20代斎院 正子内親王
名前の読み(音) | 名前の読み(訓) | 品位 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
しょうし | まさこ | 無品 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
両親 | 生年月日 | 没年月日 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
父:後朱雀天皇(1009-1045)
母:女御藤原延子[高倉女御] (1016-1095,頼宗女) |
寛徳2年(1045)4月20日 | 永久2年(1114)8月20日 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
斎院在任時天皇 | 在任期間 | 退下理由 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
後冷泉(1045~1068,異母兄) 後三条(1068~1972,異母兄) |
卜定:天喜6年(1058)6月27日
初斎院:不明 (大膳職) 本院:康平3年(1060)4月12日 退下:延久元年(1069)7月27日 |
病 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
斎院在任時斎宮 | 斎宮在任期間 | 斎宮退下理由 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
敬子女王 父:敦平親王 母:源則理女 |
卜定:永承6年(1051)10月7日 (五条邸) 初斎院:永承7年(1052)4月25日 (大膳職) 野宮:永承7年(1052)9月28日 群行:天喜元年(1053)9月14日 退下:治暦4年(1068)4月19日 |
天皇崩御 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
俊子(1056-1132,姪) [樋口斎宮] 父:後三条天皇 母:東宮妃藤原茂子 |
卜定:延久元年(1069)2月9日 初斎院:不明 野宮:延久2年(1070) 群行:延久3年(1071)9月23日 退下:延久4年(1072)12月4日 |
天皇(父)譲位 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
号:押小路斎院 後朱雀天皇第五皇女。 母藤原延子は、父後朱雀天皇の従兄妹。 (※延子の父頼宗と、後朱雀の母上東門院彰子が異母姉弟) 18代娟子内親王、19代禖子内親王の異母妹。 ┌──────────────┐ │ │ 藤原道長 円融天皇 冷泉天皇 | │ │ ├────┐ │ │ | │ │ │ 頼宗 彰子=======一条天皇 三条天皇 | [上東門院] │ │ │ │ │ 延子======後朱雀天皇 敦賢親王 │ │ │ │ ├─────┬────┬───┐ │ │ │ | │ │ │ ◆正子 後冷泉天皇 後三条天皇 娟子 禖子 敬子女王 | (斎宮) | 俊子 (斎宮)
父後朱雀天皇は母延子の懐妊中に崩御。正子内親王はその3ヵ月後に誕生。 斎院退下後、尼となった (『中右記』)。 『秦筝相承血脈』に名があり、上東門院女房筝少将より伝えを受けたとされる。 後朱雀天皇の即位当時、男子は東宮時代の妃嬉子所生の長男親仁(後冷泉天皇)と、皇后禎子内親王所生の次男尊仁(後三条天皇)の二人がいた。後一条天皇の後宮には中宮威子がいたため、その兄弟である頼通・教通らは娘を入内させることができなかったが(もっともそもそも頼通には実娘すらいなかった)、後朱雀即位によりまず頼通が養女嫄子を立后させ、その後弟の教通・頼宗も次々に娘たちを入内させた。もちろん彼女たちに期待されたのは外孫皇子の誕生で、当時既に東宮には親仁が決定していたが、この間皇后禎子内親王は皇子尊仁ともども宮中入りすらできない状態だった。 しかし頼通養女の嫄子は皇女二人(祐子、禖子)を産んだのみで早世、教通女の生子は帝寵深かったと言われるものの、ついに皇女すら生まれなかった。最後に頼宗女の延子が懐妊したが、その最中に後朱雀が病に倒れ、次の東宮に尊仁を立てるかどうかについて、水面下でかなり際どい駆け引きがあったと言われる(『愚管抄』)。 結局延子の出産を待たずに後朱雀は寛徳2年(1045)1月16日譲位(2日後に崩御)、即日長男後冷泉が践祚、次男尊仁が立太子した。延子の出産はその3ヶ月後で、周囲の祈りも空しく生まれたのは皇女正子内親王であった。それでも頼宗は外孫である正子を母延子共々大切に庇護し後見したが、元々頼宗は頼通とも良好な関係を保っていたようであり、もし正子内親王が男子であれば、あるいは尊仁の廃太子も本当に起こっていた可能性が考えられる。 なお『中右記』(承徳2年2月22日)によれば、後年正子内親王は三条坊門万里小路を邸宅としており、これは「故入道一品家」であったという。 正子の母延子は一条天皇第一皇女脩子内親王(母・皇后定子)の養女であり、また延子の母は皇后定子の兄伊周の長女で、脩子内親王とは従姉妹同士であった。『御堂関白記』(長和5年8月28日条)の火災記事には「(火が)従二条南、従東洞院大路東北邊及高倉小路云々、依一品宮(脩子)近、」とあり、二条大路の南、即ち押小路周辺であったことがわかる。 正子の別名が「押小路斎院」であることから見て、正子の邸宅は押小路と三條坊門小路の間、三条四坊の辺りであったと推測される。御堂関白記の脩子御所もほぼ同じと見られることから、『中右記』の「故入道一品」も脩子のことであり、その邸宅が養女延子を経て正子に伝領されたものであろう。 【補足:天皇崩御と斎院退下】 『延喜式』では新天皇の即位(即ち前天皇の退位)で斎院も新たに卜定されると定められているが、実際には天皇譲位で斎院が交替した例は殆どない(ほぼ確実と思われるのは、2代時子女王のみ)。また天皇崩御についても、正子内親王のように後冷泉天皇(異母兄)の崩御(治暦4年(1068)4月19日)でも退下しなかった例がある。これについて堀口悟氏は、30代怡子内親王も同じく近衛天皇(いとこ孫)崩御(久寿2年(1155)7月23日)でも留任となったことから、天皇の譲位・崩御は必ずしも退下の十分条件ではなかったとしている。 また堀裕氏は、在位中に崩御した天皇であっても、後一条天皇以降は「如在之儀」により名目上は天皇譲位の後退位・崩御したものと見なされたとする。この説に従えば、後冷泉天皇崩御の際に斎院正子内親王が退下しなかったのも、天皇譲位では斎院退下とはならないという慣例によるものかと思われる。 一方で、14代婉子内親王は村上天皇(弟)の崩御で退下した可能性が高いと見なされる(※堀口氏は村上天皇が譲位したとしているが、『日本紀略』等から在位中の崩御と考えられる)。さらに村上天皇の次は息子冷泉天皇であり、新帝の父の喪としての諒闇であった。斎院婉子の退下がこのためであったかは不明だが、翌安和元年(968)5月27日に諒闇が明けた後、7月1日に15代尊子内親王が卜定されている(後冷泉天皇の次は弟後三条天皇、近衛天皇の次は兄後白河天皇であり、いずれも「天皇崩御=新帝の父の喪」ではなかった)。 参考論文: ・堀口悟「斎院交替制と平安朝後期文芸作品」 (『古代文化』31巻10号, 1979) ・堀裕「天皇の死の歴史的位置 : 「如在之儀」を中心に」 (『史林』81(1), p38-69, 1998)[機関リポジトリ全文あり] 参考リンク: ・『天皇皇族実録76.後朱雀天皇 巻3』(宮内庁書陵部所蔵資料目録・画像公開システム) ※正子内親王については120~124コマにあり ・『前麗景殿女御歌合』(国際日本文化研究センター和歌データベース) |
後冷泉天皇 | |||
史料 | 年 | 月日 | 記述 |
扶桑略記 ほか |
寛徳2年 | 1月18日 | 【後朱雀上皇崩御】 『扶桑略記』 (後朱雀天皇) 太上天皇(後朱雀)春秋丗七、於東三条第崩。 |
一代要記 十三代要略 |
寛徳2年 (1045) |
4月20日 | 【正子内親王誕生】 『一代要記』 後朱雀天皇 皇女 正子内親王 寛徳二年四月誕生 『十三代要略』 (後朱雀院) 皇女(中略) 正子内親王<母女御延子。寛徳二年四月廿日誕。天皇崩後。>(後略) |
麗景殿女御延子歌絵合 古今著聞集 |
永承5年 (1050) |
4月26日 | 【内大臣頼宗、前麗景殿女御絵合を催す】 『永承五年四月二十六日前麗景殿女御延子歌絵合』(『日本古典文学大系』74巻) 「麗景殿女御延子歌合」<絵合 永承五年> 三月(やよひ)の十日あまりの夕暮れに、月影御簾にうつるをりしも、人あまた侍ひて、物語りのついでに、誰とはなくいひあわせし、「春の日の徒然に暮らすよりは、つねならぬ挑みごとを御前(おまへ)に御覧ぜさせばや」(中略) 女房廿人を十人づゝ取り分けて、描く人を傳手々々(つてづて)に尋ぬるほどに、四月(うづき)のなかばにもなりぬれば、葵の盛りにひきかゝりて、諸人いとまなき頃を過ごして、廿六日に、空のけしき曇りなきに、寝殿の東面(ひむがしおもて)の身屋(もや)・廂を上達部の御座(おほむざ)にしたり。(後略) 『古今著聞集』 (393)永承五年四月、麗景殿女御絵合せの事 永承五年四月二十六日、麗景殿の女御(藤原延子)に絵合せありけり。(後略) |
一代要記 賀茂斎院記 十三代要略 |
天喜6年 [康平元年] (1058) |
6月27日 | 【正子内親王、斎院卜定】 『一代要記』 天喜三[六]年六月二十七日為斎院 『賀茂斎院記』 正子内親王 後朱雀院第六女也。母女御(藤原)進[延]子。右大臣頼宗之女也。天喜六年六月二十七日卜定。(後略) 『十三代要略』 (後朱雀院) 皇女(中略) 正子内親王<母女御延子。寛徳二年四月廿日誕。天皇崩後。■■年爲内親王。天喜六年六月廿七日爲齋院。>(後略) |
餝抄 蛙抄 |
康平3年 (1060) |
4月12日 | 【斎院(正子)紫野院入り】 『餝抄』 曳陪支下重半臂事。 康平二[三]四十二。土御門斎院(正子)自大膳職入紫野院。御禊也。向新大納言<(藤原)師實>。出立所日。装束表衣如常。曳陪支下重半臂黒打綾。(後略) 『蛙抄』 (未入力) |
水左記 | 康平8年 [治暦元年] (1065) |
4月5日 | 【斎院(正子)御禊前駈定】 先是中宮大夫(藤原経輔)着陣座、齋王禊日定前駈事了退出、(後略) |
本朝世紀 | 治暦4年 (1068) |
4月17日 | 【斎院(正子)御禊】 御禊也。 |
本朝世紀 ほか |
治暦4年 (1068) |
4月19日 | 【後冷泉天皇崩御】 (未入力) |
後三条天皇 | |||
史料 | 年 | 月日 | 記述 |
帥記 本朝世紀 |
治暦4年 (1068) |
11月16日 | 【斎院(正子)留任を賀茂社に奉告】 『帥記』 (前略)未刻許召使來云、可參仕賀茂使、申一點可被進發者、沐浴之後●參、左衛門督、右衛門督、左宰相中將被參陣、又右衛門督被參、左衛門督被着外座、大内記成季内覽宣命草之後、還參奉宣命於上卿云、早可被奏者、上卿被露問云、清書如何、答云、不可持參之由、所被仰也、上卿直給覽筥、成季執筥立庭中、上卿起座被奏、歸着、依仰改直、又起座被奏、次清書之後奏聞、歸着、<成季退去、>被目僕、起座進寄執宣命、復座、又起座、於東門邊授宣命於次官、<國房、>出待賢門、<用網代車、共人二人、>先參下御社、洗手着座再拝、次讀宣命、次再拝、次社司云、給宣命可持參者、答云、不可然、又云、一日奉幣給宣命於社司令持參御前者、然而示不可然由了、次問云々、敷次官座、社司先例不敷者、強不令敷、次社司參御前、申祝詞歸出、陳神宣了、次起座、出自西鳥居、參上御社、着座再拝、讀宣命、又再拝、<社司申祝如例也、>起座退出了、 『本朝世紀』 被立賀茂宣命使。齋院(正子)不改之由。 ●=忩(公+心。こちらを参照(字源)) |
年中行事秘抄 | 延久元年 (1069) |
4月22日 | 【斎院(正子)御禊】 四月朔當酉時禊祭用下午酉例(中略) 延久元四廿二禊 廿五祭 |
扶桑略記 賀茂斎院記 |
延久元年 (1069) |
7月27日 | 【斎院(正子)退下】 『扶桑略記』 賀茂斎王(正子)依病退出本院。 『賀茂斎院記』 (前略)天喜六年六月二十七日卜定。 延久元年七月二十四日出斎院。(後略) |
白河天皇 | |||
史料 | 年 | 月日 | 記述 |
中右記 ほか |
嘉保2年 (1095) |
6月10日 | 【母延子薨去】 『中右記』 (前略)今朝初聞、高倉女御去夜半依霍乱■[俄]薨由、<年八十云々、> 女御諱(藤原)延子、故入道右大臣殿<堀川、>(藤原頼宗)女也、母帥内大臣(藤原伊周)之女也、長久三年三月廿六日入内、五年正月十日從四位上、<生延[正]子内親王、後爲齋院、>永承三年正月八日從三位、五年正月十九日從二位、<右大臣殿譲、>康平三年四月二十日、父右大臣奏請、割分封戸五百烟讓此女御、<有状、>延久五年五月十二日、依病爲尼、<五十四、>去夜薨也、 |
中右記 | 承徳2年 (1098) |
2月22日 | 【三条坊門万里小路邸焼亡】 未時許当西北有焼亡、(中略)前斎院<後朱雀院女也、正子>三条防門万利少路家焼了、件所本是故入道一品(脩子内親王?)家、斎院傳領給也 |
鳥羽天皇 | |||
史料 | 年 | 月日 | 記述 |
中右記 兵範記 |
永久2年 (1114) |
8月20日 | 【正子内親王薨去】 『中右記』(8月21日条) 或人云、去夜前斎院正子薨去、<年六十九、>正子者後朱雀院女、母女御延子、堀河右大臣殿(藤原頼宗)長女也、後冷泉院御時為賀茂斎院、其後為尼也、 『兵範記』(嘉応元年12/15条) 永久二年八月廿日壬戌、無品正子内親王薨、<後朱雀院女、白河院姑、> 廿二日記云、院御服有無事、後日明法博士信定勘申云、太上天皇同正帝仁、延喜四年直本勘文可有以日易月、僧尼不著輕服之由、有世俗之説歟、法家問答傍親服無賜假之例、不可著服之由分明不見■、祐子内親王時、依(大江)匡房卿申状無御錫紵者、常令勤神事給、可被行御解除之由有議定、 |
史料 | 記述 |
十三代要略 |
後朱雀院 (皇女) 正子内親王<母女御延子。寛徳二年四月廿日誕。天皇(後朱雀)崩後。■■年爲内親王。天喜六年六月廿七日爲齋院。延久元年七日退之。> 後冷泉院 康平元年 六月廿七日。以正子内親王。爲賀茂齋。 |
一代要記 |
後朱雀院天皇 (皇女) 正子内ヽヽ[親王]<寛徳二ー四月誕生、 年 月 日爲内親王、天喜三[六]ー六月廿七日爲齊院、 母女御藤延子、春宮大夫頼宗女、> 後冷泉天皇 (賀茂) 正子内ヽヽ[親王] <後朱雀院五女、天喜六ー六月廿七日爲齊院、> 後三條院天皇 (賀茂) 正子内ヽヽ[親王] <後朱雀院五女、天喜 六月廿七日爲齊、> |
帝王編年記 |
後朱雀院 (皇女) 正子〃〃〃[内親王]<賀茂齋院/母藤延子頼宗卿女> 後冷泉院 (齋院) 正子内親王<同(後朱雀院)第五皇女> 後三條院 (齋院) 正子内親王<如故> |
二中歴 |
(齋院) 正子<同(後朱雀女)天喜六年 號押小路齋院> |
皇代暦 |
後冷泉天皇 (齋院) 正子 同五女卒十四 後三條天皇 (齋院) 正子内親王<元>依病退之廿五 |
本朝皇胤紹運録 |
(後朱雀院子) 正子内親王[齋院。號押小路齋院。母女御延子。右大臣頼宗女。] |
本朝女后名字抄 |
(賀茂齋内親王)
正子内親王 天喜六年卜定。同(後朱雀院)第六御女。母女御進子。頼宗公女。押小路齋院。 |
賀茂斎院記 |
正子内親王 後朱雀院第六女也。母女御進子。右大臣頼宗之女也。 天喜六年六月二十七日卜定。 延久元年七月二十四日出斎院。 号押小路斎院。 |
栄花物語 (35・くものふるまひ) |
【麗景殿女御延子の懐妊】 かくて、麗景殿女御ただならずなりたまひぬれば、東宮大夫(頼宗)いとうれしく思したり。そのころ大将になりたまひぬ。 |
栄花物語 (36・根あはせ) |
【後朱雀天皇崩御、正子内親王誕生】 大将殿(頼宗)も、女御(延子)のただならずおはしませば、いかがは口惜しう思されざらん。(中略) 十八日の夕さり、にはかに(後朱雀上皇が)崩(う)せさせたまひぬれば、いふにもおろかならずいみじ。(中略) 大将殿(頼宗)も、女御の御産屋四月なるに、今二月三月(ふたつきみつき)を過ぐさせたまはずなりぬる、いみじう口惜しく思し嘆く。(中略) 四月に、麗景殿女御、女宮をぞ生みたてまつらせたまへる。 |
栄花物語 (37・けぶりの後) |
【正子内親王の斎院卜定】 かくあさましきことのみ多かれば、御心のうちに殿(頼通)もあさましく思しめして、斎院(禖子内親王)おろしたてまつらせたまひて、麗景殿の姫宮(正子内親王)ゐさせたまひぬ。(中略) 女御殿(母延子)も、斎院に参り通ひておはします。 |
今鏡 (6・絵合の歌) |
帥の内の大臣(藤原伊周)の御娘の腹に、(頼宗の)君達あまたおはしき。後朱雀院の御時、女御にたてまつり給へりし、麗景殿の女御(延子)と申すなるべし。(中略) その女御の生みたてまつり給へりける姫宮(正子)、賀茂の斎院(いつき)と聞え給ひき。この宮、絵合し給ひしに、「卯花さける玉川の里」と相模が詠めるは、名高き歌にはべるめり。 |
古今著聞集 |
393・永承五年四月、麗景殿女御絵合せの事 永承五年四月二十六日、麗景殿の女御(藤原延子)に絵合せありけり。弥生の十日あまりの此(ころ)よりその沙汰ありけるは、「春の日のつれづれにくらすよりは、つねならぬいどみ事を御前(正子内親王)に御覧ぜさせばや。昔より聞ゆる花合せは、散りてふるき根にかへりぬれば、にほひ恋し。草合せは、尋ねて本の所へ返しやれば、名残うるさし。『歌林』とかいふなるよりは、古『万葉集』までは心もおよばず。『古今』『後撰』こそ、青柳のいとくり返し見れどもあかず、紅葉の錦そめいだす心もふかき色なれ」とて、左右をさだめて、歌の心・よみ人を絵に書きて合せられけり。「いにしへの歌のふかきにそへて、今のこと葉の浅きがまじりたらん、めづらしくや」とて、歌三つをつらねけり。題は鶴・卯の花・月になん侍りける。この此は郭公(ほととぎす)などこそあるべきを、「大殿(藤原頼宗)の歌合せの題に侍れば」とて、鶴にかへられけるなり。相模、伊勢大輔、左衛門の命婦ぞ読み侍りける。女房二十人、十人づつをわかちて各(おのおの)絵かく人を伝々(つてつて)に尋ねてかかせけり。 寝殿の東西の母屋の庇を上達部の座とす。源大納言(師房)・小野宮の中納言(藤原資平)・左衛門の督(源隆国)・新中納言(藤原俊家)・中宮の権の大夫(藤原経輔)・右大弁(源経長)・三位の侍従(源基平)などぞ参られける。殿上人は、くらべ馬のさだめしける間なれば、その所より、右の頭の中将(源資綱)。つぎつぎの八九人ばかり引きつれて参りけり。 御簾の内には北面に分れて居たり。左、なでしこかさね、右、藤かさねの衣をなんき侍りける。左、かねのすき箱に、こころばへして、かねのむすび袋に色々の玉を村濃(むらご)につらぬきて、くくりにして、古今絵七帖、あたらしき歌絵のかねの草子一帖入れたり。表紙さまざまにかざりたり。打敷、瞿麦(なでしこ)の浮線綾に卯の花を縫ひたりけり。数さしの金の洲浜に、さしでのをかをつくりて、葉山に松おほくうゑたり。数には松をさしうつすべきなり。打敷、ふかみどりの浮線綾なり。右、かがみ海にかねの鶴うけたり。かねの透箱をうけに置きて、絵の草子六帖、あたらしき歌絵の草子一帖を入れ、表紙の絵さまざまなり。打敷、二藍のぞうがに(象嵌)、白き文を縫ひたり。数さしの金の洲浜に金の鶴あまたたてり。千とせつもれるといふ心なるべし。数にはつるのうらづたひすべきなり。打敷、ふかみどりのざうがに(象嵌)に縫物をしたり。 日漸(やうや)う暮れぬれば、こなたかなたに居わけけり。大臣殿(頼宗)は、つつみ給ふ御姿なれど、上臈ものし給ふとて、忍びあへ給はず。左の四位の少将(藤原忠家)、右兵衛の佐(藤原仲房?)、かたがたの双紙とりて読み合するほどに、左の方より頭の弁(藤原経家?)、人々七八人ひきつれて参りたり。かたがたうるはしくなりて、一二番、上達部の中にさだめさだめやられざりけるを、殿上人の中より、「勝負はいみある事に」など侍りしかば、げにこの絵どもおぼろげにては見さだめがたき事のさまなればとて、勝負なし。なかなか勝ちまけあらんよりは、みだれて面白かりけり。あたらしき歌をば各(おのおの)つがはれけり。相模が卯の花の秀歌読みたるは、このたびの事なり。 見わたせば浪のしがらみかけてけり卯の花さける玉川の里 かはらけあまたたびになりて、引出物などありけるとかや。 |