(10)女子挺身隊
軍需物資の緊急な増産が必要とされていた昭和19(1944)年8月、慢性的な労働力不足を解消するために女子挺身勤労令が勅令として公布され、14歳から25歳までの未婚で無職の女子に一年間の勤労動員が義務化された。これが「女子挺身隊」である。そして翌年6月からは、12歳に最低年齢が引き下げられた。彼女たちの職場は軍需産業であったために、不慣れな作業で労働災害に見舞われたり、敵の攻撃目標となったりして、全国各地で悲劇が生まれていくことになる。本校でも進学や就職をしていない卒業生たちが組織編成されて、日立市の日立製作所や川島の大日本兵器株式会社伊讃美工場に挺身隊として動員されていった。そこで彼女たちは、全員寄宿舎に収容され、粗食に耐えながら厳しい労働に従事した。
日立製作所に動員された本校生も、昭和19年2月、第1期挺身隊として61名が、3月の卒業式を待たずに学校を後にした。4月、卒業した第2期53名もこれに続いた。彼女たちが仕事をすることになった日立製作所の工場は佐乙女工場と呼ばれ、20年3月20日時点で、本校生や福島県相馬中村高等女学校の卒業生など総勢1478名に達していた(『女子挺身隊』小平記念会 昭和60)。
昭和19年9月、隊員の中島節子がチフスに罹患し、現地で死亡するという不幸な出来事がおきた。山間の焼き場で茶毘に付され、悲しみの帰郷をした。そして、校内では追悼会が開かれた。
昭和20年6月10日、日立市の海岸にある軍需工場はB29による大空襲を受け、建物のほとんどが破壊され、殉職者624名を出した。幸い佐乙女工場隊員は休日のため全員無事であった。7月17日には艦砲射撃を受けた。隊員たちは防空壕の中に飛び込んで難を逃れた。続いて7月19日、日立市街地が焼夷弾の空襲を受けて灰儘に帰し、挺身隊の宿舎も焼失した。このときも本校の隊員たちは壕の中にいて犠牲者を出さずにすんだが、若き日の体験としては余りに悲惨であり、恐怖の連続の毎日であった。
本校の挺身隊員が動員されていた川津無線では、昭和20年3月、石塚なかという犠牲者を出した。出征中だった兄が復員してきて聞かされたという話では、ある日、空襲警報がなって防空壕に退避しようとしたとき、彼女は入口の梁に頭を強打してしまった。彼女はそのとき以来、頭痛を訴え続けていたが、十分な医療を一般の人が受けられる状況ではなく、1週間ほどで亡くなったという。この時も学校では彼女の死亡追悼会を開いた。
一方、川島の大日本兵器株式会社伊讃美工場に配属された挺身隊員にも2名の犠牲者が出てしまった。犠牲となった廣瀬みつ江、長須マサノはいずれも昭和20年3月本校を卒業していたが、付設課程に在籍する形で挺身隊として編成され、本校の他の隊員96名とともに工場に赴き、機関銃弾を製作するという協力作業をしていた。
昭和30年10月19日付で茨城県民生労働部世話課長から本校校長に「女子挺身隊の死没者について(照会)」という通知が届いた。そのとき校長が調査報告した文書では、「確実なる資料記録は当時その筋の命令によって全部焼却した筈であり残って居りません」としながらも、さらに調査し、次のように報告している。
廣瀬みつ江については「昭和20年8月6日前記工場に於いて協力作業中、当日午前11時0分頃敵機およそ30機来襲し、その場で敵機の発射した機関銃弾により、左胸部貫通銃瘡を受け即死す」とあり、長須マサノは廣瀬と同じ状況の中「退避態勢にあったが、敵機の発射した機関銃弾により、腹部貫通銃瘡を受け、早速茨城県下館町宮田病院に収容、最善の手当をしたるも、その甲斐なく翌7日午前8時、同病院に於いて死亡す」とある。
それから50年経った平成7(1995)年8月「朝日新聞」茨城版に「茨城の戦後50年」という記事が掲載された。この連載に8月8日付で「下館高女の女子挺身隊」という記事が載った。長須と同級生であった生徒達が墓参に訪れ、その思いを語った記事である。その中の一人大井坦子は、戦後小学校の教員となり、子供達に自らの戦争体験を語り続けたという。また、その記事によると、長須マサノの墓石には「昭和20年8月7日殉職死 行年十八歳」と刻まれているとあり、終戦直前の死はあまりにも痛ましい。
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