15代斎院 尊子内親王
名前の読み(音) | 名前の読み(訓) | 品位 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
そんし | たかこ | 二品 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
両親 | 生年月日 | 没年月日 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
父:冷泉天皇(950-1011)
母:女御藤原懐子<贈皇太后> (945-975,伊尹女) |
康保3年(966)※11月? | 寛和元年(985)5月2日 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
斎院在任時天皇 | 在任期間 | 退下理由 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
冷泉(967~969,父) 円融(969~984,叔父) |
卜定:康保5年(968)7月1日 初斎院:安和元年(968)12月27日 (左近衛府) 本院:天禄元年(970)4月12日 退下:天延3年(975)4月3日 |
母死去 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
斎院在任時斎宮 | 斎宮在任期間 | 斎宮退下理由 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
輔子(953-992,叔母) 父:村上天皇 母:中宮藤原安子 |
卜定:安和元年(968)7月1日 初斎院:安和元年(968)12月25日 (右近衛府) 野宮:安和2年(969)? 群行:なし 退下:安和2年(969)11月4日 |
天皇譲位 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
隆子女王(974没,いとこおば) 父:章明親王 母:藤原敦敏女 |
卜定:安和2年(969)11月16日 初斎院:天禄元年(970)9月8日 (主水司) 野宮:天禄元年(970)9月30日 群行:天禄2年(971)9月23日 退下:天延2年(974)閏10月17日 |
死去 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
規子(949-986,伯母) 父:村上天皇 母:女御徽子女王 [斎宮女御] |
卜定:天延3年(975)2月27日 初斎院:貞元元年(976)2月26日 (侍従厨家) 野宮:貞元元年(976)9月21日 群行:貞元2年(977)9月16日 (長奉送使:藤原顕光) 退下:永観2年(984)8月27日 |
天皇譲位 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
号:承香殿女御、火の宮 同母兄弟:宗子内親王(964-986) 花山天皇(968-1008) 夫:円融天皇(959-991,叔父) 詠歌:かめのうへのやまをたづねし人よりもそらにこふらむきみをこそおもへ(続古今集) 冷泉天皇第二皇女。 母藤原懐子は、父冷泉天皇の従姉弟にあたる。 (※懐子の父伊尹と、冷泉天皇の母安子が同母兄弟) 夫円融天皇は、父冷泉天皇の同母弟。 醍醐天皇 | | ┌──┴──┐ ┌──────────┐ | | | | 章明 村上天皇=====藤原安子 藤原伊尹 | | | | | | ├───┬────┐ | | | | | | | 隆子女王 規子 | 輔子 冷泉天皇===懐子 (斎宮) (斎宮) | (斎宮) | | ┌────┤ | | | 円融天皇====◆尊子 花山天皇 尊子誕生の確かな記録は『日本紀略』には見られないが、『西宮記』(臨時7・皇后養産)に、康保3年12月1日の「息所」産養の記録がある。当時村上天皇の皇后であった藤原安子は既に他界しており、この頃他の女御所生の皇子女があったという記録もない。また「息所(=御息所)」という記述から、村上天皇の皇妃ではなく東宮憲平(後の冷泉天皇)の妃を指すものと思われる。 『大日本史料』はこの時誕生した王子または王女を特定していないものの、尊子の四十九日の願文(十五歳で入内とする)や『紀略』(寛和元年5月1日条)の薨伝(享年二十とする)等から、尊子の生年が康保3年であることは判明している。当時皇太子憲平の後宮で存在が確かめられるのは、尊子の生母藤原懐子の他に昌子内親王(朱雀皇女)もいたが、同年生まれの冷泉天皇の皇子女の存在は知られていない。 また『西宮記』には尊子の同母姉宗子内親王誕生時(康保元年10月19日)の産養の記録(同月27日)もあり、「皇后養産」に康保3年の記録と共に記載されている。どちらも「息所産」とあり、従って康保3年の記事も康保元年と同様、東宮妃懐子の出産であった可能性が高い。 なおこの「皇后養産」の項目には、朱雀天皇・村上天皇・慶頼王誕生時の記録も挙げられている。朱雀天皇と村上天皇は醍醐天皇の「皇后」藤原穏子の所生であり、また慶頼王は朱雀・村上の同母兄であった皇太子保明の子で、父の死後自らも皇太子となったことから、皇太子生母を皇后と同格またはそれに次ぐものと見なされたものか。 また冷泉天皇の皇后は昌子内親王であったが、昌子内親王は狂気の夫冷泉を恐れて避けたと言われており、所生の子女があったとする記録はない。一方宗子・尊子の生母懐子は生前は女御で終わったが、死後に所生の皇子師貞親王(花山天皇)の即位に伴い皇太后を追贈されていることから、やはり皇后に準ずると見なされたものであろう。 よって康保3年の産養は尊子誕生によるものであり、尊子が生まれたのは同年11月中旬から下旬頃であったと推測される。 尊子内親王は歴代斎院の中で、退下後に入内し皇妃となった初例である。入内の一ヶ月後に内裏が焼亡したことから『火の宮』と仇名された(※なおこれについて、「火の宮」=「妃の宮」にかけた、即ち尊子が女御でなく妃(ひ/律令に定められた内親王の后妃の位階)であったとする説がある)。 祖父伊尹・母懐子は尊子の斎院在任中に早世しており、長命であった父冷泉院も狂気を噂される等、退下後は頼りになる後見が不在であった。後に入内した際も、当時の円融後宮では最も尊貴な内親王の皇妃(さらに東宮師貞親王の同母姉)でありながら影の薄い存在だったようで、宮中での消息も殆ど知られていない。『栄花物語』(2・花山たづぬる中納言)によれば叔父円融天皇の求めで入内(殿舎は承香殿)、その美しさから帝寵も深かったというが、尊子が後宮に入った時には既に関白藤原頼忠の娘遵子が中宮であったため、立后することはなかった(当時内親王出身の皇妃自体が稀であったとはいえ、臣下の皇后のために立后できなかった例は平安時代でも珍しい)。その後唯一残った叔父光昭の死をきっかけに、自ら髪を切って落飾したと伝えられる(『小右記』)。 出家後、源為憲から『三宝絵詞』を贈られたが、20歳の若さで薨去。四十九日の願文は慶滋保胤による。 参考論文: ・小松登美「妃の宮考」 (『跡見学園短期大学紀要』7・8集, p25-32, 1971) ※『テーマで読む源氏物語論(3)歴史・文化との交差/語り手・書き手・作者』(勉誠出版, 2008)収録 ・今西祐一郎「「火の宮」尊子内親王:「かかやくひの宮」の周辺」 (『国語国文』51(8), p20-28, 1982) ・増田繁夫「藤壺は令制の<妃>か」 (『人文研究』43(10), p875-889, 1991)[機関リポジトリ全文あり] ※『源氏物語と貴族社会』(吉川弘文館, 2002)収録 ・吉野誠「藤壺「妃の宮」の出産と生死をめぐって : 物語における「史実」考」 (『物語研究』(2), p103-115, 2002)[J-STAGE全文あり] ・浅尾広良「后腹内親王藤壺の入内――皇統の血の高貴性と「妃の宮」――」 (『大阪大谷国文』(37), p75-92, 2007)[J-STAGE全文あり] ※『源氏物語の皇統と論理』(翰林書房, 2016)収録 ・園明美「「かかやくひの宮」という呼称」 (『日本文学誌要』(82), p15-26, 2010)[機関リポジトリ全文あり] ※『源氏物語の理路』(風間書房, 2012)収録 ※その他関連論文はこちらを参照のこと。 参考リンク: ・『天皇皇族実録58.円融天皇 巻2』(宮内庁書陵部所蔵資料目録・画像公開システム) ※尊子内親王(円融妃)については129~134コマにあり |
史料 | 記述 |
十三代要略 |
冷泉院 (皇女) 尊子内親王<母同(女御藤原懷子)。康保五年七月一日爲賀茂齋院。後入圓融院後宮。寛和元年五月薨。> 圓融院 (後宮) 二品尊子内親王<冷泉院二女安和初爲齋院。天元三年入内。寛和元年五月二日薨。> |
一代要記 |
冷泉天皇 (賀茂) 尊子内親王 <帝二女、康保四ー九月四日爲[内脱?]親王、同五ー(安和元年)七月一日爲齊院、<三才、>天延二[三]ー四月遭母喪、後入圓融天皇後宮、敍二品、寛和元ー五月一日薨、<二十才、>イ云、四月廿九日薨、> |
帝王編年記 |
冷泉院 (皇女) 尊子内親王<賀茂/齋院> (齋院) 尊子内親王<帝第/二女> 圓融院 (齋院) 尊子内親王<如故天延三年四月■日退出/依母喪也> |
二中歴 |
(齋院) 尊子<冷泉女後入圓融院 康保五年> |
皇代暦 |
冷泉天皇 (齋院) 尊子内親王 帝二女 圓融天皇 (齋院) 尊子内親王<元>依母喪退去 (後宮) 二品尊子内親王 崩冷泉第二女 |
本朝皇胤紹運録 |
(冷泉院子) (349)選子内親王[二品。齋院。後入円融院。母同(贈皇太后懐子。伊尹公女)。] |
本朝女后名字抄 |
(賀茂齋内親王)
尊子内親王 康保五年卜定。冷泉院第二御女。圓融院女御。母贈皇太后懷子。伊尹公女。 |
賀茂斎院記 |
尊子内親王 冷泉天皇第二皇女也、 母贈皇太后懐子、藤原伊尹之女也、 安和元年七月朔日卜定、十二月二十七日御禊、入左近衛、 円融院天禄元年二月二十九日、被告斎王不改之由賀茂、 四月十二日、尊子禊于東河、入紫野院、 天延三年四月三日、懐子薨、依是尊子退出本院、 是月十八日、賀茂祭、尊子依母喪不供奉、 天元三年十月二十日、尊子始参麗景殿、 四年正月十日叙二品、 寛元[和]元年五月朔日薨、(年二十) |
本朝文粋 |
為二品長公主(尊子)四十九日願文 慶保胤 夫以、人中之尊、猶現四枯之相、天上之楽、終為五衰之悲。況於凡身乎、況於下界乎。大都苦輪之中、不免生死者也。二品長公主、今年五月、忽以入滅矣。公主春秋十有五初入内。一咲再顧、既是羅山之旧容、玄鬢翠蛾、莫不洛川之麗質。彼蓬莱洞之花非不芳、素意久期七覚、長秋宮之月非不潔、宿望偏在三明。不以受恩寵為栄、唯以逃俗塵為志。嗟呼、晨昏所誦者提婆品、造次所念者弥陀尊。去月十九日、請故延暦寺座主大僧正良源、為戒師、終以入道焉。凡此界古今婦人之出家也、或及暮齢為寡婦、或多憂患無依怙之人等也。公主者、先太上皇(冷泉天皇)之女、後太上皇(円融天皇)之妃、今上陛下(花山天皇)之姉。於天下不亦賤。桃李無衰色、桑楡非斜暉、何其遁世之太疾乎。追思往事、良可化人。不知妙音暫来自界、仮為後宮歟、又不知観音欲度随類、為現化身歟。今当七々忌辰、奉冶鋳白銀像阿弥陀仏、并観音勢至二菩薩、奉書写黄金字妙法蓮花経一部八巻、開結経、阿弥陀経、転女成仏経、般若心経各一巻、便就法性寺、敬奉供養。公主臨終之間、西面憑几、寸心不乱、十念無休。便是綺窓瞑目之時、寧非蓮台結跏之日。定知不経中有、直至西方。公主若住暫含之花色、常楽風吹、忽令開敷。若有未明之月輪、余習雲散、永令円満。今日善業、上則増加新仏瓔珞之末光、下且解脱群生輪廻之苦縁。敬白。 寛和元年六月十七日 |
大鏡 (太政大臣伊尹) |
花山院御いもうとの(中略)女二の宮(尊子)は、冷泉院の御時の斎宮[院]にたたせ給て、円融院の御時の女御にまいりたまへりしほどもなく、内のやけにしかば、火の宮と世の人つけたてまつりき。 さて二三度まいり給てのち、ほどもなくうせ給にき。 この宮(尊子)に御覧ぜさせむとて、三宝絵はつくれるなり。 |
栄花物語 (1・月の宴) |
【冷泉天皇の皇子女】 摂政殿(藤原伊尹)の女御(懐子)と聞ゆるは、東宮(花山天皇)の御母女御におはす。その御一つ腹に、女宮二所生れたまひにけり。されど女一宮(宗子)はほどなくうせさせたまひて、女二の宮(尊子)ぞおはしましける。それは院(冷泉)の位(帝位)におはしまししをりならねど、(冷泉天皇譲位の)後に生れたまへる、いみじううつくしげに光るやうにておはしましけり。東宮かくて(宮中に)おはしませば、(母懐子は)時─こそ見たてまつりにも参らせたまへ、ただこの姫宮(尊子)をよろづの慰めに思しめしたり。 |
栄花物語 (2・花山たづぬる中納言) |
【斎院退下後の尊子】 堀河の大臣(藤原兼通)おはせし時、今の東宮(花山天皇)の御妹の女二の宮(尊子)参らせたまへりしかば、(円融天皇は)いみじううつくしうと、もて興じたまひしを、参らせたまひてほどもなく、内裏(うち)など焼けにしかば、「火の宮」と世人(よひと)申し思ひたりしほどに、いとはかなううせたまひにしなん。 |
拾遺和歌集 |
※『新日本古典文学大系』(岩波書店)注はこの斎院を尊子内親王かとしているが、制作年代が明瞭でなく、14代婉子の可能性も考えられる。 |