいらっしゃる時よりも却って素晴らしい」と賛美されているが、退下後の消息は不明。

 斉子女王の兄弟たちは本来二世王でありながら、小一条院(敦明親王)の子であることから優遇されたと見られ、異母姉の栄子内親王(母:藤原顕光の娘延子)、儇子内親王(藤原信家室、母:藤原道長の娘寛子)も祖父三条天皇の養子扱いとなり親王宣下を受けた(なお斎宮嘉子内親王も宣下を受けており、『帝王系図』では藤原頼宗女(道長の孫)を母としている)。
 しかし生母が身分低い女房であった斉子は親王宣下を受けなかったと言われ、『一代要記』は堀河天皇の斎宮を「斉子内親王」とするが、同母兄弟の信宗が臣籍降下していることからも女王であったと見られる(『天祚禮祀職掌録』は後三条天皇・白河天皇の即位式での左の褰帳女王を「小一条院女王」とする。斎王経験者が褰帳女王を務めた例や、逆に褰帳女王経験者が斎王となった例はないので、この褰帳女王は斉子の同母姉信子女王か?)。
※斉子の生没年は不明だが、父小一条院が永承6年(1051)1月に58歳で没していることから、少なくとも同年内までに生まれていたのは確かである。また斎王の卜定年齢の上限が30歳であったとすると、1045年以降の生まれではないかと考えられるが、小一条院は1041年8月に出家しており断定はできない(後に鳥羽天皇皇女頌子内親王が33代斎院となったが、頌子は父鳥羽天皇の出家後に生まれた皇女であったため、一度は卜定を避けられている)。
 また同母兄弟の信宗は生年不明だが、長暦4年(1040)に昇殿を許されている。この時点で既に元服を終えていると見られることから、恐らく1030年以前の生まれか(なお小一条院の子女で、生年の確かな人物のうち最年少は頼宗女所生の敦賢親王(1039-1077)である)。

 斉子の卜定当時、白河天皇(20歳)は中宮賢子が第一子(後の敦文親王)を懐妊中で、当然まだ皇女はなかった。また白河の姉妹(後三条天皇皇女)で唯一未婚・未斎王の聡子内親王(24歳)は、1069年に一品に叙された後、1073年に出家していた(※斎院在任中または退下後に一品に叙された例は多いが、一品内親王が斎院に選ばれたのは後の29代禧子内親王のみである)。さらに三条天皇系には小一条院女で斉子の異母姉栄子内親王(恐らく未婚?)が残っていたが、当時生存していたとしても60歳と既に高齢で、このため斎王候補となる内親王は存在しなかったと考えられる。

 なお時の東宮実仁親王の生母源基子(後三条天皇女御)は小一条院の孫(小一条院王子源基平の娘。つまり斉子の姪)であり、斉子の前年に伊勢斎宮となったのも同じく小一条院の孫淳子女王(小一条院王子敦賢親王の娘。源基子の従姉妹)であった。また淳子卜定の1073年に後三条上皇が崩御、これにより娘の斎院篤子内親王も退下したが斎宮淳子は残留(上皇の崩御は、斎王がその娘でない限り退下理由にならない)、さらに翌年の斎院斉子の卜定により、伊勢・賀茂両斎王は1074~1078年の間、当代白河天皇とは血縁の遠い小一条院系で占められることとなった。

           ┌──────────┐
           │          │
  一条天皇     │   頼宗女===小一条院=====源政隆女
   │       │   (道長孫) │       │
   │       │    ┌──┴──┐    │
   │       │    │     │    │
 後朱雀天皇=====禎子  源基平    敦賢  ◆斉子
        │       │     │
        │       │     │
      後三条天皇=====基子   淳子女王
        │    │        (斎宮)
        │    ├───┐
        │    │   │
       白河天皇  実仁  輔仁
        │
    ┌───┼───┐
    │   │   │
    媞子  善子  堀河
   (斎宮) (斎宮)


参考論文:
・駒澤大学大学院史学会古代史部会「翻刻『為房卿記』自延久四年至永保二年」
 (『史聚』(10)p67-136, 1979)

参考リンク:
『天皇皇族実録68.三条天皇 巻3』宮内庁書陵部所蔵資料目録・画像公開システム
 ※斉子女王(三条皇孫女)については105~106コマにあり





白河天皇
史料 月日 記述
十三代要略
帝王編年記
承保元年
(1074)
12月8日 【斉子女王、斎院卜定】
『十三代要略』
 白河院 諱貞仁(中略)
 承保元年 十二月八日。卜定賀茂齋女王。<小一條院女。>
『帝王編年記』
(白河院)
 齋院齊子女王<小一條院第五女 承保元年十二月八日卜定>
為房卿記 承暦3年
(1079)
4月11日 【斎院(斉子)御禊定】
 今夜御禊前■■[駈定?]次有■■■(山城介)源範季<元外記即叙敍従五位下。>、右近将監高階為■[章]■■<蔵人無本官任近衞人也。惟古全無此例云々。>、左衛門督藤■■■[原実季?]藤実任<兼>駿河守。■■■■御加茂詣。自夜雨降巳剋■晴。今日関白(藤原師実)左相府参御于賀茂御社。(後略)
為房卿記 承暦3年
(1079)
4月20日 【斎院(斉子)御禊】
 今日斎院(斉子)禊如恒。申剋被渡晴前駈左衛門佐代官尾張守(源)顕仲。尉源親元。右衛門佐清綱。尉藤原孝善。左兵衛佐道輔。尉平兼季。右兵衛佐顕■。尉源成綱。
為房卿記 承暦3年
(1079)
4月23日 【賀茂祭】
(4月23日条)
 賀茂祭如恒。

(4月24日条)
 祭還如常。(後略)
帥記 承暦4年
(1080)
4月13日 【斎院(斉子)御禊】
 爲見物行向棧敷、申酉刻許齋王(斉子)渡御、此間大宮權■■■■■■基綱<共束帯、>來臨、但相語云、殿御隨身二人■■■■■■非來[違?]使章重曉巾付縄遣捩[獄?]所畢者、是依辭申瀧口頼里口取巳[所亡?]者、天下作法不可量知者歟、
帥記 承暦4年
(1080)
4月16日 【賀茂祭】
 今日(賀茂祭)見物、申刻許物渡内舎人頼里爲●式忠、道路以目云々、

●=龓(有+龍。くちとり。こちらを参照(字源))
帥記 永保元年
(1081)
4月13日 【斎院(斉子)御禊】
(前略)次向越中守公盛朝臣宅、依彼族子右兵衛尉師隆爲御禊前馳也、頃之退出、頭辨送書云、藏人頭爲禊齋辨渡一條大路之間、相具藏人所少舎人乎、若具者可立辨侍上歟、又着白重乎、答云、其令慥以不知給、但爲祭使渡一條大路之時皆可相具也、若同事歟、若可被具者、着布袴可立一少舎人上歟、勤御禊垣下人上古不着白襲、今世不必然云々、已知勤職掌人道理不着白襲歟、又々可被相尋者、申時許前若州來向、相共向彼一家狭敷、<大宮權亮來逢相具、>件狭敷者自一條南、自油小路東也、酉刻雨止、見物成了、行事辨相具少舎人二人、<布袴淺沓、>辨侍一人、<冠白装束、藁沓、>昏黒渡了、歸來、
帥記 永保元年
(1081)
4月16日 【賀茂祭】
 甚雨、此兩日不參殿中、依今日祭延否不審、(中略)
甚雨之時此祭候事此爲常例、但於不渡河給例者、天慶之比其例候歟、被尋仰外記者自所申候歟、如舟候者齋王(斉子)渡給歟、頭辨令申云、今朝檢非違使佐良令申云、凡所亘候橋四也、而三橋已流了、今一橋雖未流、自上水流可難給者、遣上桂河鵜舟等了者、被仰云、且被問例、且又々可遣上舟由、可召仰檢非違使等者、仍頭辨參内了、此間漸有晴氣、予參出居、被仰雜事之次被仰云、密々可赴狭敷、暫不可出者、頃之頭辨歸參云、仰事云、不定陰晴、早參齋院可令催行、猶於齋王難渡者、其時可有左右者、殿仰云、白河邊有大船等云々、早可遣取者、頭辨參齋院了、大將(左大将藤原師通?)左衛門督(源師忠)被參、各被入北面了、良久侍来云、可廻北者、參北面、殿下令出給了者、追參下座自室町東自一條北狭敷下、<備後前司師信狭敷云々、>左大將左衛門督被候、左馬頭道良藏人少納言基綱參入、師信朝臣自内退出參會、此間供膳、殿少將<彼殿御弟若君少將(右少将藤原経実?)(源)俊頼同車、>數度往反大路之後被參狭敷、酉刻事成、檢非違使三人渡之、<倚(※)輦參河原催行浮橋事云々、>臨昏之間渡了各退出、

※倚=椅の異体字。こちらを参照(字源)
為房卿記 永保2年
(1082)
4月5日 【斎院(斉子)御禊定】
 大宮大夫参左杖被定申御禊前駈。<左兵衛佐代民部権大輔(源)国俊。>(後略)
為房卿記 永保2年
(1082)
4月19日 【斎院(斉子)御禊】
 御禊如恒。但酉剋斎王(斉子)令渡大路給。本院■■沙汰之自然及衝重者。今日内(白河天皇)御物忌。蔵人一人祇候。為房参籠仍不見物。前駈左衛門佐源国明。尉同家実<蔵人>。右衛門佐藤保俊。尉源盛長<蔵人>。左兵衛佐民部権大輔源国俊。尉右兵衛佐源国信。尉■■次第使右馬助師保。行列使同允惟致貞。今日覧御禊牛依御物忌籠候。<一牛関白殿(藤原師実)令献給。引之<行事蔵人兼日申之>次十頭近江山城各五頭。成牒召之。小舎人布袴引之。>庇第三間供御座。取大庄子円座鋪之。蔵人頭通俊朝臣簀子敷<自南第三柱下。>牛等自瀧口方引入。三廻之後乗出。遣斉院了。亦前駈依御物忌不召御前。於蔵人所給帖紙。<白藤様>如例。次渡御渡殿浴殿北道自所陣参院。但召御時。次候簀子鋪。<其座如初。頭弁候例重尹。(藤原)行成。経任等云々。頭不候之時五位蔵人役之。>。雑色以下入自瀧口戸参進御前。向西候。頭仰云。東<ニ><リ><むけ。>衆向東。次居直之後頭仰云。馬取<天>参来。<万宇于古。>衆等取馬参入。三廻之後。頭仰云。罷参三廻之後又云。殿下<与>。次参院者。是故大納言経任卿之説。以彼次第為後所注置也。今日垣下四位二人<宗道。師仲。>。五位三人<成宗。通輔。公衡。>。六位一人<経敏>。侍中二人。眼身前駈一人垣下。仍一臈実俊一人候内。
為房卿記 永保2年
(1081)
4月22日 【賀茂祭】
(4月22日条)
 天晴不雨。賀茂祭如例。日入事了。<近衞府使召御前云々。左少将隆宗。候簀子敷召覧飾馬引馬云々。>蔵司。<権助忠季>近衛<左権中将雅俊。>、馬司<左助盛実>、中宮<大進高実朝臣。>、春宮<権大進惟輔>、山城介<忠則>、次第使<右馬助師信>、行列使<同允致貞>、前日二宮<実仁親王>於棧敷殿有御見物<今年始被労仰。二宮御所丹後守顕季朝臣造進七間。其西又殿下御所七間。加賀阿波安芸等国作之。皆三面有庇。檜皮葺。北面簀子高欄。>。北政所(源麗子)先以渡御。次殿下(関白藤原師実)合参内給。二宮自北陣出御。自藤壺到朔平門敷筵道。左衛門督(源)師忠卿取御劔。前行以散米人形散之侍従中納言(源)雅実卿奉抱之。<白薄物細長同二藍御直衣長与細長均>殿下令候御事。<殿御車唐車也。>藤大納言(忠家)左右大将(藤原師通、源顕房)以下上達部皆悉各自車扈従。<網代車直衣>両貫主以下六位以上侍臣無障之者皆悉勤仕。前駈被仰下衣冠之由。然而或束帯或直衣。<殿中将(経実)。少将(能美)并頭中将等也。>或又衣冠諸大夫十余人。殿下家司職事等也。皆布袴。殿下御随身在御車之後。其路出御。上東門自大宮大路南行。至一条大路東折。自棧敷殿西門入御。行事弁已下下車。渡御棧敷之前。検非違使又下馬。依仰各相具馬并随身等御渡前。行事蔵人公達馳事。経自北小路不過御前。或者云。近衛府使召御前。先例不然承平之比(藤原)敦忠卿自奉仕賀茂使之時召之者。於春日使可召之由自往年見日記者。

(4月23日条)
<祭還二宮御見物事>(右頭書)
 祭還如恒。二宮有御見物。殿下御車其儀如昨日。今日前駈殿上人垣下之外。不著束帯。皆以衣冠<多用直衣>。諸大夫布袴。北政所御車相次女房上達部車次第云々。両日前駈。<予著衣冠奉仕了>
水左記 応徳元年
(1084)
4月16日 【賀茂祭】
 左近少將國實爲祭使自斯亭出立、巳時許 右府(源顕房)被來、午時終許詣關白(藤原師実)棧敷見物、
堀河天皇
史料 月日 記述
為房卿記 寛治元年
(1087)
4月13日 【斎院(斉子)御禊】
(未入力)
為房卿記
中右記
寛治元年
(1087)
4月16日 【賀茂祭】
『為房卿記』
(未入力)

『中右記』
 賀茂祭也、使右少將、<(藤原)宗通、>得晴天、
尊卑分脈 寛治2年
(1088)
6月6日 【斎院次官藤原実任卒去】
(未入力)
後二条師通記 寛治3年
(1089)
4月5日 【賀茂祭前駈定】
 賀茂祭有前駈事、上卿民部卿(源経信)云々、
中右記
帝王編年記
賀茂斎院記
一代要記
皇代暦
寛治3年
(1089)
4月12日 【斎院(斉子)、母の喪で退下】
『中右記』(4月21日条)
 去十二日、斎院(斉子)依母喪、退出本院也、

『帝王編年記』
(堀河院)
 齋院齊子女王<寛治三年四月十一日退出 依母喪也>

『賀茂斎院記』
 齋子内親王
小一条院第五之女也。母下野守源政隆女。承保元年卜定。寛治三年四月十二日。出斎院。(後略)

『一代要記』
(堀河院天皇)
 賀茂 齊子内ヽヽ[親王]<如故、依母喪退之、>

『皇代暦』
(堀河天皇)
 斎院 齋子内親王 如故依母喪退之


史料 記述
十三代要略
白河院
 承保元年 十二月八日。卜定賀茂齋女王。<小一條院女。>
一代要記
白河院天皇
(賀茂)
 齊子女王
 <小一條第五女、承保元ー卜定、>

堀河院天皇
(賀茂)
 齊子内ヽヽ[親王]<如故、依母喪退之、>
帝王編年記
白河院
(齋院)
 齊子女王<小一條院第五女/承保元年十二月八日卜定>

堀河院
(齋院)
 齊子女王<寛治三年四月十一日退出/依母喪也>
二中歴
(齋院)
 齊子<小一條女三條孫 承保元年(號春日齋院)>
皇代暦
白河天皇
(齋院)
 齋子女王 小一條院第五女

堀河天皇
(齋院)
 齋子内親王 如故依母喪退之
本朝皇胤紹運録
(小一條院子)
齊子女王[齋院。號春日斎院。母下野守源政隆女。號瑠璃女御。]
本朝女后名字抄
(賀茂齋内親王)
齋子内親王 承保元年卜定。三條院孫。小一條院第五皇女。母下野守政隆女。春日齋院。
賀茂斎院記
斉子内親王
小一条院第五之女也。母下野守源政隆女。承保元年卜定。寛治三年四月十二日。出斎院。號春日斎院。
栄花物語
(39・布引の滝)
【斉子女王の斎院卜定】
 斎院も四の宮(篤子内親王)もおりさせたまひにしかば、小一条院のさぶらひける人を思しめして、瑠璃女御と聞えし腹に、中将より備中守になりたまへると、また女宮二人ものしたまひける、二の宮(斉子女王)ゐたまひぬ。
栄花物語
(40・紫野)
【白河院の賀茂祭見物、斉子の斎院退下】
 四月になりて、祭、院(白河院)、斎宮(媞子内親王)など御覧ずべしとて、世の中の人心する中にも、斎宮の童べ小さき大きなる、いといみじくうつくしきに、女房われもわれもと挑みて、えもいはずつくしたり。(中略) 殿(摂政師実)をはじめたてまつりて、左右の大殿(左大臣源俊房、右大臣源顕房)、内大臣殿(師通)、大納言たち、それより下はた残るなく仕うまつれり。殿をはなちたてまつりては、大臣たちもみな御馬にてさぶらひたまふ。世人いみじき見物になんしける。世揺(ゆす)りたる年なり。斎院などの藤氏の后腹の御子などにておはしますことはめでたけれど、かくはなかりき。
 還さも同じことにて御覧ず。まづ院のおはします見て、紫野へ競(きほ)ひ急ぎたる車の「響きみちて見ゆる」とは、かかるをりにやと見えたり。さきざきかく心のどかにことなくておりさせたまひておはします帝、久しくおはしましざりつれば、世にめでたきことにぞありけるとめで申しけり。
 斎院(斉子女王)の、御車とどめさせたまひて、入り果てさせたまはず、院の還らせたまふを御覧ずるを、人めで申しけり。(中略)

 かくて瑠璃女御と聞えしうせたまひぬれば、斎院(斉子)おりさせたまひぬ。


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